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ドリーム・ランド  作者: 櫻山 亜紀
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第三話 「幽霊屋敷」

第三話 「幽霊屋敷」


 ドリームランドのお化け屋敷には、本物の幽霊が出るという噂があった。

その噂の幽霊には、二種類あった。小学校低学年ぐらいの男の子の幽霊と、髪の長い大人の女性の幽霊だった。


 貴輝は、夢を見ていた。

切なくて胸が締め付けられるような夢だったのだが、目を覚ました瞬間にどんな夢だったのかは思いだせなくなる。こういう事が、度々あった。

 そして、今夜もそうだった。

 

アパートの扉が、バタンと閉まる音で貴輝は目を覚ました。この時も、目を覚ました瞬間に今まで見ていた夢を思いだせなくなった。いつもと同じように、何か胸が締め付けられた後のような余韻を感じるとともに、夢の中でとても大事な事を伝えられたような感覚が残っているのだが、どうしても思いだせない。

咄嗟に時計を見た。ちょうど午前二時。

まただ。今夜こそは止めねばならない。

貴輝は、隣の布団の掛布団がめくれ上がって、妻が居なくなっていることを確認すると、寝間着のまま取り敢えず目に入った新聞屋に貰ったベンチコートを羽織って、外に出た。

 外は、見事な満月だった。そして、異様に巨大に見えた。街灯の灯りがなくとも、月の明かりに照らされて、木々や家々の輪郭がはっきりと浮かんでいた。

 すぐにアパートの廊下から、身を乗り出して、目の前にある道路の左右を見渡したが、既に姿を確認することは出来なかった。

「しまった。遅かったか」

貴輝はつぶやくと、アパートの二階から鉄階段を駆け降り、三ブロック離れたところにある駐車場に小走りに行ったが、そこには彼の家の車である赤のシビックはそのまま、月あかりを反射して停められたままだった。

 今夜は、遠くには行っていないはずだ。彼は、彼女を探し出すことにした。

 車に乗って出ていないとすれば、歩いて行ける範囲のはずだ。ならば、いくらか思い当るところを探していくしかないだろう。

 彼は、月明かりの照らす道を小走りに駆けだした。


 彼は、彼女の姿を月明かりの下で探しながら、彼女とのこれまでのことを、改めて思い返していた。自分が、自分たちが、歩んできたこれまでを。

果たして自分は本当に正しい道を歩んできたのだろうか。


 貴輝が、紀子と出会ったのは、一九七四年、今から二十五年ほど前だった。ただし、出会ったといっても、それは教室の中の四十人の中の一人としてであって、大人しくて地味だった鯖江紀子の名前は、当初貴輝の脳裏にも殆ど残っていなかった。

 鎌倉市の北部にある女子大学の付属中高に勤める貴輝は、その頃はまだ二十代半ばで、容姿は端正というよりもどちらかと言えば愛嬌のある顔だったが、女子校に勤めていれば、それでも、自然と一定の人気が得られたのだった。むしろ容姿よりも、彼の国語の授業が非常に分かりやすくて評判が良かったこと、担任としても押し付けがましくなく、とことんまで生徒の話を真摯に聞いてくれることなどが、女子生徒たちから支持されている理由だった。その頃には、バレンタインデーなるものは、まだ広く世間に認知されていない頃だったが、女子校だったこともあり、主に所謂「ませた子」たちから、義理ではあっても毎年二、三個のチョコレートを貰えるほどには貴輝は人気があった。

 大半の生徒が市販のチョコレートだった中で、紀子のチョコはかなり手の込んだチョコレートだった。ハート形のチョコレートに小さなトッピングシュガーを「新海先生へ」と、漢字で並べ、専用の箱に入れていた。その時は、少し貴輝もやや手の込み過ぎたチョコレートをどうしたものか戸惑ったものだった。

 彼女が高校一年生の時に、貴輝が担任を持ち、それ以外は、学年も教科も担当になることはなかったのだが、そのチョコレートは彼女が高校二年の時にくれたので、妙に違和感が残った。元担任としても、彼女と交わした会話は事務的なことや、面談での最低限のことぐらいで、特段、それ程の交流もなかったはずだったのに、と。また、彼は、バドミントン部の顧問をしていたが、彼女は文芸部員だったので、部活動上の関わりもなかったし、地味な文芸部の中でも更に地味で目立たなかった。

そんなことから、彼女の方が変にのめり込み過ぎないように、彼女とは一定の距離を保たねばならないと、女子校に勤める教師としての職業的な倫理観から考えていた。しかし一方で、彼の数年の女子校勤務経験で、女の子というものが突如、変貌することがあるということは、実感として分かっていたつもりだったが、彼女の急速な変貌ぶりには目を見張るものがあったのは確かだった。高校一年の時には、髪の毛も前髪を下げて表情も良く見えなかったし、体型もまだまだ中学生のような幼い印象だったのだが、久しぶりに高校二年生の二月にチョコレートを持ってきた彼女の姿は「鯖江紀子です」と氏名を言われなければ、貴輝には誰だか分からないほどだった。まず、背が高くなって、大人の女性の体型になっていたし、何よりヘアピンで留められた彼女の、まるで月光に照らされた絹のような額の美しさに貴輝は、職業的倫理も瞬時忘れて見惚れてしまったのだった。なぜ、これほどまでに美しい額を、かつては前髪で隠していたのだろうかと思った。

「ああ、鯖江さんか、背が伸びて髪型も変わったから分からなかったよ」

と貴輝が言うと、頬を真っ赤にして嬉しそうな顔をしていた。

 その頃には、バレンタインデー自体も珍しく、ましてホワイトデーなるものも同様に広くは認知されていなかったので貴輝も特段お返しをするでもなく、それからしばらくは、彼女との関係特段何もないままだった。何より彼の職業的倫理観から校内で見かけても、会釈する程度で敢えて関わらないように努めていた。

しかし、彼女が高校三年の夏休みのある日、突然彼のアパートにやってきたのだった。

 彼が、夏休みの部活指導から昼過ぎに帰宅すると、アパートの部屋の前に夏服の彼女が立っていた。

「鯖江さん、どうしたの。こんな所に」

「あの、突然ご自宅まで来てしまってすみません。実は、先生に相談したいことがありまして」

 さすがに、元担任とは言え、学校での相談ならまだしも、自宅まで来られると、彼も戸惑わずにはいられなかった。しかし、酷暑の中長時間待っていたためか、汗だくになって真っ赤な顔をした彼女をそのままにしておくことも躊躇われたので、ひとまず彼のアパートの部屋に上げたのだった。雑然とした部屋を片付けながら彼女を卓袱台の前に座らせて、取り敢えず麦茶を出した。麦茶を一気に飲む汗ばんだ彼女の喉の上下の動きに思わず見入ってしまった彼は、ほっと一息つく、彼女の美貌に既に魅入られていた。彼女がチョコレートを持ってきて以来、多少意識はしていたが、二年間でこれほどまでに女性というものは美しく変貌するのかと感動すら覚えてしまった。すぐに、窓を開けて、扇風機を回したが、汗がお互いにとまらなかった。

「さて、どうして、学校じゃなくて、家まで来たんだい」

「ごめんなさい。本当は、学校で相談すべきだったんですが。実は、今進路の事ですごく悩んでいて、是非先生に相談に乗ってもらいたかったんです」

と、彼女は熟れた桃のように頬を紅潮させながら言った。

 どうやら、話を聞くと今担任をしている女性教諭とあまり関係が良くないらしく、一年の時の信頼できる担任だった貴輝に相談したくて来たのだという。確かに、担任の時に名簿で住所は公表していたし、彼女の家が近いこともあったが、だからと言って家まで押しかけてくるほどのことでもないように思えたので、彼女が自分に好意を持っていることは明らかだった。

