序章・ 第一話「ワンダーホィール」
神奈川県横浜市戸塚区に実在した「横浜ドリームランド」
この遊園地が好きで、ここを舞台とした幻想小説的な不思議な話を集めた連作短編を書きました。
序章
一九八〇年十二月八日、月曜日。神奈川県横浜市のはずれにある遊園地、ドリームランドで一人の少年が行方不明になった。
その日は、見渡す限り雲の欠片一つない、不気味なほどの快晴だった。
また、週末こそ混雑する遊園地も、月曜日は比較的空いていた。いやむしろ閑散としていると言ってよかった。この遊園地は自家用車でなければ、国鉄大船駅か戸塚駅からバスに乗車せねば到着出来ず、また国道一号線の慢性的に渋滞した交差点を通過せねばならないため、通常であれば十分とかからない距離にも関わらず、優に一時間以上かかってしまうことさえあった。そのような交通面での問題点を抱え、経営上も厳しいながらも、地元の神奈川県民から多く愛され続けてきた素朴な遊園地であった。
その少年は、遊園地の近所の公団住宅に住む小学三年生の男の子で、行方不明時、祖父と二人で遊びに来ていた。身長は約一三〇センチ、天然パーマで、黄色い潜水艦が描かれた白地のトレーナーにカーキ色のショートパンツ、戦隊ヒーローの「ジャッカー電撃隊」のプリントがされたビニール靴、という格好をしていた。
月曜日にもかかわらず、なぜ年老いた祖父と二人だけで遊園地に彼が遊びに来ていたのか。両親はいなかったのか、と思われるだろう。彼には両親は居たものの、母親は近所のスナックに勤めて昼夜逆転していて、たまに昼から起きて居るときもパチンコに行ってしまい、ほとんど家には居なかったし、父親も長距離トラックのドライバー兼、親から継いだ小さな運送会社の経営者でもあったため、やはり滅多に家には帰ってこなかったし、常に何かに対して苛立っていた。そして、両親とも自分の息子には殆ど関心が無いようだった。さらに、父親はたまに帰宅すると必ず大酒を飲み、そして口下手な彼は普段素面の時に自分の苛立ちや気持ちを言葉に出来ない分だけ、妻と子どもに対する暴力という形をとって表した。
少年には友達と呼べるような者もおらず、いつも一人ぼっちだった。そのただ一人の理解者が、彼の母方の祖父だった。少年も祖父だけには心を開いて、素直に笑顔になることができた。両親が育児を半ば放棄するなか、学校にはどちらかと言えば行かないことの方が多かった。
その日は、少年の九歳の誕生日だったという。やはり、その日も学校に行っていなかった彼を連れて、誕生日祝いにと祖父が遊園地に連れ出したのだった。こうして、たまに祖父に連れて行ってもらえるこの遊園地、ドリームランドが彼は大好きだったのだ。ドリームランドにいる時だけは、全てを忘れ、ただ夢の時間がそこに流れていた。少年はドリームランドにいる間中ずっと、やがて日が暮れて自宅に帰らなければならないということだけが嫌だった。そんな時はいつも「時間がこのまま止まってしまえばいいのに」とずっと心の片隅で思い続けていた。
その日の午後三時過ぎ、祖父が彼のためにバニラとストロベリーのミックスのソフトクリームを買って、彼が座っていたはずの白いベンチに戻った時、既に彼の姿はそこになかった。ソフトクリームの売店からそのベンチは目の前であったし、その間の時間もわずか三分とかかっていなかったはずだった。しかし、ソフトクリームが溶けだしていくに任せて、遊園地中のどこを探しても少年の姿は見つからなかった。むろん、すぐに祖父は迷子センターに問い合わせたが、やはり少年はおらず、やがて手の空いている係員が総出で捜索したが、一向に発見されなかった。祖父は可愛い孫を血眼になって探し、片っ端から少年を見かけなかったか尋ねまわったが、人々は顔を横に振るばかりだった。やがて園内にぽつぽつとネオンが灯り始め、ついには閉園時間の午後六時になっても見つからなかったため、警察に行方不明として届けられ、やがて付近の河川や森も含めて捜索されたものの手がかりは全く見つからなかった。ほどなく「誘拐事件」と推定され捜査が始まったが、それでもやはり手がかりは一向に出てこなかった。
ただ唯一の手がかりらしきものは、警察の聞き込みで、一人の六十代半ばの女性客が見た不審者の情報だけだった。それは、ちょうど少年が行方不明になった時間帯に付近をうろついていた「赤いマントの男」の目撃情報であった。その中年女性は、確かに時代錯誤な赤いマントを羽織り、シルクハットを被った長身の男性の後ろ姿を観覧車の前で見て不審に思ったものの、ここは遊園地で、そうした怪人やマジシャンのような格好をした者が歩き回っていてもおかしくはない、とその時は気にしなかったらしい。しかし、捜査員が調べたところ、その時間帯には大道芸もマジックも行われておらず、遊園地のどこにも赤いマントを着用するような制服もコスチュームもなかったことが分かったのだ。
その「赤いマントの男」が誘拐事件に関わっているであろうと推定され、捜索が行われたものの、それだけ目立つ格好をしていたにも関わらず、その中年女性以外、誰一人として目撃者もいないことから、その女性の証言自体の信憑性が疑われ、手がかりが一切ないまま捜索は打ち切られ、いわゆる「神隠し」として迷宮入りせざるを得なかった。
その後、少年の祖父はこの事件のショックからすっかりふさぎ込んでしまい、やがて心を病み、また少年の両親からも責め立てられた挙句、重度の痴呆と一方的に診断され、施設に入院させられたという。しかし今でも、孫の姿を探し続け、たびたび施設を抜け出しては付近を徘徊しているという。
その後、何度かドリームランド内で、黄色い潜水艦の服を着た少年の姿が目撃されたという情報があったものの、果たしてその行方不明になった少年なのかどうか定かでなかったが、その事件から何年も経っているにも関わらず、いつも目撃される少年の姿は一緒だったという。
第一話「ワンダー・ホィール」
彼女の表情には、深い愁いが刻まれていた。彼女の鋭い眉の間にある、わずかだが、はっきりと刻まれた皺はこの一年の間に刻まれたものだった。それはまるで、幼い頃に付けてしまった古傷のように見えた。しかし、その皺がこの一年の間に刻まれたことに気付く者もまた誰もいなかった。この一年間、俯き続け、誰とも目を合わせないでいたからだった。
あの日から、彼女は心を鎖し、一時はあらゆる感情と呼ぶことが出来るものすら、喪いかけていた。ようやく、一年間という歳月の中で、ゆっくりと潮が満ちてくるように少しずつだが回復しかけていた。
しかし今、あの時と同じように、この湘南の地に再び大きな風が吹き荒れていた。
強い風が、彼女の部屋の窓を激しく揺さぶるたびに、彼女の震えは激しくなっていった。いや、体は震えていない。心の奥深くから響く低周波のような震えに彼女は襲われていたのだった。
今日は、大型の台風が東日本に接近することが予報されていたため、海沿いに建つ彼女の高校は臨時休校になっていた。しかし、予報が外れたのか台風の進度は遅く、まだ雨は降らずに風だけが強く吹き、窓から見える空には、牧羊犬に追い立てられて走り回る羊たちのように激しい勢いで雲が東から西に向かっていた。きっと、午後には激しい雨を伴って大荒れになるだろう。
おそらく、多くの高校生たちが予測を外して先走って臨時休校措置をとった教師たちを嘲笑っていただろう。そんな中、彼女は自分の部屋のベッドの中に包まったまま、朝から身動きが取れないでいた。
この半年ほどをかけて、ようやく繭から孵化できるところまで彼女は回復していたかのようだったが、この嵐が再び、頑なにさせてしまっていた。彼女は、蒲団に包まりながら、文字通り繭のようになって、震える窓と共振するように震え続けていた。
その姿と裏腹に彼女は大きく深呼吸した後、小さく呟く。
このままじゃいけない。でも、だめ、一歩が出ない。いくじなし。あいつならどうするんだろう。でも、そもそもあいつのせいでこんなことになったんじゃない。もう、いい加減にしなきゃ。もう一年じゃない。
突然、思いきり蹴り上げられた蒲団が宙に浮かんだ。その勢いのまま、彼女はベッドから飛び起き、窓に近付いた。
彼女の家は、南に海を臨む丘陵地に築かれた七里ヶ浜住宅地を登りきった、その山際にある。部屋の窓からは、僅かだが雑木林と向かいの家の隙間から海が見えた。
彼女は、力強く窓を開けた。カーテンが踊るように、風にはためき、潮の薫る強い風が部屋に一気になだれ込んできた。そして、彼女のショートカットの髪も乱れ踊った。
「ばか」
そっと彼女はつぶやいた。しかし、その声は風にのまれ、誰に届くこともなく、海の方へ流されていった。
黒い男物のポンチョをクローゼットの奥から取り出し、着込んだ彼女は、家を飛び出した。やはり雨はまだ降っていない。しかし風は強く、まともに正面を向くことすらできない。俯いたまま、海に向かって坂を下っていく。しかし、その足取りは風に逆らおうと力強かった。それは、彼女にとって憎むべき、この嵐に対する怒りであり、彼女なりに何かに対する決着をつけるための行進でもあった。海辺の町で生まれ育った彼女にとっては、台風や高浪の日に興味本意で海に近づくことは固く禁じられ続けてきた行為だった。保育園でも小学校でも、口酸っぱく刷り込まれたそのタブーを破っていることが、何か彼女に言い知れない背徳感とともに、革命に向かって行進する市民のような興奮と高揚感をもたらしてもいた。
コップの水が溜まっていくように、次第に水平線が視界を埋めていき、海沿いを東西にのびる国道134号線まで坂を下りてきた。さすがに台風が近づいているだけあって、週末はいつも渋滞している二車線のこの道でも車の量は少ない。時折大型トラックが、けたたましく通り過ぎて行くくらいだった。
彼女は、海沿いの歩道までたどり着くと、手すりにつかまりながら海を眺めた。手すりの下は砂浜に対して、切り立ったコンクリート壁になっていた。しばらくの間、しぶきまじりの強い潮風にさらされ続けながら、普段は穏やかな湘南の海が、怒り狂ったように荒れるのを眺めていた。彼女だけでなく、この町に住む者にとって海はあまりにも日常の風景の中に溶け込んだ空気のような存在だった。しかし、彼女はこの一年間、海というものを意識的に自分の中に入れないように生活してきた。もちろん、そこに海は常にあったのだが、彼女の中にそれは海と認識されるものではない、それは無あるいは空白とでも呼べるようなものだったのかもしれない。
今あらためて見る海はまるで、山奥で生まれ育った老女が初めて海を見たときのような、新鮮な驚きを伴っていた。
そして彼女は、聴き取れないほどの僅かな声で再びそっと囁いた。
「ばか」
しかし、やはりその声はどこにも届くこともなく、強い風の中にかき消されて流れていった。ふと、彼女は自分が涙を流していることに気がついた。既に、波しぶきを含んだ風にさらされて濡れた顔の中でも、そのしょっぱい水は重みをもって彼女の瞳から落ちていたからだ。
彼女は、荒々しくしぶきと涙をかき混ぜてしまうように、顔を両手で拭い去った。
その時、霞んだ視界の中、遠くの波間に真っ黒なウェットスーツを着たサーファーが見えた。
まさか、さすがにこんな荒波の中に入っていくなんて、自殺行為だ。彼女はそう思って、霞む目をこすりながら、目を凝らしたが、再びそのサーファーを見つけることは出来なかった。いや、果たしてそこに本当にサーファーがいたのか、あるいは嵐が飲み込んだ古タイヤや流木に過ぎなかったのかどうかも、定かではなかった。
あるいは。いや、どうかしている。
彼女は、海から目を反らし、目を強く閉じて俯き、何かを振りほどくように顔を左右に揺らし、また、とぼとぼと、右手の西に見える江ノ島とは反対方向の東に向かい再び歩き始めた。
右頬には、荒れ狂う波が、強い風に乗ってしぶきになって、叩き付けられるが、彼女はポンチョのフードを両手で押さえて、じっと耐えるように歩き続けた。彼女の行く手と同じ方向に、丸みを帯びた五〇〇系の江ノ電がヘッドライトを付けたまま通り過ぎ、山側のの極楽寺方面の住宅街の中に消えていく。乗客は最後尾の車両に乗った、白髪と白髭を長く伸ばした老人が一人だけだった。その老人は、山側の座席から海を眺めていたが、彼女の姿に気が付いたのか、表情は変えないまま、じっと彼女の方を見つめていた。
彼女は、何やら幽霊電車にでも遭遇したような奇妙な気持ちになった。
そして彼女は歩きながら、この一年間、何万回も考えたことを再び繰り返した。
なぜ、私の大切な人は皆死んでしまうのか。
彼女に「翠」という名を付けた父親は、彼女が八歳の時に丹沢山麓の玄倉川で、溺れた彼女を救い、身代わりのように死んだ。彼女の名前も山を愛する父が大自然の新緑の美しさから付けたものだった。だから、物心ついたころから、翠は父と一緒にキャンプや登山に出掛けていた。母親は、当時からキャリアウーマンとして東京の外資系の保険会社に勤めており、休日もなく働いていた。そのため、両親と翠の三人家族だったが、出掛ける時は翠と父の二人だけということが多かった。必然的に、翠は父親っ子になった。
