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ドリーム・ランド  作者: 櫻山 亜紀
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第四話 「イェロー・サブマリン」・終章

第四話 「イェロー・サブマリン」


ドリームランドの閉園が決まったのは突然だった。

そして、とても受け入れられなかった。確かに、入園者は減っていたし、横浜の港湾地区の再開発で、みなとみらいや金沢区に遊園地や水族館が出来てから、そちらにある程度の客は流れてはいたが、神奈川県民、特に横浜市民の多くの人達が、崎陽軒のシウマイ弁当が日本一の弁当だと信じて疑わないくらいには、ドリームランドは愛されているものだと、阿部憲治は信じていたからだった。

阿部の住む、相鉄線の駅前商店街がかつて、新しい国道沿いに出来た大型スーパーの進出でシャッター通りになったはずだったのに、ドリームランドを買収したその大型スーパーの親会社が今度は深刻な経営難に陥っていた。結果、ドリームランド単体では何とか赤字にこそならず踏ん張っていたにも関わらず、一時は福岡にプロ野球団まで持っていたその親会社を立て直すため、売りに出されることになったのだった。

ドリームランドをこよなく愛してきた、阿部にとっては到底受け入れられないことだった。本気で凱旋門の前で署名活動をしてやろうと仲間に呼びかけたことすらあった。

 しかし、一方で阿部には火事場泥棒を犯すような罪の意識とともに一つの希望もあった。それは、マニアにとっては「楽園」としか表現しようのない、ドリームランドのゲームコーナーにある、一つのマシンのことだった。

 阿部は、特定の仕事には就いていなかった。それは特段就く必要がなかったからでもある。阿部は間もなく不惑の歳になろうという年齢にして、四十年間自分は惑い続けていると、自虐的に独りつぶやくような生活を送っている。かつての同級生にはもう、小学生や中学生にもなる子どもがいるが、阿部には家族を持とうという発想も全くなかった。確かに、大学時代に何度か恋愛感情のようなものを一方的に抱いたことはあったが、それも今となっては本当に恋愛感情だったのか、ただ自分自身の作りあげた物語に置かれた自分に酔いしれていただけなのか、あるいは今集めているコレクションに対する感情と同じような感情をただ、生身の異性に対して抱いていたに過ぎなかったのではないかと思うのだった。

 大学の卒業が間近になった頃は、プラザ合意前で日本経済は安定成長しており、大した就職活動もせずに、川崎にあった大手の機械メーカーに就職した。しかし、その時には坊ちゃん育ちの義侠心か若気の至りか、ある取引の際に、見積書の金額の数字を一桁間違えるという同僚の犯した致命的なミスを庇ったところ、その同期に裏切られ、逆にそこでの失敗を全て彼のせいにされ、以来人間不信に陥ってしまった。それから、会社に通おうとすると吐き気が止まらなくなり、現実から逃避するためにゲームをし続け、不眠になって体調を崩した挙句、半年で辞表を出して、実家に戻ってきたのだった。それ以降は、趣味のための小遣い稼ぎに短期の契約で戸塚のパン工場や横須賀の自動車工場で働いたり、実家の家業のちょっとした手伝いをするだけだった。

彼には弟がいたが、彼は順調に「レール」から脱線することなく、彼よりも入試偏差値が十五ぐらい高い大学を卒業し、北青山に本社のある商社に務めて、今はニューヨークに住んでいる。だが、彼の実家の両親も彼を特段責めるでもなく、弟と比較するでもなく、好きなようにさせていた。責める必要もなかったからだ。

 彼は、横浜市戸塚区の田園地帯の地主の息子であった。祖父から聞いた話では、江戸時代から続くいわゆる庄屋だったらしいが、つまるところ田舎の大百姓だったのだ。それが、戦後になって開発の波が、この横浜の片田舎まで流れてきたお陰で、阿部家は代々、大した肉体労働というものをせずとも、固定資産税と相続税対策に一定の労力さえかければ、特段、贅沢をしない限り食べていくのに困らない家だったのだ。

 特に、阿部家の土地は、保土ヶ谷バイパスや横浜環状二号線の土地に多く組み込まれており、かつて所有していた山には、複雑に入り乱れた迷路のようなジャンクションを取り囲むようにラブホテルが林立している。

 故に、彼の父親も祖父も、資産を食い潰すほどではない程度の道楽家だった。例えば、阿部家の代々の家訓のようなもので、株や投資に大きなお金をかけることや、競馬や麻雀、パチンコも含めて博打の類に手を出すことだけは、ご法度だった。それに変わって、祖父は所有していた山や田畑の手入れの合間に、そこで出た木材を使って彫刻をするのが趣味だった。もう亡くなったが、家の裏の竹林には祖父が掘った彫刻が五百羅漢像のように並んでいる。他には、山の中に自前の窯まで作って陶芸に凝っていた。

 彼の父は、節税のためと自分の趣味を兼ね合わせて、阿部自動車という会社を立ち上げて、自分の自動車仲間の車の整備やチューンナップ、改造などをやっていたが、無論仕事なのか趣味なのか曖昧だったし、父が扱うのは主にレトロな雰囲気の車や、クラッシクカー専門だった。ただ、横浜市内で稼働するオート三輪が購入できる店として、湘南あたりの物好きなサーファーや、その手のマニアにはよく知られた店だったらしい。今は、もう会社も畳んで、カメラを趣味にして、老境を楽しんでいる。

 畢竟、その息子である阿部憲治も、資産を食いつぶさない程度の趣味を生きがいにするようになっていった。彼の趣味は、彫刻や陶芸でも車でもカメラでもなく、ビデオゲーム、とりわけアーケードゲームだった。世代としては、中学生の頃にインベーダーゲームの大ブームがあり、彼は最寄りの二俣川駅前にあったゲーム喫茶に通っては、百円玉を積み重ねては名古屋撃ちなどを繰り出していたものだった。その後は、パックマンが登場して、また百円玉を積み重ねたが、やがてファミリーコンピュータ、通称ファミコンというテレビゲームの登場に伴って以来、カセットでゲームを所有することの喜びに目覚めてしまった。「マリオブラザーズ」から始まった彼の収集熱は、ファミコンを実際に電話線で繋いで株式投資ができる「ファミコントレード」のような珍しい周辺機器から、「たけしの挑戦状」や「頭脳戦艦ガル」のような所謂「クソゲー」収集、そして「キン肉マン マッスルダッグマッチ」ゴールドカートリッジ版という世界に八個しかないような希少カセット収集に至るまで、徹底していた。

 彼にはその当時、本当に心から「友達」と呼べるような人間はおそらく居なかったし、本人も特にそれを望んでいなかった。しかし彼のゲームだけを目当てに、多くの同級生が家にやってきていた。本当の友達も居なかったが、土地の結びつきや地縁関係が横浜の中でもまだ強い地域だったので、小中学校でも地主さんの息子ということで一目置かれ、彼をいじめるような者もまた居なかった。阿部家には代々、殆どの地元の家が世話になっていたからだった。また、彼自身も自然に帝王学として表面上は人と友好的に関わる術を身に着けていたので、人間関係のトラブルとも無縁でもあった。いじめっ子にもならないが、いじめられる方にもならず、特段誰からも必要とされない、居ても居なくてもよいような、透明な存在だった。

心から打ち解けられる友達は居なかったが、アーケードゲームやテレビゲームをしている時、彼はその精神が自由に解放されるのだった。それは、決して健全な事ではなかっただろう。しかし、なぜか彼には現実の世界よりも四角いドットで表現された世界や、電子音の響きの方が、かえって生きた世界のように感じられたのだった。音楽についても、ビートルズやコルトレーンや吉田拓郎には全く興味が持てなかったが、クラフトワークやYMOやヒューマン・リーグの電子音楽だけはレコードが擦り切れるほどのめり込んだのだった。

 しかし、彼の趣味もファミコンまでで、その頭に「スーパー」が付く機種が出る頃には、彼の趣向は逆に更に過去に遡るようになっていった。特に彼の心を惹いていったのは、ピンボールマシンだった。そのきっかけとなったのが、ドリームランドのゲームコーナーだったのだ。

 最初、彼がドリームランドのゲームコーナーが凄いらしいという噂をマニア仲間から聞いて出向いた日、まさに足を踏み入れた瞬間、マシンから後光が指したようにすら思えたものだった。今まで、カタログなどでしかお目にかかったことのない、貴重なマシンが、まるで新品同然の状態に整備されて稼働しているのだった。それは、彼にとっては、ジュラ紀のアンモナイトや図鑑でしか見たことのなかった恐竜たちが、目の前で生きた形でそこに居るのを目にしているような感動だった。その頃、彼は実家のガレージに、少しずつピンボールマシンやエレメカと呼ばれる、機械仕掛けの遊具をコレクションしていた。そんなコレクションがゴミ屑のように思われるほどに、ドリームランドのマシンたちの状態は完璧だった。

 無論、横浜市民で地元戸塚区民であり、ほぼドリームランドと同い年の彼も幼い頃からドリームランドは親しみのある遊園地であったのだが、こんなに凄いゲームコーナーがあったことには、灯台下暗しでかえって気付かなかったのだった。そんな自分の愚かさを深く恥じ入ったほどである。彼はその頃三十五歳になっていたが、それ以来閉園に至るまでドリームランドのゲームコーナーに足繁く通うようになったのだった。

 そして、ゲーム以外は特に人に惹かれたり、親しんだりすることの無かった彼が「師匠」と呼んで、唯一心を開いたのが、そのゲームコーナーを管理する島田さん、本名ジョニー島田さんという日系人のおじいさんだった。