 その頃から既に、紀子は衝動的に行動しやすかったのだと、今になって思い当るのだった。

 また彼自身、この仕事に就いて以来、がむしゃらにただ真面目に働いていたので、大学時代に付き合っていた女性は、仕事ばかり優先させる彼に愛想を尽かして、結局別の男と結婚してしまっていた。それ以来これといった縁がなかったこともあって、美しく成長した、見た目は立派な女性である教え子が押しかけてきてくれたことを男としても教員としての矜持としても、内心悪く思いようはなかった。

 その時の相談の内容とて、さして深刻でもなかった。彼女は児童文学が大好きで、将来絵本作家になりたいという夢があるのだが、今の担任はそんな夢物語のようなことを言っていないで、もっとちゃんと就職のことや偏差値に基づいた進路を考えろと叱られた、という事だった。彼は、どの生徒にもそうするように、しっかりその相談を聞いてやり「とても素敵な夢だと思う」と言い、それならば、自分の知っている児童文学の専門の教授がいる早稲田の文学部を薦めたのだった。

彼女は「やっぱり、新海先生に相談に乗って頂いて本当に良かったです」と嬉しそうに目を細めていて、その進路に向けて頑張るので、また勉強を教えてくださいと言って、その日は帰っていった。

 ただし、女子生徒と個人的な関係を持っていることが、学校に露見すれば、自分の立場が危うくなるどころか失いかねないことは分かっていたので、今後は学校内で相談に来るようにも言ったのだった。

 しかし、彼女はその言いつけを守らなかった。彼女の家と、彼のアパートが歩いて行ける距離で、学校からは近くはなかったものの、いつ誰かに見つからないか、冷や冷やしていた。そんな心配を尻目に夏休みの間中、彼女は私服ではあったが、彼の家に押しかけて「勉強教えてください」と無邪気に照れ笑いをしながらやって来たのだった。それは徐々に彼に、美しい妖刀に見惚れてしまうような危うさと、妖艶さを兼ね備えた昂ぶりを呼び覚ましていった。

 そして、ついに彼はその妖艶な鋭い刀で絶命してしまった。四回目に、彼女が彼のアパートに来た時、ちょうど突然の夕立に振られてびしょ濡れでやってきた彼女にシャワーを浴びさせた後、物怖じもせずに裸のまま彼女は貴輝の前に現れた。彼女は貴輝の目だけをじっと見つめていた。彼女の、透き通った肌と、水を弾きながらもしっとりと濡れた大人として成熟しきった体を目にした貴輝にはもう衝動を抑えることは出来なかった。

彼女は初めてだったようだったし、彼も責任を感じて、彼女が大学生になったら、正式に交際する事をその時にベッドの中で約束したのだった。彼自身も、既に彼女の美しさに魅入られていたし、お互いに好意を持つまでに至っていたので、ごく自然な流れだった。あるいは、禁忌を犯していることが、さらにこの恋愛をより熱くたぎらせてしまったということもあっただろう。

 そして、生真面目な貴輝は約束を守り、彼女も努力して志望の大学に進学し、大学生になってからようやく、公然と男女の関係となって交際するようになったのだった。

 その頃、頻繁にデートで行ったのが、近所にあったドリームランドだった。特に、その頃珍しかったのが、夜間ドリームランドの駐車場でやっていたドライブ・イン・シアターで、買ったばかりの彼のホンダ・シビックで映画を観に行ったものだった。そこでスコセッシの『タクシー・ドライバー』を観たときは、貴輝だけが大傑作だと興奮し、デートムービーを期待していた紀子がラストシーンを待たずに一人車から降りて帰ってしまったことも後に思い出の一つになった。子どもに夢を与える絵本作家を目指す彼女の世界観には、スコセッシの狂気と暴力の世界は、どうやらそぐわなかったらしい。

 彼女は、大学では鈴木三重吉を主に研究するゼミに所属して、自分の夢の実現に向かって充実した生活を送っているようだった。何度か、彼女が描いた童話の原稿を読ませて貰ったり、挿絵を見せてもらったりしたこともあった。しかし紀子には確かに技量はあるのだが、絵本として、いや物語としての必要な何かが奥深いところで、欠けているのではないかという印象が拭えなかった。絵本とは言え、ただただ教育的で道徳的な物語であれば良い訳ではなく、時に非道徳的であったり、非合理であったり残酷であることが、物語に力を与えることがあると彼は思っていて、そうしたものが彼女の作品には欠けていたように内心思っていた。しかし、それを敢えて指摘することは彼女のやる気や希望を削いでしまうようで憚られたし、もとより学生時代は上田秋成に心酔し『雨月物語』や『春雨物語』といった近世の怪異小説を研究してきた彼に、児童文学は専門外だったので、敢えて指摘はしないでいた。

 何度か、在学中も投稿をしたり、出版社に持ち込んだり、仲間と同人誌を発行したりしていたが、せいぜい絵本の懸賞でも佳作止まりで、正式な出版には至ることはなかった。

 大学卒業後は、横浜の伊勢佐木町の隣町、日ノ出町にある中央図書館で司書として働いていた。彼女の好きな本を扱う仕事で、楽しそうではあったが、想像以上に過酷な労働で、手当のない残業も多かった。図書館とは言え、本を扱うのは想像以上の肉体労働であるばかりか、特に中央図書館は所謂「ドヤ街」と呼ばれる木賃宿街の寿町も近く、まして場外馬券売り場の目の前にあったため、そこから流れてくるマナーの悪い客への対応やトラブルが絶えないらしかった。そもそも、公共の図書館という場は静かに本を読みたい人達が集まるばかりでなく、暇を持て余した老人、職を失った元サラリーマンや、職にあぶれた日雇い労働者、孤独な浪人生、居場所や家を失った人たちが流れてついてくる場所でもあった。

紀子は日に日に痩せていった。

貴輝と会える時間も減って、たまに休日が重なった時も、その度にいつも彼女はなぜか「ドリームランドに行きたい」と言うのだった。貴輝は、たまには別のテーマパークや、高級レストランにでも行こうと誘っても、紀子は頑なにドリームランドにこだわったのだった。なぜそこまで、あんな地味な遊園地に紀子がこだわるのかは、貴輝にはよく分からなかった。

そんな日々の中で紀子はいつしか絵本作家としての夢を追うことを、仕事の忙しさの中で少しずつ忘れて行ったようだった。

 そんな月日が、二年ほど経った時、遂に彼女は体と心の調子を崩し、仕事を休みがちになった。

 そんな彼女を慰めようと、いつものようにドリームランドに連れて行き、彼は観覧車・ワンダーホイールの中で、婚約指輪を渡したのだった。ところが、貴輝は乗るゴンドラを読み違え、大きく揺れる方の赤いゴンドラだったので、ムードは台無しだったが。ただ、揺れるゴンドラの中で婚約指輪のケースを落としそうになって、彼女は笑いながら涙を流して喜んでくれた。


 月明かりの照らす中、夜中の二時近くで誰一人として、すれ違う人も居なかったし、部屋の明かりが点いた家もなかった。生き物の気配はただ彼の存在に驚いて、逃げ出していった黒猫ぐらいだった。