神奈川県の北西部に広がる緑深い丹沢山地は二人が慣れ親しんだ庭のような場所で、そこにあるキャンプ場も玄倉川も慣れ親しんだ川だったはずだった。しかし突然滝のように降り出した雨はあっという間に、川を透き通ったせせらぎから、濁流のうねりへと変貌させ、中州で一人遊びをしていた翠の体を飲み込んだのだった。咄嗟に対岸から助けに川に飛び込んだ彼女の父は、彼女を岸辺に押しやったところで、持病の心臓の発作を起こしそのまま、なす術もなく流されていった。彼女には、流されて行く時の不思議と安らかな表情をしていた父親の顔が忘れられなかった。
むろん、翠はこのことがあって以来、自分を責め続けてきた。母親は、このことで翠を直接責めたことは一度もなかった。しかし、その母の気遣いがより一層翠の心には重くのしかかってきた。翠はそのことがあって以来、母と二人だけで暮らしてきた。母は、父が死んで以来より一層仕事に生き、がむしゃらに働き空白の時間を一切作らないことで父の事を、必死に忘れようとしているようにも見えた。翠は母に代わって、出来得る家事の一切をしてきた。しかし父の事を忘れることなどは到底出来なかった。
翠は今でもずっと自分を責め続けている。自分だけが死ねばよかったとすら何度思ったか分からなかった。
気が付くと、台風は少しずつ強さを増してきているようだった。強く吹く風にも、彼女を責めるかのように叩きつける雨が混じり始めてきた。そして、今自分が、七里ヶ浜の東端にある岬、稲村ヶ崎に立っていることにふと気付いた。自分がどこに向かって歩いていたのかも、足元だけを俯いて歩いていたため自覚していなかったのだった。そして、さまよい歩くように稲村ヶ崎公園の中に足を踏み入れた。
この岬は、七里ヶ浜と由比ヶ浜とを分ける位置にある小さな岬だ。その岬の西側の、江ノ島を臨む方向に向けた緩やかな斜面が公園になっている。その公園の南端には、相模湾に向けて、一人の少年が右手を突き上げるというよりも、溺れそうなところから助けを求めるように手を挙げた姿の銅像が立っている。これは、かつてこの海で、ボートが転覆し十二名の少年たちが遭難死した事故を悼んで建てられた像だ。彼女は、この救いを求めるような少年の不吉に歪められたその手の指の形を見るたびに暗澹たる気持ちになった。
だから、翠はこの銅像からは目を反らすように俯きながら歩き、江ノ島を臨む海際で立ち止まり、ようやく顔を上げた。と、同時に強い風が彼女のポンチョのパーカー部をはじき、彼女の短い髪は再び踊り狂った。
既に、本格的な台風の到来と、雨交じりの強い風に視野は霞んでいたが、まばらな雲間から瞬時、江ノ島の、動かないまま化石化した巨大な亀のような輪郭を確認することが出来た。
その亀の背中には、ひときわ目立つ奇妙な灯台が載っていた。それは、螺旋に組まれた無骨な錆びた水色の鉄骨の頭に、白い蝋燭を乗せたようないびつな形をした灯台であった。この灯台は、かつては東京の多摩川沿いの二子玉川にあって、先の戦争の出征兵士の落下傘訓練用に作られたものだった。それが戦後「よみうり平和塔」という名に変えられた後、はるばるこの湘南の地に引っ越し、その後「江の島展望灯台」と再度名を改められた、そんな灯台だった。
翠の目に、灯台が飛び込んできたとき、彼女の心の中に何らかの記憶が呼び覚まされるような感覚があった。
なんだろ。この感じ。
その記憶を開く引き金になったのは、どうやら江ノ島の灯台のその建物の姿だった。無骨で、錆び付いたうち棄てられたような鉄骨、建物…。
彼女の中にあるどろりとした記憶が這い出てくるような感覚に目眩を覚えてその場にうずくまった。そして、強く目をつぶった。そして、つぶやいた。
「…ドリーム、ランド」
翠が達生と、初めてドリームランドに行ったのは、二人が小学六年生の年。一九九四年の一月だった。その日は、音もなくしんしんと雪が降っていて、多くの屋外アトラクションが運休になっており、当然客はまばらどころか、ほぼ二人だけの貸し切り同然だった。
小学生二人が、まるでデートのように、この遊園地に来たのは成り行き上に過ぎなかった。もちろん、物心ついた時からの幼馴染同士である二人が、遊園地に来ること自体に抵抗はなかったものの、小学生から間もなく中学生になる歳ともなれば異性を異性として意識し始める頃でもあり、それは二人も例外ではなかった。
その当時、鎌倉の極楽寺の谷戸の奥に二階堂秀爾という名の白髭を仙人のように伸ばした高齢の老人がそろばん教室を開いていた。その名の厳めしい響きとは裏腹に子ども達から「ひでじい」と呼ばれる、少し間の抜けたお人よしの老人だった。二人とも、その教室にほんの一年ほどの間だったが、同時に通っていた時期があった。
そろばん教室と言っても、ひでじいはわら半紙にガリ版の計算プリントを渡して、採点をするだけで、ほとんど自分たちでそろばんを使ってプリントの答えを埋めていくだけの教室とも呼べないような教室だった。ゆえに、プリントの答えが全問正解できた生徒から先に帰ることが出来た。その日も、翠は早々に問題を仕上げることが出来たが、達生はそろばんに慣れず、いつも最後まで居残っていた。日も沈んできたころ、翠は幼馴染の達生の計算の手助けをし、あるいは邪魔をし、としているうちに、他の生徒たちは一人二人と、ついには誰も居なくなり、教室には生徒は二人だけになっていた。ひでじいはいつも通り、正面の机で腕組みしながら目を瞑って居眠りをしていた。
「ほんとに、タツはバカだなぁ。なんで、こんな簡単な計算、間違えてんのよ」
「うるせぇなあ、俺の事はいいから早く先に帰れよ」
「いやよ。もう真っ暗だし、痴漢とか出たらどうすんのよ。こんなか弱い少女を一人で歩かせるつもり?」
「バッカじゃねぇの、お前みたいなブスを誰が襲うんだよ。痴漢が逃げるわ」
「言うじゃない、くらえ痴漢撃退の練習!」
翠は、達生の二の腕をげんこつで殴った。
「いってぇなあ、ブス! ブス!」
いつも、このような調子で二人は傍から見たら喧嘩しているようにしか見えないながらも、まるで夫婦漫才のようなやり取りをする中に、他には誰も加われないような親密さがあった。二人は、親同士がまた幼馴染であることから、物心ついたころからの兄妹のような、あるいは時に姉弟のような関係だった。
「んー、あーもう終わったのかぁ」
ひでじいが、二人の痴話げんかの喧しさに目を覚ました。
「はい、終わりました」
達生が、大きい声で言う。
「まだ、終わってないでしょ」
小声で翠がたしなめ、達生の太腿をつねる。
「おぉ、そうか、もう日も早くなって暗いから、今日はもう帰りなさい」
「はーい」
夫婦漫才をやめた二人は、声を揃えて答えた。
「そうだ。ちょうど二人だけ残ったことだし、出来の悪い友達のために残ってくれた翠へのご褒美も含めて、いいものがあるんだ」
「え、何ですか、何ですか」
達生は、身を乗り出して聞いた。
「あんたにじゃなくて、私へのご褒美でしょう」
「いや、そな大層なもんじゃないんだが、昨日新聞の更新したら、新聞屋が洗剤と一緒にな、くれたんさ。わしゃ大洋ホエールズの券よこせって言ったんだが、これしかないってよこしたんさ。この老人にこんなものもらったところで、使い道ないもんでな、確かにわしもこの遊園地が開園して直ぐの頃には、ばあさんと娘連れて大船からモノレール乗って行ったがねぇ…」
ひでじいは、引き続き何かの思い出に浸りながら目を瞑ってぶつぶつつぶやいていたが、二人の耳には聞き取ることはできなかった。その手の中のチケットには、英国近衛兵のキャラクターが描かれ、背後にはカラフルな観覧車の写真が写っている。観覧車の真ん中には「DREAMLAND」という虹色を一文字ごとに振り分けた文字看板がぶら下がっていた。
「ひでじい、何だよ、せっかくなんだからさ、こんなダサい遊園地じゃなくてさ、ディズニーランドとか、ワイルドブルーヨコハマとかの券ないの」
「いらないなら、やらんぞ」
「ください」
とっさに、翠はひでじいに手を差し出して、チケットを受け取った。
「なんだよ、お前誰と行くんだよ。母ちゃん忙しいだろ」
「あんたとよ」
「えー、まじかよ。カンベンだぜ」
こんな成り行きの末、二人はドリームランドに行くことになったのだ。しかし、まだ幼い二人ながらも、異性としての他者意識の目覚めだったのか、何かそれに後ろめたさを感じていたのか、帰りがけの会話の中でそれぞれの親には秘密にしておこうということになった。
達生には兄弟は居なかった。達生の母は達生がまだ三歳の時に、突然居なくなったらしいということだけを、翠は自分の母と達生の父が地元の幼馴染同士だったところから間接的に聞いて知っていただけだった。その実、夫である達生の父も、全く心当たりのないまま、ある日、由比ヶ浜駅前の商店街に魚を買いに行くと言って出掛けたまま戻らなかったのだった。すぐに「探さないでください」とだけ書かれただけの葉書が届き、半年後に、彼女の実家とは関わりのない北海道の消印で押印済みの離婚届だけが送られてきたという。達生の父は何かを察したのか、それ以上探そうとはしなかった。
当然、達生は母親の顔はぼんやりとしか覚えていないし、自分を捨てて出て行った母親を憎んでもいた。幸い、達生の父の実家が遠くない由比ヶ浜にあったため、実質達生は祖父母に育てられることになった。達生も、近所の人達から聞かされていたのか、祖父母が教えていたのか、それとなく察していたのか、どこかで「自分は捨てられた人間だ」という劣等感を拭い去ることが出来なかった。普段は明るく振る舞っていても、突如黙りこんで何処か遠くの方をぼんやり眺めていたり、友人たちの輪の中で一見楽しそうにじゃれつき合って談笑していてもどこか心ここにあらずといった表情を隠せずにいたりすることが、幼いころから頻繁にあった。
ゆえに翠も達生も、一方は死別で一方は蒸発という差こそあれ片親で、しかもいずれも残った親は忙しくして不在という共通点を持つ者同士、自由に時間と一定の小遣いを使える立場にあり、またお互い明確な言葉にこそしないものの消極的要因ながらどこか共鳴し合うものがあった。
ひでじいから、チケットをもらったのが一九九三年の暮れのことだったが、二人がドリームランドに行くのは、翌年の一月二〇日の月曜日とそれとなく決まった。その日程に明確な根拠があったわけではなく、もらった券の期限が一月末までの有効期限だったからに過ぎない。翠の母は東京の丸の内で、達生の父も横浜の関内で夜遅くまで働いていたので、学校をサボることも容易かった。なぜ、わざわざ平日に学校をサボってまで、遊園地に行こうと思ったのか、それは、そもそも親がいる可能性がある休日には小学生二人だけで遊園地に行かせてもらえそうになかったこと。休日に行って、もしも誰かに見られたら妙な勘違いをされるかもしれないことなどを考えて小学生なりに決めたことだった。二人とも、前日に示し合わせ、学校には仮病で欠席の連絡を電話で済ませたが、ちょうどその頃は、私立中学校の入試などで休む生徒も少なくなかったので、二人の欠席はもとより目立たなかった。そして普段使う駅よりも一駅江ノ島寄りの「鎌倉高校前」で待ち合わせた。
十時に待ち合わせの約束だったが、学校をサボタージュすることへの背徳感と、幼馴染とはいえ男子と二人で遊園地に行くということへの妙な緊張からか翠は時間を読み違えて、二十分も早く駅に着いてしまった。「鎌倉高校前」駅は、南向きに単線の線路と国道246号線だけを間に挟んですぐに七里ガ浜を至近に臨む駅で、翠はホームのベンチに浅く腰掛けて、一人海を眺めていた。
しかし、その日に決めたのまでは良かったが、天気予報までを含めて予定をたてられるほどの緻密さは幼い二人に求めようがなかった。その日はひどく寒い日で、午後からは雪が降るという予報だった。翠は分厚い濃茶のダッフルコートのフードをかぶり、口元までマフラーを巻き、縮こまっていた。海の上には、重たい分厚い雲がのしかかって、海も空も灰色で染められ、意識しなければ水平線も仄かな蜘蛛の糸のようにしか見えなかった。
ようやく待ち合わせた時間ちょうどに達生が現れたが、紺に白字の「W」がまぶしい横浜大洋ホエールズの野球帽、ケミカルウォッシュのデニムジャケットとウグイス色のコーデュロイパンツに、エアジョーダン8という、小学生にしてはめいっぱい背伸びをした格好をして、せめて中学生以上に見えるように努めていた。確かに、二人とも背の順ではいつも後方にいた方なので、中学生と言われれば充分そのように見えた。
「いいか、おまわりさんに聞かれたら、学校の創立記念日なんですって言うんだぞ」と、示し合わせて、二人の秘密の小旅行は始まった。
鎌倉高校前からは、鎌倉方面には向かわずに、なるべく知り合いに会わないように、藤沢方面に向かう江ノ電に乗車した。お互い学校をサボタージュするのは決して初めてではなかったものの、二人に言い知れない背徳感と高揚感をもたらしていた。さらに、江ノ電は腰越駅を過ぎると「しらす」と書かれた幟が立ち並ぶ商店街に挟まれた狭い道路の真ん中を路面電車として走る。突然、車窓から手の届きそうな距離に買い物かごを下げた主婦や、自動車が並走し始めるのだ。その不思議な異空間に迷い込んだような感覚が翠も達生も好きだった。
