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気怠き純白1 『地球』

 目覚めた私は純白に包まれていた。

 けれど、別にここが夢の中だとか異世界だとかいうわけではなく、れっきとした現実世界に私はいる。だからもちろん就寝のために自分の意志でこの純白の部屋に入った。それ以外の何物でもないのである。

 純白……とまではいかずとも、白の部屋といえば一般的に病室を想起する人間が多いだろうが、ここはそうではない。私が今居る場所は研究所である。よってこの部屋は仮眠室といったところだろうか。特に名前を付けてはいないが、普段この部屋が果たしている役割を考えるとこの呼称が一番しっくりくる。

 私の周りに置かれていた色々な物を片付けてから立ち上がる。徹底的に造られた静寂に水滴がぽたぽたと地面を打つかのように、点々と不快でない機械音が鳴り響くのをその時意識した。これも、就寝前と何一つ変わらない。

 行動を開始しようとした時、それとは違うバイブ音が出現した。出処は枕元に置いてある携帯電話だった。

 私は少し躊躇い、数秒後に通話ボタンを押した。


「はい」

「あ、お目覚めですか所長。お疲れ様です」


 所員の山本である。ここに来てからまだ一ヶ月ほどしか経っていない新人で、専門性のない雑務ばかり押し付けられている可哀想な役割の青年だ。


「特に疲れる要素なんてないわ。眠ってただけだもの」

「は、はあ。すみません」

「……あ、ごめんね」


 思わず困らせるような返答をしてしまった。大学院に入り本格的に研究者への道を歩み始めた頃から、どうも挨拶や愛想といった内容のない発言ができなくなってしまった。昔から多少苦手ではあったのだが、どっぷりと理系の空気に浸ることでよりそれが顕著になったのだろう。実際、それらは無駄な言葉だと思ってはいるのだけれど。


「いえ。それより、なにかお身体に異常な点はありませんか」

「大丈夫。そっちは」

「問題ありません。すべて順調です」

「わかった。今からそっちへ行きます」

「了解しました」


 通話を切ると、早速身支度に取り掛かった。

 といっても、被験者用パジャマの上に白衣を羽織るだけの服装に、洗面所の鏡で寝癖を軽く直すぐらいの身支度だ。所内では基本的に化粧はしない。だらしないかもしれないが、少し前まで激務で徹夜の毎日を過ごしてきた身としては、散々綺麗でない面を見せてきた所員の前で今更着飾る気にもならないのだ。勿論、外出する際には派手にならない程度に塗りはするが。


 部屋を出ても、廊下はやはり白一色である。

 階下にある分析ルームへと向かう。建物の広さに比して人の数が圧倒的に少ない研究所の廊下に当然人影はない。最初は贅沢だと喜んでいた所員も、今ではその寒々しさと孤独感に閉口しているという話をよく聞く。

 分析ルームへの両開きの扉を開くと今度は青黒い光に包まれる。

 青黒い光、と言うのは正確さに欠けるかもしれない。照明を点けない真っ暗な部屋に、コンピュータやモニターから発される青い光が抗うように放たれることで二色が混ざったように感じられるということである。


「あ、おはようございます。天羽所長」


 待ち受けていた山本が素早く声をかける。軽く頷くと真っ直ぐ部屋の一番奥を陣取る巨大なモニターに近寄った。様々な数値、グラフ、記号等がリアルタイム更新されつつ表示されている。また、両側には私がさっきまで寝ていた仮眠室を含めた実験に用いる部屋の監視カメラの映像がいくつも同時並行で流されている。

 私はそれらを素早くチェックした。問題ないという報告は受けたが、やはり自分の目で確認しないことには気が済まない。そもそも私でしか判断できない事項もたくさん在る。

 次に視点を上げつつモニターと平行移動しその奥の物を見た。

 部屋の一番奥にモニターがあるという表現は嘘ではない。しかし更に奥、部屋の壁のその部分だけを繰り抜き、そこから部屋の境界を越えた外には下から上までの巨大な吹き抜けが設けられている。ここが病院だった頃は中庭として上から太陽の光が降り注ぎ、様々な植物を育てていたということだが、今は上部を屋根でふさぎ、地面にもタイルを敷き詰めることで完全に研究所の中へと閉じ込めることとなった。すべてはこの研究のためである。