最初、子ども達がジョニーさんと呼んでいるので、ニックネームかと思ったら、アロハシャツに付けたバッジにはしっかりジョニーと書かれていたのと、少し訛りのある日本語で、それが本名なのだと分かった。むしろニックネームは、その頃流行っていた漫画のキャラクターの名前から「亀仙人」と呼ばれていた。豊かな白髪だったし、髭も生えてなかったが、アロハシャツがトレードマークだったのが、その所以だろうか。

 ジョニーさんと阿部が出会った頃には、ジョニーさんはもう七十歳になっていたが、その高い背と、若々しい肌と、明るい性格から、とてもそんな歳には見えなかった。一度は定年退職したものの、ジョニーさんにしかここのゲームコーナーの多くのゲームのメンテナンスが出来なかったため、今でもパートという形で再雇用されているという。

 彼が「仙人」と呼ばれる所以は実はここにもあって、彼の手にかかれば、どれほど調子の悪かったゲームも、少しそのゲームをやった後、ドライバー一本でいくらか基盤などをいじるだけで、あっという間にベストな状態に復元できるのだった。彼が定年で辞めてしばらくの間は、業者を呼んだりして何とかメンテナンスをしていたが、そのゲームコーナーにあった多くのゲームの製造会社が今はもう無くなっていたり、代替のきく部品を製造していなかったりして、とても回らなかったのだ。ところが、困り果てて遊園地の支配人が呼び出したジョニーさんがゲームコーナーに現れると、まるで魔法のように一日で全ての調子の悪かった、故障中のゲームがたちまち直ってしまったのだった。それは、専門の業者の人間からしても神業としか言いようのないことだったという。その時、ジョニーさんは、

「手をかざすとだいたい、どこが悪いか分かるんだよ。この子たちは、私の体の一部みたいなもんだからね」

と言って笑っていたという。

ジョニーさんは、すぐに自分が呼び戻されることをまるで分かっていたかのようだったという。そんな中で、アーケードゲームマニアの阿部は、一方的に弟子になったつもりでジョニーさんを「師匠」と呼んで、慕って足繁く通っていたのだった。


 始まりも終わりもないような阿部の日常に変化が起きたのは、新たな世紀を迎えてミレニアムだ、新世界だと根拠のない期待が世間を覆っていた頃だった。世紀は新しくなっても、彼にとって大事な夢の世界は突如、終わりを宣告されたのであった。

 閉園の発表がローカル紙に掲載された朝、彼はすぐに師匠の元に走った。一つは、居てもたっても居られず、本当に潰れてしまうのか確かめに行くためであったが、もう一つは、彼がどうしても欲しかったピンボールマシンを手に入れるチャンスでもあると思ったからでもあった。いつも通り、正門をくぐってゲームコーナーに向かった。この日は、閉園の発表直後だったこともあり、同じように閉園を惜しむ遊園地のファンたちが詰めかけて、いつもよりも人が多かったが、そこにある全ての遊具や訪れた人々には哀惜の陰が落ちて、妙に悄然としていた。ゲームコーナーに入ると、ジョニーさんがいつもと同じような調子で、笑顔で迎えてくれた。

「おはよう。今日は早かったね」

「師匠、そんなことより、ドリームランドが潰れちゃうのって本当なんですか」

「ああ、そうみたいだね。私もいい加減いい歳だし、そろそろ引退しようかななんて考えてたからね、ちょうど良い頃合いだったんじゃないかな」

と、ジョニーさんは平然としていた。

「師匠、そんな。じゃあ、ここにあるゲームたちはどうなるんですか。もう師匠じゃないとメンテナンスも出来ないマシンばかりでしょう」

「ノーノ、阿部さん、買いかぶりすぎよ。私じゃなくても、ちゃんとメンテナンス出来る人はいくらでもいるしね。もうね、色んな所から、ゲームを譲ってくれって、連絡来てるみたいよ。良かったよ。私の大事な子ども達だからね。大事に引き取って貰えればそれで嬉しいね」

 ジョニーさんは、このゲームコーナーにあるゲーム機やエレメカ、ピンボールマシン全てを、自分の子ども達に見立てて大切にしてきた。実際、彼は十年以上かけて日本中の多くの衰退し撤退していった地方デパートの屋上のゲームコーナーや温泉地から、多くのエレメカやピンボールマシンたちを救いだし、新品同様にメンテナンスをしていたのだった。彼にとっては、自分の子どもや愛おしいペットに近い存在なのである。実際、阿部はジョニーさんが、ゲーム機に直接語りかけている姿を何度も見たことがあったし、まるで機械の方もそれに答えて、動いているようにすら見えたものだった。

「じゃあ、キャプテン・ファンタスティックなんかも譲ってもらえますか」

彼の言うマシンは、一九七六年製のバリー社の名器だった。

「ヤ、阿部さんなら、ちゃんと大事にしてくれるからね。ありがたいよ。分かった。阿部さんのために取っておくよ」

「ありがとうございます。大切にしますよ。でも、やっぱりクリスティーンは」

と、阿部が「クリスティーン」というピンボールマシンの名前を出した途端に、ジョニーさんの表情が曇ったのが分かった。

「ゴメンね。クリスティーンだけは、いくら阿部さんでも譲れないよ」

 「クリスティーン」というピンボールは一九六三年ウィリアムス社製の台で、アメリカ車プリムス・フューリーをモチーフにしており、その車のフロントにブロンド美女が腰を乗せて足を組んでいる絵が書かれていた。ピンボールマニアならば喉から手が出るほどに貴重なマシンで、日本国内で稼働している台はおそらく、このドリームランドのゲームコーナーにあるただ一台だけだということだった。

 二人は、ゆっくり歩きながら、その今話している、クリスティーンというピンボールマシンの前に向かっていた。

「そこを何とか、お金ならば何とかします。やっぱり、もう買い手が決まっているんですか」

「ううん、そうじゃないんだ。この子は、もう私の一部分なんだよ」

クリスティーンを前にして、ジョニーさんは、優しい手つきでその側面を撫でた。

 阿部は食い下がったが、普段は温厚なジョニーさんの表情が硬くなるほどに断固譲ろうとはしないのだった。


 阿部が、そのクリスティーンというピンボールマシンに病的なまでに魅惑させられていったのは、ある不思議な出来事がきっかけだった。無論、それが無かったとしても、その台が持つムードや、マシンとしての完成度と美しさは、他の台とは一線を画していて、一目で阿部の心を鷲掴みにしていただろうが。

 それは、真夏のドリームランドだった。阿部は、ちょうど終戦記念日の八月十五日だったと記憶している。なぜ覚えているかというと、ちょうど彼が正門をくぐった正午ちょうどに、黙祷の為のサイレンが中空に鳴り響いたからだった。特に暑い夏で、つんざくようなセミの泣き声の中、阿部の意識も少し朦朧としかけていたのだが、ゲームコーナーに入るなり、珍しく先客がクリスティーンをプレイしている姿が目に入った。入り口から見て左手にピンボールが並べられており、クリスティーンが置かれているのはその中でも一番奥の、外の明かりが差し込まない暗がりの場所にあった。

そこに、アロハシャツの青年と縮れ毛の子どもが立ってプレイをしている後ろ姿が見えたのだった。年齢的には少し歳の離れた兄弟かなと思わせた。しかし、次の瞬間何よりも彼を驚かせたのは、そのピンボールマシンが表示しているスコアが彼のそれまでのベストスコアをはるかに超えていたことだった。相当にやりこんでいた彼のベストスコアは二万点だったのだが、その青年が見惚れるようなフリッパーさばきで叩き出しているスコアは九万点という信じがたいような数字だったのだった。彼は、驚いてすぐにその台の側に駆け寄った。しかし、一瞬柱の陰に死角に入ったところで、その二人の姿は掻き消えてしまったのだった。さっき見えたマシンのスコアも0の表示のままで、ボーナスライトが点滅しているだけだった。阿部は、あっけにとられて、しばらくクリスティーンの前に立ち尽くしてしまった。

 自分は、白昼夢を見たのか、あるいは昼間から幽霊でも見たのだろうかと訝しんだ。確かに、このゲームコーナーには隣接してお化け屋敷があって、子ども達の間では本物の幽霊が出るという噂があったのだが。

 しばらく、呆然としていると、いつも通りアロハシャツを着たジョニーさんがあくびを噛み殺しながら後ろから現れたのだった。

「ふぁー、いや失敬。いらっしゃい。どうしたの、ちょっと顔が青ざめてるね。具合でも悪いんじゃない」

と、ジョニーさんは阿部の様子を心配してくれたが、阿部は冷や汗をかきながら、

「今ここに、とんでもないスコアを叩き出している青年と子どもがいなかった?」

とまくし立てるように言った。

「ハハ、阿部さんどうしたの、今日はまだ誰も彼女と遊んでないよ」

と、クリスティーンを撫でながら言った。

「あ、いや、今日はちょっと具合が悪いみたいだから帰るよ」

と言って阿部は早々にその日は退散したのだった。あれは、一体誰だったんだろう。隣にいて、覗き込んでいた少年も消えてしまった。あのアロハシャツは、確かにジョニーさんのものだったような気がするが、どう見ても本人じゃない。若すぎた。ジョニーさんは総白髪だし、あれはどう見ても、十代後半ぐらいの青年だった。

 そんなことがあってから、阿部はクリスティーンの持つ不思議な妖しさに更に魅せられていった。以来、阿部はいつもこのクリスティーンに会いに行くためにドリームランドに通っていたと言ってもいいほどのめり込んでいった。そして、幻で見た男のスコアを超えることがいつしか彼の目標になったのだった。結果、彼の短期の工場の仕事の稼ぎの大半が、百円玉として消えていってしまうことになったが。