江ノ電は、江ノ島駅に到着した。二人はここで降り、しばらく歩いて、湘南モノレールの湘南江の島駅に乗り換える。このルートでドリームランドに行こうと提案したのは、達生の方だった。知っている人と会う可能性の高い鎌倉駅方面ではない方向ということもあったが、達生がこの湘南モノレールに単純に乗りたかったというのが主な理由だった。翠はそんな、実際子どもなのだが、子どもじみた「男の子」である達生をからかいつつも、一方で愛らしくも感じていた。達生が、この湘南モノレールを好きな理由は、やはり珍しい懸垂式モノレールであることだった。下を覗けばまるで空を飛んでいるような感覚になれ、また大船まで、鎌倉の山や丘のトンネルを抜けて住宅街の上を滑るように走っていく感覚が好きなのだという。達生にとっては、ここからもう既に遊園地が始まっているような、高揚感が味わえるのである。
しかし、二人が銀色のボディに赤いラインが入った、科学特捜隊のロケットを連想させるモノレールに乗車した頃には、江ノ電から見えていた曇り空はその濃さを更に増して、いつ雪が降ってきてもおかしくないほどになっていた。
翠は、その時の鼻の奥がツンとするような冷たい湿気を含んだ雪の気配だけは、昨日の事のように思い出せた。時に、思い出というものは視覚よりも嗅覚や肌感覚のほうが鮮明に残ることがあるように。
幾つかのトンネルを抜けて、住宅街の軒先をくぐり抜けてモノレールは大船駅に近づいていた。車窓から突如白い巨大な上半身だけの観音像が段丘の頂に現れる。大船観音だ。いつも大船に着くと、緑の小山と青空に挟まれた真珠色の大船観音が出迎えてくれる。この瞬間が二人とも好きだった。
しかし、今日は重く垂れ込めた曇天の下で、いつもの青空とのコントラストはなく、観音様の輪郭すらはっきりしなかった。その事と、学校を「ズル休み」している自分を瞳のない慈悲の目でとらえられていることへの罪悪感も加わって、さっきまでの浮ついた気持ちから急に不安な気持ちに翠は包まれていた。
二人が大船駅でモノレールを降りた頃には、音もなくハラハラと雪が降り始めたが、今更後に引けなかった。バスに乗り換え、最後尾の中央に座り込んだ時には二人共黙り込んでいた。乗客も平日だけあって遊園地に行くような雰囲気なのは一番前に座っているお爺さんとその孫らしき少年だけで、他にはサラリーマン風の男一人と、買い物帰りの中年の主婦が一人だけだった。
その沈黙を破った達生の話題は、全く何の脈略もないものだった。
「翠はさぁ、一九九九年の六月三十一日って、何して過ごす?」
「え、何よそれ。だいたい六月は三十日までよ」
「あ、そっか。まぁいいじゃん、とにかくさ、人類が滅亡する前日に翠だったら何して過ごすかってこと」
「うーん、私だったら何するかなー。そうね、とにかく食べたいもの片っ端から食べるね。ケンタッキーのカーネルバーレルと、マイアミのショートケーキをまるごと独り占めして食べるかな」
「おえー、さすがは大食いデカ女だな、吐き気してきたよ。お前に聞いた俺が馬鹿だったよ。もうちょっと、女だったらさ、ほら例えば好きな奴と一緒に過ごすとかさぁ、そういうこと言うもんじゃないの」
「えー、私好きな人なんていないし…」
突然、翠は黙り込んでしまった。恥ずかしさからではなく、かつて大好きだった父親を亡くしてから、誰かを好きになることに対しての禁忌の念を自然と抱くようになってしまっていたこと、そして「好きな人」という言葉から父のことを瞬時、思い出したからだった。父を亡くしてまだ数年しか経っていない翠には度々こういうことがあった。
しばらく沈黙が続いたあと「ごめん、俺変なこと言ったかな」
「ううん…。でもさ、何でまた一九九九年なのよ」
翠は、自分が黙り込んだせいで気まずくなった空気を変えようと、無理に明るい口調で話題を戻した。
「お前、そんなことも知らないのかよ。これだよ、これ」
達生は、前に抱えていたその大人ぶった格好と不釣り合いなアシックスのリュックサックの中から、ケイブンシャの大百科を取り出した。翠は、思わず吹き出してしまった。この年頃の女の子は、男の子よりも一歩大人びているものだが、にしてもまさか中学入学直前にもなって、彼のリュックから、怪獣やらアニメヒーローの類の大百科事典が出てくるとはちょっと予想していなかったからだ。
「なんだよ、笑うなよ。俺はマジなんだぞ」
「ごめんごめん、タッちゃんはホントおこちゃまだね」
と言いながらも、大百科シリーズという子ども向きながらもその表紙はおどろおどろしいタッチの油絵で、モーゼが海を真っ二つに割るときのような格好で白髭の老人が杖を持って何かを叫んでいるような姿、そしてその背景には隕石のようなものが落下している、という縮尺も状況も支離滅裂な絵だった。しかし、翠は白髭の老人から極楽寺のひでじいを連想してまた吹き出しそうになった。
「なにこれ、気持ち悪いね。心霊写真? 宜保愛子?」
「ちっがうよ! ノストラダムス! お前本当に何も知らないんだな。お気楽な奴だ。羨ましいよ」
「ノートルダム、ス?」
翠は、ノストラダムスは知らなかったが、一九三九年版の『ノートルダムのせむし男』を父の遺したビデオコレクションで観ていた。
「だから、ノストラダムスの大予言だよ。一九九九年の七の月に空からアンゴルモアの大王が降ってくるだろう、ってやつだよ。先週の水曜スペシャルでもやってたじゃんか、観てないのかよ」
「私、NHKしか観ないし」
と小声でつぶやいてから
「やだ、あんなの信じてんの、バカじゃないの、私はそんなことで人類が滅亡するなんてことないと思うな」
と、からかう様に言った。
「お前は、甘いな。地球上を支配していた恐竜たちだって、たった一発の隕石で滅亡したんだぜ、人間なんていちころさ」
「ふーん、で、タッちゃんはどうすんのさ」
「え?」
「だから、人類滅亡の前日」
「あ、いや、まぁさ、その、やっぱり例えば自分の好きな人といたいよな。うん」
「ロマンチストだね、達生は。あんたの方がよっぽど女みたいじゃん」
「うっせぇ。男女」
その時、二人は最後尾の座席に座っていたが、バスの通路の先のフロントガラスの奥に、五重塔を高層ビルのように垂直にひょろ長くして二十階建てにした異様な建物が目に飛び込んできた。バスが走る道路傍には野菜の直売所があり、横浜市内でも特に田舎じみた道路を走るバスの車窓から突如出現する、異次元空間から突き出てきたような一種不吉さを伴うホテルは、それまで喋り続けていた二人を再び沈黙させるのに充分な威圧感があった。
翠はその建物を一度、江ノ島の灯台の上から父親と二人で見たことを覚えていた。この異様な高層ホテルは横浜の田園地帯にただ独り卒塔婆のように佇んでいて、否が応でも目立っていたからだ。その時は、そこにある遊園地のホテルだというだけで大して気にもかけなかったが、いま目の前に聳え、近づいてくる「ホテルエンパイア」は、その時に達生と交わしていた不吉な黙示録に相応しいバベルの塔のようにも感じられた。
その再び訪れた沈黙を、陽気な声で破ったのは達生だった。
「とにかく、俺は人類滅亡の前日にお前なんかとは会いたくもないからな。今日だって、お前があのボケ老人から余計なタダ券なんか恵んでもらうから仕方なく付き合ってやってるだけだかんな」
「私だって、ゴメンよ。私は、あんたみたいな鼻垂れ大百科なんかと過ごさずに、スラムダンクの流川くんみたいなステキな人と過ごすもんねー」
「はぁ、お前マンガのキャラと過ごすのかよ、可哀想なやつだな。お前こそガキじゃねぇかよ」
こうした、二人の「ふざけ」のやり取りは、確かに仲の良さの表れでもあったが同時に、二人ともに、幼いころから親に気を遣い続け、大人の顔色を伺いながら生きてきたことから、素の自分をさらけ出すことに抵抗があるがゆえに、二人とも道化的な自分を演じあっていたという側面が強かった。本当は、二人ともに気が弱くて、人の目を気にしすぎるぐらいの内面を持て余していて「ふざけ」という道化を加えないと、本当は恥ずかしくてまともに話すことすら出来なかったのだった。
そんな二人が照れ隠しのやりとりに夢中になっているうちに、ドアが空気圧で開く音で、バスが終点のドリームランド前に到着していたことに気が付いた。いつの間にか、他の乗客たちはどこかの停留所で降りていたらしい。二人だけがバスの最後部座席で取り残されていた。
バスを降り、空を見上げるとハラリハラリと既に重みを伴い始めた雪が白一色に染まった空から落ちてきていた。空を見上げたその先には、先程から視界に入っていた不吉なシルエットのホテルが聳えおり、下から見上げると遠近感が狂わされるような異様な威圧感があった。
既に二人の足跡が白い縁取りで残っていた。
しずかだった。
時が止まったような場所だった。
二人とも、この遊園地に来るのは初めてだった。見渡すと、遊園地の入り口が見えた。凱旋門を模したゲートだが、そこにはこの遊園地定番のイギリス衛兵どころか誰一人の姿もなかった。夢の国の入り口ではあったが、その背後には遊園地の名を冠した集合団地が屏風のように囲んでそびえ立ち、奥まで広がっていた。夢の国とは対極にあるはずの生活感しかない団地がなぜか、全く違和感なくそこに溶け込んでいた。それは、日常空間の裂け目に出来た異空間たる遊園地と、本来あるべき生身の生活から隔離され、合理性と直線だけで作られた集合団地が「異物」という点で共通していたからかもしれない。
「今日、やってなかったんじゃない」
あまりのひとけのなさに達生が口を開いたが、その声には自分たちが間違った時間の、間違った空間に迷い込んでしまったことへの後悔が滲み出ていた。
「やっぱ帰ろうか。何か気味悪いとこだな。天気も悪いしさ」
「なに言ってんのよ、せっかくここまで来たんだから、行ってみようよ」
「うーん」
そう指差した方向を見た瞬間、翠はその凱旋門の陰に赤いマントを羽織ったシルクハットの男の後ろ姿を垣間見た。
「あっ、誰かいる。ほらマジックショーか何かだよ。やってるよ。行ってみよ」
翠が、達生に向かって話しかけている間に、再び正面を向くとそこには既に誰も居なかった。
「えっ、誰も居ないじゃん」
「いや、確かに何かいたし、きっと雪だけど遊園地はやってるよ。いこ」
翠はそう言いながら、気乗りしない達生を放って、一人入り口に向かって歩いていた。
「ちょ、待ってよ」と情けない声を出して達生が追いかけてくる。
こんな具合に、物心ついたころから幼馴染同士の二人は、達生は強がってこそいてもどちらかというと翠の方が男性的で、達生の方が女性的な面が、この頃は強かった。実際、この年頃の男女が概ねそうであるように、この時の身長は翠の方がげんこつ一つ分高かった。
そんな男勝りな翠も、入り口に向かって歩いているうちに、ゲート手前の左手に見えてきた「ドリーム銀座」という一見して廃墟かスラム街にしか見えない小さなアーケード商店街を目にしてだんだん不安になってきた。「シャレたセンスのショッピング」と書かれたアーチ状の看板の色はほぼ剥げ落ちて、周囲が錆びている。またそのアーチを入り口にして灰色の何の夢もない雑居ビルが連なっている中「ドリーム歯科」という看板だけがぼんやり光っていたが、他の商店全てがシャッターを下ろし、営業している様子が全く見えない。そして、そのシャッターには地元の暴走族達が夜中に描いたであろう、不気味な落書きがびっしりと書かれていた。
その商店街の一番正面にある「おみやげ」という字が僅かに読み取れる看板の下のシャッターの前に何か黒い塊が居るのが目に入った。それは片目が潰れてボロボロになった毛の黒猫だった。その猫が片足を上げたまま立ち止まり、その残った片目でこちらの様子をうかがっていた。
「あ、猫がいる」
「黒猫に横切られると縁起悪いぜ。早く行こう」と達生は促した。
こうして、二人は初めてドリームランドに足を踏み入れたのだった。
五年後の今までその時の記憶を翠自ら、自身の奥底に沈み込ませていたので、はっきりと思い出せなかったのだ。
それが、今、嵐の中の稲村ヶ崎公園に立ち、あの時のことが鮮明に蘇ってきた。まるで、記憶喪失から醒めつつあるかのように。その引き金になったのは、江ノ島の頂に建つ無骨で錆びついた鉄筋の奇妙な形をした灯台だった。それそのものが、ドリームランドのあちこちにあった錆びついた鉄筋、かつてそこにあった夢を引き受け、今は打ち捨てられた錆びついた鉄と同じ質感を持っていたからだろうか。そして、錆びた鉄の匂いは、どこか血の匂いとも似ている。
あるいは、かつて彼女が、幼いころまだ生きていた頃の父親と一緒にその灯台に登り、その時に見たドリームランドの不吉なホテルの姿と結びついたからかもしれない。
しかし、昼間に突然打ち上げられた花火のように不意に彼女の中に蘇ったドリームランドの記憶だが、どうしてもあるところから先が思い出せなかった。
それは、彼女の心の中でも最も深い井戸の中の、泥水の中に沈んだ鍵の掛かった小箱の中のような記憶だった。達生がいなくなってから、彼女の記憶の中から意識的にも無意識的にも達生のことを無理に思い出さないようにしてきた。彼を失って、彼の存在の大きさを初めて知った彼女の、それを初めからなかったことにしようとする彼女自身の精神的な防衛本能からなされたものだったのだろう。その防波堤が今崩れて、津波のように彼女の中に一気に彼の思い出が蘇ってきたのだった。
しかし、それでもどうしてもある記憶を境にして、そこから先を思い出すことが出来なかった。
翠は公園の片隅で、降り始めた強い雨に打たれて、うずくまりながら頭を抱え必死に、思い出そうとしていた。まるで、幼い子どもが空き地に埋めた宝箱が、掘り出すときにどこに埋めたのか思い出せないでいるかのように。