そうして造られた、閉じた空間には《地球》が浮かぶ。といっても、自転も公転もせず、ましてや日本列島やユーラシア大陸なども存在しない青き惑星地球を模した無地で灰色の《地球》である。全身にコードが繋がれ、嫌な例えだが植物状態の人間のような様相を呈している。ソケット部分は自在に動き、《地球》のあらゆる部分に電気刺激を複雑なパターンで送り続けている。


 確認を終え振り向くと副所長である秤屋が書類を片手に立っていた。


「お疲れ様」


 彼は私より三回りは年上の男である。最近還暦を迎えたとか言っていただろうか。研究者であった父と懇意にしていたのもあり、この研究所で唯一私が親しく話が出来る人間だ。別に威張っていたり権力を笠に着ているつもりはないのだが、偉大な変人である父の威光のせいか、まだ若い私を友人や娘という感覚で接してくれる人は彼を除いていなかった。



「お疲れ様です」


 差し出された書類を受け取り、軽く目を通す。


「いやあ、この研究もだいぶ長くなってきたけれど、天羽君の慎重さは緩まないね。毎日律儀にここに現れるんだもん」

「実験者として当然のことです。さらにこの実験では少しの狂いが破局的な結果を生み出しかねません。そうなってしまえば――」

「《世界の滅亡》、か」


 私の言葉を引き取り、秤屋は溜め息と同時に吐き出すように言った。


「……その通りです」


 そして空いている手で《地球》を指さす。


「私は《世界》を存続させたい、いや、させなければならないのです」

「でも、滅ばない《世界》は存在しないよ」


 軽い感じで投げられた秤屋のその言葉に、思わず怒りがこみ上げる。書類から目を上げた。


「あなたは《世界滅亡》を肯定し、それを私に受け容れろとでも言うのですか!」


 それは私の口を出る頃には思いがけぬ大音声となっていて、部屋中の研究員を振り向かせた。

 秤屋は戸惑ったように肩を竦める。


「いや、ごめんごめん。君と論戦する気はないんだ。ただ、天羽君は少し意固地になりすぎてるんじゃないかと思ったんだ」

「考えが変わることはありません。理由は色々ありますが、私があの父の娘であるという事実さえ思い出してもらえれば、私を説得するのは不可能だと秤屋さんなら解って頂けるでしょう」


 そして書類を押しつけるように返すと、彼の前を後にした。

意固地になっている。それは確かにそうだ。苦しいほど自覚はできている。けれど他人に、しかも父と私をよく知る秤屋だけには言われたくなかった。いや結局誰に言われても同じように怒りを覚えたかもしれない。

 もう、私を止められる段階はとうに過ぎているのだ。皆もそれはわかっているはずなのに。

 部屋を出ると再び純白に包まれた。こうした過剰な色彩の対比も私が設計した。外と内、現実と実験を完全に分離したかったのだ。そうでもしないと私の精神は壊れてしまうような気がしていた。

 次の実験開始まであと五時間半はある。

 毎回必ず発生するこの空き時間が私は大嫌いだった。

 なにもしないで良い時間をなにも考えずに過ごすことが至難の業だというのは、強い知的好奇心を持って研究者という道を選んだ人間ならば誰もが頷くことだろう。

 そして私はいつもこんなことを考えてしまう。

 

《世界》はすべて泡のごとし――。

 くしゃみ一つで、瞬き一つで、あっけなく消滅してしまう頼りない概念だ。

 終わりは不意に発生し、それと同時に私の記憶も、夢も、希望も、すべてすべて完全に無くなってしまう、奪われてしまう。

 どうして私は生まれてきてしまったのか。始まりがなければ終わりもないのに。無に包まれ、存在せず何も考えることもなければ、愛するものが消滅する恐怖を抱くこともなかったのに。

