何も変わることのないこと
返事の無いいってきますとただいま、いつも見ていた家庭はテレビの中だった。
いつもの平日、目が覚める。ジリリと目覚まし時計の音がする。自室の襖をスーッと開け欠伸をひとつしておはよう、と誰も居ない部屋に向かって言う。流れるように台所に立ち、朝ご飯を今日は三人分、味噌汁と目玉焼きを三つ、昨夜予約炊きした米を一人分茶碗によそってテレビをつける。
「今日は雨か、傘持ってかないとな。」
そう独り言を呟いて自分の食べた食器を片付ける。最近起きたニュースを横目にスクールバッグに教科書を詰めこんでテレビを消して玄関に向かう。今回の靴は初めて見るヤツだな、と高そうな革靴を見ながら履きなれたスニーカーを履いて玄関の扉を開ける。
「いってきます。」
返事が返ってくることのない挨拶をして俺は家を出た。
学校に着くといつものように周りからおはようと声をかけられておはようと返すような何気ない日常。そんな日常が俺は一番の幸せだった。
「おはようございます、胡桃くん。」
「おはよう夕美、楓奏は?」
楓奏はさっき先生に呼び出されていました、とそう夕美が返すと丁度自教室に荷物を置いてきた聖が顔を出した。三人でしばらく話し込んでいるうちに楓奏が帰ってきておはよう、とふたりして挨拶をする。そうしてようやく俺の一日は始まった。一限目の数学の時間を欠伸混じりにクルクルとシャーペンを回してやり過ごす。いつも話を聞いていない時ばかり先生に当てられるから明日はちゃんと聞こうなどと決意したことは寝た時に忘れてしまっていた。次々に出てくる問題に周りが答えてそれを写す、ただそれだけの事だ。そこになんの問題もありはしない、同じ解き方なのだから。そうして二限目も終わり昼休みが始まる。そんな時ある一本の電話がかかってきた。
「あ、ごめん。父さんから電話きたから先に食ってて」
三人を置いて僕は普段誰も通らない廊下まで歩いて電話に出た。こうして電話がかかってくるのはいつぶりだろうか、それよりもこうして声を聞くのすら何年ぶりだろうか。そもそもいま何をしてどこで暮らしているのだろう、そんなことを考えながら僕は電話に出た。
「突然ごめんな、胡桃。元気に暮らしてるか?」
そう話しかけてきた父さんは昔から何も変わっていなかった。いや、変わったことに俺が気が付かないだけかもしれないが、とにかく父が変わらず暮らしていることを聞いて俺は安心した。
「母さんはどうしてる?」
「…いつも通り暮らしてるよ。」
俺はそうとしか答えられなかった。父さんは何も知らないのだ。数年前喧嘩して出ていってから母さんが毎晩なかなか帰ってこないのも、朝起きると知らない靴が置いてあるのも、その靴がたまにサイズすら変わってしまう事も。それならいい、と父は安心して電話を切る。久しぶりに父さんの声を聞いて俺は思い出してしまった、もう何年も二人の顔を見ていない事実を。
放課後、四人で変わりなく話してみんなとわかれる、その時俺の一日は終わりそしてまた家に帰る。何一つ変わらない日々、日常、どうせこれからも変わらない。あんな広い家に二人で暮らして全く顔を見ないのだ、 家出してしまってももしかすれば気が付かないのではないか。そうだ、新しい靴を買って今の靴を家に置いて出てしまえば家に帰った母さんも気が付かないはずだ。それどころかあの母さんの事だ、もしかすれば靴を置いていかなくても気が付かないかもしれない。母さんは俺のことなど見ていない、そんなことは端から分かっている。この際、あの家に帰らないならば、どこかへ行ってあの扉を開けることがなければ。そんなことを考えながら家に着いてしまう、新しい靴も買わずに。そしていつものようにあの扉を開けて誰もいない家にただいまと言う、そうすれば相も変わらずテレビの音が俺を出迎えてくれる。結局俺はこれだけで幸せなのかもしれない、これだけで充分幸せなのかもしれない。
俺は自分の心を誤魔化したまま、間違った答えに丸を書いた。俺の答えはもっと前にあった。