確かに、遊園地は営業していた。入り口ゲートでも他の客の姿は見えなかった。入園窓口の係員女性の表情は細かいひびが無数に入ったアクリルによって垣間見ることは出来なかったが、愛想のないことは確かだった。その女性にひでじいからもらった券を渡し、中に入った。やはり、入口広場も既に雪で白く染められていた。空と地面が白く、かといって日の光はぼんやり差し込み、またそれが反射して妙に眩しい遊園地の入り口の広場で二人はただ、佇んでいた。しかし、風はなく不思議と寒さを感じさせなかった。そして、何より不気味なくらいに静かだった。雪の落ちる音すら聞き取れそうだった。
いや、微かな耳鳴りのようにどこからともなく、僅かに音階がずれた奇妙な旋律のパイプオルガンが聴こえている。どうやら、正面遠くにあるメリーゴーラウンドかららしい。
二人共、静謐かつ不気味ですらある雰囲気にのまれて、先程から茫然としていたが、ようやく遊園地らしい乗り物を見つけて少し安堵した。そして、光に導かれる虫のようにそのメリーゴーラウンドに向けてゆっくりと歩き始めた。
「あれ、俺たちの他にもお客さんいるじゃん。こんな雪の日に、もの好きもいたもんだね」
「あんたも、私もそのひとりじゃない」
「それ。俺たちも変人だな」
その自分たち以外の客の姿が遠目に見えた。一人は十歳ぐらいの少年だった。そして、それを外から見つめる母親らしき姿だった。それは一見、ただの微笑ましい光景に過ぎなかったはずなのだが、何か翠には妙な違和感を与えていた。
「ねぇ、あの人達ちょっとおかしくない?」
「え? だから俺たちもだって」
「いや、そういう意味じゃなくてさ、ううん、何でもない」と、とっさに翠は打ち消したが、やはり翠にはそこにいるべきでない者が、そこにいるような感覚を与えていた。
その違和感の一つは、木馬に跨って母親に手を振っている子どもの方が、冬空の下で余りにも薄着であることだった。現に今、静かに雪が降っている中、その子は、白いランニングシャツにカーキ色の半ズボンなのだ。そして、それをにこやかに柵の外で見つめる母親は、着物を着ている。しかし、それも掠れたような紺色の紬のようだった。眼鏡をかけているが、それも鼈甲縁の分厚い眼鏡だった。全体的に、季節感のずれと同時に時代錯誤感を感じさせる二人だったのだ。翠は、眼鏡こそかけていなかったがこの頃から視力があまりよくなかったこともあり、ぼんやり靄がかっていたが確かにそう見えていた。
木馬が回転するので、少年は視界から消えて、母親もそれを追うようにゆっくり歩いて、二人の死角の裏側に消えた。
メリーゴーラウンドに徐々に近付いていくと、それはこの寂れた遊園地には似つかわしくないような豪奢な装飾の施された二階建ての立派なものであることが分かった。先程から回転を続けているが、さっきまで木馬に乗っていたはずの少年の姿はいつまで待っていても、明らかに一周以上はしているにも関わらず、見つけることが出来なかった。誰も乗っていないのだ。
翠は目を疑って、今自分が見ていた親子がそこに実在していたのかどうか自信が持てなくなった。
「あれ、さっきの親子どこに行った?」
と、翠が聞いたがなぜか、達生は少し虚ろな目でメリーゴーランドが回転するのを見つめていて、翠の声が届いていないようだった。
「ねぇ、達生! 聞いてるの?」
「え、あ、うん。あそこにいるよ」
と言って、達生の指差した方向に二人の親子は背を向けて歩いていた。親子が向かう方向には、中央に虹色の彩りでDREAMLANDというネオン看板が取り付けられた、この遊園地のシンボルであるワンダーホイールという名の観覧車が、灰色の空を背景に聳えていた。それでも、翠はさっきのマントの男の後ろ姿だったり、奇妙な親子連れだったり、何かこの空間だけ時間や空間の歯車がずれているような、奇妙な印象が拭えなかった。
翠は、メリーゴーラウンドを途中で降りることなんて出来るはずがないと不審に思い、また二人の雪の足跡がないことも不思議に思えたが、達生がどうも思っていない様子なので、これ以上その事を追究するのをやめた。翠の中の時間の流れ方が奇妙に歪んでいるような感覚があって、自分もメリーゴーラウンドをどれくらいの間見つめていたのか、自信がなくなっていた。翠の中では、妙な不安が沸いてきていた。翠は思う。
私どうかしちゃったのかな、何だろ、達生のこと意識してるのかな、ちょっとおかしくなっちゃったのかな。
翠は、不思議な遊園地の雰囲気にのまれて、自分が幼馴染の友達に過ぎない、達生のことを異性として意識しているのか、そうでないのか、自分自身惑乱していた。寒さのせいなのか、急に恥ずかしくなってきたのか、僅かに頬に紅がさしている翠を尻目に、達生が何かを指差した。
「あ、あれ、さっきの黒猫」
とっさに二人の視線を奪ったのは、うっすらと積もり始めた地面にいっそう目立つさっきの片目の黒猫だった。
「この遊園地、野良猫も入ってこられんのかよ、ネズミの王国だったら大騒ぎだぜ」
親子が観覧車に向かっていく方向と、交差するように片目の潰れた黒猫がスタスタと、曲がった尻尾を上げながら歩いていく。
「ふふ、かわいい、ね、付いて行ってみよ」
「え、あんなのどこがかわいいんだよ。気持ち悪い。不吉だから、やめようぜ」
一転気弱に達生は言う。
「達生は、ホントに臆病だなぁ。ノストラダムスとかさ、黒猫に横切られたとかさ、迷信信じすぎなんだよ」
翠は、そんな達生を尻目にスタスタと歩き始めた。その後を達生が付いて行く。黒猫は人間が後を付いてくることなど気にもせずに、道の真ん中を真っ直ぐに歩いていく。猫は、観覧車を横切って、ある建物の方向に歩いていった。
その建物は、くすんだ色をして正面がガラス張りのゲームセンターなどが混在した建物であった。曇ったガラス越しにも、中には多くのアーケードゲーム、それも相当に年季の入ったウルトラマンエースや仮面ライダーV3、ライオン丸など、幼い子ども向けのムーバーがずらりと並んでいるのが分かった。中央のガラス戸の上には「ゲームコーナー」と斜めに傾いだ字体で看板がかかっている。左の方には、「スナックコーナー」と看板がかかっているが、その下には錆びついたシャッターが降りており、穴の空いたソフトクリームの模型看板と、打ち捨てられたようなロココ調のかつては純白であったであろうテーブルとベンチが三セットほどあった。
この時、翠はたまたま数日前に付けっぱなしのテレビから流れてきた教育番組の特集で見た三島由紀夫の家の庭を思い出した。確かに、脇の方にはうち棄てられたようなアポロン像みたいな彫刻まである。しかし、全て白ペンキが剥がれて、錆と煤と蔦に覆われている。さらに、同じ建物の向かって右の方には別の入り口があって、おどろおどろしい血が滴るような字体で「ミステリーコーナー」と掲げられていた。
翠は、「何々コーナー」が連続する滑稽さに妙に可笑しさを感じていたが、達生は演出されたお化け屋敷とは違う建物全体の煤けた雰囲気が醸し出す不気味さにややたじろいでいた。
「ちょっとなんとかコーナーって、多すぎじゃない?」
笑いながら翠が言った。
見ると、さっきの黒猫が、右側のお化け屋敷の入り口の中にさっさと入っていった。それに導かれるように、二人も建物の中に入った。すると、そこにはまるで今入っていった黒猫が化けたかのように、巨大な化け猫の張りぼてがあり、その下が入り口になっている。そこは、受付らしく中年の男性が窓口にいる。二人は受付で、くすんだアクリル板ごしにチケットを見せた。男性は、斜視でさらに、瞳の色が非常に薄かった。
「二人で、デートかい。楽しんでおいで。しし」
と、焦点の定まらない斜視の目と、どこから聞こえてくるのか分からないようなかすれ声で言った。
苦笑を浮かべながら、二人は受付を過ぎて、中に入った。
「気味の悪いおっさんだったな。ある意味、お化けより怖いよ」
この、達生の発言は本当だったことが、中に入るや否やすぐに証明されることになった。どうやら、ドリームランドには二つお化け屋敷があり、一つはいわゆるライド型と呼ばれる乗り物に乗りながら部屋ごとに出てくる仕掛けを楽しむタイプであり、そちらは比較的まともなものだったらしいのだが、二人が入った、自ら歩く形式のお化け屋敷は、いい加減な作りで、せいぜい高校生が作った文化祭の出し物に毛が生えた程度のものだった。
実際、薄暗いなかに浮かんでくるのは、壁に直接ペンキで書かれた柳の幽霊の姿や、市販のマネキンに口だけ河童の口を取り付けてあって、人が通過するとセンサーでその口から水が出る仕掛けなどで、翠は途中からゲラゲラ笑いながら進んでいった。始めこそ、ビクビクしていた様子の達生も、翠の様子にリラックスして、楽しみだし、一緒に笑い出した。
しかし、市販のスズランテープをちぎってつくっただけの暖簾をくぐり、壁面が全て鏡張りの迷路の部屋に入った途端、「きゃ」と、翠が短い悲鳴をあげた。
反射的に、翠は達生の後ろに飛び退き、達生の右腕にしがみついた。普段、男勝りの翠に、時に女々しくなる達生という関係性の中で、やはり、こういう時には、やっぱり女なんだなと、達生は男としての矜持のようなものを取り戻したようで、悪い気はしなかった。
「うわっ、なんだよ、おい」
「誰かいる」翠が指差した方向の鏡に影が動いた。
「え、まじかよ。このお化け屋敷、本物が出るんじゃねぇの」
いざとなると、自分が翠を前に押し出したくなる気持ちをぐっとおさえ、達生も気丈に振る舞っていた。
「やだ、タッちゃんちょっと先に行ってよ」
「おお、おう、オレに任せとけ」声は震えている。
そろりそろりと、鏡の部屋を抜けて、突きあたりまで進んだ。そして、角を曲がった拍子に「わっ!」と達生が叫んで、二人は同時に尻餅をついた。
「はははは、驚いた?」
そこには、暗がりで表情や輪郭までは、はっきりとは見えなかったが、小学校低学年ぐらいの男の子が立っていた。
「お前なぁ、何やってんだよ!」
達生が、怒って立ち上がると、少年は笑いながら、先の方へ逃げて行ってしまった。
「あー、びっくりしたー。なんだ、イタズラか。本物の人間が一番びっくりするね」
尻餅をついたまま笑い出した翠は、何だか、幼馴染の達生が少しだけ男らしく見えて、尻の埃をはたきながら、二人の体が密着した時のぬくもりが、すぐに離れてしまったことが、どことなく寂しいようにも感じていた。
「ったく、この遊園地、ホントに変な奴らしかいないんじゃないの? 猫はいるわ、おかしな子どもはいるわ」
「だからさ、学校サボって、大雪の日に遊園地に来てるうちらもだって」
「確かに、そうだわ。俺たちも何か、この変な遊園地の一部分になってんのかもしんない」急に真面目な声色で達生が言った。
「うん」
翠も、達生もこの遊園地に足を踏み入れてから、時間の流れ方や、世界から切り離されたような場所にあるこの場所に違和感をどことなく感じていた。神妙な気分になった二人はまた、歩き始めたが、いつの間にか明るい通路に出て、お化け屋敷が終わっていることに気付いた。
そこは、同じ建物内にあるゲームコーナーの中らしかった。そもそも同じように薄暗い建物だったために、お化け屋敷の一角はいつの間にか終わっていたのだが、それすら気が付かなかったのだ。突然目の前に、軽妙な電子音を伴ってテーブル型の「パックマン」が現れたことでようやくそれに気づいたのだった。
「え、もう終わり? なんだこれ、そういやさっきの奴はどこいったんだろ」
「ね、そんなことより達生、すごいねここ」
見れば、薄暗い室内に、見渡す限りのレトロゲームが並んでいた。お化け屋敷の出口付近には、見慣れたテーブル型のゲームがずらりと並んでおり、「ギャラガ」や「インベーダーゲーム」、「ドンキーコング」などがずらりと並んでいる。他には十円玉を直接はじいて、東京から大阪まで到達させる「新幹線ゲーム」や、どういうルールか分からない「国盗り合戦」、おどけた表情のピエロと猫が描かれた「ビン立てゲーム」や、子ども用のパチンコのような親鳥が小鳥たちに餌を与える「ぴよぴよかあさん」という聞いたこともないようなゲームが所狭しと並べられていて、それらから、それぞれの奏でる軽妙な音楽が流れている。二人には、詳しいことは分からなかったが、少なくとも博物館のように揃えられたレトロゲームの数々が相当に貴重なものであることは分かった。そして、それらがまるで新品同然の状態で稼働していることも。翠は、目を輝かせてそれらのゲーム達に触れていった。
「やっぱり、この遊園地すごいよ。ここだけでも来る価値があったね」
「そうかぁ、こんな古めかしいゲームが好きだなんて、お前なんか変な趣味してるな。ストⅡねぇのかよ、ストⅡ」一方、達生はどこか醒めたような目線でそれらを眺めていた。
薄暗い室内から、少しずつ明るい方向に進んで角を曲がると、二人とも眩しさに目を細めた。側面が全てガラス張りになっているが、全て結露に覆われ外の様子は窺い知れず、雪模様のぼんやりした白い光が室内を包み込んでいた。
そこは、またパトカーやバイクなどの幼い子ども向けのライドや、ラムネのクレーンゲームなどのコーナーだったが、特にずらりと並べられたピンボールマシンが異彩を放っていた。
