最初のブリヌイは塊になる ①
草木も眠る丑三つ時。つまり深夜二時。
静まり返った室内に、電子アラームの耳障りな音が響き渡った。
「ぅぬをっ……!」
ベッドの上で羽毛布団が大きく形を変え、その中から若い女性のうめき声があがる。
顔まですっぽり覆った布団からは、長く艶やかな金髪がはみ出し、枕元に大きく広がっていた。
「うぅぅうぅ~」
声にならない声で訴えても、目覚まし時計は止まってくれない。
ほんの四時間前の自分の行動を恨めしく思いつつ、女性は腕を伸ばしてベッドサイドに置いた目覚まし時計を探り当て、べちべちと乱暴に叩きのめす。
「ふぅ……。うぅ、仕方あるまい」
およそ若い女性とは思えない口調で呟くと、彼女は掛け布団をめくって払いのけ、上半身を起こした。
半開きの青い目、白い肌。美しく繊細な目鼻立ち。寝起きという一番腑抜けた状態でも、彼女――アリシア・ランバートには、見る者をはっとさせるような美しさがあった。
「……」
鉛のように重たい瞼をなんとか持ち上げ、アリシアは狭い視界の中に目覚まし時計を持ってくる。まず時間を確かめ、それから後ろのアラームスイッチをOFFにした。
それから、
「……まるふたまるまる。夜間訓練呼集。はじめ」
わけの分からないことを呟き、パジャマのボタンを上から順に外していった。
――三分後。
あのとろんとろんの状態からは想像もできないほど、アリシアは素早く詰襟の制服に着替え、髪を梳き、しかしやはり半開きのとろりんとした目で部屋を出た。
廊下は暗く静まり返り、少し肌寒い。
ぺたぺたという足音で、そういえば靴下をはき忘れたなと思い至る。……まあいいだろう。素足はロングスカートに隠れているし、外には出ない。
アリシアは左側にドア、右側に襖というところまで来ると、一度ドアのほうに目をやった。
この向こうで寝ている現地協力者の青年は――まだ学生だが――決して侮れない曲者だ。ひとつ対応を誤れば、この家に駐屯している自分の立場が、たちまち苦しくなるだろう。
気を付けねば……とアリシアは肝に銘じてから、反対側の襖へと向きなおった。
小さく咳を払ってから、その向こうで就寝中の部下に、控えめに声を掛け始める。
「訓練呼集~。訓練呼集~。至急一階リビングへ集合せよ。服装は常装第一種。兵装は無し。繰り返す、訓練呼集、訓練呼集~。至急一階リビングへ集合せよ~」
返事はおろか、物音ひとつしない。
放送口調も間抜けに思え、アリシアは普通に呼びかけた。
「マーヤ、起きろ。至急常装第一種にてリビング集合」
しばらく待っても結果は同じ。うんともすんとも返ってこない。
居ないのか? そう思って襖に手を掛ける。そこで彼女は逡巡した。
この和室を兵舎と見るか、はたまた若い男の一人部屋と見るか。
実際この部屋には、まだ一〇代の部下が一人いるだけである。そして自分は確かに少佐だが――同時にうら若き独身女性でもあるのだ。
そんなわけで葛藤をしていると、襖の向こうから寝返りを打つような音と、気持ちよさそうな寝息が聞こえてきた。
そうだ、相手はマーヤだった。
悩むのも馬鹿らしくなり、アリシアは襖を開け放つ。
案の定、畳の真ん中に敷かれた布団の上には、えらく寝相の悪い若者が一人。大口を開けてすぴー、すぴーと寝入っていた。
褐色の肌に、どこかあどけなさの残った、少女のような寝顔。寝巻の甚平は大きくはだけ、いつも三つ編みにしている長い黒髪は、敷布団の上に散らかし放題になっている。両腕はちょうど顔の横。まるで赤ちゃんの寝姿だった。
「……まったく。なんたる弛みようだ。最前線にいるという自覚がまるでないではないか」