 近くの川を渡り、俣野小学校の前に来た。彼女が行くかもしれない場所の一つだったが、彼女は居なかった。正門の前まで来ると、彼もしばらくそこに佇んで、月の光が注がれている校庭をただ見つめていた。白砂に月明かりが反射してそこだけ浮き上がって明るく見える。かつて、そこで貴輝と紀子の何ものにも代えられない宝物が、元気よく駆けずり回っているのが、彼の目には見えるのだった。運動会の徒競走で一番を取って、誇らしげにこちらを見る彼の姿が、目の前に浮かんでいた。


 二人が結婚して、三年後ようやく生まれたのが、秀人(ひでと)だった。本当は、結婚して一年後に、妊娠していることが分かったのだったが、三ヶ月後に流産してしまった。産休を取るつもりだったが、流産のショックを理由に紀子はほぼ休職状態だった仕事を辞めた。そんな経緯を経て生まれてきてくれた初めての子どもは、二人にとって聖歌隊の讃美歌付きで舞い降りてきた天使のようだった。しかも、秀人は予定日よりも二ヶ月も早く生まれてきた未熟児で、しばらくの間、新生児治療室に毎晩欠かさず母乳を届け続けた紀子にとっては、ただ無事に育ってくれるだけでも神様に感謝したくなるような存在だったのだ。

 以来、紀子の生き甲斐は秀人で、何よりも愛らしい息子を最優先に考えた。貴輝は少し、寂しい気もしたが、秀人が生まれたことで、夫婦の共通目標が出来て、より絆が深まったようにも感じていた。子はかすがいという言葉の通りだった。

 最初、子どもが生まれたら、引っ越そうかと言っていたのだが、二人が住んでいたアパート「メゾン・ド・モリ」の大家兼管理人の林さんは、無類の子ども好きで

「子どもは泣くのが仕事、うるさいなんて言う住民がいたら、私が追い出してやるから」

と、大家らしからぬ理解ぶりで、時には子守りまで積極的に引き受けてくれた。秀人も「おうちのバーバ」と呼んで、まるでもう一人の祖母のように慕っていた。

 秀人が生まれたことで、紀子の体調も精神状態も非常に良くなった。よく自分の子どもが生まれると教師として一皮むける、というがその通りで、貴輝も生徒が自分の子どもだったらどうだろうと考えられるようになったり、保護者がどんな気持ちでいるのかが、分かるようになったりして、さらに仕事がうまくいくようになった。色んなことが輪郭と色彩を帯びて、道端のタンポポ一輪でも、ダンゴムシ一匹でも、ひこうき雲一筋でも、子どもと一緒に喜び感動できるようになったのだった。

 とにかく、紀子は秀人の教育に夢中になっていった。ありとあらゆる育児本や教育本を図書館で借りてきて読んでいた。たくさん歌を歌って、たくさん絵本を読んだ。元々、絵本作家を目指していた紀子の本棚には選りすぐりの絵本が山ほどあったので、秀人は飽きることなく、母親の朗読してくれる絵本を堪能した。

 秀人が一番好きな絵本は『よしおくんのふしぎなゆうえんち』という、よしお君という少年が、赤いマントの怪人に導かれて不思議な遊園地に迷い込み冒険するお話で、何百回読まされたか紀子にも分からないほどだった。幼稚園の卒園制作で絵本を自分で作るという時には、秀人は『らいおんとかに』という絵本を書いていて、紀子は「この子は天才よ!」と言ってはしゃいでいた。

 幸いにして秀人は、砂に雨が染み込み、やがて緑が芽吹いていくように、紀子のやや多すぎる愛情を余すところなく受け取り、素直で優しい男の子に育ってくれた。

 そして、もちろん家族で休日に出掛けるのは、決まってドリームランドだった。小さい頃は、身長制限で乗り物には乗れないものも多かったが、春はお花見で、夏は流れるプール、秋は秀人のお誕生会、冬はアイススケートで、一年中家族で楽しんだ。そして、幼稚園に上がる頃から不思議と秀人は、歩いて進む方のお化け屋敷を、全く怖がる様子もなく一番気に入って何度も何度も繰り返し入っては楽しんでいた。

 九月の秋分の頃の秀人の誕生日には、ホテルエンパイアの最上階の展望回転レストランでささやかなディナーを楽しんだ。蝶ネクタイを付けた従業員さん達は、いつも一緒にハッピーバースデーを歌って、店の照明まで落として、息子の誕生日を祝ってくれた。家族三人の思い出を思い出せば、常にその背景にはドリームランドがあった。


そんな楽しい日々が終わりを告げたのは、秀人が小学三年生になった年の、天まで突き抜けるような、ある秋晴れの日だった。

その年も九歳の誕生日をホテルエンパイアのレストランで祝ったその矢先のことだった。その日は、運動会の代休で、平日に学校がお休みだったので、やはり秀人は母親にドリームランドに連れてってくれとせがんだのだった。ドリームランドから、最も近い場所にあった小学校だったし、運動会の代休日には、秀人の小学校の「俣小生」があちこちにいる状況になる。ただでさえ遊園地で楽しいのに、小学校の友達とも学校外で会えて一緒に遊べる、秀人には何より楽しい時間のはずだった。

ドリームランドは戸塚の丘陵地の高台の上にあるので、正門に至るまで、最後長い坂を登ることになる。その坂の取り付きの交差点の名前が「ドリームランド前」だった。

悲劇は、その交差点のわずか手前で起きた。貴輝は、出来ることならば、夢であってほしい、こんな夢は早く覚めろと何度願ったか分からない。

秀人はドリームランドで、一番の仲良しの友達と会うことを心底楽しみにしていた。そのはやる気持ちが強すぎたのだろう、交差点のドリームランド側の歩道を歩いていた親友の幸太君を見つけた時、はしゃいでいた秀人は、

「こうたぁ!」

と、嬉しそうな声で呼び掛けてから、周りも良く見ずに、道路を駆け出して横断してしまったのだった。

その時、ややスピードの出すぎた軽自動車が僅かに湾曲している道路の奥から、こちらに向かって来ていることは視野に入っていなかった。

そばにいた、紀子も咄嗟に気付き、手を伸ばしたが、届かなかった。

そして、ヒステリックに「秀人!」と叫んだのが、かえって良くなかった。

その声に我に帰った秀人は道路で硬直して立ち止まってしまい、母親の方を振り向いてしまったのだ。

そして、次の瞬間には秀人の体はゴム鞠が弾かれるように宙に浮いていた。

軽自動車に、ブレーキをかけた形跡はなかった。紀子は、その時のことを、今でもはっきりとは思い出せないという。余りにも、ショックが強すぎて、とても受け入れられないのだろう。ただし、彼女は母親としての本能のままに必死で応急処置をやった。救急車も直ぐに駆けつけたが、秀人の笑顔を見ることは二度と出来なくなってしまった。

軽自動車を運転していたのは、ドリームランドの後ろにある団地に独りで住んでいたお婆さんだった。やや痴呆を持っていたらしい。秀人を跳ねたあとも、車こそ路肩に停めたものの、混乱した様子でブツブツ何かをつぶやいているだけで、まともな会話もできなかった。「病院、病院が」とつぶやいているようだったが、それはどうやら自分が跳ねてしまった子どものことではなく、自分がこれから行く病院の事だったらしい。痴呆を持った老婆に運転免許が与えられ続けていたことを差し引いたとしても、秀人が突然横断したのは交差点の手前の車道であったし、状況的にも運転していた彼女を非難することは難しかった。