ジョニーさんは、ドリームランドが閉園する二〇〇二年には、喜寿と呼ばれる程の歳だったが、やはりそれでも若々しく背筋がピンと伸びたジョニーさんは、六十代半ばぐらいにしか見えなかった。

自分の事を滅多に語ろうとしないジョニーさんの物語を知るものは、ドリームランドの中でも僅かだった。心をお互いに許していた阿部でさえもジョニーさん本人の口からは語られることがなかった。ドリームランドの中でも、ヘイヘイおじさんで有名な榎本さんと、「じいちゃん」とジョニーさんのことを親しげに呼び、休憩時間ごとに顔を出していた、近衛兵の大黒和良だけには、たまに昔の事を語ったようだった。


ジョニーさんはホノルル生まれの日系二世で排日移民法が成立した翌年一九二五年に生まれた。彼の父親の生まれた国が、そのジョニーさんが生まれた美しい島に攻撃をかけるおよそ十六年前だ。つまり、真珠湾の米海軍の太平洋艦隊を日本海軍が奇襲をかけたとき時、ジョニーさんは十六歳だったことになる。

ジョニーさんの父親は、明治三十年松山の農家の三男として生まれたが、実家の貧しさから、妻と一念発起してハワイのホノルルでサトウキビ農家として移民した日系一世だった。しかし、あくまでも日本人コミュニティの中だけで生活し、英語も満足に話すことが出来なかったという。ただ、持ち前の我慢強さと堅実さで、着実にサトウキビ農家として成功していったのだった。一方、移住後すぐに現地で生まれたジョニーさんは、ハワイに溶け込んで、日本語よりもむしろ英語を上手に使いこなしなして現地の学校に通った。その頃の思い出は、ジョニーさんにとって何ものにも代えがたい豊かな日々だった。まだ今のようにメジャースポーツどころかハワイのトラディショナル・スポーツだったサーフィンも当時から嗜んでいたという。

そのサーフィン仲間であり、クラスメイトであったガールフレンドの名がクリスティーン・カバナスだった。ブロンドの髪に、青い瞳、透き通った肌色で、頬に染みとそばかすがあるのが、ジョニーさんにとってはチャームポイントで大好きだった。

彼女はアメリカ本国生まれだったが、父親が海軍の将校だったので、家族と一緒にハワイに住んでいたのだった。確かに、日本が中国を侵略し、アメリカとの関係が悪化するなか、二人の関係は、特に彼女の家族や周囲にとって歓迎されないものとなりつつあった。

しかし、二人の結び付きは国籍も人種も戦争も乗り越えて本物だった。ジョニーさんとクリスティーンは、お互いに百パーセント求めあって、百パーセント満たしあっていた。まだ若いティーン同士だった二人は、ホノルルのワイキキに沈む世界一美しい夕日の前で、暖かな潮風に包まれながら永遠の愛を誓い合ったのだった。

しかし、太平洋の沖の青空に見え始めた黒い点は次第に数を増していき、プロペラエンジンの轟音と伴に飛来して、真珠湾に爆弾を落としていった。

そして、二人の若い恋人の初々しい愛をも引き裂いていったのだった。

その日も二人は、ダイアモンドヘッドのライトハウスという灯台の前のビーチで波に乗っていた。そのビーチは地元民でも気づかないような獣道を下って辿り着ける二人だけの秘密のプライベートビーチだった。そこで二人は、いつも落ち合って、波乗りを楽しんだあとは、岩影で砂にまみれながら抱き合った。

ちょうど、海から上がった二人が口付けをしようとした瞬間に、この世の終わりを知らせるようなけたたましいサイレン音が二人を引き裂いたのだった。その時、果たされなかった口付けはその後も、永遠に果たされないままになるとは、その時の二人には思いも寄らなかったのだが。

その後、日本とアメリカが全面戦争に突入していったことは、言うまでもない。しかし、ハワイでは日系人が多くハワイ経済の基幹を担っていたこともあって、敵性民族として収容所などに収監された者は限定的だった。にも関わらず、偶然ジョニーさんの父親が、真珠湾攻撃のスパイ活動をしていた日本人と同郷だったというだけの理由と、未だに英語も満足に喋れず、閉鎖的な日系コミュニティの中で比較的重要な役職にいたこともあり、彼の一家は収容所に収監されてしまったのだった。

確かに、収容所の暮らしは決して楽ではなかったが、日本のハワイへの直接攻撃は最初期だけであったことや、ハワイの日系人の多くが米軍に従順だったこと、あるいはハワイならではの空気がそうさせたのだろうか、思ったよりも平穏な時間があった。

ジョニーさんにとって悩ましいのは、クリスティーンのことだけだった。父の祖国の命運すらどうでも良かった。とにかく、どちらが勝っても負けても、早くここから解放されて、クリスのもとに行きたい。ただそれだけが願いだった。収容所から、見える沈む夕日に、二人で過ごした時を思い出して、幾度も独り涙を流した。

彼は最も多感な十六歳から二十歳までの青春時代を有刺鉄線の張り巡らされた収容所で過ごさねばならなかった。四年間、毎日途切れることなくクリスティーンに手紙を書き続けた。米軍の検閲を通過して届いていたものかどうかは分からないが、一度も返事は来なかった。痺れを切らして、収容所を自由に出入りできる現地人の知り合いに直接手紙を渡した。返事を期待して再びその知り合いに会った時、思わぬことを聞かされたのだった。それは、米海軍の将校だったクリスティーンの父が戦死して、その一家も今はどこにいるのか分からないということだった。おそらく遺された家族はアメリカ本国に戻ったのではないか、ということだった。

真珠湾攻撃の時に亡くなっていたのか、激しさを増していた太平洋上での戦いで亡くなったのかは定かではなかったが、彼女が誇りにしていた父が、軍人である以上、戦争とはいえ自分と同じ血が流れた民族が殺してしまったことは、彼女の心に取り返しのつかない傷を残してしまったであろうことは容易に予測がついた。

しかし、一方で二人の愛情が本物であったことをジョニーさんは信じ続けるしかなかった。そうしなければ、ジョニーさんはもはや何のために生きていけば良いのかも分からなかったのだ。きっと、彼女は自分を待ってくれている。きっと、戦争が終われば、彼女はやって来るはずだ。そう信じ続けて今日一日を生きることだけが、有刺鉄線の中での唯一の希望だった。

そして、アメリカは日本に二発の原子爆弾を投下し、戦争は終わった。余りにも多くの人が死んだ。死ななければならない人間なんて誰一人居なかったはずなのに、日本人もアメリカ人も中国人も、朝鮮人も、フィリピン人も、ビルマ人も、ベトナム人も、マレーシア人も、インドネシア人も皆みんな、死んでしまったし、取り返しのつかない傷を人々に残していった。

有刺鉄線の外に出たとき、ジョニーさんの中では喜びはなかった。あの頃の純粋だった自分は、永遠に消えて無くなっていた。空っぽだったのだ。

しかし、それでも一縷の望みを持ってクリスティーンのことを探した。

彼女のことを訪ねて回ったが、誰も首を横に振るばかりだった。ようやく、人づてに分かったことは、彼女は母親と共にアメリカ本国に戻ったらしいということだけだった。彼女の故郷はペンシルバニア州のフィラデルフィアだったが、もうジョニーさんには、本国に渡ってまで彼女を探しだそうとする気持ちは無かった。収容所に居た四年間の間、一日たりともクリスティーンのことを考えない日はなかった。思い出せば、青く光る海と、まばゆく照らしつける陽光が彼女の金色の髪と、産毛を照らしていた姿が目の前に浮かんだ。そして、思い出せば思い出すほど、彼女以外に自分にとって相応しくお互いを補完し合える人間なんて居ないと確信するに至っていった。

しかし、そうなればなるほど、その確信は宗教的盲信に近い、存在しない神を崇拝しているような感覚になっていった。彼の中での彼女の思い出は、現実にあったことなのか否か区別がつかないほど、研ぎ澄まされて更に美しくなっていったのだった。

もはや、彼には現実のクリスティーンを探し出す必要が無くなってしまったのだった。彼自身は自覚していなかったが、彼の収容所生活の中で研ぎ澄まされた美しい彼女は、現実の方が劣ることこそあっても、それを越えることなどあり得ないのだと無意識下において彼は知ってしまっていたのだ。

一方で、やはり彼女の父親を殺した日本人という民族である自分を、いくら個人としては愛され得るとしても、容易に受け入れてもらうことが出来ると信じられるほどジョニーさんは無神経な男ではなかった。きっと、もし許して貰えるならば、もしまだ自分を求めてくれるならば、きっと彼女の方からやって来るはずだと信じて、またハワイでの生活に戻っていったのだった。

彼は、五年間ひたすら待った。しかし、彼女からは手紙も音沙汰も何もなかった。彼にとって、これ以上父親のサトウキビ農場を手伝いながら、待ち続ける生活はもう精神的に限界だった。今、自分が生きていると言えるのかどうかも確信が持てなくなっていた。このまま、漫然と一生サトウキビに囲まれてハワイで生き続けることに彼は耐えられなかった。家族からは猛反対されたが、振り切って彼は、父の祖国であり、ようやく焼け野原から復興しつつあった日本に渡ったのだった。渡ったというよりも、彼自信の自覚は無かったが「逃げた」というのが正解だったし、彼はもうそのときには、もはや創りあげられつつあったクリスティーンの思い出に何時(いつ)でも浸ることが出来たし、彼の中で会話を交わすことさえ出来たのだ。どこにいても寂しさも感じなかった。むしろ、その彼だけの満たされた世界が現実の彼女が現れることで崩壊してしまうことこそを彼は無意識下で恐れていたのかも知れない。だから、日本に逃げたのだ。