 これは、呪いだ。思考という形になって表れた、私だけへの呪いだ。いったい誰を恨めばよいというのか。

 どうすることもできない。ただ、少しでも消滅を引き延ばすためにもがくだけなのだ……。


「天羽所長!」


 後ろを追いかけてきたのは山本である。


「山本君、どうしたの。息切れしてまで」

「ちょっと……いいですか」


 ただならぬ様子の彼を拒む弁術を駆使する気力は、今の私にはなかった。


 立ち話で済ませられない雰囲気が山本から漂っていたので、一瞬迷ったが私の部屋に連れて行くことにした。さっきまで寝ていた仮眠室もどきではなく、実際にプライベートの生活を送っている部屋である。この研究所に住んでいるのは私だけなので、最上階のフロア全体を使用している。山本を招いたのは、階段に一番近い小さな部屋だ。

 向かい合わせに置いた二組のソファーの片方に座るよう促し、私は奥の扉から繋がっている給湯室で用意をしていた。


「すみません、わざわざ」


 まさか女の部屋に上げられるとは思っていなかったのか、山本はしきりに恐縮している。


「いいのよ。それより、話とは」


 二人分のコーヒーを淹れ、向かい合う机に置いた。

 山本はそれに見向きもせず少しの間もごもごしていたが、やがて口を開いた。


「あの実験について、詳しく教えて頂きたいんです!」


 そして土下座でもする勢いで頭を下げた。

 戸惑う私。


「それは研修の際に説明を受けたはずだけど」

「あれは建前でしょう。まだ下っ端の僕ですけど、流石に一ヶ月も勤めればわかります。この研究には何かが隠されてるって」

「副所長からはなんて言われたの」

「『来たるべき《世界滅亡》から人類を救うため、避難先のための《複製世界》を構築しようとしている』、と」

「……」


 あの男、いくら当分は事務専門とする所員だからといって、そんな伝え方をしていたのか。いつかはバレるなんて火を見るよりも明らかだというのに。

 ……それとも。

 副所長秤屋の恐ろしい考えを推理できたかのような錯覚に一瞬陥り、薄ら寒くなる。

 熱が上がってきた山本は続ける。


「おかしいですよ。まあ、あの《地球》を使って世界を造ろうというのは解ります。天羽さんの理論にいちゃもんをつける気もありません。けれど、それにしてはおかしな要素が多すぎる。まず僕が第一に気付いたのは給料の異常な高さです。天羽さんの家系が代々由緒正しい名家で、裕福なのは知ってます。それでも、この額はあまりに過大だ。きっと何かを――」

「あなたのような優秀な研究者に集まってもらう為よ。言い方は悪いかもしれないけど、私は目的の為なら金に糸目は掛けない主義なの」


 やはり論戦になるのか。けれど、それなら負ける気はしない。


「そ、それなら二つ目。《世界の滅亡》なんていう人類最大の問題を解決するための研究だというのに、なんだってこんな僻地で、しかもわざわざ公募で研究員を雇っているのか。事の重大性を考えれば、国主導で巨大なプロジェクトとして進められるのが自然なはずでしょう」

「残念だけど、私や父の理論の正当性を国はまだ認めてくれていないってこと。頭の堅いお役人に理解してもらえるのは当分至難の業でしょうね」


 なんだ。彼が『おかしな要素』として取り上げるのはこれぐらいのことなのか。全然本質的な部分に触れていないし、そもそも根拠弱すぎる。今さっき私が言った『優秀な研究者』という言葉が意図せず皮肉のようになった。

 だが、最後に彼が躍起になって挙げる要素は少し本質をかすっていた。


「ならば、どうしてリーダーである所長自らが被験者となっているのですか! 普通に考えて、おかしいでしょう。資金が足りないというならまだしも、既に治験のバイトも雇っているという事実から考えても矛盾していますよ」


 とはいえ結局は的外れというか、いくらでも言い逃れができるような指摘方法だった。ほんの少し苛立った表情を浮かべる振りをする。


「あのね、山本君。この業界、『普通』とか『常識』というのは禁句でしょう」


 そう言うだけで、山本ははっとし、我に返ったようになった。そしてこの部屋に入った時と同じように恐縮しだした。


「すみません。ちょっと興奮してました。けど、何か理由はあるんですよね?」

「大した理由なんてないよ。自分の研究の成果を、身をもって体感したい。それだけのこと。でも、研究者なら誰でもそうしたある意味の欲求は持ってるはず……山本君、こういう言い方はなんだけど君はちょっと理系らしくない考え方をするようね」