紀子の、受けた衝撃は計り知れなかったが、秀人の一番仲の良かった幸太君にも、余りにも、残酷な心の傷を負わせてしまうことになった。まだ小学三年生に、目の前で自分の名前を呼びつつ、死んでいった親友の姿を見せてしまったことは、彼の今後の人生にとって取り除くことの出来ない陰を落としてしまったであろうと思う度に、貴輝は申し訳ない気持ちで一杯になるのだった。


貴輝は小学校を後にすると、他に紀子が行きそうな場所に行ってみることにした。

この横浜市戸塚区一帯は、神奈川県外の人が一般的に抱く「ヨコハマ」のイメージからは最もかけ離れた場所で、そもそも戦前まで横浜ではなく鎌倉郡の村落であった場所だ。今でもあちこちに畑や山林が点在している。このドリームランドのすぐそばにも「ウィトリッヒの森」という、かつて此処に住んでいたスイス人のお爺さんが故郷に似た森にそう名付けて保存した森があった。

貴輝は、満月に照らされた静かな森を見ていた。風もなく、木々も眠っているかのようだった。しかし、その森の中に、何か得体の知れない何者かが此方を窺っているような気味の悪さを、彼は感じていた。小さな森の入り口には両脇に、ずらりと建て売り住宅の同じような家々が並んでいるのだが、森にはその世界とは全く切り離された、死の世界の匂いが漂っているようだった。

 それでも、この森にも、秀人との思い出があって、それらが彼の中では蘇っていた。この森の奥にある少し開けた場所で、よくレジャーシートを広げてピクニックをしたことを思い出していた。

紀子の気持ちは理解出来なかったが、なぜかこの世界の中に生じた裂け目のようなこの森の中でならば、秀人に再会できるような気さえした。

意を決して、月明かりも届かない鬱蒼とした森の中に入っていった。遊歩道もあるが、慎重に歩かなければ(つまづ)いてしまう。果たして、紀子は此処にいるだろうか、もし居るとしたら彼女は一体、この深い森の暗闇の中で独りでどんな思いでいるだろうか。そして、俺は彼女を救えるのか、と貴輝は自問していた。

そうして、月明かりだけを頼りに森の中を歩いた刹那、木々の間を長い髪の女が通り抜けたように思えた。

「紀子!」

彼は反射的に叫んでいた。

 しかし、闇の中からは何も反応はなかった。叫んだあとで、彼はまた茫然とそこに立ちすくんでいた。どこかで、何か分からない獣の鳴き声や、風が木々を揺らす音や、虫の声が森の中から聴こえていた。それは、まるでこの世界ではなく、どこか別の世界から聴こえてくるような響きだった。そして彼の脳裏には瞬時、この森のどこかで紀子が首を吊っている姿が思い浮かんでしまった。彼は、必死にその幻想を振り払おうとしたが、うまくいかなかった。彼の足は畢竟、焦りを伴って速くなっていった。

 そして、またあの悪夢から紀子が少しずつ、向こう側に行ってしまった経緯を思い返していた。


 秀人の葬儀が済むまでは、何か現実の事とはとても思えず、ただ流されるままに進んでいった。貴輝も、とても信じられなかった。病院から職場に電話があって、直ぐに駆けつけた時には、秀人は既に冷たくなっていた。その時の紀子にはもう魂は宿っていなかったように思う。どんな言葉を掛けても、焦点が合わずに、何か意味不明なつぶやきを続けていた。

 納骨が済んでからも、貴輝はそんな状態の紀子を放っておくことが出来ず、それを理由に仕事を半年ほど休職した。貴輝にとっては、紀子がまともに生活を送れるまでは面倒を見なければならないという義務感が逆に秀人の死を直視することから遠ざけ、結果的に彼を支えてもいたのだった。とは言え、彼も秀人を喪ったことの傷は深かった。紀子がもしも、自分よりも平静で居られたとしたら、貴輝の方がまともで居られなかったかもしれないとさえ思う。

 それでも、紀子は秀人が亡くなってから一ヵ月ほどは、言葉こそ少なかったが、食事も睡眠もまだ、まともに出来ていた。しかし、紀子が目に見えて衰弱していった発火点は、ある一通のダイレクトメールだった。

 ある日、秀人が買い物を済ませてアパートに戻ると、真っ暗な部屋の中で紀子があるものを掴んだまま動かず泣いていた。その手の中には、大手の通信教育業者からの「新海秀人くん」宛のダイレクトメールが握りしめられていたのだった。死亡届は提出したが、こうしたダイレクトメールの類は、こちらから一件一件電話をして止めない限り、送られ続けるのだった。

 紀子は、受取人本人の居ない手紙を手にして、改めて強く秀人が居なくなったことを、実感してしまったのだった。

 もちろん、それはいずれ受け入れなければならなかったことなのだが、秀人の教育に熱心だった紀子だけに、子どもの将来にまつわる夢と希望あふれるコピーが刷られたダイレクトメールは、彼女の心を想像以上に抉り取ってしまったのだろう。

 それからというもの、彼女は食事も喉を通らなくなり、まともな会話さえ出来なくなった。見る見るうちに、紀子は憔悴して痩せて行き、髪を整えることもやめて、伸びるがままにし、昔の溌剌とした若々しい、美しい額の紀子は居なくなってしまった。その時、貴輝は病院に連れて行ったり、カウンセリングを受けさせてみたり、様々な事を試みたが、目覚ましい効果はどれもなかった。

 貴輝は、また子どもが出来れば、紀子は元に戻るのではないかという気持ちもあり、紀子の体を求めたときもあったが、紀子はもう貴輝を受け入れることが出来なくなっていた。紀子はもう人形のようにされるがままになっていたが、紀子には何も感情がないようだった。砂漠のように乾ききった彼女の中に入ることはもう出来なかった。貴輝は、結局諦めてまた自分の布団に戻った。

 また、貴輝は家に閉籠っているのが良くないと思って、紀子を外に出して気分を晴らしてやろうともした。それは幾分か効果があって、車に乗せて江の島の灯台に行ったり、134号線をドライブするだけだったが、海を見ながら「キレイ」と一言彼女がつぶやいた時は、貴輝は秀人が初めて喋った言葉が「ぱぱ」だった時と同じくらいに嬉しかった。しかし、車に乗っていても、家に戻るとき、車窓からホテルエンパイアのシルエットが見えてくるだけで、彼女は俯いて目を背けていた。まして、事故のあった交差点はどんなに遠回りになっても避けなければならなかった。

 それでも少しは、向こうに行こうとする彼女の心をこちら側に引き留められているような実感はあった。

 彼が休職できる期間もあと僅かとなり、何とか彼女を一人置いて、仕事に出かけることも出来るだろうというところまでは、回復しつつあるように見えた。また、引き籠もっていた彼女も一人で、簡単な買い物が出来る程度には外を出歩くことも出来ていた。

 しかし、ようやく昔の紀子に戻ったように見えていたが、それは、秀人のことを思いださないようにしていただけで、やはり彼女の心には巨大な白い大蛇が眠りながら渦巻いていて、それは更に、彼女の心をきつく締めつけていたのだった。