彼は、日本でもその英語力と、反対しながらも最後は経済的に支援してくれた父親からの資金を生かして主に米軍基地周辺でバーのオーナー兼バーテンダーとして働いてきた。占領下の沖縄のコザで八年、長崎の佐世保で七年、福生の横田で十年働いた。彼の持ち前の陽気さと気遣いのある雰囲気が評判を呼んで、彼のバー「Johnny's」はいつも賑やかだった。

ジョニーさんが、クリスティーンと出会ったのは、最初に勤めたコザの米軍兵士向けのゲームセンターだった。偶然入った、ゲームセンターで彼は「彼女」と出会った。彼は、ピンボールマシンに描かれたブロンド女性に英語で話しかけた。

「やぁ、君は、こんなところにいたんだね」

そう語りかけても、もちろんマシンは、ボーナスライトを点滅させるだけで、何も答えない。

でも、ジョニーさんは満足そうに、幸せそうにマシンと対話を楽しむようにしてプレイし続けた。

その後、ジョニーさんはそのゲームセンターのオーナーと交渉し、当時としても少なくないお金を払ってクリスティーンを譲って貰った。そして、自分の店に置いた。そして、「彼女」が寂しくならないように「友達」も沢山集めるようになっていたのだった。

その後、「彼女」と一緒に場所を移しながら、最後は自分の店を畳んで、ドリームランドに流れ着いてきたのだった。何故ならば、「彼女」とその「友達」を全て稼働させながら置ける場所はここぐらいしかなかったからだ。


阿部は、その日は余りにも頑ななジョニーさんに折れて、他の幾つかのエレメカの引き取り交渉をするに留めた。ただ、ジョニーさんがその時教えてくれたのは、事前に引き取り手がなかったり希望者が多かったりする機械については、閉園後この場所でマニアや業者向けにオークションの形で出していく予定だということだった。その資金も、経営する親会社の立て直し資金の一部になるという。これだけ師匠が出し惜しむクリスティーンがきっとそこで高値で取引されるのだろうと阿部は期待して、そこでのチャンスに懸けることにしたのだ。彼は、いざという時は多少のまとまった金の工面のため野山の一つぐらいを実家に売り飛ばさせる覚悟をした。


そして、あっという間にドリームランド最後の日、二〇〇二年二月十一日がやって来てしまった。もちろん、阿部は師匠のいるゲームコーナーを主な目的で通ってはいたが、それ以外の遊具たちにも強い思い入れがあり、多くの馴染みの従業員たちがいた。

この日ばかりは、横浜じゅう神奈川じゅうからドリームランドファン達が集まっていて、多くの遊具に行列が出来ていた。

そして建国記念の日で祝日の月曜日だったので、余計に人は多かった。皮肉にも神武天皇が国を創ったとされる日に、この横浜の片隅にある小さな夢の国はその歴史に幕を閉じる。

阿部は出来る限りの遊具に乗ることを目的に朝一番から凱旋門の前に並んだ。これほどの数の人々がドリームランドにやって来たのは、恐らく三十年ぶりであっただろう。モノレールが廃線にさえならなければ、国道一号の原宿の交差点が渋滞のメッカでさえなければ、そんなことが阿部の脳裏に浮かんだが、考えたところでもうどうしようもなかった。

今日で夢は終わり。皆、夢から醒めるんだ。

阿部の目には、ドリームランドにある全てのものが、哀しみを帯び、そして美しかった。夢には終わりがあってこそ美しくなり得るのだ。

その日は、青空はなく薄曇りの陽気だった。何かその天気がこのドリームランドの締め括りには相応しいような気もした。鼻の奥が痺れるような湿気の強い冷気は場合によっては、雨か場合によっては雪も降りかねない気配すら帯びていた。それが、ここに今集まっている人々とのメランコリーと不思議な調和をみせていたのだろうか。

ふと振り返れば、そこには数年前一足先に閉鎖したホテルエンパイアが聳えている。それがかつて霞が関ビルよりも早く出来た当時日本一の高さを誇る高層ビルだったことなど、見る影も知る由もない。最上階の回転レストランはもう二度と回転することもなく留まり、各階の窓には深い闇が染み込んでいた。じっと見ていると吸い込まれそうになるような深い闇だった。

ドリームランドの正門である凱旋門も、そこに施されたレリーフは四十年の風雪に削られ、その逞しいアポロンの鼻梁や勝利の女神の豊満な胸も、装飾された唐草模様もペンキが剥がれ大理石ではなく、下地のコンクリートが所々露出している。

その下に立つ名物だったイギリス近衛兵の制服の赤も深紅ではなく、長年の歴史と共に毛羽立っている。金バッジもメッキが剥げている。おそらく近衛兵のその裾を(まく)れば、ディスカウントストアで三足千円のダンロップの白靴下が現れるのかも知れない。そもそも、凱旋門の背景には団地ドリームハイツが聳えて、扇柄や唐草模様の蒲団があちこちに干されている。

それでも彼は、このドリームランドが好きだった。

その全てが愛おしかった。人間の血の通った、時に夕飯の匂いさえ漂ってくる、優しさと思いやりに溢れたこの遊園地が大好きだったのだ。

そのドリームランドも今日、終わる。

ようやく正門が開いた。今日は、いつもよりも従業員の数も多い。従業員総出で最後の日を迎えているのだろう。皆、笑顔で客たちを迎えているが、その表情の裏にある愁いを隠しきれていない。阿部の顔なじみの、大黒もいつも通り微動だにしない近衛兵を務めているが、表情もいつもより硬いように見える。ただ、今日だけは昔のように、彼と記念写真を撮るための行列が出来ている。

子ども達が、我先にと各々の目当ての遊具に駆けていった。それを追いかける親たち。親たちも、かつて自分がこのドリームランドで遊んだ世代だ。子ども達を静止するでもなく、親も追いかけているのか、かつての童心に還って一緒に走っているのか分からない。

大学生か高校生ぐらいのカップルも目立った。彼らもまた、幼少期にこのドリームランドで思い出を作ってきた世代だ。あるいは、白髪の老夫婦などもちらほら見かける。彼らは、戦後地方から出てきて、焼け野原から復興した高度経済成長期を迎えたこの国で「レジャー」を家族と「マイカー」で楽しんできた世代だろう。三種の神器や3Cを買い集めることで「幸せ」を実感できた世代だ。その「レジャー」の幸福の一つに、このドリームランドは組み込まれていたはずだった。それが、今日無くなるということは、ただの古臭い遊園地が潰れること以上の意味が彼らにはあるはずだった。

あるいは、ドリームランドが開業直後から、徐々に経営が厳しくなり、敷地を売却縮小するとともに出来た団地、ドリームハイツの住民たちも多くいるようだった。彼らも、一九七〇年代に遊園地のそばの夢のようなモダンで文化的な団地に住むことに夢を持っていた世代だった。誰一人ドリームランドに騒音の苦情なんて言う馬鹿はいなかった。ここは、街全体が商店街も含めて、ドリームランドの一部だったのだから。その中心の核となる遊園地が無くなってしまうことは、彼らにとっては街の中心、シンボルが無くなってしまうことだった。

それぞれに閉園を惜しまずに居られず、駆けつけた人々で、ドリームランドは埋め尽くされていた。

これほどの人々が、その閉園を惜しみ、駆けつけてくれ、これだけ愛された遊園地ならば、うまくすればまだまだやっていけるのではないかと誰もが思わずにはいられなかった。しかし、そうした哀愁を抱く大人たちの多くが一方で、この日本という国の中の「何か」がもう終わりかけていることを、本能的に感じ取っていた。終わりのない夢がないように、この国で夢を見ることが出来た時代も、同様に終わるべき時が来ているのだという諦めに似た感情が、そこには共有されていた。

しばらくの間、阿部は人々の様子を眺めていたが、園内の様子を噛みしめるようにしながらゆっくりと歩きだした。正面にはドリームランド全体のシンボルである観覧車「ワンダーホイール」が白い曇り空を背景にしてゆっくりと回転している。

阿部は、このカラフルな観覧車は青空を背景とするよりも、今日みたいな曇り空の白い空を背景にするほうが色が映えて美しいと感じていた。

そんな観覧車を脇目に阿部がまず向かったのは、このドリームランドにしかない乗り物だった。確かに、ドリームランドがなくなっても、観覧車やゴーカート、ジェットコースターならばどこの遊園地にもある。まして「大海賊」や「ジャングル探検船」などは本家アメリカの巨大資本遊園地のノウハウを学んで、ドリームランドの創業者がライセンス契約を無視して作った代物だ。要するに、偽物だ。無論、阿部はオリジナルよりこのドリームランドの、味わい深い手作り感ある方を好んでいたが。

