気怠き純白2 『眠り姫の涙』
私が本部に着いたときには、すでに全所員が無言の慌ただしさに憑かれているようだった。
「ねえ、今どういう状況?」
とりあえず、手近でおろおろすることしかできていなかった山本に尋ねる。
山本は私の顔を見て、驚いたように顔全体を張り詰めさせた。
「あ、所長!《地球》の観測データに多大な乱れが見られたようです。外部からの干渉の恐れがあるとかなんとか副所長は言ってましたが……」
「ハッキング? 馬鹿な、そんなのはあり得ない! 《地球》はどこの回線とも繋がってない、スタンドアローンで動いているのよ」
「あ、それはそうですよね。でも、副所長が……」
これ以上、半ばパニック状態の彼を問い詰めるのは酷だと判断し、私はモニターの前で矢継ぎ早に指示を飛ばす秤屋に近づいた。
「状況は」
声を掛けるまでまったく私の存在に気づかなかったらしい秤屋はきっと荒々しく振り返り、そしてすぐに表情を和らげた。
「君か。異常事象の発生だ。君もあっちで気づいただろう?」
「……そうね。そう言われてみると、確かにあれは異常に値する出来事だったかもしれないわ」
「一応君にも精神汚染のチェックをする必要があるな」
「ええ、そうね。でも、今のところは《地球》の現況報告を。私一人の精神よりも、はるかにそっちの方が大切よ」
「了解。時刻は昨夜の二十二時過ぎ。実験開始直後のことだ。突然《次元膜維持機構》に付いているアラートが鳴った。パターン黄。『内部に危険を生じない異常の発生』というわけだ。よって《地球》の強制終了は回避し、とりあえず終了予定時刻まで厳重な監視を行い、更なる異常が発生すれば、すぐに対処できるようにした。幸い、《世界》を揺るがす現象は起きなかったが未だ原因は不明だ」
「外部干渉の恐れがあると?」
「内部プログラムのコードを手分けして確認したが、バグや誤記述は見られなかった。全ファイルにスキャンをかけたがこちらも異常なし。外から何らかの影響を受けたとしか考えられん」
外。しかし先ほど山本にも言ったように、《地球》は完全に単独の装置として稼働している。ハッキングをするにも、その入り口が存在しない――。
と、その時気づく。思わず秤屋の顔を見やる。
「? どうした」
秤屋が訝しげに見返してくる。
「いや、何でもない。とにかく、点検を続けてくれ。異常が発生する可能性がある部分は、徹
底的に調べるんだ。少しでも予断を許さないように」
早口で指示を飛ばし、秤屋に表情を悟られないように壁際の方を向き、先ほどの気づきに意識をやった。
ハッキングの入り口がないというのは、あくまでも『研究所の外からアクセスする術がない』という事実を表したにすぎない。
《地球》は巨大かつ複雑な装置であり、研究所中の様々な部屋からコードとソケットを介してアクセス、操作、干渉することが可能となっている。つまり、ここに居住している研究員ならば誰でも一人で《地球》にプラグイン可能というわけだ。なにせ、大病院を改築したこの研究所は広い。広すぎる。誰にもバレずに行動を起こすのは非常に容易というわけだ。
裏切り者がどこかにいる?
いやしかし、と安易な答えに縋ろうとした私は思い止まる。
ハッキングはいい。《超仮想世界》の技術を喉から欲しがる人間はいくらでもいるだろう。自分の研究を過信する気はないが、だからといって過小評価する気もない。多少の応用力があれば、いくらでも人類にとって有用となるし、逆に悪用することも可能だろう。
だが、それにしてはやることが妙だ。
クラッカーがあるプログラムにハッキングする目的は大きく分けて二つある。
プログラムの情報を盗み出すためか、あるいは破壊するためだ。
今回の場合はどちらも当てはまらないのがすぐ分かる。
前者にしても、後者にしても、こうしてすぐに異変を気取られるような干渉をしてくることが既におかしいのだ。《地球》はセキュリティという面では穴だらけに等しい。いくらでも隠蔽工作は可能だったはずだ。
動機がないハッキング。裏切り者による犯行だとすれば、こうした矛盾が露呈することになる。安易に結論づけるのは禁物だ。
「それより天羽君」
私の思考は時間にしておおよそ数秒のことだった。これぐらいなら内部犯を少しでも疑ったと気取られずに済むだろう。
「何かしら」
秤屋の声が背中越しに届く。
「別棟にいる例の彼女は大丈夫なのか? もしも異変の影響により精神汚染を受けるとするなら、君よりあの子の方が心配だが」
しまった、と思うと同時に私は自分のことを殴りつけたいような怒りに包まれた。荒々しく扉を押し開け、誰に何も言わず別棟へと全速力で向かう。
走りながら、自分を責めずにいられない。
どうして忘れるんだ! 彼女はこの研究で一番大切な――違う。今までの私の研究は、すべて彼女のためのものだったというのに!