マーヤ・スリリャオナン伍長はアリシアと同じ国の人間だが、民族は違った。エリニ人と呼ばれる山岳民族で、軍ではそのまま山岳兵として重宝されている。
きっと彼も、険しい山々では優れた才能を発揮するのだろう。しかしここではその姿を拝む機会もない。
それどころか普段の行動や言動も子供っぽいため、ついついこちらの気も緩んでしまう。ようはまだガキンチョなのだ。
とはいえ、自分たちは軍隊。上官と部下である。そんなことを理由に甘やかすわけにもいかない。
幸せそうなマーヤの寝顔に一瞬決意が揺らいだものの、アリシアは思い直して、見事な忍び足で和室に侵入する。まったく気付かず眠りこける彼の枕元に立ち、
「いい加減起きんか。マーヤ」
優しく呼びかけるのもこれが最後。そう思って言ったのだが――
「うにゃ~。うるさいなぁ……いいよぉ。分かってるから」
返ってきた返事はこれだった。
いったい彼が何を分かっているのか定かではないが、とにかくアリシアの堪忍袋の緒は切れた。
「っ……いい度胸だ、伍長」
底冷えのする声で呟くと、布団の右横に移動する。彼女はそこでしゃがみ込み、敷布団の端を両手で掴むと――思いきり上に引っ張った。
『うわぁぁあああああ!?』
その叫び声を聞いて。
佐倉京介はぱちりと目を開けた。サイドの長い茶髪。鼻筋の通った細面。黙っていればやんごとない雰囲気の持ち主で、茶髪のくせに、どこかお公家様のような雰囲気がある。
彼こそ、アリシアが気を使っている(つもりでいる)、現地協力者の青年だ。
どうやらレム睡眠中だったようだ……と、彼はまず自己分析した。おかげで頭の立ち上がりが早い。
脳裏では次々とチェック項目が更新されていく。
叫び声――マーヤ。
時間――深夜。
物音――向かいの和室。
原因――間違いなくアイツだろう。
『しっ! 静かにせんかバカ者っ』
『いきなりなんなんですか隊長ぉ』
ほら、やっぱり。
およそ高校二年生とは思えない顔で、京介は『チ』と大きく舌を打ち、それからゆっくりと起き上がった。
……居候共が。目にもの見せてくれる。
どうせなら強襲してやろうと思い至り、彼は静かにベッドをおりた。
「――いいんですかこんなことして。また怒られますよ」
敷布団の上から放り出されたマーヤが、眠たい目をこすりながらぶーたれる。
「私がお前に怒っているのだ。いいか、夜間といえど、待機中だということを忘れるな」
「んなコト言ったってぇ。眠いんだから寝ますよぉ」
「だから弛んでいるというのだ。だいたい上官にぐだぐだ言い訳するやつがあるか」
「……んで、なんでしたっけ?」
「常装に着替えてリビングに来い。待っているぞ」
「ふぁい」
「まったく、さっさとしろ。この訓練の目標時間は五分以内だぞ。これでは倍以上かかってしまう」
呆れた様子で言うと、アリシアは先に一階へ行こうと和室を出る。
一歩踏み出した廊下の暗がりに、京介が無言で立っていた。
「ひっ……!」
突如現れた京介に驚いて、アリシアは短い悲鳴を上げ、尻もちをついてしまった。
「なにしてんだコラ」
京介は少年刑務所上等のイカれた不良のような顔つきで、へたり込むアリシアの前にしゃがんだ。
「と、突然びっくりするだろう!」
「こんな夜中にそんな格好で、なにやってんだって聞いてんだよ」
「や、夜間呼集訓練だ」
「頭カチ割るぞ」
「非常事態に備えるための正式な訓練だっ。この国の緊急対応機関だって、きっとやっているぞ! 消防とか、自衛隊とかっ」
「ここが人様の家だっていう自覚はねえのか。お? 居候がよ」
「し、失礼なっ。きちんと生活費を納めているんだから、せめて下宿人と言え!」
「どこで威張ってんだ。どっちだろうが人様の家だっつーことに変わりはねぇだろうが」