 その白い大蛇を目覚めさせ、二度目の引き金を引いてしまったのは、紀子と同じように、目の前で秀人を喪ったことで、心の傷を負ったであろう幸太君だった。

既に、秀人が亡くなって半年が過ぎ、新しい春が来て、貴輝もようやく職場に戻り、紀子は引き続き、通院を続けていたが、時折笑顔も垣間見ることが出来るまでになっていた。

気が付けば季節は夏だった。

小学校は夏休みで、子ども達は水泳道具を持ってはしゃぎながら夏の水泳教室に通う季節だった。貴輝は、夏休みで少しは紀子と過ごす時間を普段よりは長くとれてはいたが、日中は部活動の指導で家を空けざるを得なかった。その間、心のリハビリと称して紀子は近所を散歩していた。さすがにその時でも、事故現場と小学校の前は避けていたが、このウィトリッヒの森は紀子のお気に入りのようだった。普段、そこは滅多に人と会う事もない場所だったにも関わらず、偶然水泳教室帰りの幸太君と会ったのだった。縮れた毛に、真っ黒に肌が焼けたランニングシャツを着た少年の姿は、健康体そのものだった。紀子にはその姿は眩しすぎた。幸太君とその友達数名が森の中で、かくれんぼをしていた。

初め、幸太君が腕で目を塞ぎながら、木に向かって大きな声で数を数えていたので、それと気づいたのだった。木の周りには、学校指定の巾着状の水泳袋が何個か立て掛けられていた。

最初、紀子は衝動的に逃げ出しそうになった。しかし、すぐに気を取り直し、母親としての義務感をその時だけは取り戻して、幸太君を傷つけてしまった事を、せめて詫びようと思ったのだった。

「九、十! もーいーかい!」

と叫んで、勢いよく振り向いた幸太君の目の前には紀子が立っていたのだった。幸太君は、一瞬驚いていたが、すぐに

「秀人のおばさん」

と言って、気付いたようだった。その言葉は、紀子の心を瞬時抉りかけたが、

「幸太君、あの時は、本当に、ごめんなさいね」

と、精一杯搾り出すように言ったのだった。

ところが、戻ってきた幸太君の言葉は意外なものだった。

「おばさん、僕は平気だよ。それにドリームランドに行けば秀人に会えるし」

と、幸太君は目を合わせることなく、まっすぐ紀子のお腹の辺りを見ながらそう言ったのだった。

紀子の脳内に衝撃が走った。反射的にしゃがんで、幸太君の視線に降りて、しっかり目を見つめて両手を肩に置いて、

「幸太君、それはどういうこと? おばさんをからかって嘘ついたりしちゃダメでしょ?」

と、やや語気を強く問い詰めたが、幸太君は平然として、

「あのね、秀人、ドリームランドのお化け屋敷に居たんだよ。本当だよ。鏡の部屋。僕、見たんだ。秀人って声かけたら、こっち向いて笑ってくれた」

と、やはり平然と語ったのだった。悪質な嘘をついているような口調にはとても聞こえなかった。

「こうたぁ、はやくしろよぉ」

と森の中から他の友達の声が響いてきて、

「おばさん、ごめんなさい。今、鬼だから」

と言って、森の奥に駆けて消えていった。

その場に取り残された紀子は呆然としていたが、再び幸太君が戻ってくるのを待たずに、紀子の足はドリームランドに向かっていた。

紀子は、ずっと避け続けていた「ドリームランド前」の交差点も躊躇することなく通り過ぎ、ドリームランドの秀人が一番好きだった、良く言えば素朴な、悪く言えば手抜きの安作りなお化け屋敷に一人で向かっていた。

必死の形相で巡ったが、当然誰と会うこともなく、出口のゲームコーナーに出るだけだった。従業員も、一人で大人の女性が、何度も繰り返しお化け屋敷に入るのを(いぶか)しんだ。三周目には、鏡の部屋で

「秀人、秀人、どこなの? お母さんの前に姿を現して、ね、お願い」

と叫びまでしたが、ただ自分の声が虚しく木霊するだけだった。

紀子は、幸太君が自分に対してやはり悪質な悪戯をしたのだと思い、あるいは幸太君の母親が仕組んだのかと、一方的に怒りをこみ上げたが、やはり冷静になって考えるとさっきの幸太君の様子は嘘をついているような様子には見えなかったし、幸太君は、秀人が幼稚園の時に初めて出来た仲の良い友達で到底嘘などつくような子ではないことは紀子もよく知っていたことだった。

秀人が幼稚園の頃、近所の公園の砂場で、秀人が失くしたと言って大泣きしていたなぜかウルトラセブンよりもお気に入りのメトロン星人のソフトビニール人形を、日が暮れるまで一緒に探してくれたのは幸太君だったし、秀人が亡くなったことを一番一緒に悲しんで、事あるごとに慰めてくれたのも幸太君のお母さんだったことも思いだした。

そのウィトリッヒの森で幸太君と出会った日以来、紀子は毎日ドリームランドに通うようになってしまった。最初のうちは、紀子の日中の行動を、仕事の忙しい貴輝は把握できていなかった。

 ある朝、大家の林さんがアパートの前を掃除していて、仕事に出掛ける貴輝に話しかけてきたことで、ようやく知るに至ったのだった。

「新海さん、ちょっとちょっと、あんた奥さん夕方何してるか、知ってるの」

「え、何ですか、妻が何かしてるんですか?」

不意に、大家さんに掛けられた唐突な投げかけに、戸惑いを隠せなかった。

「あんた、何も知らないんだねぇ、奥さん、お化けになっちゃってるよ」

「お化け?」

さらに、突拍子もない返事に素っ頓狂な声を出した貴輝を、指を口にやって静止して、林さんが言うには、最初に耳に入ってきたのは、子どもの噂話からだったという。

 例に漏れず、近所の噂話を網羅している林さんの情報網には、どうやら小学生の都市伝説さえも含まれているらしい。何やら、最近ドリームランドのお化け屋敷には、本物のお化けが出るらしいという噂が子ども達を中心に広まっていたという。ドリームランドは、開園当時こそは夜十時までやっていたのだが、ここ数年は客数が減ったことから、夕方の五時には「蛍の光」が園内に響き、早々と閉園時間になっていた。どうやら、その幽霊は夕方四時から五時の一番客が減る時間帯に現れるという。特に、その噂が広まったのは秋も深まった頃だったので、五時にもなれば辺りは夕闇に包まれ、幽霊が出てもおかしくはない雰囲気があったのは確かだった。

 事もあろうに、林さんは探偵にでもなったつもりか、その噂の真相を解明しようと、単身閉園時間直前のドリームランドに行ったのだという。好奇心旺盛な婆さんだと貴輝は妙に感心してしまったが、その結末が恐るべきものである気がしてならなかった。

「本当に、二十年ぶりに行ったよ」

と言ってしばらく思い出話が続いたが、そんなことはどうでもいいと思う貴輝は話の続きを待った。ようやく最後まで聞き出したところによると、実際お化け屋敷に入ってみると、客は他に誰も居なくて、確かにそういう噂が出てもおかしくない雰囲気ではあったという。それで、子ども達の噂通り、全面鏡張りの部屋に入ったら、本当にそこに全身黒い服を着た長い髪の女が立っていたという。

「あたしゃ、本当に腰をぬかしたよ」

「それで、その女は…」

「あんたんとこの、紀子さんだったんだよ」

 予想通りの最悪の答えに頭が真っ白になった。彼は、アパートの自分の部屋の玄関を見つめたが、紀子はまだ寝ているはずだった。

 林さんによると、鏡張りの中の暗がりに佇んでいるので本物の幽霊にしか見えないが、冷静になってその女をよく見てみるとどこかで見覚えがあるぞ、と近づいて行ったら紀子だったという。そのお化け屋敷は余りにも安作りの、マネキンに細工を施したような人形しか置かれていないため、逆に本物の幽霊のような女が佇んでいれば、それは本物の幽霊にしか見えなかったのだろうということだった。