 図星だったようだ。既にさっきまでの威勢の良さはつゆほども感じられなくなってしまった。悩みを吐露するように、堰を切って話し始めた。


「も、もしかしたらそうなのかもしれません。僕、実は研究がしたいと思って大学院に入ったんじゃなかったんです。昔から要領が悪くて、就職してもやっていける自信が無くて……。ずるずると大学に居座り続けていたんですけど、教員として一生研究し続ける気にもなれなかったんです。だから結局就職することになって、ちょうどよくここの研究所がキャリアを見ずに雇ってくれるとのことだったので……す、すみません。こんなこと話すべきじゃなかったですよね。僕、ほんと駄目駄目で」


 山本は泣きそうになっていた。少し罪悪感を感じてしまう。


「いいのよ。けれど、他の研究員には話さない方がいいかもね」

「で、ですよね、すみません」

「私は君がどのような経緯でここに入ったのかはどうでもいいの。ただ与えられた仕事さえこなしてくれれば。あまり所員の様子を確認できてるわけじゃないけど、山本君はよくやってくれてると思うよ。ここの研究は少々特殊だから、たしかに不満を感じることも多いでしょう。もしここから抜けたいというのなら、私に言ってくれればどこへだって推薦状を書いてあげる」

「そ、そんな! 不満なんて! 僕、ここでもっと頑張ります。よろしくお願いします!」


 深々頭を下げる山本に苦笑する。どうやら上手く誤魔化せたようだった。けれど、これ……。


 なんだかブラック企業の上司になったような気分だな。

 

 エレベーターまで山本を見送ると、その足で書斎兼寝室兼リビングである一番奥の部屋に向かった。

 窓際のベッドに腰掛け、枕元のリモコンを操作しテレビをつけた。

 テレビではワイドショーが流れており、やたらとチカチカするスタジオにお茶の間で人気を博す芸能人が謎のパーティーを行っていた。

 ああ、今昼か。画面右上の時計は十二時数分前を示している。実験が始まってから時間の感覚が完全に狂っていた。

 ぼうっと画面を眺めていると、突然色彩ががらりと変わると同時に物々しい表情でこちらを見つめる女性の姿が映り出された。時計は0ばかりになっている。つまり、お昼のニュースというわけだ。

 真面目くさった表情のアナウンサーから紡がれる言葉は、重苦しい事件ばかりを伝えている。今の私には、こっちの色彩からもなにも感じることはない。すべてが他人事のような感覚。

 ……そうだ、「他人事」だ。まるで天啓かのように、その単語は私の中に染み渡った。私の本質は、「他人事」。自分がしていることでさえも、まるで第三者の視点――三人称――からぼんやりと見ているだけのような、そんな感覚。


 駄目だ。この感覚は私を狂わせる。

 追い出そうと頭を軽く二三度振ってみるが、残念ながら固定された感覚は消えてくれない。仕方なく立ち上がりクローゼットへと向かった。白衣を脱いで、代わりに外出用のアウターを羽織る。


 この閉鎖空間から脱出せねばならない。

 


 研究所を抜け出し、所用車に乗り込む。

 現在の私の生活は、九割以上が研究所の中で完結していた。別にそれでもよかったのだ。滅多に息苦しさを感じることもない。すべて、研究に捧げられればこそだ。

 とはいえ、年に何度かは少しおかしくなってしまうこともある。鬱の一種だろうか、と思うこともあるが、それについては意識して深く考えないようにしている。『病は気から』は事実だ。ネガティブな思考が脳内タスクを占拠してしまうのはまずい。私には研究がある。

 そう、すべては研究を成し遂げるがために。

 五分ほど車を走らせ市街地域に辿り着く。市街といっても、大したものではない。過疎化が進み、衰退の一方となっている典型的な地方都市。人影が見当たらずしんとなっているのを見て、今が平日の昼間であるということを知る。

 私が向かうのは、街の中でも脇道へと二三折れた先にある喫茶店。大手チェーンではなく、それでいて最近流行りのナチュラル志向でもなく、昔ながらの個人店。まだ西洋文化に遠く離れた憧れを持っていた頃の雰囲気を固持した店構えである。