しかし、阿部がまず向かっているのは、おそらく日本中、世界中を探してもどこにもないような変わった乗り物だった。それは「潜水艦」だった。

ただし「潜水艦」と言っても、本当に完全に水の中に沈むわけではない。最初から最後まで、潜水艦は半分身を水上に出したままだ。しかし、乗船すると船底に観覧席があり丸い窓から水中の様子を楽しむことが出来るという仕掛けだ。動力はスクリューでもなく、水中に設置されたレールの上を潜水艦が動いていくだけだ。池の途中から、洞窟の中に入っていき、乗船している乗客には関わりがないが、最後は滝の中から潜水艦が現れるという壮観な姿を、乗船を待っている客たちは眺めることが出来るのだ。わずか五分ほどの深海探検だが、こんなユニークな乗り物は他にはないだろう。水深二メートルの深海は、太陽の光も霞んで届かないような濁った海だ。全体的に藻やプランクトンで緑色に濁った水の向こうには、イルカやクラゲ、イカの群れやアンモナイトに最後はクロノサウルスまで出てくる。これら全ての生き物達の塗装は、水中ゆえに劣化が激しくその多くはペンキが剥げ、藻に覆われていた。逆に、ここに勝手に住んでいるゲンゴロウなどの水生昆虫や縁日で掬われてここに捨てられたのであろう金魚や小魚たちは、生き生きと泳いでいる。もちろん、定期的に水を入れ替えたり、循環装置などで常に水を綺麗に保てていれば、そのようなことは防げたはずである。しかし、逆に予算のなさから、暗い水の中から浮かんでくる遺跡のような苔むしたイルカの朧気な姿は、かえって不思議と見る者の心を掴んで離さないところがあった。

乗船した後は、何年前に吹き込まれたテープなのか分からないが、昔の教育番組の人形劇に出てきそうな声色の「キャプテンドリーム」なる船長が一人で何かが右舷に居るだとか、恐竜に襲われるだとか騒ぎ続けながら、海に眠る財宝を探すという内容のテープが流れてくる。実際には、乗船時と下船時にデッキに出てくる老人が一人いて、それが船長のはずだった。

彼もまた、ゲームコーナーのジョニーさんに匹敵するほどの高齢従業員だった。子ども達の間には、太平洋戦争で本当に潜水艦に乗っていたのだという噂があった。

阿部が潜水艦の池に辿り着いた時には、早くも子ども達と家族連れの行列ができていた。常連だった彼は、乗客たちを誘導している老人に向けて手を上げると、彼はニコリともせずに、ゆっくりと頷いた。


彼についての噂は、潜水艦でこそないものの、半分は本当だった。「キャプテンドリーム」ではなく潜水艦の真の船長、金城(きんじょう)(しょう)(きち)はドリームランド開業時の一九六四年から勤め続ける唯一の従業員だった。既に、八〇歳に近い年齢だったが、足腰もしっかりしていたし、何よりもその独特の彼の醸し出す雰囲気が、潜水艦に乗ることの緊張感を自然と高めていた。決して、愛想は良くない。むしろ悪い方だったし、彫深い眼と、白髪と顎鬚が繋がったヘミングウェイのような風貌に水兵帽と、まさに『老人と海』の老漁師サンチャゴのような年輪が刻まれた手は、このハリボテの潜水艦に有無を言わせない妙な説得力を与えていたのだった。

実は八〇を前にしてまだ現役で働いていたのも、彼なりの信念と彼の園内での立場によるものだった。彼は、今は亡きドリームランドの創業者と古い付き合いで、実態から言えば共同創業者と言っても良いような存在だった。主にこのドリームランドの用地買収や土建屋との交渉等の全てを彼がやってのけたのだった。しかし自分は現場で働きたいという彼の断固たる信念でこの仕事を続けさせてもらっていたのだった。そもそも、ドリームランドに潜水艦の乗り物を作るように提案したのも、彼自身だった。故に、定年退職後も創設に関わった重役でもある彼の希望を受けて働き続けてもらっていたのだった。要するに、園内でも「変わり者のお偉いさん」というような扱いだった。既に、孫も独立しているような歳で、隠居生活もせずになぜ遊園地の潜水艦に乗り続けるのか、家族もその理由こそ分からなかったが、普段から無口な老人に家に終日(ひねもす)居られるよりも、遊園地の濁った池の中をグルグル回っていてもらったほうが、当然彼の妻や同居する息子の家族達にも都合が良かったのだろう。


彼は一九二五年沖縄県の宜野湾村で生まれた。実家はタイモ畑の小作農で貧しく、弟と自分だけの兄弟で食べていくのが精一杯だったが、恵み豊かな海に囲まれた実り豊かな島での暮らしは、彼の家族を暖かく包んでいた。

しかし、日本は泥沼の戦争へ突き進んでいった。まさか、こんな国の一番外れの島のさらに辺鄙(へんぴ)な村にまで「戦争」がやってくるとは、かつて村の誰も考えもしなかった。

しかし、そんな楽園のような島には雨のように降り注ぐ機銃掃射と艦砲射撃と手榴弾と火炎放射器の洗礼が待っていたのである。

そうして沖縄が戦火に巻き込まれる以前、昌吉は中国での戦争が激しくなってきた頃、自ら鹿児島海軍航空隊の予科練に志願したのだった。貧しくとも村の中でも体力だけは人一倍自身のあった彼は難なく合格することが出来た。彼が志願した理由は、一つはやはり貧しさから白米が食べられるという海軍に行けば、何とか自分の腹も、あわよくば家族の腹も満たせるのではないかという考えからだった。彼の歳の離れた弟は特に兄を慕っていたので、何とか勲功を上げて家族に白米を腹一杯食わしてやりたかった。そして、入隊当時はまだアメリカと戦争をするなど、現実感のないことだったが、それは真珠湾攻撃によって実際に起こってしまったのだった。

えれぇことになった。

としか当時の彼は思わなかったが、あとは時代の流れに身を任せるしかなかった。「個人の考え」などというものはゴミ屑ほどの価値もない時代だったのだ。

彼の開戦後の着任先は九州の佐世保の海軍基地だった。この港から多くの未来ある若者たちや妻子ある男たちを満載して出港した軍艦はそのまま二度と戻ってこなかった。

彼は、学もなく沖縄人ということで本土九州の人間からそれとなく疎外されていた。少なくとも彼自身はそう感じていた。いつか何か勲功を上げてあいつら大和人(やまとんちゅ)を見返してやるという気持ちだけは人一倍持っていた。

そんな中で、日本の旗色が悪くなっていることぐらい、本当は軍内の誰しもが分かっていたことだったのだが、その頃には誰ももうこの戦争をやめられなくなっていた。

そして、一九四五年八月十三日、遂に金城昌吉曹長に、水上特攻による攻撃命令が下されたのだった。彼は航空機による特攻を望んでいた。しかし、それは既に夢のような話であった。彼の所属していた部隊には航空機はもちろん機関銃の弾にすら事欠いていたからであった。そもそも、彼自身訓練機の操縦桿一つ握らせてもらったことすらなかった。

彼の乗る爆弾を載せた棺桶は「震洋」と呼ばれる安づくりのベニヤ板で出来たモーターボートに過ぎなかった。彼の所属する震洋特攻部隊の出撃は三日後と決まった。

彼は自分が死ぬことで、自分の家族や国、特に沖縄の人々が少しでも救われるのであれば本望であったし、悔いはなかった。その時は、本当に心からそう思っていたのである。そういう時代だったし、そういう空気が流れていたし、所詮人間などというものは「自分の考え」などというものがあるように幻想しているだけで、その時の時代の空気や場の空気で、いくらでも考えなど変えられるような存在だったのだと、後に振り返って金城は思うのだった。

唯一の気がかりは、沖縄に残してきた肉親達の事だった。入ってくる僅かな情報でも沖縄が凄惨な事になっていることだけは間違いなさそうな中、老いた両親と、幼い弟が果たして、無事でいるのか、手紙も届かない状況で掴みようもなかった。本土から来た陸軍の将校は「生きて虜囚の辱めを受けるべからず」いざという時は躊躇せず死を選べと、事あるごとに村人達にご訓示を垂れていたことがよぎる。彼が書いた遺書も、宛先だけは書いて預けたものの、おそらく沖縄の家族の元には届かないだろうと諦めていた。

本当ならば震洋に乗って特攻などせず、そのままそのべニヤのボートで沖縄まで駆けつけたいぐらいの気持ちだった。しかし、志願して海軍に入り、曲がりなりにも叩き上げで曹長にまでなっていた彼がここで逃げ出すわけにはいかなかった。

遂に、出撃が翌日に迫り、兵舎の食堂で簡単な別れの宴が催された。と言っても、いつもよりも少し多い白米と、(はなむけ)の日本酒が僅かに振る舞われるばかりだった。しかし、何もかもに疲れ切っていた彼らに、もはや愁いの表情はなかった。ようやく、終われるという安堵感すらそこにはあった。

しかし、短い宴を終えた後、彼は一人寝舎に戻らず、特攻基地のシートが被された震洋の中に密かに入り込んだのだった。自らシートを覆い、自分が死ぬことになるその闇を体いっぱいに染み込ませた。自分の手足も何もかも暗闇の中では見ることが出来ない。自分自身と闇の境目も見えない。自分の存在が見えない。自分がここに本当に生きているのかどうかも定かではない。こうして、海の藻屑となって、魚のえさにでもなるのだろうと、想像した。その想像は、あながち悪くないような気がした。自分が育った沖縄の海と繋がっているのならば、自分が魚のえさでも海の一部になれるのならば、それでいいように思った。ただ、弟と両親には最後に一目だけでも会いたかった。

九州に行く時、なけなしの金を持たせて、那覇港まで見送りに来てくれた家族の姿を思い出し、覚悟はしていたが本当にあれが今生の別れだったのかと思うと、胸が詰まった。あの時、弟の劉生(りゅうせい)の「にぃにぃー」と叫ぶ声が、随分沖に船が行った後でも木霊のように聞こえていた。