 しかし、その時の紀子の様子は、ブツブツと何かをつぶやきながら虚空を見つめており、林さんが揺さぶって声を掛けてようやく正気に戻ったようだったそうだ。

「あ、林さん。どうしてここに?」

などと、半分上の空のまま言ったという。

「そりゃ、こっちのセリフだよ」

 林さんは、ぼんやりしている紀子の手を取って無理矢理外に連れ出してくれたという。

 もしも、そんなことを紀子が毎日していたとしたら、紀子のことを知らない人は彼女を本物の幽霊だと勘違いして、噂が広まったとしても不思議なことではなかった。

 幸い、林さんは孫のように秀人のことを可愛がってくれていたから、紀子の気持ちに共感できるらしく、それが紀子だということは噂好きの林さんにしても、まだ誰にも言わずに秘密にしてくれているという。

「私でも、あんなに可愛い息子が突然いなくなったらどうかしちゃうとは思うよ。でもさ、紀子さんもまだあんたより一回りも若いんだしさ、まだまだやり直せるよ。あんたがしっかりしなくちゃ」

と言って、貴輝は肩を強く叩かれた。

「ありがとうございます。恩に切ります」

と、礼を言ったが内心、結局この噂が広まるのも時間の問題だろうと腹を括った。

確かに林さんに言われて初めて気がついたのだが、たまに夕方に早く帰ってくると、散歩だと本人は言っていたが、家を空けて何処かに行っていることが度々あった。きっとあれはドリームランドに行っていたのだと合点した。

しかし、貴輝は出勤の道すがら、授業中、放課後あるいは帰路につくまでの間、終始悩んでいた。果たして、自分はそうした紀子の行動を止めさせるべきなのかどうかを。確かに日中、お化け屋敷に佇んで幽霊と間違われるのは誉められた行為ではないが、秀人を喪った紀子にはそれが必要なのならば、気が済むまで通わせても良いような気もした。

貴輝はその日一日仕事も手につかないまま悩み続けて、どうしたらいいのかと考え、帰路に就いたところでようやく、積極的に止めはしないが、まずは紀子に話を聞いてみる、ということに落ち着いた。

その時の紀子は、秀人が亡くなる前の様子と一見変わらないほど回復しているように見えた。しかし、瞬間能面を被るかのような、時折垣間見せる陰鬱な表情までは隠せていなかった。貴輝は、台所で夕飯の支度をしている紀子に、居間の卓袱台に座りながら思い切って切り出した。

「紀子、お前、最近ドリームランドに通ってるんだって?」

ドリームランドという言葉を聞いた瞬間に、紀子の葱を刻んでいる音が止まった。しかし、しばらく間を置いてからまた一定のリズムで刻まれだした。

「そうよ。だって、秀人が一人で寂しがっているもの」

と平然と答える紀子に瞬間怯んだが、

「そうか、それで秀人には会えたのか?」

と貴輝は、あくまでも落ち着いて紀子の会話に合わせて言った。

再び、葱を刻む音が止まったが、すぐにそれは鍋の中に包丁で入れられた。

しばらく、両手をシンクに置いて、溜め息をついたあと、

「あの子、私に会いたくないみたいなの」

と、ごく自然に言うので、またそれに合わせるように

「そんなことはないと思うけど、あんまりお前が会いたがってたら、向こうだって会いづらくなるだろうよ」

と貴輝は、出来る限り紀子を刺激しないよう、貴重な蝶の標本を作る時のように、細心の注意を払いながら優しく言ったつもりだった。

それに対して紀子は、俯いたままか細い声で

「何でそんなこと分かるのよ」

とつぶやいた。貴輝はついに本音を切り出し、

「紀子、もうこんなことは止めよう。もう一度やり直そう。君は僕よりも若いんだからまだ」

と最後まで言い切らない間に、突然貴輝の言葉を遮るように紀子は、鍋の味噌汁を床に思い切りぶちまけた。

「何でよ! 何でよ! ひでとぉ、秀人を返して、お願い、幽霊でもいい、声だけでもいい、あと一度だけでいい、会いたいの、会いたいのよ!」

と叫びながら、豆腐や葱が散乱して湯気が立ち上る床に崩れ落ちた。

「いかん!」

と叫んで、秀人はすぐに紀子を抱き抱えた。

彼女は、泣きわめきながら、それまでの経緯、幸太君から聞いた話のこと、何度通っても秀人は姿を現してはくれないことを訴えた。

貴輝は、熱した味噌汁に倒れこんだ紀子を気遣い、火傷していないか、そのまま風呂場の脱衣所に導いた。下着姿になった若い妻の姿を久方ぶりに見たが、幸い少し太股の辺りが赤みを帯びている以外は、火傷は大したことがないようだった。

紀子は、下着のまま俯き続けていた。貴輝は慰めたい気持ちと、男としての衝動とに駆られて思わず後ろから抱き締めたが、彼女の方には女としての反応は何もなかった。やがて、貴輝の腕を振りほどいて、黙って下着も脱ぎ、風呂場に入ってしまった。内側から鍵がかかる音がした。貴輝は、見渡す限りの砂漠にただ独り取り残されたようだった。もう何も自分が彼女にしてあげられることはないような気がした。


やがて、彼はいつの間にか森を抜け、ドリームランド側に出ていた。紀子の姿はここにはなかった。ならば、もう残すところは、あそこしかない。

彼は、傾きだした月に照らされてシルエットだけが強調されたホテルエンパイアを見上げた。丁度エンパイアの避雷針の頂点に満月が明々と掲げられて、月のクレーターまではっきり見えるようだった。遠くの国道からけたたましいエンジンの排気音が微かに響いているのを除けば、そこには何一つ生けるものの気配はなかった。


紀子とそのやり取りがあってからは、今彼女を無理に引き剥がすことは得策にならないと判断し、しばらく様子を見るに留めた。むしろ、紀子が諦めるまで通わせてやろうと、わざわざ年間パスを購入して渡したぐらいだった。

しかし、事態は更に奇妙な方向に進んでいった。ドリームランドに夕方に行くだけならばまだしも、紀子は、夜な夜な貴輝が寝静まるのを待って、深夜一時頃に車に乗って出掛けているようだった。

仕事が忙しいこともあり、一度寝たら朝まで起きず深い眠りに落ちる体質の貴輝は、またしてもそれにしばらく気付かなかった。紀子の深夜徘徊が始まって一ヶ月ほど経った頃、たまたま夜中に目が覚めて便所に行った時に、紀子が居なくなっているのに気付いてようやく分かったのだった。

その夜も、今夜と同じように町中を一人で探し回ったのだが、朝五時前になって平然と家に戻ってきた紀子を問い詰めたところ、どうやら所謂「心霊スポット」と呼ばれる場所に夜中、特に「丑三つ時」とされる深夜二時から二時半に合わせて通っていた、というのである。聞き出してみれば、この一ヶ月で神奈川県内の幽霊が出るとされる場所には殆ど行ったという。

貴輝は「何て危険な事をしているんだ」と叱った。

「まして、暴走族やら若者たちが肝試しなんかで、そういうところにはいるだろう、そんな奴らに見つかって絡まれたりしたらどうするんだ」

と叱ったが、紀子は

「そういう子達にはしょっちゅう会うけど、皆私を見て、悲鳴をあげて逃げて行くの」

と言って引き攣ったように金属的な笑い声をあげた。

誰でも黒いワンピースを着た髪の長い女が深夜二時に暗闇の中に独り佇んでいれば、誰だって幽霊だと思うだろう。まして、その場所は元から曰く付きの場所なのだから。実際、その時期に目撃され、噂として広まった幽霊の情報の殆どは、紀子の姿を見た人達の見間違えだったのだろう。

