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狭間にて1 『超仮想世界』

 自分の過去を歴史とするならば、きっとその短い年表は驕りと後悔の二色のみに塗り分けられてしまうだろう。


 八園未來は、そう考えた。


 こちらに向かってくる水滴は、わずか数ミリの厚さしかないガラスの膜に阻まれる。

 護られている。それでいて、自由でもある。この両者を満足しているだけで、自分は例えようもなく幸せなのだとも、考える。

 次に、なぜ自分は幸せなのか、と考える。

 否。主観的にはまったく幸せでない。未來の心にはいつも暗雲が立ちこめている。目の前の景色のように崩壊しないまでも、心の中の曇り空が晴れることはない。後悔の灰色はいつもそこにある。

 それであっても、客観的には幸せと言える。この世界中の人間の幸福度を数値化したとしたら、間違いなく自分は半分より圧倒的に上位となるだろう。その揺るぎない事実が、今の未来にはとてつもなく辛いものであったのだ。


「フュー、どうしたのよ。えらく思い詰めた表情しちゃって。あ、いつも通りか」


 隣に座り気楽な口調でそう言ったのは幼馴染みの神先瑠香である。しなやかな金髪ロングを後ろで一つに纏めている。きりっとした目つきには確かなる知性が宿り、それでいて表情を十二分に反映させて動かす唇の形は女の魅力をこれでもかと誇示しているようだった。

 瑠香が未来を『フュー』と呼んだのは、未来=futureフューチャーから取った簡単な言葉遊びである。ちなみに昔は、『フューちゃん』でより英語に近かったのだが、思春期を越えた今、『ちゃん』という可愛らしい敬称は跡形もなく消え失せてしまっていた。『フュー』だけではまるで飼い鳥につけたニックネームのようだ。