おかしくなっているのか? 世界創造という神の域に達しつつあるという重荷が私にのしかかっているというのか?
違う! 世界が何だ。神が何だ。そんなことはどうだっていい。すべてはあの人のためだ。あの人を失うのに恐れてあの子自体を忘れていた。失態だ。本当に、私は私を信じられない気持ちになった。
別棟への扉を開くとまっすぐ一直線に伸びる渡り廊下。外は雲の灰色に染め上げられていた。
本棟に比べると、別棟は明らかに小さい。病院だったころは重篤な患者をここに片っ端から押し詰めていたということだが、今現在別棟で眠っているのは彼女だけだ。彼女は重篤な患者なんかではない。
私は駆け足のまま一段飛ばしで階段を上った。エレベーターを待つ気分的余裕は無い。もしも彼女が異変に侵されていたとすれば……考えるだけで全身に虫酸が走る。
――彼女の身体を、今の今まで忘れていたというのに。
別棟最上階。階段とエレベーターが並ぶホールから見て一番奥の部屋に彼女はいる。彼女を誰にも触れさせたくなかったのだ。
そこからはあえてゆっくり歩くことにした。激しく床を蹴って、わずかな衝撃でも彼女に与えてはならない。
彼女は眠っているのだ。深く、深く、夢を見ることすらせず、ぐっすりと、眠っている。私はそれを妨げるわけにはいかない。
何の変哲も無い扉の前に立つ。少し違うのは、ノブの下の所に重厚な鍵穴が取り付けられているところだ。これもまた、ここが病院であった頃の名残らしい。私は白衣のポケットから穴に合う鍵を取り出した。いつも肌身離さず持ち歩いている。合い鍵は無い。ここを開くことができるのは私だけだ。
入る前に息を整える。そして、彼女がまだ眠っていることを願う。純のまま、子供のまま、無垢のまま、眠り姫で居続ける彼女を願う。
中は私の部屋と同じように純白一色である。すぐに私はその中央に鎮座するベッドを見た。
良かった。彼女はまだそこに居た。
《地球》の異変を知ることもなく、安らかな表情で眠っている。しっかりと呼吸もしているのを、胸の上に載っている掛け布団の上下と彼女の身体に色々付けられたコードが伸びる先にある生命維持装置の様々な計器の数値が示していた。
精神にも異常はない。頭に被せた無機質な銀色のヘルメットからもコードが伸び、別の装置に接続されている。彼女の脳波は、正常そのものだ。装置から発される断続的な点滅音は、安寧の永続性を保っているように聞こえる。
彼女の側に寄った。そして彼女の綺麗な顔を見つめる。
私は彼女の本名を呼びたくない。呼ぶ気になれなかった。だから私は、これまで通り今の彼女を誰でもない『彼女』として脳裏で呼びかけることにする。
彼女の顔は美しい。完全に調和が取れた、――言い換えれば、完全に『普通』の顔である。だからこそ、私にとって誰よりも美しく感じた。
もう二度と、彼女を苦しい目に遭わせるわけにはいかない。この美しい顔を、美しい心を、狂わせるわけにはいかないのだ! その為に、私は今日まで生きているのだから
と、その時だった。彼女の閉じられた目尻に、膨らむものがあった。
何だろうかと目を凝らすとその膨らみは電灯に照らされ一瞬光り、つうと頬へと垂れていく。
まるで流れ星かのようなそれは、涙。
反射的に手を伸ばすが、触れることはできなかった。触れてはならぬと思わされるほどに、その涙の水滴は儚さと危うさを伴っているのだ。
どうして?