逆光のシルエットでよく見えなかったが、その一つのピンボールマシンの前に、誰かが立っているのが見えた。目が馴染んでくるに連れて、はっきり見えてきたのは、オールバックの白髪で派手なハイビスカス柄のアロハシャツをダウンベストの下に着たお爺さんだった。そして、彼の腕の中にはさっき見失った黒猫が抱かれていた。
「いらっしゃい。こんな雪の日に、珍しいお客さんたちだね」
柔和なお爺さんの笑顔を見て、翠と達生は、ようやくこの遊園地に足を踏み入れてから、やっとまともそうな人に出会ったようで、ほっと胸をなでおろした。
「こいつの片目はね、鹿につつかれたんだよ」
お爺さんは猫を撫でながら不思議な事を言い出した。
「この遊園地は、妙な遊園地でね、創業者が信心深いのか、変わった趣味だったのか、奈良の春日大社から勧請した神社があるんだよ。境内に本物の鹿もいてね。で、この猫は鹿たちの鹿センベイの食べ残しにありつこうとして、気性の荒い雄鹿につつかれたんさ」
それを聞いて、何だかさっきは不気味に見えていた黒猫が急に可愛らしく思えてきた。黒猫はお爺さんに抱かれて、完全にリラックスしてまるでさっきとは別の猫のようだった。
「その子に、付いてったらここに辿り着いたんです」
翠が言った。
「そうかい、こんな雪の日じゃ、お客さんも来ないと思ってたから、立派な招き猫になってたんだねぇ」と言って、豪快に笑った。
二人もつられて、笑っていた。
「お爺さん、これだけ沢山の古いゲーム、凄い量ですね」という翠に「そうだよ、お嬢さん、この子たちの魅力、分かるのかい?」
「なんか、普段ファミコンとかしないんですけど、何かここにあるゲームはすごく優しい感じがして、好きです」
「そう、こいつらはね、わしが日本中、いや世界中から集めてきたコレクションなんだよ。もう捨てられる運命だった子たちを拾ってきて、新品同様に修理してね、ここに並べてあるんだよ。ゲーム喫茶とか、地方のデパートの屋上とか、日本中の温泉地なんか渡り歩いてね」
「へぇー、素敵、お爺さんすごいですね、サーカスの団長みたい」と素直に驚いていた。
一方、最新のゲームは殆ど置かれていないことに不満の達生は、あまり関心が無いようで、さっきから「ミニドライブ」という、直接車のミニチュアをハンドルで操作するドライブゲームのハンドルを、コインも入れずに左右に回して手持無沙汰な様子だった。
曇ったガラス越しに、外の様子が伺えたが、さっきよりも雪は強く降っていた。
「せっかく来てくれたのに、この大雪じゃ、外の乗り物は殆ど運休になっただろうねぇ。その代わり、ここでたっぷり遊んでいきなさい」
そのおじいさんの名前は「ジョニー」さんだという。最初二人ともあだ名だと思ったら、どうやら本名らしかった。ハワイ生まれの日系人だと聞いて、冬でもアロハシャツを着ている理由が納得できた。ジョニーさんは、他に誰もお客さん居ないし、ここの魅力を分かってくれて嬉しいと言って、なんと、腰に付けた鍵の束から「これが魔法の鍵」と言って、どのゲームもその魔法の鍵で無料でやらせてくれた。
「雪の日の特別サービスね。他の人には内緒だからね」
そこから先は、遊園地に来たにも関わらず、しばらくそのゲームコーナーでジョニーさんに遊ばせてもらっていた。自分たちの他には、黒猫がピンボールの下で寝ているだけで、誰も居なかった。
一つだけ不思議だったのは、ジョニーさんはどのゲームもやらせてくれたのに、翠が特に惹かれた一台のすごくレトロで古めかしい、アメリカの古い車をモチーフにしたピンボールマシンだけは、触らせてもくれなかったのだ。その時だけは、目が笑っていなかったように見えた。
達生は、そのゲームセンターの中で、赤頭に白塗りの平家の落ち武者が主人公という不気味なホラーゲームに夢中になっていた。
さらに、雪は激しく降ってきていた。雪で閉じ込められた、遊園地の中で、翠と達生は、不思議な懐かしさを感じさせるゲーム機と、また同様に不思議な雰囲気のお爺さんと、ここに居ることに、何か間違った時間の間違った場所に迷い込んでしまったような感覚に陥っていた。
ふと、達生が曇りガラス越しに、見上げて言った。
「お、翠、観覧車動いてないか」
「おお、本当だ、また止まらないうちに早く二人とも、せめて観覧車だけでもいってらっしゃい」
とジョニーさんが二人の背中を押した。
「は、はい」
さすがに、恋人同士でもないただの幼馴染同士でしかない二人が、観覧車のゴンドラに乗り合わせるのは、さすがに気まずかったはずだったが、こうして天気のことも考えずに来てしまったがゆえに、まともに乗り物に乗ることが出来なかったことで、せめて唯一、雪でも動いている観覧車に乗ろうという気になったのだった。
ゲームコーナーを出た二人は白い息を吐き、凍えながら、観覧車を見上げた。相変わらず白い空に、ゆっくりと動いている観覧車は、風に揺られているのか、本当に動いているのか、よく見極めなければ分からないほどだったが、確かにそれは動いているようだった。
その時、翠をまた不思議な既視感が覆った。白い空に、小雪が舞って、人気のない遊園地の観覧車。
翠は、いつも家では独りで、深夜に帰宅する母の帰りを待つうちに、何故かNHKだけを観続ける習慣が付いていた。昔は、民放のバラエティ番組を観ることの方が多かったのだが、自分一人で笑った後の静けさと虚しさに耐えられなくなって、ある時からNHK総合か、教育しか観ないことにしたのだった。それも、殆ど音声は聞き取れない程度で、ただ孤独を紛らわすためだけに点けているような観方だった。ゆえに、そこで目にしたものが、必ずしも意識せずに既視感として時々想起されることがあった。この時は、その当時から八年前に起きたチェルノブイリ原発事故の特集の番組で観た映像からの既視感で、原発の三キロ北東にあった都市プリピャチの遊園地にある観覧車が、翠の脳裏に残っていてこの瞬間に重なって見えていた。しかし、翠自身はそれを具体的に思い出すわけではなかったが、その一人でテレビを見つめていた時にぼんやりと感じていた寂しさと悲しさも既視感と一緒に蘇っていた。
その感覚を、翠から伝播して達生も共有したのかもしれない。雪が降るに任せて、二人とも黙って、観覧車を見上げていた。
しばらくそうしていた後で、神妙な表情をした達生が口を開いた。
「なぁ、きっと世界が終わった後って、こんな感じなんだろうな…」
「え、何言ってんの」
翠が、急に深刻そうなこと言い出して、また冗談なんだろうなと思っていたら、達生はその表情のまま、スタスタと先に歩いて行ってしまった。
「ちょっと待ってよ」
すぐに翠は追いかけたが、相変わらず無表情になっていた達生の斜め後ろを、そのまま付いていった。
さっきまで、お化け屋敷にすらびくついて、お道化ていた達生とは急に人が変わったようになった様子を翠は、何か自分が機嫌を損ねるようなことをしたのか不安になったが、達生が急に気分が浮き沈みすることがあることは、経験上知っていた。ただ、何がきっかけにそうなるのか、翠には測りかねた。
「ねぇ、どうしたの?」
と翠は聞いたが、達生は「いや、何でもないんだけどさ、急にこの遊園地にいたらさ、死んだあとってどうなんのかなって思っちゃって」
と、意外な返答をした。
しかし、他の同級生と比べて大人びた二人であったが、それでもそうした死についての抽象的思考に耐えられるほどには、大人びてはいなかった。
「きっとさ、ほら天国とかさ」
「地獄とか?」
「達生は暗いなあ、そんなこと考えなくて良いじゃん、生まれ変わるのかもしれないし」
「翠は気楽で良いよな。もしかして、死んだら何もない世界っていうか、世界すら存在しなくなるんだろうな。きっとさ、幽霊を見たとか、見たいって言う連中は、死んだら何もない世界じゃないって信じたいんだろうな」
「でもさ。達生が死んだって、世界は無くならないし。残された人たちの事も考えなよ」
翠は、いつの間にか強く責めるような口調になっていた。
「翠。ごめん。お前が一番そういうこと考えてたし、苦しんでたんだよな。悪かった」
達生は、翠の父親が事故死したことを考えずに、無神経なことを言ったことを詫びた。
翠は実際、事故でと言うよりもむしろ自分のせいで父を死なせてしまったことについて、忘れたことはなかったし、この傷は瘡蓋を作る年月すらまだ経っていない生傷だった。しかし、死んでこそはいなくとも、突然母親に捨てられた達生に対しては、翠は怒りを感じることはなかった。もしも、別の人間にそんなことを言われたら、怒りを抱いていただろうが、達生とはお互いに、片親同士のシンパシーを感じていたため、許せたのだろう。
「もういいよ。ばか」
と言って翠は達生を追い抜かして観覧車に真っ直ぐ向かって行った。
潤んだ涙目を隠すためだ。その間、ずっと俯いて足下の積もった雪だけを見ていた。気が付くともう、観覧車の真下に来ていた。真下から仰ぎ見る観覧車は、遠近感覚が失われた空の下で、異様に巨大に見えた。あながち、達生がさっき言っていたことも間違っていないように思えた。
どうして、せっかく遊園地に来ているのに、こんな気分になってしまったのか、翠にも達生にもよく分からなかった。ただ、何か二人が普段から被っている道化の仮面の奥に隠し込んでいる、闇のようなものが、人気のない雪で白く染まった、死者の世界のようなこの遊園地にあって、顕在化したのかも知れなかった。
翠は、白い息をゆっくり吐きだしながら
「泣き虫翠、しっかりしろ」
と自分自身に小さくつぶやいて、冷たい新鮮な空気で肺を満たして落ち着いてから、達生に振り返り
「乗ろ」
と、落ち込んだ気分を無理に明るく振る舞って言った。達生もホッとした表情で頷いた。
観覧車の名前は「ワンダーホイール」のはずなのに、手書きのペンキ看板には「ワンダーホィール」と「イ」が小さく書かれてあって、無理して笑おうとしていた翠は本当に吹き出した。
「これどうやって発音するのかしら」
観覧車の入り口には、やけに派手な金色の丸帽子と、赤いスパンコールの蝶ネクタイにやはり金ラメ入りのスーツという漫才師のような格好をした係員のおじさんが、パイプ椅子に座って石油ストーブにあたりながら、私たちがやってきたことを少し驚いたような表情で気付いてから
「今日は、ひどい天気になっちゃってごめんね」
と、おじさんのせいでもないのに謝ってくれた。
「せめて、観覧車だけは動いてるから、楽しんでいってね」
と優しく声を掛けてくれたのが、二人にはとても嬉しく感じた。
この遊園地の観覧車には特徴があって、黄色いゴンドラと赤いゴンドラが交互にあり、赤いゴンドラには滑車が付いていて、楕円形のレールの上を観覧車の動きに合わせて激しく動くのだ。このスリルのある「赤ゴンドラ」には、男の子が好んで乗りたがったものだが、特に意識することなく、二人は黄色いゴンドラに乗り込んだ。
乗り込んでしばらくは、二人は無言だった。外に見える景色も、ほぼ真白なだけで、かと言って時間は真昼だったから、雪雲を透かして、その白全体を強めていた。少しずつ、遊園地の全体像が見えてくる。やはり、殆どの屋外遊具が、雪のためなのか、雪で客が殆どいないからなのか運休しているようだった。
少しずつ高度があがっていき、遊園地の外れの方の茂みから、巨人の顔が表れてきた。コンクリートでできたガリバーが、片膝をついて、焦点の定まらない両目で自分の手を見つめている。ところどころペンキが剥げて、代わりに全体的に薄く苔が覆っているようだ。三角帽子と掌と肩に、雪がのっている。
さっきのメリーゴーラウンドが見えた。これだけは、客が居ようと居まいと、回転させているのだろうか。雪とは言え昼なのに、電飾まで灯して、精一杯この遊園地が廃墟ではないことを主張しているようだ。そして、誰もその背に乗せないまま虚ろな表情の馬たちが、上下しながら同じ場所を回転し続けている。
翠は、さっき見かけた、奇妙な風貌の親子はどこへ行ったのだろうとふと思いだしたが、果たして本当にそんな親子がいたのかどうかも、今となってはよく分からなくなっていた。
また、視線を反対側に向けると、楕円形の池の中に黄色い潜水艦が浮かんでいる。しかし、更にその奥まで見ると廃材置き場のような、職員用の駐車場のようなスペースが丸見えで、そこには、濃い紺色をした同じような形の潜水艦が、朽ち果てるに任せてうち棄てられていた。それだけではなく、そこには様々なものたちが山積みになって棄てられていた。灰色にくすんで、白色と黒色の縁の違いも分からなくなっているパンダ・カーが倒れている。骨格だけ残して、錆だらけになったゴーカートが数台と、そのエンジンのようなものが人の臓器を思わせるような複雑さで積まれている。
錆びの匂いと、血の匂いが似ているように、そこは遊具たちの墓場そのものだった。
翠がはっきりと思いだせる記憶は、どうしてもそこまでだった。観覧車に乗るまでは、事細かに記憶に残っているのに、観覧車に乗って以降の事がどうしても思い出せなかった。
どれくらいの時間そこでうずくまっていたのか分からないが、少なくとも本格的な嵐の到来はあとわずかで、時折強い雨が、翠の体を叩いていた。しかし、江ノ島の灯台の鉄骨の錆は、達生と二人で乗った観覧車から見た廃材置き場の錆とが結びついて、そこまでの記憶を鮮やかに翠の脳裏に浮かび上がらせたのだった。
しかしそれは断片的で、何か大切なことがあるはずなのに思い出せないのだ。思い出そうとすると、ゴンドラの中の景色が歪んで達生の姿も遠くかなたに飛んでいき、全身の力が抜けてしまうような、そして自分だけが観覧車から落下していくような感覚に襲われるのだ。