そう言われて、彼女がドリームランドに通い出した頃から、ちょうどブームになっていた霊能力者・()()愛子の心霊番組や、怪奇現象などのテレビ番組を熱心に観ていたことを彼は思いだした。

さらに、紀子はそうした類のオカルト雑誌や幽霊関係の怪しげなパルプ誌を買いこんでは熱心に研究していた。紀子は特に、自分に所謂「霊感」を身に付けるためにはどうしたらいいのかを調べていたのだった。理由は無論、仮に幽霊であっても秀人に会うためだろう。

彼女は、神奈川県内、時には東京にまで範囲を広げてあらゆる「幽霊が出る」と言われる場所に行っていた。例えば、近場では逗子の小坪トンネル。トンネルに飽き足らず、その上の山中にある少年が落ちて死んだと言われている古井戸や、鎌倉時代の刑場でもあり、中世には鳥葬が行われていた墓場でもある曼荼羅堂にまで行ったが、何も出なかったという。あるいは、鎌倉では北条高時が一族郎党八百人と共に自決した場所である腹切りやぐらへ。旧日本軍兵士の霊が出るという噂のある横須賀の観音崎の灯台、相模湖の廃墟になったラブホテルやその湖畔にあるジェイソン村と呼ばれる廃村、更には東京の鈴ヶ森の刑場跡や青山墓地、平将門の首塚にまで行ったという。その話を聞いている間、貴輝は気を失って卒倒しそうになった。

まるで憑りつかれたかのように、彼女は夜中になると車を走らせて、そんな場所に一人で佇んでいたのだ。ただ、幽霊を見るために。幽霊を見ることが出来るようになりさえすれば、秀人にも会えるのだとただ一念に信じて。

しかし、そんな慄然(りつぜん)とする様な話をしながら、彼女は全く平然としており、なぜここまでしても自分は幽霊が見られないのか、秀人は自分の前に姿を現れてくれないのか、その憤りをむしろ貴輝にぶつけてくるのだった。恐怖感や罪悪感は微塵も感じていないようだった。まさに紀子自身が、既に幽霊と化しているのではないかと思わせるほどだった。

その頃から、貴輝の心も動揺し始めていたこともあったのか、紀子のことについての心労だったのか、時に紀子の輪郭がぼやけて見えたり、あるいは他の人よりも影が半分くらい薄くなっているように見える時があった。

一通り、話を聞いたあとで貴輝は、やはりもうこんなことはやめるべきだということ、秀人も紀子がそんな姿になることを望んでいないということ、何より君自信のことが心配だと、強く訴えた。しかし、もう紀子は取り乱すことこそなかったが、薄ら笑いを浮かべて、貴輝を見ているようで見ていないような、焦点が貴輝を通りすぎて背後に抜けてしまっているような表情をしているだけで、ただ棒読みのように

「うん、わかった」

と幽かにつぶやいただけだった。

貴輝は、その時嫌な予感がした。むしろ、また味噌汁でもカレーでもぶちまけてくれた方がまだ救いがあったような気すらしたのだった。


そして、今また紀子の姿を探して歩き回っている自分がいる。だが、今夜に限って、貴輝は、妙な胸騒ぎが止まなかった。今度こそは、彼女を無理にでも引き留めなければならないという気がしていたのだった。でも、紀子を見つけたところで何が出来るのかは、自分でも分からなかった。

しかし貴輝自身も、秀人を失って本当につらかったし、後を追いたいとすら思ったこともあった。だからこそ、紀子の気持ちや行動が理解できる部分もあって、真剣に紀子と向かい合うことから逃げ続けてきた。だが今、直前に見ていた夢は何だったのか思いだせないのだが、その夢で見た何かに突き動かされるように、紀子を追いかけているようでもあった。むしろ、月明かりだけで人の気配の無いこの世界が、夢の中なのか現実なのかも定かではなかった。

いつの間にか、貴輝は走り出していた。何かに突き動かされるかのように、急がねばならないと。

この角を曲がれば、ドリームランドの入り口、秀人の死んだ場所が目に飛び込むはずだ。

そして、角を曲がり切った時。

紀子はいた。

遠目に女が長い髪を垂らして、俯いたまま佇んでいるのが見える。確かに、知らない人が見れば生きた女には見えないかもしれない姿で。

距離はまだかなりあって、貴輝から見て豆粒ほどの大きさであったが、間違いなく紀子だと分かった。その立っている場所こそ、秀人が事故にあった時と全く同じ場所だからだ。事故直後に、小学校の子ども達や保護者が山のように花束を供えてくれたその場所だったからだ。

「紀子!」

と、彼は真夜中であることも憚らずに大声で叫んだ。

すると、長い髪が微かに揺れ、少しこちらを向いたようにも思えたが、大きな反応はなかった。

貴輝は叫んだ瞬間立ち止まったが、止むことのない嫌な予感を抑えきれずに、また全力で駆け出した。

そしてその嫌な予感は、徐々に具体的な形を表して迫っていた。紀子が立っている場所の向こうから、轟くような排気音が聞こえてきていて、それが近づいているのだった。

少しづつ貴輝にも、紀子の姿が大きくなって輪郭がはっきりしてきた時、やはり大型トラックのライトが向こう側から現れ、紀子に近づいていた。その強いライトは紀子の姿をシルエットにして、再び、紀子の輪郭をぼんやりさせて、貴輝を不安にさせた。貴輝の足は千切れそうなほどの全速力になっていた。

杞憂に終われば良いのだが。焦りが募る。

紀子の体は風に揺られるように、前後にゆらゆら揺れている。

貴輝の手がようやく、紀子に届こうかという瞬間、髪が風に舞って貴輝と目が合った。そしてその表情は非常に穏やかで、微笑すら湛えていたのだった。まるで、子どもを産み終わったあとの優しさと満足感を湛えた表情のように。そして、口が何かの形で動いていたが、声もその口の形からも読み取ることが出来なかった。

そして、貴輝の手が紀子を掴もうとした瞬間に、彼の腕は空を切った。

次の瞬間、トラックが走り抜けるのと同時に紀子の体は宙を舞ったのだった。

かつての秀人と同じように。




貴輝は、全ての手続きを済ませて、二日ぶりに自宅に戻った。ほぼ、その間全く睡眠をとった覚えがない。食事も水も摂ったのかどうかも覚えていない。少なくとも今もまだ食欲などどこにも見当たらない。

あの瞬間から、全てが止まっているような気もする。よく見てみれば、今はどうやら夜のようだった。自分が、僅かに宙に浮いているような感じがするし、五感の全てが鈍って泥が詰まったような感覚だった。

ただ、今自宅に帰ってきて、何も考えることが出来ないまま、着の身着のまま、二日前に紀子を追いかけ、その時から敷きっぱなしだった布団の中に倒れ込んだ。紀子の形を残したままの布団が目に入ったが、そのまま意識が遠のいていった。


 世界を切り裂くようなひどい耳鳴りが暫く続いた後に、何か遠くの方から声がする。

「…さん、…うさん、おとうさん」

 自分の事を呼ぶ声が聞こえる。お父さん?