そう思っていると、今もどこかからあの時と同じような劉生の「にぃにぃ」と呼ぶ声が聞こえてくるようだった。いや、彼の耳にははっきりと聴こえていた。

「昌吉や」

と優しく呼びかけてくる、両親の声もどこからともなく聴こえてきた。

「母さん(アンマー)、父さん(スー)、劉生…」

彼はそうつぶやいた時、直感的に家族は皆もう死んだのだと悟った。

今、限りなく死に近づいて、死の闇の中にいて、死者と心が通じ合えるのだから、きっと家族もこの海の藻屑となっているのだと、確信したのだった。もう、彼にはこれ以上生き続ける理由はなかった。自分はもう死んだものと覚悟が固まった。


しかし、翌朝局地的にスコールのような激しい雨が降ったことで、部隊の出撃は見送られ命令は一時待機となった。そして、嘘のように晴れた正午過ぎ、ラジオから流れてきたのは、彼らが神として崇めていた人の肉声だった。何を言っているのかは殆ど理解できなかったが、少なくとも日本は戦争に負けたらしいことだけは周りの反応で分かった。

だが、金城の中にはもう何も湧いてくる感情はなかった。もう自分は死んでしまったのだと確信した人間には、戦争が続こうが終わろうが、もう何も関わりはなかったのだった。


戦後の混乱で、沖縄がアメリカの占領下におかれ、簡単には帰ることさえできなかった。ようやく、数年後にパスポートを使って帰った時には、彼の確信が正しかったことを確認するだけだった。彼の家族の亡骸すら見つけることは出来なかった。正式には行方不明になるわけだが、おそらく防空壕のガマの中で焼け死んだことは生き残った村の人から聞く証言で、間違いはなかった。


それからの彼の詳細を知る者は誰も居なかったが、横浜の伊勢佐木町界隈で命知らずの用心棒かやくざのような稼業をしていたのを、実業家で興行師であったドリームランドの創業者に気に入られ、彼の陰の右腕として雇われたのだった。だが、理由は誰も分からなかったが、横浜にドリームランドを作る中で金城は今の裏方のやくざな稼業からは足を洗って、ここで従業員として働きたいのだと自ら申し出たのだった。そして、自ら潜水艦の船長を買って出たのだった。創業者は、当初その奇妙な申し出に驚いたが、最後はそのアイデアを気に入り、それ以来、金城は四十年近くに渡ってこの潜水艦に乗船し続けてきたのだった。

彼は、あの日以来、ただ俯瞰で自分自身を眺めるように生きてきた。痛みも苦しみも、血を流しても他人事みたいに思えていた。人並みに見合い結婚もして子どもも出来たが、それもまた自分の事とは思えなかったのだった。

ただ唯一、彼が暗い水の底にいる時だけは、自分自身に戻ることの出来る時間だった。それは海ですらなかったが、それでも良かった。自分が本来居るべき場所はこの水の底であり、水の中にいれば、どこかであの時喪った家族と再会できるような気がしたのだった。また、同時にあの時、震洋の中に置いてきてしまった自分自身の魂も取り戻せるように思えたのだった。


 阿部が、潜水艦に乗船すると今日だけは、キャプテンドリームのお決まりのテープではなく金城船長自らの船内マイクが流れてきた。常連の阿部でさえも無口な金城の声をまともに聞くのは初めてだったかもしれない。

「皆さん、ご乗船、誠に、ありがとうございました。本日でドリームランドは夢から覚めます。私も、ここで四十年、ずっと、夢を見ながら宝物を探し続けてきました。今日、ようやくそれを見つけることが、出来たようです。どうもありがとう」

子ども達はもう水の中の何かを探すのに夢中でそれどころでなかった上に、しわがれていて、貧弱な艦内放送で耳を澄ませなければ聞き取れないような声だったが、阿部にははっきりと聞き取ることが出来た。

「…しょに、財宝を探そう!」そこから、突然ぶつ切れのキャプテンドリームのいつものテープが再開したのだった。

 金城は、普段は使わないマイクを今日だけは取ったのだった。自分はずっと何かを喪いながら、ずっと何かを探していたのだと分かったのだった。弟は戦争で死んだ。自分自身の魂も、海の中に置いてきてしまった。でも、自分は四十年間をかけて、この場所でそれをゆっくりと取り戻してきたのだと分かった。その時、潜水艦の艦内に木霊する子ども達の歓声の中から

「にぃにぃ。おかえり」

と幽かに呼びかけるような声が聞こえた気がした。

 阿部が潜水艦から降りると、金城が今まで一度も見せたことのなかった笑顔を見せて、デッキに誘導してくれた。

「ありがとう」

と言って金城が差し伸べたその硬い手を握った。


 阿部はその後「大海賊」や「ジャングル探検船」に乗船した。いずれも、ドリームランドの中でも人気の乗り物だったので、既にそこまで乗り終えた時点で日はかなり傾き始めていた。既に、閉園直前の冬の営業時間は十時から夕方十六時半という短い時間だったが、この最終日だけは特別に十八時までの営業となっていた。まだ肌寒い二月だったので、日が傾きだすのも早かった。この時点で、どの乗り物も長蛇の列が出来ていたので、阿部は全ての乗り物に乗ることは諦めて、特に思い入れのあるものや、交流のあった従業員のもとを訪れることにした。昼食をワゴンで販売しているホットドッグで簡単に済ませ、次に彼が向かった場所は、野外劇場だった。この日は、特にフィナーレショーが準備されていたが、まだその時間には早かったので、いつも通り戦隊もののヒーローショーが行われていた。ちょうどショーが佳境に入ったところだった。おそらく、阿部の知り合いの「トラさん」こと高杉寅之助は、赤いヒーローに飛び蹴りされている牛の頭をした怪人か、後ろで構えだけして何もしていない緑色のヒーローだろう。

 阿部は、ショー終了後に缶コーヒーの差し入れを持って、楽屋を訪れた。楽屋と言っても、ただのプレハブ倉庫にベンチを並べているだけで、そこに頭にタオルを巻いた中年男性たちが煙草を吸って、草臥(くたび)れているだけの場所である。

「トラさん、お疲れさん。かっこよかったっすよ」

と言って、阿部は温かい缶コーヒーを項垂れた彼の目の前に突き出した。

「おう、阿部ちゃん。ありがと」

と相変わらず渋い声で言って、煙草を右手にもったまま、受け取った。

 二人はゲームコーナーのジョニーさんを通じて知り合いになって、同世代だったこともあって、意気投合し、よく大船の飲み屋で一緒に飲む仲だった。

 ドリームランド専属のスーツアクター、と言えば聞こえが良いが要するに、着ぐるみ担当の高杉寅之助は、本当はこんなはずじゃないと常に思いながらも結局この遊園地の最後の日まで自分がそのままだったという現実からもう逃げられなかった。

彼は二十年以上前、俳優を目指して上京して来た。だからこそ、四十歳を越えても未だに、自分の素顔で勝負すら出来ないことに、不甲斐なさを感じていたのだった。

 彼は、宮城県気仙沼の牡蠣の養殖漁師の家に長男として生まれた。彼自身もまた物心ついてから、その仕事を継ぐものだと思っていたのだが、彼が高校生になったばかりの頃、たまたま見た一本のテレビドラマが彼の人生を狂わせてしまった。そのドラマの主人公の長身の探偵は、黒いスーツに赤いシャツ、ソフト帽とサングラスでベスパに乗って、観たことのない洗練された都会の風景の中を颯爽と走っていた。その姿は、彼にとっては別世界のヒーローとして映ったのだった。

そのテレビドラマにのめり込んで以来、彼の頭の中は四六時中その憧れの俳優、松田優作になりきっていて、普段の声色まで真似をしていた。親にねだって、仙台まで行ってバイク屋でベスパを取り寄せてもらい、地元の理髪店でパーマをかけてもらったら、パンチパーマになってしまいイメージと違ったものの、そのまま東北のリアス式海岸沿いの道路を買ったばかりのベスパで疾走する彼の脳内では、優作に完全になりきっていたのだった。

そして、松田優作主演の『野獣死すべし』という映画を観て殴られたような衝撃を受けた。映画が終わってからも、座席から立ち上がれず、そのままその日の最終上映の回まで繰り返し観続け、それでも掃除のおじさんに促されるまで立ち上がれないほどの衝撃だった。

以来、彼は「映画」と演技というものにのめり込んでいった。貪るように気仙沼で唯一の映画館で上映される映画を余さず全て観て、テレビで放映されるものも全て観尽くした。淀川長治の解説もノートに書き留めて、感想も書き込んだ。

彼の夢は、東京に出て俳優になることとなった。当然誰もが大反対した。演劇部もないような水産高校だったので、彼の演劇の才能の有無を確かめる方法もなかったし、何より長男として牡蠣漁師を継ぐのが筋だということで、両親からは俳優になるなら、勘当するとまで言われたのだった。

 しかし、一度決めたら後には引けなかった彼は、高校卒業後、新聞配達のアルバイトで貯めたお金と、ダッフルバッグ一つを持って両親にも妹にも黙って上野行きの夜行列車に乗り込んだのだった。きっと、上京しさえすればまるで映画のように全てうまくいくのだと信じて。しかし、現実は映画ではなかった。まず下北沢の四畳半一間に部屋を借りて、都内のいくつかの劇団を回り、オーディションを受けて回ったが、どの劇団でも彼の演技を見て、面接官達はいつも失笑したのだった。それが喜劇性のある芝居であればその方向での可能性もあったかも知れないが、その笑いは嘲笑でしかなかった。彼の芝居は、大袈裟でどれも彼の中では絶対的存在である、松田優作の粗悪な模倣にしか過ぎなかったのだった。だいたいの演出家や劇団員たちは「うちは、ものまね芸能事務所じゃないんだよ」と吐き捨てるように言った。ようやく、阿佐ヶ谷にある小さな劇団で小間使い兼俳優として雇われはしたものの、殆どが舞台や楽屋の掃除、大道具や小道具の裏方、そしてノルマが課されたチケット売りが仕事で、望んでいたものとは程遠い生活だった。そこでもらえる給金も、とても生活できるようなものであるどころか、チケットが売れ残ったら、自分で負担しなければならないので、むしろ働けば働くほど赤字になって貧しくなっていくという理不尽さだった。