その失われた部分の記憶が今となっては、翠にとって耐えられるだけの思い出としてはありえず、無意識のうちに心が壊れることを防ごうと、自ら記憶を喪失させているのだった。
二人でドリームランドに行ったその三年半後、達生は居なくなった。
翠の中ではあくまでも「居なくなった」と認識し続けていたが、本当は死んだのであろうことも分かってはいた。しかし、それから一年近く経つ今でも遺体が発見されないことから、もしかしたらどこかで生きているんじゃないか、という思いを捨てることが出来ず、いつまでも「居なくなった」のだと思い続けていたが、一年が経って、ようやく「死んだ」ことを受け入れつつあった。
しかし達生の事故直後は、翠自身も精神的な死の縁を彷徨うほどの憔悴の中にいた。一か月ほど自室に閉じこもり、まともに食事もとらずにいたところから、ようやく回復傾向が見えてきた頃には、翠の記憶は、達生の記憶を中心にピースを幾つか失くしてしまったジグソーパズルのように断片的にしか思い出せないところができていた。何度か母親に付き添われて精神科にも通ったが一向に症状は回復しなかった。やがて、日常生活には具体的な支障が出ないので、無理に通うのをやめてしまっていた。
二人で遊園地に行ってから間もなく小学校を卒業し、江ノ電で四駅鎌倉方面に行ったところの鎌倉市立の中学校に二人とも進学した。学年で五クラスあった中学校では、二人は一度も同じクラスになることはなかった。そして、多くの中学生の男女がそうであるように、幼馴染同士であっても少しずつ心理的な距離も遠くなっていった。むしろ、幼馴染であるからこそ、かえって親しくすることに神経質になる歳頃でもあった。入学直後こそ、小学校の延長でふざけ合うこともあったが、いつしか廊下ですれ違っても、視線さえ交わらないこともあった。かつて一緒に遊園地に行ったのかどうか、その記憶すら翠は不安になるようになっていた。特に、達生は中学校に上がってすぐに、筍のように身長が伸びていき、女子の中でも大きい方であった翠をあっと言う間に頭一つ分差をつけて追い抜いてしまった。翠にとって少し見上げるぐらいの背になった達生を、昔とは違って遠い存在のように感じていた。
ちょうど、中学に入学する頃に、翠は母親から、そろばん教室のひでじいが亡くなったと聞いた。歳も歳だっただけに驚かなかったが、何か「もうあの時には戻れないんだ」ということが重たい意味のように翠には感じられた。
中学校に入ると、達生は元々父親の影響で小学二年生の時から続けていたサーフィンに本格的にのめり込んでいった。学校の部活動ではないので、いわゆる「帰宅部」にはなるが、帰りのショートホームルームが終わるや否や、彼は江ノ電に飛び乗り、七里ヶ浜の海に向かっていた。ゆえに、彼の周りには何人かは学校の友達がいたようだが、基本的には休み時間は一人で難しそうな哲学の本、特にニーチェの本を好んで読んでいた。翠は何度聞いても、その哲学者の名前すら覚えられなかったが。あるいは、一方で小学校から相変わらずに怪しげなオカルト系の本か、たまにサーフィンの雑誌を読んでいるか、そうでなければ寝ているかのどちらかで、彼の本当の友達の大半は、海の上で出来た友達で、当然それは殆どが彼よりも年上だった。従って、学校の中でも大人びた雰囲気と何を考えているのか分からない不思議さとが同居した彼に、多くの女子たちが自然と夢中になっていた。しかし、中学二年生の頃には、彼には女子高生の彼女が居るという噂が、女子達には悲痛な思いと共に、男子達には羨望の思いと共に広がっていた。
一方で、翠は特別な理由もなく、たまたま中学に入学して最初にしゃべった女友たちが陸上部に入るというから、何となく一緒に入部した。そんな理由だったので、特別に情熱的に取り組んだわけではないが、翠にとって小学校の時のように、家に帰って一人でいるぐらいなら、放課後に部活動に取り組んで日が暮れるまで仲間と一緒にいる方が余程ましだった。また、女子の中では比較的長身だったので、顧問の勧めで走高跳の選手になった。翠にとっては、特にどうでも良かったのだが、中学二年生の頃には、県の大会に進めるほどの実力があったが、そもそも競技に対しての情熱不足で、大きな大会のいざという時には大した記録が出ない選手でもあった。
陸上部自体には大した思い入れもなかったが、彼女が中学二年の夏合宿で行った菅平高原で、夜に宿のロビーに呼び出されて、一つ上の先輩から付き合ってほしいと告白された。その時、翠は「ごめんなさい」と断った。その先輩は全中に行ったハードルの選手で部長だったし、翠も決して悪い印象ではなかったが「他に好きな奴がいるのか」という問いに対して反射的に頷いていたのだった。その頃から、翠は明確に達生の事を意識するようになった。先輩からの告白に対しては反射的に断ってしまっただけだったものの「好きな奴」が誰なのか、具体的に意識をしないでいた翠の中でも、否応なく意識せずにはいられなくなっていった。
その一件以来、翠はただ仲が良かった幼馴染から達生を一人の男として意識するようになっていたが、学校ではもう特別な接点もなかった。そして、そのように意識をする以前は、大人っぽくなったなという意識はあっても、多少は廊下ですれ違う時に軽い会釈ぐらいは自然に出来ていたのに、それすらも何か気恥ずかしくなってしまっていた。気が付いたら、ぼおっと、教室の窓の外を眺める時間が増えていて、廊下ですれ違ったりしても、気恥ずかしくて目を反らしてしまっていた。なのに、全校集会で体育館に集まるような時やクラスをまたいで行われる特別授業の時には、どうしても翠は達生の姿を無意識に探してしまった。背の高い達生は、後ろの方に居ることが多かったから、不自然じゃないように振り返るのが難しかったが、さり気なく、その姿を探していた。それでも、たまに目が合ってしまうと、気恥ずかしさから目を背けてしまうのだった。
そして、その頃の翠には一つ習慣が出来た。部活がない日や、早くあがった日は、わざと江ノ電で一駅乗り過ごして、鎌倉高校前で降りて、七里ヶ浜を眺めながら家に帰る習慣だ。その間一キロあまりの距離だったが、翠はいつでも右手に海を眺めながら一駅分余計に海沿いを東に向かって歩いて帰った。そして、波に乗っている達生をいつも探していた。日によって、ポイントは多少変わっていたり、たまに、江の島や茅ヶ崎の波に乗りに行っていて居なかったりするときもあったが大体は鎌倉高校寄りの浜で波を待っている事が多かった。
翠の視力はその頃もやはり良くなかったが達生は背が高かったし、翠はすぐに達生だと分かった。時には、立ち止まって見ていた。きっと、遠いし達生は気付いていないだろうと、翠は思っていた。
そんな日々のなか、中学三年生の夏休みに入ってすぐの頃だった。いつものように午後の部活の練習を終えた夕方、鎌倉高校前で降りて海を眺めながら帰ったのだが、その日は達生の姿を見つけることは出来なかった。きっと、また江の島方面に行ったのだろうと思ってがっかりした。
私いつまで何してんだろ、といつになく気持ちの落ち込んだ翠の足は無意識にある場所に向かっていた。
彼女の住む七里ヶ浜住宅地は南に海を臨んで、三方を山に囲まれており、鎌倉山に向かって登りの坂道になっているのだが、その坂をひたすら登っていくと、いつしか造成された住宅地は途切れて、鎌倉山住宅街とを結ぶ道路が林の中を貫いている。その道路のわき道を逸れたところに「鎌倉山神社」という小さな神社があった。神社というよりも、ちょっとした祠と鳥居があるだけの神社とも呼べないようなものであったが、翠はそんな素朴な雰囲気で滅多に誰も来ない神社を、自分だけの特別なお気に入りの場所にしていた。何より、そこから眺める海と富士山と、夕日が特に大好きだった。
翠は、ちょうど今からあそこに行けば、きっと綺麗な夕日が見えると思いたち、家を通り過ぎて、そのまま流れる汗を気にせず、鎌倉山神社に向かったのだった。ようやく、木陰に入る頃には日も傾き始め、南から吹く潮風に彼女の夏服の汗は、乾かされつつあり、林の中からは蜩の鳴く声も聴こえていた。
角を曲がり、神社が見えてきた時に、自分がいつも座っている鳥居の脇の見晴らしの良いベンチに誰かが座っているのに気づいた。とっさに翠は、気恥ずかしさから踵を返しそうになったが、そこに座っているのがすぐに達生だということに気付いて、立ち止まった。
「え、…何で」
と小さくつぶやいたまま翠は、その場に立ち尽くしてしまった。しばらくの間、蜩だけが鳴いていたが、その蜩も鳴きやんで静寂が訪れると、達生は立ち上がって
「おう、久しぶり」
と右手を軽く上げた。
ゆっくり翠は境内の階段を上がって、達生の側まで行った。
「どうして、ここに」
翠は、本当は嬉しいのにそれを照れから隠すために、少し問い詰めるような言い方をしたことをとっさに悔やんだ。
「あ、いやさ、ここに来ればお前に会えると思ってさ」
あの頃よりも、声変わりして低い声になっていた達生も照れくさそうに、両手をポケットに突っ込んで、足元を見ながらそう言った。
「え、だから何でって」
と、さらに追い打ちをかけるように、問い詰めてしまうのだが、達生を異性として意識するようになってからの接し方が分からず、小学校の時の二人の関係性に強引に戻すことでしか、彼との接点を持てなかった。
「いや、ごめん。待ち伏せしてたみたいで」
達生は顔を赤くして謝った。
同じように顔を赤くした翠も、今更どうしていいのか分からず、不自然な間を置いてから
「ううん。…私も会いたかったし。久しぶりに」
と、思わず本心が口から出た。
「…そっか、よかった」
ぎこちない、やり取りなのだが、二人の間に数年かけて掘削されていたトンネルが開通したかのような喜びと、不思議な安堵感に包まれ、翠はごく自然に達生の隣に腰かけた。その距離は触れるでもなく、離れるでもない距離だった。ただ、隣に座って、徐々に紅く染まっていく富士山と、夕日が江ノ島の海に沈んでいく光景を二人で眺めていた。
それから、しばらくただ時が流れて行った。
どうして、達生がここにいたのか、この場所が翠の好きな場所だとなぜ知っているのか、そんなことはこの際どうでも良かった。お互いに何も喋る必要がなかった。
また、蜩が鳴いている。翠は達生の隣で、両手を後ろにして少し体を後ろに反らして夕日を見ている日焼けした達生の横顔をそっと、見つめた。
達生からは、サーフィンのワックスのココナツの匂いがした。
「なあ、翠さ、昔一緒に学校サボってドリームランド行ったの、覚えてる?」
「うん、覚えてる。すごい雪で、何にも乗れなかったやつでしょ」
とようやく翠が笑った。
「そっか、何かさ、中学入って俺ら、ずっとクラスも別だったし、もう忘れられてたかと思ってた」
「覚えてるよ、達生がお化け屋敷で腰抜かしてたの」
と言ってまた笑った。達生も、吹き出して、リラックスした様子で笑ってくれた。暫く、笑いあったあと、また沈黙が訪れそうになる前に、翠は意を決して言った。
「…でも、ここにいていいの? 達生って高校生の彼女いるんでしょ」
「え、あ、いやただのサーフィン仲間の一人だよ。何か、たまたま海の帰りに一緒に歩いてたところ、クラスの女子に見られただけ」
「そっか…よかった」
とつぶやいた。
「お前、いつも浜から見てただろ」
「あ、分かってたの。うん、達生だけずっと見てたよ」
また、しばらく二人で黙って夕日を見ていたら、翠の目から何故か涙が一粒落ちた。翠には、何の涙なのか自分でも分からなかったが、達生に分からないように俯いて指で拭った。
それだけだった。
二人の間にそれ以上の言葉は必要なかった。
そのことがあって以来は、翠は国道134号線から海を眺めるのではなく、鎌倉高校前駅の正面の横断歩道を渡って七里ヶ浜の砂浜に降り、流木に腰かけて達生の姿を見ているのが習慣になった。
そして、日が暮れると一緒に翠の家の前まで帰るようになった。そんな時も、二人は特段言葉を交わさなかった。必要なかったのだ。二人はお互いを必要な存在として認めあう関係になった。しかし、あくまでも二人の関係は、純粋な関係だった。傍から見れば、恋人同士にしか見えないのに、手さえ繋ぐこともなかった。翠が帰り際に家に誘っても、達生は「悪いから」とか「親父がそろそろ帰ってくるから」とか言って断った。確かに、お互い幼い時から知っている物同士で、兄妹あるいは時に姉弟みたいな関係での延長という感覚が、逆に障壁になってしまっていて、翠にとってはそれが何より不満であった。
また、小学校の時は翠の方が男勝りのところがあったが、中学校の三年間の間に、それぞれの性別に相応しい性格と関係におさまっていたし、二人の身体ももう十分に大人として成熟しつつあった。
それでも、翠の中では、ここで無理に焦ることもなく、自然と関係が深まる時が来ればそうなるだろうという思いと、変に焦ればお互いに「好きだ」とも「付き合う」とも言ったわけでもない今の微妙な関係が崩れてしまうことのおそれが、積極的な行動を留まらせていた。
