『夢への扉~はるかなる幻想へのいざない~』
夢への扉~はるかなる幻想へのいざない~
《女の人の声》
夢。それはあなたが眠りについたとき、まるで現実と入れ替わるようにして現れる不思議な世界。そこであなたは、普段の日常をすっかり忘れてしまい、ある時は剣と魔法を使ってさらわれたお姫様を助けに行ったり、ある時は得体の知れない影の怪物に追いかけられたり、ある時は好きな人に告白されたり……。
素敵で楽しい夢を見ることもあれば、不気味で恐ろしい夢を見ることも。いったい、夢とはなにものなのでしょうか。これからこの扉を潜り、あなたの眠る過程を見ながら夢の世界へ飛び込むことになります。はたしてあなたは、そこで夢の正体を知ることができるのでしょうか……。
第一の部屋 まどろみ
「おやすみなさーい」
あなたは目を擦りながらお父さんお母さんにおやすみを言います。二人とも、にっこりとほほえんで「おやすみ」と返してくれました。時刻は午後九時。大人はまだまだ元気いっぱいの時間ですが、昼間夢中で遊び回ったあなたにとっては、もうまぶたが重たくてたまりません。
二階にある自分の部屋に向かって、階段を二歩三歩。いつもならすぐそこにある部屋が、この時ばかりはまるで空港にある動く歩道を逆走しているかのように、遠く遠くに感じられます。見かねたお母さんが、後ろからやさしく背中を押して手伝ってくれました。
部屋に入り電灯をつけると、光にもやがかかっているように見えて、幻想的な感じになりました。お母さんに二度目のお別れを告げてベッドに潜り込むと、パチリと電灯を消してくれました。世界は闇に包まれます。我慢していたまぶたが支えを失い、すとんと下に降りてしまいます。そしてあなたの身体からあらゆる感覚が消えてゆきます。けれど、あなたはそのことに気づきません。ただ全身を覆う眠気に身をゆだねて安らかな気分であるだけです。
そしていつの間にか、あなたは夢の世界へ……。
果たして「夢」とはいったいなにものなのでしょうか。
第二の部屋 夢へ
気づくとあなたは、どこともしれぬところに立っていました。何色ともとれない風景。ただぼんやりとして何も考えることができず、その場に立ち尽くすことしかできません。まるで、自分というものが存在せず、ただ誰かを上から眺めているだけのような感覚。いったい、あなたはどうなってしまったんでしょう。
そんな時、目の前に突然誰かが現れました。誰かには形がありません。そもそも目に見えることさえなかったのです。誰かというのは、実は私です。私は実は誰でもありません。私であるために私という私なのです。これから私は、あなたに夢とは何かをお教えしましょう。難しいことはありません。なぜなら夢とは、理解する物ではなくて感じる物だからです。だから安心してください。
睡眠にはリズムが存在しています。浅い睡眠と深い睡眠を一定の間隔で交互に繰り返しているのです。あなたが夢を見るのは浅い睡眠の時だけです。意識が現実に限りなく近づいたとき、あなたはうっすらと浮かぶ現実を覆うように夢を見ると言うことなのです。
さあ、次の部屋へ参りましょう。そこで、あなたは夢の本質を知ることになります。
第三の部屋 夢、それはもう一つの世界。
あなたは眠っています。暗い部屋で掛け布団と静寂に包まれながら、現実の楽しさも苦しさもすべて忘れてしまい、ひとときの休息を取っているのです。
ですが、それはただ意識を失い続けているということを意味しません。あなたの身体はときおりピクンと跳ねたり、もぞもぞと動いたり、小さく寝息を漏らしたり。まぶたの奥に移る色とりどりの夢にあなたは現実の身体でもって反応を示しているということなのです。
夢。太古から偉大なる不思議さをもって語り継がれてきた現象。ある時は良いことが起きる前触れであり、ある時は大いなる災いの予言であったり、ある時は誰かが自分を想っていることの現れであったり、ある時は自分が誰かを想っていることの現れであったり。相反する様々な夢に対する考察が、様々な文章や絵や記憶によって語り継がれてきたのです。
夢のことを科学的に考察すれば、それは眠っている間も働く脳の神経による電気信号が、睡眠中の希薄となった意識を乗っ取り、過去の記憶の継ぎ接ぎをあなたたちに見せているにすぎないのでしょう。
しかし、それは間違っているのです。たしかに一定の論理性を持った解答ではありますが、科学が真実すべてを示すというのは科学万能主義によってもたらされた傲慢です。
夢は、そんな理屈で語ることができるような矮小な現象ではないのです。
夢は、いわば、世界。世界、そのものなのです。
思い返してみてください。あなたが見たその夢は、実際のところ本当にあなたの脳内の記憶を継ぎ接ぎして作ることができるような夢だったのでしょうか?