 そんな劇団にはとても居られずに半年で去り、とにかく生活が出来ることを前提に辿り着いた劇団が、ドリームランド専属の劇団だった。確かに、舞台にこそ上がることはあっても、殆どの時間はパンダやウサギの着ぐるみを着て、パレードに付いて歩いたり、ドリームランドのイメージキャラクターである、近衛兵のドリちゃんか、鼓笛長のランちゃんの着ぐるみを着て園内を歩き、子ども達に風船を売って回ったりする仕事が主だった。

 それでも彼は、今はまだ俳優として成功する前の序章に過ぎないのだと言い聞かせてきた。自分が苦労して下積みを続けて、そしてようやく成功したのだという物語を「徹子の部屋」で話すイメージトレーニングまで脳内で完璧に出来上がっていた。しかし、一向にそのサクセスストーリーの予兆すらないまま、着ぐるみの小さい視界から見える世界は撮影所でもなく、満場の観客でもなくガラガラの観客シートで、たまに見えるのはアイスクリームを食べながら見ている少年や、持参した弁当を食べている老夫婦や、野良猫だけだった。

 彼は、このドリームランドの閉園とともに失業するのだが、それから先自分がどうするべきか決めかねていた。気仙沼の両親の元には二十年以上戻っていない。実家に住む妹とは連絡を取っていたから、未だに牡蠣の養殖を続けて何とか健在だという事は分かっていたが、今更どの面下げて帰ることが出来るのだろうか。故郷に錦を飾るまでは、俳優として成功するまでは帰ることなどできない。


「阿部ちゃん、俺もうこの仕事から足洗うわ」

首から下が、緑色のヒーロータイツのまま、煙草の煙を燻らせながらそう言った。

 しかし、阿部もまた高杉にかける言葉がすぐに見つからず、ようやく絞り出すように出した言葉は

「いや、トラさん、まだまだこれからですよ」

という阿部自身も白々しく感じてしまうようなせりふだった。

 しかし、高杉は鼻から煙を出して

「ふん、もういいって阿部ちゃん、俺自分で分かってんだよ。俳優なんて柄じゃなくてさ、かと言って着ぐるみだってまともに着れてたわけじゃない。ドリームランドと一緒に俺ももうこんな稼業やめて、しばらくぶりに実家帰るわ」

と吐き捨てるようにそう言った。

 阿部も、自暴自棄になっている高杉にそれ以上、かける言葉が見つからず、

「また、落ち着いたら飲みに行きましょうや」

と言って、そっと楽屋を去ったのだった。


 高杉は、もう誰も居なくなった楽屋で、一人緑色のタイツに包まれた太ももに涙の染みを落としていた。自分自身の不甲斐なさに、情けなさに。ただただ惨めな涙を流していた。

 倉庫の明かり取りの窓からはもう橙色に染まった夕日が差し込んでいた。

 ふと気が付くと、高杉の座っているベンチにいつの間にか少年が足をぶらぶらさせながら座っていた。

「僕、勝手に入ってきちゃだめだよ。ほら、このガオガオグリーンもこんなおじさんじゃがっかりだろう」

「ううん、そんなことないよ。マスクしてるときよりかっこいい。僕いつもおじさん見てたよ」

という少年は、どこかで見たことのある少年だった。くるくるした髪の毛で、黄色い潜水艦が描かれた白地のトレーナーにショートパンツ、随分昔の戦隊もののプリントがされた靴を履いていた。

「そうだ、君、いつもヒーローステージの左端で、アイスクリーム食べてる子だね」

「うん、そうだよ。僕の家、すぐそばだから、いつも見に来てたんだ。僕、ヒーローショーが大好き。僕はね、ビッグワンが一番好きなんだ」

「そうか、どうもありがとうな。でも、もうドリームランドも今日で終わりだし、おじさんももう、ヒーローやめるんだ」

と、彼は正面の夕日を見上げて、また煙草の煙を吐き出した。

「おじさん、ありがとう。とっても楽しかった。僕、とってもいい夢を見れたよ」

と、子どもにしては妙な事を言うなと、再び振り向いた時に、そこにはもう誰も居なかった。しかし、彼は不思議とも思わなかった。ドリームランドにはこういうことがしょっちゅうあったからだ。

「そうか、俺にも、一人ファンがいてくれたんか。ありがとよ」

と言って、高杉はゆっくりと立ち上がり、窓から差し込む夕日を全身に浴びた。


 阿部が、高杉のいた楽屋を出たとき、最後の近衛兵たちの鼓笛隊パレードが目の前を通り過ぎていった。中には、阿部と飲み仲間の大黒和良の姿もあった。彼らの表情は熊皮坊に隠れて見えなかったが、溢れ出る悲壮感は隠せなかった。ブラスバンドとドラムの音が響く。その響きは、まるで守るべきものもない荒野のノモンハンに虚しく響く進軍ラッパのような悲しさを含んでいた。

歓声の拍手ではなく、労いと賞賛の拍手に包まれてやがて、鼓笛隊のマーチも遠くなって聞こえなくなった。しかし、遠くなって消えた後にも、聞いた人々の心の中に何かを残して、いつまでも余韻を残し続けるような響きでもあった。

閉園時間まであと僅かな中、次に阿部が向かった先はヘイヘイおじさん、榎本さんのミュージックエキスプレスだった。乗り物自体は地味でありながら、ドリームランドの味わいを象徴するようなミュージックエキスプレスは、最後に榎本さんの声が聞きたくて詰めかけた人々で溢れていた。

榎本さんもまた、高齢従業員の一人で、一度定年退職した後に、客たちの切なる要望で戻ってきた名物従業員だった。彼のニックネームのヘイヘイおじさんという呼び名は、その名の通り、フィンガー5の「学園天国」の掛け声を、幾ばくかスローにした調子で、場内マイクで歌いながら、お客さんたちを盛り上げていく天才だったから付いた名前だ。

その姿も一度見たら忘れられないユニークなもので、全身演歌歌手か漫才師のようなラメ入りの黄金のスーツに同色のハット。蝶ネクタイの方は赤いスパンコールで決めているおじさんは、一方で真面目そうないかにも昭和風といったサーモントフレームの眼鏡をかけている。

そして、いつも笑顔だった。

阿部が来たときは、既に夕日に照らされて、ミュージックエキスプレスの照明も全灯していた。ただ、限られた時間の中で子ども達を自然と優先させて、大人達の多くは周囲を取り囲んで見守っていた。

おじさんは、子ども達に囲まれて幸せそうだった。一瞬、阿部に気付いたおじさんは、ウインクをした。おじさんは、最終日だというのに全く悲壮感を感じさせずに、いつもより余計に長く回して喜んでいるようにすら見えた。ヘイヘイの大合唱も、子ども達だけでなく、回りを取り囲んだかつての子ども達である大人たちも一緒になっていた。その声には、哀しみも寂しさも喜びも感謝も入り交じった複雑な大合唱だった。

「ヘーイヘイヘイヘーイヘーイ!」

とおじさんが煽ると、子ども達は一斉に甲高い声でのように

「ヘーイヘイヘイヘーイヘーイ!」

と叫ぶ。その後おじさんと子どもたちの「ヘイ!」と「ヘイ!」の応酬が繰り返し続く。ゆえに「学園天国」の掛け合いの部分だけで歌詞などはないのだ。このやり取りは、バブルの頃にトレンディドラマに出演していたアイドルがカバーをして再び認知されるようになったが、おじさんは原曲のフィンガー5の頃からずっと続けていたのだった。

 その後は、だいたい前向きに回転させていたのをゆっくりにして

「怖かっただろーう」と言えば、もっと回して欲しい子ども達が「怖くなーい」と嬉しそうに叫ぶのだった。「よーし、じゃあもっと怖がらせてやるぞー」とおじさんはレバーを逆に入れて、後ろ向きに回転させるのだった。つまり、お客さんとおじさんとのコミュニケーションで、成り立っている遊具なのだった。その現場性が子ども達には唯一無二の体験を与え、それが子ども達には何よりも楽しくて仕方がない所以なのだった。


 榎本さんは、そんな人気者であったが、普段の私生活はあまり知られていなかった。阿部は一度、高杉と榎本さんと一緒に、大船駅前の赤提灯で飲んだ時に、初めて榎本さんの素性を知ったのだった。

榎本さんは、ドリームランドのすぐ裏手の団地、ドリームハイツの星型団地棟の最上階に今も一人で住んでいるという。ドリームランドが徐々に狭くなって公団に土地を売却していった時に、従業員には優先的に入居できる権利が与えられて、それを利用したという。その真新しい団地に移り住んだ時は、榎本さんには奥さんと美代子という名の娘さんがいたという。奥さんも、ドリームランドの従業員で元プロボウラーだった。結婚した時には、ドリームランドに併設されたドリームボウルというボウリング場で、従業員兼コーチとして働いていた。