そんな不思議な関係は、二人が同じ県立の鎌倉高校に進学してからも続いていた。翠は部活帰りに、高校と海とを繋ぐ日坂を小走りに駆け下りて、浜に繋がる横断歩道の歩行者用ボタンを連打したものだった。その頃には、達生はサーフィンの大会で入賞するほどの実力を付けていて、彼のその恐れを知らない度胸のあるスタイルは、サーフィン雑誌にも度々紹介されるほどだった。時に、久里浜からフェリーに乗って房総の方の大会に付いて行ったりすることもあったが、他のサーフィン仲間たちもいる中で、恋人として付いて行ったというよりも体育会系の部活のマネージャーみたいにただ世話を焼いただけだった。
達生は、そうしたサーファーとして外交的な側面がある一方で、どことなく陰があって、それは具体的な問題になるほどの「陰」ではないのだが、翠にはそれが少し気にかかることが度々あった。例えば、達生はサーフィンの雑誌よりは「ムー」とかいう怪しげなオカルト雑誌の方を頻繁に買って、学校でも恥ずかしげもなく平気で読んでいた。幽霊、UFO、UMA、予言、フリーメーソンの陰謀論などを興味の全くない翠に生き生きと語ること度々があって、翠はその都度うんざりさせられた。
一度は、夜に呼び出されて、逗子と鎌倉を結ぶ有名な幽霊トンネルに、達生の取りたての免許の練習も兼ねて、原付二人乗りで連れていかれたことがあった。翠は、もちろん幽霊なんて気乗りしなかったが、翠にとっては夜に二人きりになれる機会だったし、少しは関係が進展することを内心期待していたこともあって付いて行ったのだった。
その時は、髪の長い女性が一人でトンネルとトンネルの間にある横断歩道で立っていたので、本物の幽霊と一瞬見間違えたのが、後の笑い話になったぐらいで、恋人同士としての進展も大して何も起こらなかった。しかし、皮肉にも初めて手をつないだり、達生の腕にしがみついたり、取りたての原付免許で二人乗りをして密着したり、恋人らしいことをしたのは後にも先にも、その肝試しの時だけだった。翠は、それで少し幸せな気持ちにもなっていたが、達生は相変わらず、本物の幽霊が出てこなかったことを悔やんでいたように見えた。達生にとっては、すぐそばに居る生身の恋人よりも、何か別の世界の方に惹かれていたのかもしれない。
あるいは、その当時テレビの洋画劇場でサーフィンを題材にした『ハート・ブルー』という映画を観た達生は、それに夢中になってVHSが擦り切れるほど繰り返し観て、セリフも吹き替えだったが全て覚えていた。翠も、そのビデオを達生から貸しつけられて観たものの、アメリカ大統領の覆面を付けた男たちが銀行強盗をするのが可笑しかったぐらいで、どうしてそんなに達生がその映画を好きになったのかよく分からなかった。その中で、確か映画『ゴースト』で幽霊になる男の役だった俳優だったと翠は記憶していたが、その俳優が演じる犯人役のサーファーの男が、主人公の刑事に言う「来世で会おうぜ」という決め台詞があって、達生は余程それが気に入ったのか、ふざけた調子でいつも翠との別れ際に「来世で会おうぜ」と言った。翠は、笑って受け流したり「いやよ」といって取り合わなかったりしていたが、何か言い知れない後味の悪さも感じていた。
実際、翠に達生が言った最後の言葉が、その言葉になってしまったのは、救いようのない皮肉だった。
あの日、一九九七年九月十七日。
その日は記録的な被害を出した台風がようやく落ち着き、晴れ間も見えていたころだったが、湘南の海はその影響を受け続けていて、まだ時化続けていた。まさか、常識的にこんな日にサーフィンをするような命知らずは誰もいないはずだったが、達生は違った。普段は比較的穏やかな波しか立たない湘南の海も、これだけの巨大台風が来れば一変して危険なほどの高い強い波が来る。確かに、達生の実力からすれば乗りこなせないことはなかった。
数日前から、台風が接近してくることをニュースで知った達生は「稲村ジェーンが来る」という、これまた湘南ゆかりのミュージシャンが作った映画の台詞をぶつぶつ翠につぶやいていたのだった。翠は妙な胸騒ぎを残したが、その時はまた冗談を言っているという風にしかとらえていなかった。その日の前日、高校からの帰りの別れ際も、達生は冗談めかして翠の家の前で「来世で会おうぜ」と、言って別れたのだった。いつもと何も変わらない別れ方だった。
しかし、達生は翌日、荒れ狂う波に向かったまま、二度と戻ってこなかった。
高校でも、翠は陸上競技を続けていたので、その日も軽い練習と、台風で荒れてしまったグラウンドの整備と掃除で、帰りはいつもより少し遅くなっていた。その日は、たまたま朝から達生とはすれ違いで、一度も顔を合わせなかったのだ。もし会えていたら、間違っても海に行かないようにと言えたのに。翠は後で何度後悔しただろう。
放課後、強い風と高い波の様子から、翠はずっと胸騒ぎが止むことがなかった。
まさか、今日に限って海には出ていないだろう。でも、そう言えば「稲村何とか」って変なこと言ってたけど…、と不安は増していくばかりだった。
夕方、耐えきれず部活を早退し、高校を出て日坂を駆け下りたその後のことは、翠の記憶の中でははっきりと思い出すことが出来ない。
ただ、呆然と荒れ狂う波を見つめていたこと、134号線に停まった救急車のランプが音も鳴らさないままに回転し続けていたこと、いつか聴いた蜩がその時も鳴いていたこと、浜に打ち上げられた達生のボードと、そこに繋がれていたはずの主人を失ったリーシュコードだけが、ぼんやりとした記憶の中に思い出せるだけだ。
事故当日はもちろん、数日後も大掛かりな捜索は行われたが結局、達生の遺体は上がらなかった。遺骨のないまま、形式上の葬儀が行われたが、もはや翠には全くその時の詳細は思い出せない。
達生の実の母は、その時にもやって来なかった。
それからの一年間は、後悔と自責の念とに苛まれ、人としての感情を殆ど喪ってしまったかのようだった。学校もしばらくの間休んだ。翠にとっては、同じ街で一緒に育ってきた達生との思い出は、街中に溢れすぎていた。何処に行っても、達生の姿を思い出してしまった。必然的に、翠は自室に引きこもりがちになっていった。
まして、翠にとって大切な人を喪ったのは、初めてではないのだ。大好きだった父親も亡くしているのだ。翠は、あたかも自分が死神のような存在なのではないかとすら感じ、自らを呪い、何度も死を思った。
あるいは、達生は自ら死を選んだのではないかと思うこともあった。不自然に外れたリーシュコード、自殺行為に近い無謀さ、それにしたって台風直後の荒れた海とても達生の実力からすれば命を失うほどのことはなかったのではないか、なんで、と。
そう考えれば、達生は私の事をわざと置いて、逝ってしまったのだろうか、私の事を好きじゃなかったのか、だからキスさえもしてくれないままに死んでしまったのだろうかと、ますます翠は自らを責め続けていった。時には、こんな目に遭わせた達生の事を恨みもして、翠の内側の嵐は止むことなく、あの日以来ずっと続いていた。
そして、ようやく一年が経つ頃には、母親やクラスメイトとも会話らしいやり取りが出来るところまで回復してきたのだが、やはり、夏が過ぎて台風がやって来る頃には、一度は治まりかけた翠の心の中の嵐が再び吹き荒ぶことになったのである。
翠は稲村ヶ崎公園のベンチに座って項垂れたまま、既に周囲は分厚い雲に光を遮られて薄暗くなってきていた。打ちつける雨も更に激しさを増してきている。ポンチョを羽織っていても、全身水浸しになるに任せ、強い風に吹かれて、体は震えていた。このまま死んでもいいと思っていた。
衝動的に、もう死んでしまおう、パパと達生がいるところへ行こうと、ベンチから立ち上がり荒れ狂う海に繋がる階段に一歩足を踏み出した瞬間、間の抜けたクラクションと共に
「姉ちゃん! 何やってんの!」
と後ろから叫ぶ声が聞こえて、翠は振り返った。
そこには、ひどく日焼けして、肌も髪も海で傷んだ中年の男性が、サーフボードを荷台に載せた薄緑色のオート三輪を停車させ、そこから身を乗り出していた。
瞬時ではあるが、死に魅かれつつあった翠の朦朧とした目には、日に焼けて白いTシャツを着たイエス・キリストに見えた。現に、ウェーブした茶色がかった長髪と、立派な顎鬚は、父親が死んでからクリスチャンになった母親と一緒に行ったカトリック雪ノ下教会で見た、キリストの肖像を思い起こさせた。
翠は、体の震えが止まらず、めまいと共にその場に崩れ落ちてしまった。
「おい、姉ちゃん! 大丈夫かよ、マジかよ」
翠にはその後の事ははっきり覚えていないが、どうやらそのままオート三輪に乗せてもらって運ばれたらしく、意識がはっきりした時、見覚えのない天井が見えて、その後、周囲を所狭しとサーフボードが取り囲んでいるのが目に飛び込んできた。どうやら七里ヶ浜の見覚えのあるサーフショップのソファに毛布にくるまれて寝かされているようだった。
「あら、目ぇ覚めた? 良かった、大丈夫そうね」
今度はさっきの男性とは別の、女性のハスキーボイスながら優しげな声が聞こえて、起き上がると、やはりさっきの男性よりは薄いが、程よく小麦色に焼けたポニーテールの女性が、湯気の出ているマグカップを持ってきてくれた。
「ホットココアよ。飲んで」
事情が、瞬時にうまく飲み込めない翠はただ、頭を下げて、まだ少し震える手でマグカップを受け取るのが精いっぱいだった。
「お、姉ちゃん、もう大丈夫か」奥から、さっき声を掛けてくれた、サーファーの救世主が出てきた。
「す、すみません、ご迷惑かけて」翠は、掠れた声を出すのが精いっぱいだった。
「あんた、確か達生と付き合ってた彼女だよね」
「え、あ、多分…はい」
翠は自分の考えていた事や、これまでの何もかもを神様に見透かされていたみたいで、震えながら赤面しつつも、本当に私たちは「付き合っていた」と言えるのか自信がなかった。
「いつも、浜で見てたもんね」
「達生を知ってるんですか」
「いや、知ってるも何も、奴に本物のサーフィンを教えちまったのは俺さ。本当に惜しい奴だったよ」
翠は、また項垂れて、温かいココアから漂う湯気と甘い香りを嗅ぐうちに、胸がいっぱいになって涙が零れそうになった。
「あ、いやごめん、俺もさ、達生が死んだ日もこんな嵐の日だったなって、運転しながらちょうど思いだしてたらさ、稲村に差し掛かったところで、姉ちゃん見つけてさ、何かが繋がったんかな。とっさに何かヤバいって思って声かけたんだよ」
「ありがとうございます。私、ちょっとどうかしてたんだと思います」
涙を拭いながら、ようやく声をはっきり出すことが出来た。
「ほら、冷めちゃうから、早く飲みなよ」
と、さっきの女性が促す。
「はい、ありがとうございます」
翠は、ちょっと甘みの強い濃い目のココアを飲んで、心身ともに胸が温まってくる思いがした。
「私らも、達生の事は、本当にショックだったのよ。私たち、子ども居ないからさ、まるで自分たちの子どもみたいに可愛がってたからね」
しばらくの間、達生の死を悼んで静かに黙祷するように沈黙の時が流れた。
翠が日に焼けたキリストだと思ったのは、達生がお世話になっていたサーフショップのオーナーの轡田博己さんで、奥さんの絹代さんも健康的に小麦色に焼けた素敵なサーファーだった。
「気持ちは、分からないでもないけど、私だったら悔しくて仕方がないから、徹底的に生き抜いてやるな。思いっきり人生楽しみ尽くしてやるよ。それが、生き残った人間の、責任だと私は思うの」
翠には、絹代さんの言葉の意味がすぐには解らなかったが、少なくとも絹代さん自身が発する力に圧倒され、そして不思議と魅了されるところがあった。
「あんた、こんな綺麗な顔してんだからさ、笑顔になったらもっと綺麗になれるよ」
「え、私、そんなこと言われたことないです。そんな…」
「もっと自信もってさ、達生に笑われんぞ」
と、絹代さんは俯く翠と同じ目線に下がって、毛布にくるまれた翠を優しく抱きしめてくれた。
また、翠はさっきとは違う種類の涙が流れてくるままに「はい」とつぶやくのが精いっぱいだった。
その後、博己さんのオート三輪で、自宅まで送ってもらった翠は、嵐の中、荒れる海を眺めながら、ある決意をしていた。
「じゃ、元気出してな」
「博己さん、本当に迷惑ついでに、一つお願いがあるんです」
「おう、何だ、達生の彼女のお願いだ。何でも言ってみろ」
「博己さん、私にサーフィンを教えて下さい」
その週の週末、台風の影響が治まったところで、博己さんの指導の下で、翠の特訓が始まった。博己さんにお願いをした翌日には、学校で陸上部の顧問に退部届を書いて出したが、達生の事故以来ずっと休部状態だったので、大して引き留められもしなかった。
初めて、ウェットスーツを着てボードに乗って海に出たとき、普段見ている海や街が、まるで違って見えて、世界を反転させて裏側から眺めているようだった。
「これが、達生が見てた世界か」
とつぶやいた。翠は、やっぱり国道の向こう側に立っている人が誰なのかなんて、海からも意識しなければ気づかないんじゃないか、と思った。
博己さんのコーチで初めて、一瞬波に乗れた時は、海と自分が一つになったような気持ちで、流氷の海が一瞬にして南国の海に変わったかのような、達生の命を奪った海とようやく向き合えることが出来たような喜びに打ち震えた。
「よっしゃ、翠ちゃんよくやった」という博己さんの言葉に、翠は達生を喪って以来、初めて心から湧き上がる笑顔で満たされ「はい」と大きな声で答えたのだった。