「ああ、いつも通り。間違いないよ」


 未来は固く縛っていた口元を少し緩めて答えた。


「あんたがいつもそんな辛気くさい顔してるから、私まで移っちゃうじゃない。昔のあんたもあんたで憎ったらしかったけど、今よりはマシだと思うわよ」

「大人になったってこと、じゃない?」

「ふーん、つまんない。大人って、呪いね。パパの仕事継ぎたくないなあ」

「それを言うなら、子供時代こそ呪いよ。もう失われた青春という名の幻想に、いつまでも囚われてるんだから」

「囚われてるのはあんただけよ。私を巻き込まないでもらいたいな」

「そうだね。いつも自分の勝手に巻き込まれてくれてありがと」

「……やめてよ。面と向かってそんなの、恥ずかしいじゃん」

「ふふ」


 瑠香はわざとらしく大仰に左腕の時計をかざした。


「ほ、ほら、もう時間だ! 早く行かないと帰っちゃうよ」


 そしてドアを勢いよく開き、ノーモーションですたすたと先を歩いてゆく。

 苦笑する未來――と、すぐに顔を引き締める。

 惚気たコントを繰り広げる暇はない。気を引き締めねばならない。


 愛する人を、救うために。


 未來は小さく息を吐き、ドアの手摺りを強く握った。



 未來と瑠香は、T大学工学部情報理工システム学科院の研究室に招き入れられ、並んで小さく埃っぽいソファに腰掛けていた。

入り口の扉は開け放され、廊下を挟んで向かい側には給湯室。そこから三十度ほど両膝を折り曲げながら男がやってきた。手には三つのコーヒーカップ。


「……あっつつ……。はい、コーヒーです。砂糖は?」

「必要ありません」

「私は二本もらおっかな」


 瑠香はスティックシュガーを男より受け取ると、手慣れた様子で二本同時に開きざざざと茶色の液体へと流し込んだ。

 それを横目に最初の一口を未來は啜る。


「インスタントですみませんね。こんなでも、不器用な僕には上手く淹れられないんす。薄いですか?」

「いいえ、結構なお点前で。それよりも、菅田英輔君。今日は突然の訪問を受け入れてくれて、ありがとう」


 菅田は寝癖混じりの癖っ毛を掻きながら笑みを浮かべた。


「いえいえ、他の誰でもない神先先輩の頼みとあらば断る馬鹿はいませんよ」

「私と君、今日が初対面だけどね」


 瑠香は無情にもそう言い放ち、コーヒーを一呷りした。顔をしかめ、「にがっ」と呟く。彼女は、病的とも言えるほどの甘党である。


「まあ、そうですけどね。なんにせよ、うちの山下がお世話になってることは間違いないですから」

「ふふ。まどかは将来有望だからね。私としては、逃すわけにはいかない有望株よ」


 神先グループとは、日本屈指のIT起業である「キ・ア・スマイク」を筆頭にし、いくつもの業界にまたがる企業グループの総称を差して言う。

 瑠香は会長である父の一人娘であり、手塩に掛けて育てられた将来神先グループを背負って立つ経営者の卵でもある。

 しかし、彼女自身はその立場を是としなかった。大学卒業をしてから、留学を勧める父を拒絶し、どこにも属することなくふらふらと街を彷徨っては気に入った人間に『投資』をして神先グループに引き入れる。そんな、スカウトまがいのことをしながら瑠香はまるで日本中の人々すべてを自分の顔見知りとせんが如くに人脈を増やすのを楽しみにしていたのである。

 既に大学を離れて随分経ってしまった未來が、こうして一般学生たる菅田と相まみえているのも瑠香の人脈の賜物である。


「それで、八園さん――でしたっけ? わざわざ僕の時間に合わせてくれてまで、聞きたいことってなんでしょう。天羽先生のことだとは何となく察せますが」


 未來はこくりと頷き、コーヒーカップを机に置いた。


「そう。五年前、籍を置いていたこの大学を突然辞め、それ以来行方不明となり人の前に姿を現さなくなってしまった天羽桐夜元研究員。知りたいのは、この大学で彼女が行っていたという研究と、その目的。自分は、彼女を追っているのよ」

「天羽先生を追っている……。八園さんって、記者か何かですか?」

「ううん。人の尻を追っかけて喜ぶような、くだらない趣味は持ってないわ」

「じゃあ――」


未來は、右手を胸に当てた。


「彼女は、自分の世界の救世主。それでいて、十年以上もの間この心を蝕み続けてきた、憎き宿敵なのよ。絶対にこの手で捕まえて、世界から解放しなくちゃならない」


 非常に迂遠で意味深かつ意味不明な言葉。

 後悔に色塗られた半生を過ごす中で、未來はこのような言葉を使うことで本心を覆い隠す術を手にしていたのだった。


「……まあ、何か大変な事情があるのは理解できました。詮索するのはよしときます」


 戸惑いながらも、菅田は冷静を取り繕ってこう言った。目の前に異世界の住人が突然現れた――そんな態度にも見える。


「それがありがたいわ」

「天羽先生はですね……なんというか、そう! ちょうど八園さんと似ていた感じだったかもしれません」

「フューと似てるたって、君、たった今フューと出会ったばっかじゃない」


 唇を尖らせる瑠香。あたかも、『今、目の前にいるフューは本当のフューじゃない』と言いたいかのようである。

 菅田も菅田で、『フュー』という擬音語じみた単語の意味が解らず眼を白黒させるが、そこは現役研究者。すぐに未來のことであると読み取って答えた。


「雰囲気がですよ、雰囲気。何かを押し隠すような、あ、詮索はしませんよ? ミステリアスな態度。感情が無いわけではないけれど、決して動揺は見せないその感じ。そっくりですよ」

「うーん……」


 熱弁を振う菅田に、やはり納得はいかない様子の瑠香。


「そっくりなのを否定する気はないけれど、聞きたいのはそんな印象論じゃないわ」

「あ、その台詞もっぽい……すみません。教授の研究は、孤高すぎて正直僕にもあまり解ってなかったんですけど、たしか、『超仮想世界』の構築を目指しているとかだったはずです」