「秀人!」と叫ぼうとするが、声にはならない。金縛りのように体も動かせない。

 そうだ、これがいつも見ている夢だったんだ。あの夜も、この夢を見ていた。起きると忘れてしまう夢。俺は、いつも夢で秀人を見ていたんだ。

あれ程までに、紀子が会いたがっていた秀人が、自分のすぐ側に居るように感じた。夢の中でも、自分は部屋の中で布団で寝ている。いや、これは夢なのか、それとも本当に秀人がそこに居るのか。

 目を閉じて夢を見ているのだが、はっきりと自分がそこに寝ているのが見える。そして、その傍らにはあの日と変わらない姿の秀人が立っているのが分かった。しかし、その表情を見ようとしても、どうしても見えない。でも、秀人は穏やかな表情で微笑んでいるのだとなぜか分かった。

ひでと…すまなかった。守ってやれなくて。

 そう伝えたたかったが、声にはならない。でも、秀人は首を横にゆっくり振っていた。

 そして、ゆっくりと貴輝は右手を挙げてどこかを指差していた。

 ひでと、どういう意味なんだ。

「…りがと…さよな…」

 秀人の微かなつぶやきのようなものが、聞こえた。

 ひでと、ひでと、ひでと! 貴輝は声にならない叫びを夢と現実の狭間で必死に叫んでいた。

「ひでと!」

と、叫んで飛び起きた。

 もちろん、そこには誰も居ない。いつもは、目覚めると同時に記憶から消されていた夢の記憶は、鮮明に残っていた。頭の中で秀人の声が、まだ木霊しているようにすら感じられた。

 既に鳥の鳴き声が聞こえている。窓からは、太陽が差し込んでいた。

 秀人はずっと、自分に何かを伝えようとしていたんだとようやく分かった。でも、一体何を伝えようとしていたんだろう。

 もう一度、夢の中の秀人が伝えようとしていたことを心を澄ませて思い返してみた。秀人が指差していたもの。

 貴輝は、何かに気が付いたように立ち上がり、押入れの上の天袋を開けて、その奥にしまわれている大きめの鳩サブレーの缶を取り出した。そして、その中に秀人が伝えたかったものを見つけたのだった。


貴輝は、ノックをして病室に入っていった。病室には、憔悴しきった様子の紀子が窓の外を見たまま、顔を背けていた。ただし、足はギブスで固定され、頭に巻かれた包帯も未だに痛々しかった。

 紀子がトラックに飛び込んだ瞬間、手遅れだったかと貴輝は思ったが、紀子が貴輝に一瞬気を取られていたために、トラックの正面に飛び出さずに、前方側面に衝突しただけだったので、弾き飛ばされたものの、何とか一命を取り留めることが出来たのだった。紀子はあの時、遂に死のうとしていたのだろうか、秀人が車に跳ねられたあの場所で同じように死ねば、秀人に会えると思ったのだろうか。

 もう彼女には、貴輝がどんな言葉を掛けても、届かないだろうという実感はあった。また、今の彼女にも死に損ねたという後悔の表情しか読み取ることが出来なかった。

「紀子。俺にはもう、君にかけられる言葉はもうないかもしれない。だけど、これは秀人からの君へのプレゼントだよ」

 そう言って、貴輝は大きめの封筒を彼女の胸元にそっと置いて、そして去っていった。


 紀子は、しばらくの間茫然としていたが、

「ひで、と」

とつぶやいたあと、封筒の中身を確認した。

 そこから出てきたのは、秀人が幼稚園の卒園の時に、厚紙を製本して作った自作の絵本『らいおんとかに』と、ボロボロに擦り切れるまで読んだ『よしおくんのふしぎなゆうえんち』だった。紀子は、その『らいおんとかに』の表紙を愛おしげに眺めた。拙い絵だが、独特の味があって、カニは緑色で、ライオンは赤色で塗られていたが、強いタッチに躍動感と力強さを感じた。秀人が口伝えした物語を紀子が書き取ったものだ。

 秀人が作った物語は、不思議な物語だった。


 むかし、あるところにみんなからこわがられているらいおんがいました。ほんとうはらいおんはやさしいのでした。でもみんながかってにこわがるのです。かわいそうな、やさしいらいおん―


 その物語の世界は悪い魔女が支配していて、その意地悪な魔女は、魔法で雪を降らせてカニのお母さんを氷漬けにして固めてしまう。悲しんだ子どものカニが、必死にお母さんを助けようと火をおこしたりお湯をかけたり、色々な事をするけど、うまくいかない。そこに、皆から怖がられて嫌われているライオンがやってくる。素直な子どもガニは、ライオンを怖がったりせずに、強そうなライオンさんに素直に助けを求める。

自分を怖がらず、頼ってくれる子どもガニを気に入ったライオンはカニたちを助けてあげようと自分のお腹で温めて、お母さんガニを溶かして助けてあげる。お母さんガニはライオンのおかげで、氷が解けて助かるが、今度はライオンが魔女の呪いで凍ってしまう。

 今まで、ライオンを怖がっていた森の動物たちは、ライオンが凍って良かったというが、カニの親子は、ライオンを助けるために、魔女がいる氷の山に行こうとする。森の動物たちは、反対するが、カニの親子はそれを振り切って、魔女のいる氷の山に旅立っていく。


―おかあさんがにと、やさしいこどもがには、それでもやさしいらいおんさんをたすけるために、ゆうきをだして、それでこおりのやまにいきました。


 物語は、そこで終わっていた。絵本が大好きで、百冊以上の絵本を読んでもらいながら育った秀人は、自分が好きな物語をうまく組み合わせて物語を作ったのだろうと思った。

 しかし、物語は、カニの親子が旅立つところで終わっており、その後カニの親子がどうなったのか、魔女とどうやって対決するのか、ライオンは助かったのかは描かれていなかった。秀人は、続きをまだ書いていなかったのだ。


 紀子はそれから三日間、その秀人の絵本だけを繰り返し、繰り返し読み続けた。朝から晩まで、入院中のベッドで、飽きることなくただただ、秀人の作った絵本だけを読み続けた。秀人の絵本を読んでいくほどに、何か紀子の中の「こおったらいおん」が滴を垂らしながら、徐々に解けていくような感覚があった。そして、さらに反対を押し切ってでも魔女に立ち向かっていこうとする、強い「おかあさんがにと、やさしいこどもがに」のような気持ちが湧きあがっているのも感じていた。

 貴輝は、三日ぶりに朝から病室を訪れた。明らかに、紀子の表情が和らいで、こけていた頬は昔の艶を、僅かに取り戻していた。女子学生だったころの紀子の面影がはっきりとそこにはあった。

「あなた…。ごめんなさい。私、どうかしてた」

「いいんだよ」

「ありがとう。私、秀人の物語の続きを書く。秀人が思いださせてくれたの」

「よかった。秀人もきっと喜ぶよ」

「うん…ねぇ、あなた、キスして」

と突然言って、紀子はその潤んだ目をつぶった。

「おいおい、ここ病室だぞ」

と言っても、紀子は涙を一筋こぼしながら、目を閉じて待っている。

 貴輝は、その涙で濡れた唇に優しく唇を重ねるのだった。

その病室のベッドには、一筋の強い日の光が差し込んでいた。




 メゾン・ド・モリには、再び赤ん坊の夜泣きが響くようになった。また、子守が出来ると、林さんは大喜びだった。

 そして、再び三人になったその部屋に、宅配便が大きな段ボールを抱えてやってきた。髪を短くしてヘアピンで額を出した紀子が、それを嬉しそうに受け取り、待ちきれない様子でそのダンボールを開けた。それを、また同様に嬉しそうに貴輝が赤ん坊を抱きながら見ている。

そのダンボールから出てきたのは、絵本だった。著者献本用の段ボールが届いたのである。

 その本の表紙にはこうあった。

らいおんとかに しんかいひでと・作 さばえのりこ・絵

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