ほどなくして、娘が一人生まれた。榎本さんは結婚も遅かったので余計に、目に入れても痛くないほどに可愛がっていた。特に、赤ん坊をあやすことが得意だった榎本さんは、娘さんがベビーベッドで泣きやまないとき、抱きかかえたり、ベッドメリーを回したりしながら、歌ったのが子守唄ではなく、当時大流行していたフィンガー5の学園天国の「ヘーイヘイヘイ」の節だった。榎本さんが、その歌を歌うと、どんな時でも魔法のように、泣いていた娘さんが泣き止んで笑いだしたという。

 しかしある日、娘さんが二歳になったばかりの頃、たまたま奥さんが知り合いの葬儀に埼玉まで出ている間、榎本さんが一人で子守りをしていたのだが、その日に限ってどうしても泣きやまなかったという。いつもならば「ヘーイヘイ」で泣き止むのに、いくら歌を歌っても泣きやまなかった。必死で泣き止ませようと、繰り返し繰り返し歌い続けた。榎本さんはあやすのだけは天才的に上手かったのだが、子育ての実務的なことには疎くて、育児書の類を開いたこともなく、基本的に妻に任せっきりだったのだ。だから、ただ歌い続けるしか術がなかった。

やがて、娘が泣き疲れて眠ったころ、あやすのに疲れ果てた榎本さんも一緒に眠り込んでしまったという。夕方、ようやく妻が帰ってきて、娘の様子を見たところ、ひどく発熱していて、急いで大船の総合病院に駆けつけたのだった。娘は麻疹(はしか)をこじらせていた。まだ、麻疹の予防接種のない時代だった。すぐに応急処置をされたものの、元々虚弱体質だった娘は、意識を回復しないまま、どんどん衰え、最後は脳炎を併発してしまい、そのまま死んでしまったのだった。

 妻は、症状に気づくのが遅かった榎本さんのせいだと、責めたてた。すぐに病院に連れていけば良かったのに、「ヘイヘイ」歌っていただけだったことを、口ひどく罵った。

 そして、妻は夫に失望し、榎本さんとは離婚し、郷里の上州草津に帰っていったという。その後、離婚して十年ほど経った頃、一度だけ彼女から何も手書きの言葉はなかったが、再婚したのか、知らない男と赤ん坊を抱き抱えた写真が刷られた年賀状が届いた。

榎本さんは以来独身のまま、その時家族と住んでいたその部屋に一人で住み続けていたのだった。聞くところによると、そんなことがあってからだという。ただ黙って遊具を回転させるのではなく、娘がいつも笑ってくれた「学園天国」を場内マイクで歌うようになったのは。


既に、辺りは暗くなって、閉園時間もあと僅かとなってきた。野外劇場の方向からは、賑やかなフィナーレのショーの音と、一輪の大玉の花火が上がった。

いよいよ、園内に閉園時間を知らせる「蛍の光」が貧弱なスピーカーから不安定な音程で園中に流され始めた。

「いよいよ、最後だぁ」

おじさんの声も少し涙声になっている。

「最後も盛り上がっていこうぜー」

と精一杯声を振り絞って、マイクで叫んだ。

「イエーイ!」

子どもも大人も、一つになった。

おじさんも感無量だった。そして、我慢していた涙が目に溢れてきた。それをごまかすために精一杯の掛け声で「ヘーイヘイヘイヘーイヘーイ!」と叫んだ。子どもも大人も、回りで取り囲んでいる全員が答えてくれる。

その時、榎本さんの目には、高速回転するコースターの一つに見覚えのある顔の女の子と縮れ毛の少年が乗っているのが見えた。その女の子はどこかで見た覚えがある。

その天使のような満面の笑みは榎本さんにとって忘れるわけがないものだった。

美代子? まさか。いや、そうだ。ずっとそこにいてくれてたんだね。

美代子。ごめんよ。

おじさんの視界はもう涙で何も見えなくなっていた。そして、コースターを止めたあと、満場の大拍手に迎えられたが、既に、どのコースターにもさっき一瞬見えた娘の姿と縮れ毛の少年の姿はなかった。

ありがとう。


もう、閉園時間も過ぎているがまだ名残惜しむ人達が粘って、記念写真や従業員と握手しつつ何人か残っていた。園内の照明ももう落とされている。

阿部は、もう時間が残されていなかったが最後にゲームコーナーのジョニーさんに挨拶に行こうとした。

しかし、既にゲームコーナーの建物は灯りを落とし、入り口のドアも鍵がかけられていた。

遅すぎたか、と阿部は悔やんだ。

阿部は、両手を顔の両側にたてて暗くなったガラス戸の中の様子を垣間見たが、もう誰もいなかった。そして、阿部の目当てのクリスティーンも、そこだけがすっぽり抜けるように無くなっていたのだった。

しかし、足元に何かの気配を感じて見ると、いつもこのゲームコーナーに入り浸って、ジョニーさんに懐いていた片目の潰れた黒猫が座って、残った片目を細めて阿部の顔を見上げて、短く鳴いた。

「おお、お前も取り残されたのか」

と、言って彼はその黒猫を抱きかかえた。なぜか、いつもジョニーさんだけにしか懐かず、阿部には触れさせてもくれなかったその黒猫は、この時は全く抵抗する様子もなく、すんなり阿部の胸に抱かれたのだった。

「一緒に行くか? クロ」

阿部は、黒猫を抱いたまま、暗くなった凱旋門を抜けた。そこにはまだ名残惜しむお客さんたちや従業員らが残っていた。

阿部は、また今朝と同じように聳えるホテルエンパイアを見上げた。シルエットだけになったそのホテルの屋上の四隅に蛍のように航空障害灯だけが赤く点滅しているだけだった。

阿部は、目を瞑って阿部の胸の中ですやすやと眠る黒猫の頭を撫でながら、自分の生き方を考えていた。

自分も夢から醒めなければならない。




あれから、十二年が経った。ドリームランドが閉園してすぐ、阿部は、突然今までため込んでいた自宅にあったコレクションを全て売り始めた。そして、その資金とマニア同士のネットワークを元手に、アンティーク家具とりわけ昭和レトロ家具や玩具・小道具等を扱う会社を個人で立ち上げていた。評判は口コミで広がり、また世間のレトロブームに乗って今では、仕入れや販売のために日本中ばかりか、世界中を駆け回るのに忙しかった。

そんな、阿部がたった今、降り立ったのはホノルル国際空港だった。そして、タクシーに乗り込むとダイアモンドヘッドの先にある一件の店の名を伝えた。

タクシーがようやく、海沿いの店の前に到着する頃には、太陽が海に沈もうとしているところだった。その店はポリネシア風の素朴な椰子葺きの一軒のバーだった。

入口に入ると、強い西日が大きく開いた窓から店内に差し込んで、(あか)く染めていた。ポリネシア人の大柄なマスターに手を挙げて挨拶し、阿部は店内を見渡し、目的のものを見つけた。

クリスティーン。

あの時、忽然とこの台と一緒に消えてしまった幻の台とようやく再会した。間違いない。細かな傷のあとも含めて、ドリームランドにあった台に間違いない。

十二年前の閉園の翌日、関係業者とマニア向けのレトロマシンのオークションにも出品されていなかったし、そもそもジョニーさんがあの時以来、忽然と姿を消してしまったのだった。結局、誰一人としてジョニーさんがどこにいったのか知る者は居なかった。

阿部は、クリスティーンに二十五セント硬貨を投入すると、プレイを始めた。

プランジャーのバネの引き具合、フリッパーの反応、バンパーの弾き具合、何もかもがあの時と変わっていなかった。

スコアが、どんどん積み重なっていく。

そして、隣にはいつか幻として見た若い姿のままのアロハシャツのジョニーさんが立っていたのだった。

「やぁ、ジョニーさん、元気そうでなによりだよ」

阿部は、そちらを振り向かず、ピンボールに興じながら言った。

ジョニーさんの姿は、店に差し込む夕日の光の中に立って、輪郭も表情もぼやけていたが、あの時の笑顔がそこにあることは間違いなかった。そして、やはりジョニーさんの背後に隠れるようにしている、あの時、ドリームランドにいた縮れ毛で、イエローサブマリンのトレーナーを着た少年も、阿部の顔を見上げて、微笑んでいた。

 阿部は呟いた。

「ジョニーさん、お幸せに」


やがて夕日が沈み、闇が広がっていくのに従って彼らの姿も消えていった。


終章


月は隠れ、明かり一つない。閉園後の誰も居ない、真夜中のドリームランドの白いベンチの上で、深い眠りについていた少年がゆっくりとその身を起こして、目を覚ました。

少年は目をしばたかせて、辺りを見回している。


やがて、漆黒の闇の中から一人の老人が、姿を現した。

その老人は少年にゆっくり近づいて言った。

「よしお君、こんなところにいたんだね。おじいちゃん、ずいぶん探したんだよ」

「ごめんね、おじいちゃん。僕すごく眠くなっちゃって、ここで眠っちゃったんだ」

 目をこすりながら少年は言う。

「でもね、すごく楽しい夢を見てたんだよ」

「そうかぁ。よかったねぇ」

「うん」

嬉しそうに頷く少年の顔を見て、老人も微笑んで頷き、その頭を優しく撫でた。

「じゃあ、そろそろ行こうかね」

 二人は、手を繋いでゆっくりと歩き始めた。

「うん。あ、でもちょっと待って」

と言って、少年は凱旋門の前まで駆けていき、そこに置かれていた猿の人形を拾って、埃を払って、それを大事そうに胸に抱えて、老人のもとに再び戻ってきた。

老人はいとおしそうにその様子を見守って、戻ってきた少年の頭を再び撫でて、二人は手を繋ぎ、闇の中に消えていった。

(了)


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