「『超仮想世界』……。『仮想世界を越えた仮想世界』」


 菅田は頷いた。徐々に口調に熱が帯びてくる。


「そう、それです。最近流行ってるでしょう。『4D』だとか、『VR』だとか。ああいうのを更に推し進めた、完全な仮想世界を教授は作ろうとしていたんです。いや、仮想世界というよりはむしろ――」


 未來は菅田の言葉を引き取って言った。


「もうひとつの世界」

「それ! どうして解るんです?」

「君自身が言ってたでしょう。天羽とそっくりだって」


 実はもう一つの根拠も未來は持っていた。無関係の菅田に話せることではなかったが。


「これは一本取られましたね。じゃあ、そのもうひとつの世界っていうのが具体的にどんなものなのかは予想できます?」

「……いや、そこまでは流石に」


 未來は文系の出である。努めて幅広い範囲の知識を手に入れようとしてはいるが、理系の、しかも先進技術の研究がどこまで進みどんな展望が見えてきているのかは知る由もない。


「もうひとつの世界を創るということは、つまり、この世界に新たな次元、五次元目を見出す

ということ――と天羽先生が話してくれました」

「四次元目は《時間》ということでいいのよね?」

「はい。異論はありますが、先生の研究はそれを前提として進められていました。そして五次元目は、《世界》なのだと」

「《世界》? じゃあ天羽は世界に《世界》という次元を見出したということ?」


 菅田は肯定した。


「噛み砕いて話そうとしたら、逆に用語の混同が甚だしくなってしまいましたね。まあ、よくあるパラレルワールド論の発展版と言っていいでしょう。

 理論どうこうは置いといて、ざっと概略だけを説明しますと、『我々は三次元の世界で生きているわけであるが、四次元目の軸上には無限の《世界》、少なくとも無限の《世界たり得る空間》がある。その《世界たり得る空間》にはこの世界と同じような《世界》もあるが、《世界の素》のみが空間を満たしているところも存在する』――ということです」

「……」


 様々な定義の世界が同じ単語で扱われていて、菅田の説明は科学者としては失格であったかもしれない。が、厳密に用語を定義して誤解や疎漏を防ぐような説明は、往々にして難解なものとなってしまう。講義では無いのだから、これぐらいの曖昧さがちょうど良かった。