元々、走高跳で鍛えていたしなやかさと強靭さを兼ね備えていた翠の身体は、一年間のブランクをものともせず、あっと言う間にサーフィンに馴染んでいき、博己さんも驚くほどの上達ぶりを見せて行った。
翠の引きこもりがちだったがゆえに、青白かった肌は、見る見るうちにこんがりと小麦色に焼けていき、それに伴って、翠自身の中で、かつての自分とは違う自分を獲得しつつあることを感じていた。海の上では、翠は何ものにも囚われることなく自由でいられた。自分と、海と、波と、空と、風と対話するだけでよかった。
いつしか、達生がそうであったように、高校が終わると海と高校を繋ぐ日坂を小走りで下り、そのまま博己さんのサーフショップ「オーシャン」に行き、すぐにウエットスーツに着替えて、ボードを携えて海に向かうという習慣が板についていった。
翠が、博己さんと出会った、高校一年生の夏から一年が経とうとしていた。それは、達生が死んだ後にやってきた二度目の夏、一九九九年の夏も過ぎ去ろうとしていた。達生が心配していたように世界は終わることなく、当たり前のように七月も八月も過ぎて行った。
翠の心は、サーフィンと出会ったおかげで、達生を喪った痛みから回復しているように思われていたが、それでも時々、翠の心はあの日に引き戻される時があった。それは、全く不意にやってきた。強い力の波に飲まれて、塩辛い海水を飲んだ時も、達生が最後に味わっただろう感覚を思って、しばらくの間呆然としてボードの上でうつ伏せて何も出来なくなった。あるいは、大船駅で達生が好きだった湘南モノレールが走っていく姿を見ても、蜩の鳴く声を聴いても、突然全身の力が抜けて行ってしまうような感覚に陥ることがあった。そして、今でもやはり達生の事についての記憶のピースのいくつかは見つからないままだった。
そして、夏休みも終わった九月の中旬、またあの時と同じように、達生の命を奪った台風が近づいてきていた。でも、一年前のように翠の心は乱されることはなかった。もうあの時の翠とは違っていた。
夜明け前。また、一年前と同じように、翠は自宅の部屋から、台風の影響で荒れる湘南の海をじっと見つめていた。昇る日に照らされて、海のきらめきが刻一刻と強くなっている。台風は既に日本海に抜けていたが、波は大荒れだった。遠くから、市の災害情報のアナウンスが、ぼやけてはいるが暴風波浪警報を伝えているようだった。
「こちらは…こうほう…かまくらです…」
その声はまるで、この世界が滅びることを宣告しているような、血の通わない木霊となって反響していた。
「違う。達生。世界は滅びたりなんかしないよ」
そう海に向けてつぶやいた後、翠は自宅の庭に干してあったウエットスーツを着込み、玄関に立てかけておいたボードを小脇に挟むと、海に駈け出していた。土曜日の早朝だったので、誰ともすれ違うことなく、海に辿り着いた。覚悟は出来ていた。確かに上達したとは言え、まだ経験一年の翠には、あまりに危険すぎる波だった。
しかし、ここで逃げ出すわけにはいかなかった。翠の中では、いつか決着をつけなければならない時が、今だったのだ。この日を、心のどこかでずっと待っていたのだ。もしも、今の姿を博己さんか絹代さんに見られたら、どんなに叱られるか分からないが、翠自身にも今の自分の中にある衝動を止めることは出来なかった。
稲村ヶ崎の裏から、日が明るんできた。他に、海には誰もいない。
翠は、一年前より伸びた髪をゴムでいつもよりも一巻分、強くポニーテールに結え、意を決して、海に飛び込んでいった。容赦ない強い波が、うねりと共に翠を襲った。叩き付けられながらも、必死でパドリングを続けた。飲まれても飲まれても、必死で波を潜り、沖に向かった。無我夢中だった。翠自身の身体が、引き裂かれるような強い力が加わって「チクショー」だとか「バカヤロー」とか普段は使わないような乱暴な言葉を海の中で叫び続けていた。
ようやく、ポイントまで辿り着いた時、今まで見たことのないような大波が目の前に迫って、視界の全てが波で塞がれた。翠はとっさに、ドルフィンスルーで波をくぐってやり過ごそうとしたが、気が付いた時には、既に体を持っていかれていた。
しかし、不思議と翠は恐怖感を感じなかった。
あ私、死ぬのかな。やっとパパと達生に会えるのかな、と冷静に思っていた。
ボードも流されて、左足に付けたリーシュコードに強烈な力で体が引っ張られる。もがいても、もがいても浮き上がることが出来ない。次から次へと、叩き付けてくる波に、呼吸も出来ず海水を飲み込む。
遠くなる意識。暗くなっていく視界。
気が付くと、翠は観覧車の中にいた。
翠は自分が、死んだのだと思った。不思議と翠は冷静だった。
今ある状況をありのままに受け入れていた。外の景色は、あの時と同じように真っ白だった。観覧車は、ゆっくりと音もたてずに動いている。
「なぁ、翠。さっきバスで言ったこと覚えてる?」
「え、何?」
「だからさ、世界が滅亡する日が本当だとしてさ、お前だったらどうしたい、って」
「まだ、そんなこと言ってんの」
翠は、今あの時間を生きているかのように思い出していた。ドリームランドで達生と観覧車に乗ってから、どうしても思い出すことが出来なかったあの時間を、薄れゆく意識の中で、今そこに生きているかのように、はっきりと。
あの時間の中で、はっきりと目の前にいて、ホエールズのキャップを被り、何も見えない真っ白な景色を見ている横顔の、まだあどけない達生を目の前にして、胸が締め付けられるようだったが、もちろん自分自身も、あの時の自分のままだった。
達生は、翠の対角線上に座っていたが、雪で殆ど見えない窓の遠く先を見ていた。
静かだった。
「俺だって、あと五年ちょっとで死ぬなんで、絶対やだよ。きっと何も起こらないで、笑い話になればいいと思ってるんだけど、どうしても、そういう風に思えないんだよ。俺はいつも、死ぬまでのカウントダウンしながら生きてる」
「大げさだな、タッちゃんは。私は絶対にそんなことにならないと思うな。タッちゃんさっき、お化けを信じたい人たちのこと言ってたじゃない。それと同じでさ、きっと世界が終わるってことを信じたい人たちって、何ていうかさ、終わりがないとうまく生きていけない人たちなんじゃないかな。ちょっとうまく言えないけど」
「そうだな。俺もそうなのかもしれない。自分がこのまま歳をとってくってことがうまく想像できないし、死んだあとどうなるかも分かんないんだ」
「私は、大人になった達生が、どんな風になるか見てみたいよ」
「大人、か。どんななんだろうな」
しばらく、二人ともそれぞれが大人になった姿を思い浮かべた。しかし、翠にもそれは、うまく像を結ぶことは出来なかったが、その隣には達生が居てくれたら嬉しいと思った。
「そうだ、もし、世界が滅亡しなかったら、この観覧車でまた会わないか」
「何それ。…面白そうね。じゃあ、何もなかったらその時は達生に何をご馳走してもらおうかしら」
「また、それか、大食い女」
「言ったなー。でも、私は絶対に生き抜いてやるわ。一九九九年に隕石が降ろうが、核戦争が起ころうが、宇宙人が攻めてこようが、生き延びる。それで、廃墟になったこの遊園地のこの観覧車にようやく辿り着くの」
二人とも、ようやく声を出して笑った。
「そうよ、その時に達生がいなかったら、ご馳走してもらえないじゃない。絶対にそんなの許さない。だから私が守ってあげる」
観覧車は、頂点に達しようとしていた。頂点に行けばいくほど外の景色は、白くなって、地面さえもぼやけていた。
達生は、何も言わなかったが、翠の言葉を聞いて、どうしても見つからなかったジグソーパズルのピースがあった時のような顔をした。それから、急に赤面しだしてから、達生はリュックの中を探り出し、何かを取り出した。
「あ、あのさ、せっかくだから、この…え、とこの十三番のゴンドラに、そう、タイムカプセルを仕掛けないか」
「え、どういうこと」
「世界が滅びなかったら、一九九九年の七の月越えた八月になったらさ、またここに来て、この秘密の手紙を開くんだ」
と言う達生の手の中には、少し古びた手紙のようなものが握られていた。
「え、何それ、何が書いてあるの」
「いや、ま、その、だから、それは、その時の楽しみってことで」
「今、見せてよ」
「それじゃ、つまらないだろ」
達生は、やはり赤面しながら、ゴンドラの中をぐるりと見渡してから、自分が座っている椅子の革のシートを持ち上げてみたところ、少しネジが緩んでいるのか、ちょうど掌が入るぐらいクッションの部分が浮いた。そして、そこに達生は手紙を奥の方に丁寧に押し込めた。そして、それを確かに封印するように、達生が力強く勢いづけて座った時、ゴンドラは大きく揺れた。
その時だった。翠の下腹部がひどくきしむように痛みだし、急に苦悶の表情になった。
「お、おい、どうしたんだよ。具合悪いのか」
「う、うん。大丈夫、何でもない」
まさか、こんな場所で、こんなことになるとは翠は想像もしていなかった。学校で男女に分けられた保健の授業で聞いていたし、母親からは何度か聞かされていたが、翠の中で焦りと羞恥は隠すことが出来なかった。
そうだ、私はあの時、あの瞬間から大人の体になったんだった。
そこからは、翠自身が恥ずかしさと混乱で黙り込んでしまい、ただただ早く逃げたいような衝動に駆られたのだった。そこから先は、ハンカチで応急処置をしながらも軽いパニックになって、達生も置きざりにしたまま急いで逃げ帰ったのを全て思いだした。そして、羞恥心と一緒にしまい込んでいた記憶は、達生を喪ったことで、決定的に思い出すことが出来なくなっていたのだった。
それが、今、遠くなる意識の中で光った火花のように一瞬にして蘇ったのだった。
そうだった。あの日の観覧車の中で何があったのか、あの日が私の身体が大人になった日だったんだけど、幼かった私にはそれをうまくやり過ごすことが出来なかったんだ。ただ恥ずかしくて、消えたくなった。
でも、今、全部思い出した。
達生からのタイムカプセルのことも。
翠は、海の中ではっきりと意識を取り戻した。
その時、何か強い力が翠を押し上げた。たまたま、波のうねりがうまく翠を押し上げたのだろうか。しかし、翠には誰かが押しあげてくれたような感覚が残っていた。
そこから、必死に翠はもがいた。そして波の力が抜ける場所を探し、うまく体をその流れに任せて、水面に浮きあがった。そして、思いきり息を吸い込んで酸素で肺を満たした。
生きている。私は生きている。そのことを、翠は心から実感した。そして、全身から力がみなぎってきた。
翠が、意識を失いかける中で全てを思い出したのは、ほんの一瞬のことのようだった。自分を飲み込んだ強い大波が去っていくのを、見送りながら、またすぐ後ろに来ている第二波の大波の予兆を読んだ翠はとっさに、確かに左足と繋がっているリーシュコードを手繰り寄せて、引き寄せる勢いのままボードに乗った。
そして、その勢いを付けたまま、精一杯パドリングをして次の大波の力をボードに感じつつ、一瞬のタイミングを見計らって立ち上がった。翠にも、こんな強い力の大波は初めてだった。もしかしたら、達生を奪った波と同じ波かもしれない。しかし、不思議と翠に恐怖感はなかった。翠は、誰かに体を支えられているような、あるいは自分の中にもう一人心強い誰かが入り込んでいるような感覚のまま、ボトムターン、トップターン、その波を繰り返しスラロームで抑え込み乗り切った。
翠自身、一年の経験では考えられない動きを、自分ではないような感覚の中でやり遂げたのだった。
「達生、ありがとう」
と、思わず翠はつぶやいていた。
昇ったばかりの、優しい暁の光に照らされた波の中をかいくぐって、翠は失くしたものを全て取り戻すことは出来なかったが、満ち足りた表情で、浜に戻っていった。
その後、翠が博己さんと絹代さんに、怒髪天を衝く勢いで叱られたが、翠が説教されながらも萎縮するどころか不思議と満ち足りた表情になっていくのを見て、二人とも顔を見合わせた後、ため息をついて博己さんが
「もう二度とするなよ」
と言われただけで済んだのだった。
翠は、濡れ髪のまま、笑顔で
「はい」
と答えた。
その時の彼女の表情には、かつて刻まれた古傷のような眉間の皺はどこにも見つからなかった。
一九九九年も終わり二〇〇〇年を迎えようという、クリスマス・イブの夜。雪こそ降っていなかったが、あの時と同じような鼻を衝く寒さが、翠には懐かしく愛おしかった。
翠は一人、ドリームランドの、観覧車の前に立っていた。さすがに、この日はクリスマスのイルミネーションで飾られた遊園地に、幸せそうなカップルや、家族連れの姿が多く見られた。その中に、たった一人でずっと観覧車を見上げていた。
そして、恋人たちの行列に並び、頃合いを見計らって、十三番のゴンドラに一人で乗り込んだ。
ゴンドラはゆっくりと上がっていき、あの時と違って、美しいイルミネーションと月の光が翠の表情を照らしていた。そしてゆっくりと、観覧車の頂点に翠を運んでいく。
「タッちゃん、ごめんね。約束守れなかった。でも、私はここにいるよ」
その時、翠の目には向かい側のベンチに、あの時の達生の恥ずかしげな表情をしながら、手紙をしまった様子がはっきりと見えていた。
そして、翠は達生の座っていた椅子の下から、古びてボロボロになった手紙を取り出して、ゆっくりとその封を開くのだった。