狭間にて2ー1 『ドリーム・ワールド』
その夢は、まるで幻想であったかのように未來の脳内でゆらりゆらりと揺らぎ、瞬く間に薄れて消え去ってしまった。
未來はベッドから跳ね起きた。そして強く頭を押さえる。
「う、うう……」
低い唸り声。感覚すべてを脳味噌に集めるようにして、消えてしまった夢の記憶を必死で再び呼び出そうともがく。
騒々しい物音に、ツインベッドの片方で高らかな鼾をかいて眠っていた瑠香の目も醒める。
「うにゃ、どうしたのうるさいな……って、わわ! 何してんの!」
苦しそうな未來の姿に眠気を吹っ飛ばし、駆け寄ってその小さく縮こまった両肩を抱いた。
「大丈夫? 頭痛?」
と呼びかける瑠香を未來は振り払い、今度は手近な壁にでこを打ち付けた。ガンガンガンと重たく鈍い音。何度も何度も何度も何度も。
「いや、ちょ、マジでヤバいって! そんな痛い? まさか、くも膜下出血? 群発頭痛?」
瑠香は慌てて電気を付け、ナイトテーブルのスマホを取ろうとした。
が、その手を掴み阻んだ未來。衝突とわずかな振動の合間に、弱々しく言葉を挟む。
「大丈夫」ガン。「だから」ガン。「好きに」ガン。「させて」ガン。
その痛々しい連打はどれぐらいの間続いただろうか。やがて未來は諦め、今度は洗面所へと向かう。安いビジネスホテルは、当然ながらユニットバスである。
蛇口を全開にし、出てきた滝のような冷水に頭を突っ込む。両手でわしわしと髪を揉みしだくようにして、更に刺激を加える。
後からついてきた瑠香は、ただその彼女らしからぬ奇態を呆気にとられて眺めるしかなかった。とりあえず病気でないのは確かそうで、手に持っていたスマホの画面を暗くする。
やがて顔を上げた未來は、瑠香の顔を虚ろに見つめてからそちらに向かって歩き出した。
「わわ、水! 濡れるって」
後ろに飛ぶようにして瑠香は未來の髪から跳ねる水滴を避けた。だが洗面所のタイル、リビングルームのカーペットは避けようもなく濡れてしまった。そのままベッドに尻から乗っかる。
それでようやく、早朝の狂乱は幕を降ろした。未來は乱れた寝間着を意にも介せず、荒い息をしてどこか一点を見つめている。
「もー、いったいどうしたのさ」
瑠香は洗面所から新しいタオルを持ってきて、未來の髪や顔に付着した水分を拭った。
されるがままになりながら、未來は「ごめん」と呟いた。
「謝らなくていいけどさ……。頭痛じゃないのなら、悪夢でも視た?」
「あれは悪夢じゃない。もう覚えていないけど、きっと素晴らしい夢だった」
軽口を叩いたつもりが、真剣に返されて瑠香は目を丸くする。
「素晴らしい夢? じゃあ、どうしてあんなに暴れたのさ」
すると未來は恥ずかしげにはにかんだ。
「思い出したかったから。頭を刺激すれば、記憶が戻るかもなんて咄嗟に考えたの」
「なんだそりゃ……一昔前のブラウン管テレビじゃないんだから」
「まったくね」
当然ながら未來の試みは無駄に終わったことになる。物理的な刺激を与えても、未來の失われた夢の記憶が戻って来ることはなかった。
もはや印象にしか残らぬ夢の残滓を、未來は頭をむちゃくちゃに擦られながら回想する。
夢の跡に残るのは、いつも切ない虚しさであるのがお決まりだ。しかし、今日の夢は違った。
もう二度と現実感を持って思い出せない夢の幻影には、確かなる充実感と希望の温かさが残存していたのだ。
未來は、右手の平でぎゅうっと『心』のある位置を握りしめた。寝間着の奥で『心』は、呪いであるかのようにずっと脈を打ち続けている。
あの夢はいったい何だったんだろうか――?
溢れる感傷が落ち着くと、次にやって来たのは論理的思考だった。いや、夢の意味を専門知識なしに考えてしまうこと自体が、論理的というより内心の苦しみから来る悪足掻きに過ぎないのかもしれない。
あれは過去……そう、過去の夢だった。
未來がまだ子供だったころ。小さくて、無力で、何もかもを他人に頼り切りながら、そのことを知る由もなく全能感に満ちていた――そんな過去だ。
だが、ただの回想でもなかったように未來には思えていた。違和感。どこか違う過去。記憶との齟齬があちらこちらに残る過去。
造られた、過去?