私は涙の理由を彼女の脳波に求めた。しかし、正常。つまり、正常な涙。埃か汚れた感情、どちらかを洗い流すための涙。
そして、この部屋は常に清潔な状態を保っている。埃一片も、彼女の瞳に侵入するのを許さない。
彼女は悲しんでいるのだ。
いったい、どうして?
やはり、精神汚染? あるいは、そもそもの実験で何か問題が?
判らなかった。装置を操作しデータを確かめても、どこにもおかしな所は見つからない。
悲しさの、源は?
貴方の為に《地球》を作ったというのに、どうして貴方は私の前で涙を流すの?
やるせなさに壁を殴りつけようとして、踏みとどまる。彼女の前で、理性を失った醜態を見せるわけにはいかない。
彼女にとって私は、完璧な存在でなくてはいけないのだから。
そう考えると冷静な感情が戻ってくるのを感じる。白衣の内側からハンカチを取り出し、もう消え失せた後の涙の軌跡をそっと拭った。頬は温かく、柔らかかった。確かに生を感じる。
もう行かなければ。現実に帰らなければ。
後ろ髪を引かれる思いで、私は彼女の部屋をあとにした。
さよなら。また会いましょう。
何もしてないのに疲れてしまった。全身に気怠さを感じながらのろのろと本棟へと向かっていると、渡り廊下のところで何やらえらく慌ただしい様子で山本がこちらにやって来た。
私の姿を認めると、彼はすぐに止まりきれずにたたらを踏んだ。
「所長! またおかしなことが!」
私は溜め息をついた。まだ何かあるのか。
「どうしたの」
「異常ログがすべて消えてしまったんです! たった今、何の前兆もなしに一瞬で」
「……意味が解らないけれど」
「とにかく来てください。本当は電話しようと思ったんですけど、こっちに来てるって副所長から聞いたので、直接呼びに来たんです」
別棟で彼女と会う間は携帯の電源を切っておくことは、所内の誰もが知っている。余計なノイズを消すためだった。
「分かった。行きましょう」
脱力した身体に鞭打ち、全身のバネを呼び起こして私は再び地面を蹴った。
先ほどまでは異常事態にありながら、ある程度の冷静さを保っていた秤屋も今度ばかりは困惑の色を隠せていなかった。
「おかしい。こんなことは有り得ない。有り得ないどころじゃない。どこにもエラーはない。だというのに」
うろうろと上の空で反復移動を繰り返す秤屋を横目に、私は《地球》のマザーコンピュータを操作するキーボードを叩いた。
秤屋の言う通り、エラーはない。いや、なさすぎる。
さっきまで存在していた異常事態を示すログ。それがすべて消え失せていたのだ。アラートが鳴ったことも、《地球》がプログラム外の動作を行ったことも、すべてが無かったことになってしまったのだ。まるで夢だったかのように。
時限制の消去プログラムを仕込んであったのか? しかしフルスキャンに引っ掛からなかったのは不思議だ。《地球》はスタンドアローン式である以上外部からの攻撃には無防備だが、自身のメンテナンス機能は充分に備えている。世界を創造するには、絶妙なバランスが必要だ。内部データの数値が少しずれるだけで破滅的な破局を迎える危険もあるのだから。
解せぬことが多すぎる。
「どうするかね。私としては、一度実験は中止するべきだと思うがね。何しろ人命が掛かっているのだから」
「……」
私は答えない。答えたくなかった。
そんな私を秤屋はじっと見つめ、すぐに小さく息を吐いた。
「やはりな。君が中止したがらないのは重々承知だ。続けるのだろう?」
そうだ。秤屋が言葉にしてくれたおかげで、私自身の決心が付いた。
《地球》を侵しているのが何者なのかは判らない。何者かですらないのかもしれない。
それでも私はこの実験を続けなければならない。例え世界が壊れても、たとえ私が壊れても、たとえ彼女が壊れても。それでも私は逃げ出すわけにはいかないのだ。
「ありがとう」
その言葉は、決して秤屋に向けて言ったのではなかった。