時に壮大で、時に華麗で、時に憂鬱で、時に邪悪で、時に啓示的で、時に絶望的で。
そんな夢が、実につまらない現実の継ぎ接ぎであるはずがないでしょう。
お教えしましょう。夢とは世界なのです。あなたの脳内に作られた、もう一つの世界そのものなのです。世界にはもちろん人間がいて、動物がいて、山が川が空が海があって。更には剣も魔法も奇跡も神も存在する。頭の外の世界よりも、遙かに広く自由な世界。眠っている時、あなたはそんな世界を目の当たりにしているのです。
驚いたでしょう? まさか自分がベッドの中に居ながらにして違う世界を見ているなんて。もしかしたら、あなたは信じられないかもしれません。たしかに夢は見る。だけど、あれが本当の世界なんて思えない、と。それにもちゃんと理由があるのです。
夢という名の世界には、力があるのです。あなたに物語の一人となってもらう力。考えてみてください。あなた達が住む世界、いわゆる現実世界は、果たして夢と比べてどんな世界でしょうか? ニュースではいつものように、人が人に悪いことをしている姿が流れます。アナウンサーの人は真面目な顔で悪を批判していますが、彼も彼女もひとりの人間です。正義の味方ではありません。
夢には力があります。あなたが自由に夢の中で動き回れないのは、夢が夢を幸せな世界として保つための力を使っているからなのです。
あなたはそれに抗ってはいけません。身体を、心を、あるがままに委ねるのです。水の上に、そっと背中を乗せて浮かぶかのように。さすればきっと、素晴らしい夢を、世界を、あなたは過ごし続けることができるでしょう。
第四の部屋 別れは、必ず訪れる。
閉じたカーテン。その隙間から見える外の光景が、少しずつ白んでいきます。地平線の彼方より、もうすぐ朝がやってくる。あなたの目覚めがやってくる。夢との別れがやってくる。
ですが、そんなことは露知らず、あなたは夢の世界に浸っています。まるで永遠に続く真の世界であるかのように。
覚めない夢はありません。一般的にはそう言われています。けれども実は、辛く悲しい現実に戻ることなくずっと夢を見続ける方法がひとつだけあるのです。今からそれを、お教えしましょう。
夢の中であなたが出来ることはありません。第三の部屋で言ったとおり、夢では夢に、ただ流されるのみ。なにか強い意志を持ってしまえば、たちまち消え去って現実に戻ってしまいます。なにかをするのは眠りにつく前。あるいは現実の生活での中。
ではどうすれば良いのか。簡単なことです。目覚めている時も、常に夢のことを考えるのです。現実世界の鬱屈な生活は放っておいて、昨日今日見た夢を思い出し、反復するように追体験しようと努めるのです。
また、どんな夢を見たいかを考え願うのも有効です。世界を救いたい、あの子と会いたい話したい、美味しいものを食べたい、素敵な光景を見たい、宇宙遊泳をしてみたい。なんでも構いませんが、現実離れしている方が好ましいでしょう。
夢で意志を持つのは厳禁です。けれど現実では夢への意志を持つべきなのです。現から虚へ。虚では虚のままに。
すべてを夢の方へと傾けることは、今なお現実を生きているあなたにとってはいささか難しいことかもしれません。けれど、今言ったことを続ければ、あなたが夢見る夢の世界はどんどんどんどん長くなっていきます。睡眠時間はそのままです。夢の体感時間が長くなっていくのです。五分ぐらいにしか感じられなかった夢が、十分、三十分、一時間、二四時間、一週間、一ヶ月、一年、百年……。現実世界で願えば願うほど、あなたの夢はいくらでも延ばすことが可能なのです。
怖いですか? 夢から戻れなくなるのが怖いですか? 心配することはありません。夢が現実より長くなれば、虚実流転。夢が現実に、現実が夢に。この世界の大部分を占める現実志向の人間は、たとえ一生夢を見られなくなったとしてもちょっと残念に思うだけでしょう。それと同じ事です。一年の体感時間を持つ夢を見ることができたとすれば、一日の現実は一瞬です。そんな短い現実は、捨ててしまっても良い価値となってしまうはずです。
それでも怖さを拭えぬあなたに、付け加えましょう。現実で夢のような体験をすることはできませんが、夢で現実のような体験をすることはできます。いわば、夢は現実の上位互換なのです。失うものは何もありません。
ひとときの別れを、悲しむ必要はないのです。
最後の部屋 また、会いましょう。
じりじりじりじり。喧しい目覚まし時計が鳴り響きます。その音は、過大なまでに現実成分を含んでいて、夢の世界を一瞬にして破壊せしめて、現実世界へと目覚めさせてしまうのです。
さよなら。
あなたはベッドから身を起こし、目を擦ります。その手の指に触れる瞼が、少し湿っていることに驚くでしょう。無意識に、あなたは夢との別れを惜しみ、涙を流しているのです。おやすみ、夢。おはよう、現実。
昨晩閉めた扉を擦り抜けてお母さんの声が聞こえてきます。あなたは急いで立ち上がり、タンスに向かって服を探します。昨晩はあんなに優しく感じたお母さんが、朝になるとまるで過酷な労働を強いる刑務官のように厳しい人へと変貌しています。それが現実なのです。
着替え終わったあなたは、部屋を出る前にベッドをもう一度見やります。ついさっきまでは素晴らしい幻想を見せてくれていたベッド。次の夜が来るまで、彼は何も語ることはありません。言葉に出来ない空しさを、あなたは感じながら扉を閉じました。
また、会いましょう。愛しいあなた。私はいつでもここで待っています。
願わくばあなたが、現実へと別れを告げて楽しい夢をずっと見続けることができますように。