と考えてみても、それは文字でしか意識に上ってくることがなく、決して情景は浮かんでこない。この回想も、実はそうであったと未來の無意識が作り出した偽の記憶かもしれないのだ。
いや、無意識に作られた偽かもしれない記憶と、無意識の内に視た夢。両者に何か違いはあるのか?
とりあえず未來は、その記憶が真実に視た夢の記憶であると信じ込むことにした。
「で、思い出せたのか?」
瑠香は未來の思考からずいぶん遅れをとった質問をした。
未來は黙って首を横に振る。まだ残った飛沫がベッドのシーツに飛び散る。
「あーあー。あとでホテルの人に謝らなくちゃ。でも、いいなあ。あたしが最近視る夢は、全部つまらないものばっかだよ。無理矢理パパに跡を継がせられたりするみたいな、幻想もへったくれもない」
「楽しい夢を忘れるのも、辛いことだよ」
「ま、そうかもね」
「でも、あの夢はただ楽しいだけの夢でもなかった」
「どういうこと?」
「何かの真実のような、何かの核心のような、決して逃しちゃいけない大切なものだったような……」
「ふーん、ま、夢なんてそんなもんじゃない? フロイトだっけ。夢は人の無意識を映し出すって言ったの。自分の無意識とか、それだけでなんか大切そうじゃん」
しかし納得できないように唸る未來。
「それとも、あれ? 夢で未来を――あ、フューじゃなくてフューチャーの方ね――幻視したとか。それとも前やたら人気出た映画みたいに、誰か違う人と入れ替わったとか」
未来、過去、違う人。
どれも違う。どれも、未來が視た夢とは違う感じだった。
「でなければ、こんなのもあるよね。夢でこことは全然違う異世界に飛ばされて、超スペクタクルな冒険を繰り広げるみたいな」
「異世界?」
声のトーンが変わった。そして瑠香のタオルを奪い取る。ごしごしと顔を拭った。
「あ、もしかしてドンピシャ?」
的を射たかと指を鳴らす瑠香。
「かもしれない」
未來はふたたび勢いよく立ち上がった。躊躇なく寝間着を剥ぎ取り、スーツケースにしまってあった服に着替えはじめる。
「こ、今度はなに」
「瑠香も早く着替えて。出かけるわよ」
「もー、行動が急すぎるって。まさか、化粧もさせないつもり?」
「自分が運転するから、その間に助手席ですればいい」
「あんたは?」
「どうでもいい」
話している間に、早くも未來は上は長袖の地味なTシャツに下は細身のデニムを着けていた。髪はぼさぼさなままだが、構わずに黒のスプリングコートを羽織る。
瑠香は溜め息をつき、実は密かに楽しみにしていたビジネスホテル特有のチープな朝食バイキングにありつけなくなったことを悟るのであった。
「で、一体どこへ向かおうってわけ? あたしの人脈、また使う?」
未來がシフトレバーをドライブに入れ、アクセルを踏み込むと共に瑠香は口を開いた。早速膝の上には化粧品セットが載っている。自分の顔の造形が悪くない、いや、客観的にかなり良い部類にあることは自覚しているのであまり厚く塗らないことにしている彼女であるが、それでもすっぴんの顔を衆目に晒すのには耐え難い抵抗感を持っていた。
それに比して、平気でノーメイクのままの未來。高揚感にわずかながら頬を赤らめている。
「心配しないで。今から向かうのは人じゃない。自分が昔行ったことのある施設なの」
「施設? まさか未來、あいつの居場所に気づいたとか?」
「いや、それはない。けれど、もしかしたら近づくヒントを得られるかもしれない。天羽が作った《超仮想世界》に近づくことができるかもしれない」
「ほう。面白いじゃん。なんかワクワクしてきたよ」
「それじゃあ、飛ばすわよ」
ちょうど高速のETCゲートを越えた時だった。未來がすかさずクラッチを繋げてシフトレバーを下げ、アクセルを踏み込むと、年代物のフェアレディZが唸りを上げる。拘りが強い瑠香の愛車だった。
「いい踏みっぷり! がんがん行こうぜ」
いつの間にか化粧を終えていた瑠香は、オーディオの音量を上げた。もう大御所と化した日本のロックバンド《エルトベルツ・サッド》のドライブチューンだ。
音の残像を二本のタイヤで道路に残し、フェアレディZは世界の風穴を空けんとするかのごとく一直線に駆け抜けるのであった。
太陽が一番高く上がった時間にて。
適当なコインパーキングにZを駐車すると、二人は並んで歩みを始めた。
雲一つ無い青空。にも関わらず太陽光線は柔らかく肌にも目にも優しい。
「この時期の無季節感ってほんといいんだよね。最近短くなってるのが残念だよ。にっくき地球温暖化」
大きく背伸びをしながら辺りを見回す瑠香。