 未來自身もあまり惑わずにこの説明を飲み込むことが出来た。


「教授の言う《超仮想世界》というのは、この《世界の素》を操作、加工することによって作りだす世界のことなんです」

「なるほどね。大まかなところは解ったわ」

「と言っても、《世界の素》のことも先生がどんな世界を作ろうとしていたのかも僕はまったく聞かされてないんですけどね。役立たずですみません」

「いいの。それよりも、他に彼女について知っていることは?」

「そうですね……あ、そうだ。どういうわけか、教授は文学にも興味を持っていたみたいで、倉っていう英米文学の教授の話をよく聞きに行っていたらしいです」

「英米文学う? なんだそりゃ」


 と、瑠香は素っ頓狂な声を上げた。すぐに未來の方を見る。

 未來も最初は驚きの表情を浮かべたものの、すぐに腑に落ちたように小さく頷いた。


「その倉教授は、何を専門にしてるのかは分かる?」

「うーん、大学のホームページには載ってると思うんですけど……」


 懐からスマホを取り出しかけた菅田を未來は制した。


「大丈夫。こっちで確認するから」

「でも……そういえばどうして文学なんでしょう。《超仮想世界》なんて考えるぐらいだから、SF小説が好きだったりしたんでしょうか?」

「知ってる限りでは、天羽はそんな人間じゃなかったはず。人の妄想の産物である創作品なんぞにうつつを上げてなどいられないーってね。ま、随分昔のことだけど」

「……八園さん」

「何かしら」

「天羽先生はいったい何をしたのか、あるいはしようとしているのでしょう? どうして、行方をくらましてしまったのでしょう」

「菅田君、質問してるのはこっちなのよ」

「すみません、で、でも!」

「諦めるのよ。彼女は最早こっち側の人間では無い。もし、それでもあなたが彼女を求めるというのなら、行動を起こすのよ。もちろん、一人で」

「え、ど、どうして僕が教授を……」

「バレバレだって。いいねえ、勉強一筋の純情な若者は。すぐ顔に出ちゃう」


 にやにやと笑みを浮かべる瑠香。

 菅田は慌てて顔を両手で触る。


「長い時間、ありがとう。これ、ほんの少しだけど。ほら、行こう」


 未來は立ち上がり、ポケットから札を一枚机に置いた。


「じゃあな、青年。いい恋愛するんだよ」

「あ、そうだ」


 ドアを開きかけた未來は一時停止し、くるりと菅田の方を振り返った。


「よくあの秘密主義の天羽が自分の研究内容を話す気になったわね」


 苦笑いする菅田。


「簡単です。その時、ちょっとこれが入ってたんで」


 と、右手を軽く丸め、口元へ持っていった。


「なるほど」

「どうもあの時、やたらと男口調になってたんですよね。ちょっとイメージ崩れちゃったんでショックだった記憶があります」


 それを聞いて、未來は軽く笑みを零した。

「ふふ、本質は変わってないってわけか」

「え?」


 と菅田が問い返した言葉は、完全に開かれたドアによってかき消されてしまったのであった。



「これから、どうする? その倉って教授の話聞きに行く?」


 棟を出て早々瑠香は尋ねた。

 雨は小降りとなっていた。瑠香はこれぐらいの雨で傘を差すのはしゃくだと考えたのか、未來の傘に無理矢理身体を差し入れて相合い傘となった。

 未來は横目で瑠香を睨みつけながら言う。


「必要ないわ。大まかな研究内容は解ったし、わざわざ話を聞きに行かなくても天羽が何を求めて文学部の教授と会ったのかは推測できる」

「え、マジで? 詳しく」

「メタ――ってわかる?」

「ああ、あれでしょ。登場人物が読者とか視聴者に向けて話しかけたりするやつ。『テレビを見るときは、部屋を明るくして離れて見てね~』みたいな」

「……ま、間違ってないか。菅田君から〈超仮想世界〉の話を聞いたとき、実は自分もすぐにメタのことを思い出したの。天羽も同じことを考えていたとは驚いたけどね」

「って言われてもピンとこないな。メタと仮想世界の構築に何の関係があるのよ」

「メタには色々な意味があって、またその一つ一つの意味が難解になっているんだけど、簡単に言ってしまえば『ある次元の立場から、上の次元の対象に向けて放たれた何か』ということなの。たとえば、瑠香が言った視聴者や読者に向けてのメッセージはアニメやマンガなら二次元から四次元へ、実写ドラマなら三次元から四次元へ」

「なるほど」

「そして菅田君の話が正確ならば、天羽は《世界》を五次元目として考えている。つまり、四次元の存在である我々はメタを用いなければ、《世界》そのものへの干渉は成り立たない」

「だから天羽は専門外であるメタへの知識を得るために、倉教授と話したというわけか?」

「そういうこと。メタの理論を《超仮想世界》構築のための理論に組み入れるために」

「へー。いやあ、大学出てからずっと世俗的なものばっか見てきたから、全然話が理解できないや。まあ今のフューの話自体はわかるけどさ。で、なんなの? って感想しか浮かばない」

「瑠香はそれでいいの。天羽と直接対峙するのは自分なんだから」

「……フューさ」

「何?」

「その『自分』っていう一人称、いい加減やめたら? 似合わないよ」


 瑠香はわざとらしく吐き捨てるように言った。

 自嘲気味な笑みを浮かべる未來。


「それは無理な相談ね。自分はもう、『私』とも『あたし』とも、ましてや『わたくし』や『俺』なんて一人称を使う資格なんてないんだから」

「永遠にか?」


 未來は斜め下に視線を向けた。そしてしばらく考える素振りを見せてから、


「少なくとも、今のところは」

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