「我々は軍隊で、名目はあくまで駐屯だぞ! 最低限の訓練をする権利はあるっ! それに私たちはこの家の安全保障も担おうという、自己犠牲の精神で――」
「そりゃご立派だがな。今んとこ、俺たちが犠牲になってばっかなんだよ」
「う……」
痛いところ(痛くないところのほうが少ないのだが)を突かれ、アリシアは黙り込む。
京介は立ち上がり、
「リビングに集合だったな。先にいってるぞ」
言い残して、階段を下りていってしまった。
「…………」
こうなると、はっきり言ってもうリビングには行きたくない。しかし様子をうかがう部下の手前、気弱なところは見せられなかった。
「隊長……」
『やっちゃいましたね』的なトーンで声を掛けてくるマーヤに、アリシアはくたびれた声で返した。
「いいから着替えろ。リビングで点呼を取る」
――佐倉家一階。リビングダイニング。
食卓で頬杖ついた、京介の視線が刺さるなか、
「全員集合しました」
髪ゴムで長髪を縛ったマーヤが、直立不動で報告した。全員といっても、今日はふたりだけだ。
「うむ。……七分と二〇秒。あまり褒められた数字ではないな」
「は。猛省しております」
「いいか伍長。たとえ見渡す限りの平和が広がっていようとも、それらはすべてまやかしだ。この世界はあらゆる危険と陰謀、憎悪に満ちている」
「はい」
食卓のほうから、『けっ、人様の世界を無茶苦茶言いやがって。誰が一番平和を乱してると思ってんだ』と、大きな独り言が届く。
アリシアは聞こえないことにして、
「緊迫する世界情勢の中で、我がベルジア軍は自国はもとより、この家、ひいては周辺地域全体の平和と安定に寄与すべく、これからも革新と自己研鑽に努めなければならない。以上、解散」
「はっ。お疲れ様でした」
壮絶な訓練を見届けた京介が、頬杖からかくっと頭を落っこどした。
「それだけかよ……」
「呼集訓練だからな。起きて着替えて点呼を取る、というのが流れだ」
「ついでだから外をひとっ走りでもしてこいや」
言うと、マーヤが目をむいて、『余計なこと言うなよ!』と無言で訴えてくる。
「そうしたいところだが、明日……もう今日か、の予定もあるしな。つぎの夜間呼集訓練には――」
「やるな」
「は?」
ぴしゃりと言われ、アリシアが首をかしげる。
「『は』じゃねえよ。金輪際、こんなバカ騒ぎは禁止だ」
「ばか騒ぎ……お前は軍事訓練をなんだと思っとるのだ」
「てめえは人様の安眠を何だと思ってんだよ」
「だからそれは――」
アリシアの言葉を遮って、食卓側にあるドアが開いた。
「んねー、なにやってるのぉ」
目をこすりながらリビングに入ってきたのは、京介の妹の優子だった。父親譲りの黒髪をおかっぱにした、可愛いらしい女の子である。この春に小学二年生になったばかりだ。
「ごめんな優子、あーちゃんたちが騒いじゃったんだよ」
京介があてこするようにして妹に謝罪すると、
「んー。だめだよ夜は寝なくちゃ。あーちゃんもまーくんも目が覚めちゃったの?」
「う……」
小さな少女に言われては、アリシアも返す言葉が見つからない。
マーヤが困ったような顔で優子に声を掛けた。
「ごめんな優ちゃん。俺たちももう寝るから。優ちゃんも学校あるんだから、まだ寝てなくちゃ」
「うん。おしっこ行ったら寝る」
「ん。おやすみ」
「おやすみぃぃ」
優子がリビングを出ると、若者二人からアリシアへ、ジトっとした視線が集まった。
京介はともかくとして、なぜ部下からそんな目で見られなければいけないのか。どうにも納得いかないが、とりあえず――
「……申し訳ない」
アリシアはぺこりと頭を下げた。