いたって普通な住宅街といったところだが、周りに人の気配はない。どこからともなく聞こえる葉の擦れる音は、必要以上にここが自然豊かであるように思わされる。
「なーんか、すべてを忘れてこういうところで過ごすのも悪くないって最近思うのよね。もう歳かしら」
「いっぱしに歳を取れるのは幸せなことだと思うわよ」
「……今のあんたに言われると、なんか凄く含蓄ある感じ」
「どういたしまして」
と、未來は瑠香の二、三歩先に出た。明らかに早歩きである。慌てて瑠香もその背中を追う。
「どうしたの、えらく気がはやってるじゃん」
「自分の記憶が確かならば、もう少しで見えるはずだけど……」
そしてしばらく行くと大通りに出た。片側二車線の標準的な国道である。
そのちょうど向かい側。果たして、未來が目指していた『施設』はそこにあった。
地方都市らしく、大手チェーン店と昔ながらの個人店が軒を連ねている中で、一際目立たず奥まったところに鎮座している建物。古びた公民館あたりが元となっているのであろう地味なものであったが、一目見て特徴的な看板が入り口の扉の上部に取り付けられている。
「ドリーム……ワールド、ねえ。なんというか、捻りがないのか判りやすいのかすっごく微妙」
毒々しい赤い看板に黄文字で「DREAM WORLD」と。全体的に錆が侵食していて、夢の世界というよりは没落したおもちゃの世界と言ったほうが適切なのかもしれない。
「懐かしいわ。昔と何一つ変わっていない」
感慨深そうにゆっくりと首を動かして周りを眺める未來へ、瑠香は呆れたように言う。
「昔のあんたにも今のあんたにも、それはそれは似つかないロマン溢れるところだなあ」
「そうでしょう。さあ、行くわよ」
そして軋む扉をゆっくりと引く未來。
瑠香はその背中に届かない溜め息を吐き付けるようにした。
「相変わらず、皮肉の通じない女ね」
中は薄暗く、視界の制限甚だしい。
目の前には透明(だが埃や汚れで灰色にくすんでいる)のプラスチックで仕切られたカウンター。胸の所に小さな台が据え付けられていて、その部分にはチケットを手渡す用の平たい穴が空いている。遊園地や駅にもよくあるタイプである。が、そこに係員はいなかった。
「人手不足のようなのも、変わらないわね」
そして脇には券売機が代わりに設置されている。
瑠香がそのボタンを一目見て驚く。
「げ、大人千五百円も取るのかよ。単価高くなきゃやってけないのはわかるけど、少々ぼりすぎじゃない?」
大企業のご令嬢である割に、瑠香は世俗的だった。
「仕方ないわよ。ここは、バブルによって産まれた幻想の遺物みたいなところなのだから」
「幻想の遺物ね……。まあ、見るからにそんな感じだな。――で、ここは名前の通り夢世界を体験させてくれるアトラクションみたいなところなんだな?」
未來は紙幣を差し込み、その代償にチケット二枚を手に入れつつ答えた。
「まあ、そんなところね。ただ、いわゆるテーマパークのように『ひとときの夢を与えてくれる』施設ではないの」
「? じゃあ、どんなとこなんだ」
「それは、入ってみてのお楽しみ」
カウンターに向かって左側の通路を行くと、木に似せて茶色く塗られた両開きの扉。時間の経過によって所々変色しているのが、一種の妖しい雰囲気を醸し出していた。
「……なんか、気味悪いな」
身震い一つの瑠香。
「行くわよ」
未來は右腕を伸ばし、そっと扉を押し開けた。そこに待っていたのは暗黒。完全に光が閉め出されており、無とも取れる闇が静かに佇んでいた。
中に入る未來。が、後ろについてくる気配がないので振り返る。
部屋と廊下の境目で、瑠香は怯えて足を踏み出せなくなっていた。ぶるぶると首を左右に振り、入場への拒否反応を示す。
「どうしたの。あなた、そんな恐がりだったっけ?」
昔、二人は一緒に遊園地のお化け屋敷に行ったことがある。その時は確かに瑠香は喜んで先陣を切って人造幽霊と渡り合っていたはずだ。
「いや、そうじゃなくって……。そうか。異世界ってそういう」
「嫌だったら外で待っていてもいいよ。自分は一度入ってるから大丈夫だし」
だが瑠香は首を振った。
「くそ、親みたいなこと言って。入るよ。入ってやるよ。あんただけ真実を知って、先に進むなんて絶対に許さないからね」
そして小さく闇への一歩を踏み出した。
未來はそれを見て微笑んだ。
彼女には、こうして一度突き放してやると絶対に立ち向かわなくては気が済まない質なのだ。まるで、おきあがりこぼしかのように。
扉は音もなく閉じた。二人は世界から断絶した。
やがて、どこからともなく音が聞こえる……。