 扉をゆっくり押し開けるとからん、と心地よい音。先客は一人。何度か目にしたことがある定年をとっくに越えたのだろう老人がカウンターに腰掛けている。

「いらっしゃいませ」と何でもないかのように言う店主の男は、客=神様の風潮に抗うように無関心非丁寧な態度だった。その世間から隔絶された雰囲気が心地よく、私のお気に入りとなっているのである。

 水を持ってきた店主にコーヒーを注文してから、持ってきていた鞄より文庫本を取り出した。題名は『黒死館殺人事件』。過剰で難解な衒学と奇怪な西洋趣味に彩られた異界もかくやといった、奇妙な探偵小説である。

 大学で本格的な学問を始めてから、忙しさにかまけてこの手の純粋な娯楽的読み物から離れていたのであるが、院に進んである程度研究の方向が確定してからは、ミステリ的SF的ファンタジー的想像力も研究者には必須なのだと気がつき、最低でも一日一時間はフィクションを読むようにしている。《地球》制作にもそれは非常に役立ったのは間違いない。


《地球》。そう、あれこそが私の人生すべてと言っても過言ではない。

 世界の支配者となりながら、同族同士の諍いにより衰退への道を進む愚かな人類。国々は平和を唱えながら混沌をもたらす兵器を競うように増強し続けている。我が国も憲法に平和主義を記載し兵器の不保持を宣言してはいるが、結局は自衛を名目に世界有数の軍隊を整えている。

 き詰まりを見せつつある人類、世界情勢。どんな科学技術も、もはや罪深き覇者に平和などといった幻想を現実にする力はない。そう考えた私の父は、一つの大きな構想を描いた。

 一度、世界をリセットするのだ。積み上げた物すべてをなかったことにして、原始時代に戻し、始めからやり直す――というと、まるで過激なアナーキストのように聞こえるかもしれないが、そういうことではない。

 滅ぼすのではなく創造するのだ。代替となる新たな世界を、それでいて今の世界よりも人類にとって優れた世界を創り、そこに選ばれた人類のみが移住する。選民思想の最たるものだが、私の父はそのようなことを本気で考えていた。そして第二の《地球》創造プロジェクトは始まったのである。そして私は、まだ若い内に力尽きて亡くなった父を引き継ぐ形となった。

 

 くだらない。


 何が同族同士の諍いだ。何が罪深き覇者だ。何がリセットだ。

 私にとって、父が描いたその崇高な理念はすべて誇大妄想者のなれの果て、あるいはヒロイック気取りな独裁志望者でしかない。私はそんな父を尊敬し、軽蔑してもいた。

 私は世界を救おうとなど思わない。私は優れた世界を創ろうとも思わない。

 望むのは極めて自分勝手な欲望を満たすこと。私は、その為に生まれてきたのだ。平和を謳わない。希望を謳わない。閉じた世界で二人、甘い死を迎えることを私は望むのだ。何も正当化しない。七光りでのし上がったにも関わらず父の信念を裏切った狂科学者の末路と見られるぐらいでいい。

 ふと我に返ると、目の前にコーヒーが置かれる瞬間だった。持ち手から上に伸びる腕をなんとなく辿り、老店主の横顔を見た。こちらには目線を向けず、それでいて何を見ているのかを推し量ることもできない。

 こちらを向く店主と一瞬目が合った。慌てて顔を手に持ったまま一文も読んでない文庫本に逸らす。店主はそのままカウンターへと戻っていった。

 まるでやましいところがあるようだな、と自嘲する。一貫して自分の信念のみに従っていたつもりだったが、そこまで強くはなれなかったみたいだ。

 コーヒーを一口。苦い風味が薄れていた自己意識、あるいは現実感覚を取り戻してくれる。本当の目覚め。言葉にすると大袈裟だが、そんな感じだった。


「お嬢さん、何かあったのかい」


 いつの間にかカウンターに戻っていた店主が、声を掛けてきた。

 私に何か? いったい何を言っているのか?

 その時、頬に違和感が走った。慌てて手で拭う。ふたたび違和感。また拭う。それでも流れ落ちてくる。拭っても拭っても、拭いきれない。

 私は老店主の顔を見た。初めて彼と目が合った瞬間だった。視界が歪んでいる。店主はやはり表情を変えていなかった。頬に刻み込まれた皺は、この程度の涙にはいくらでも出会ってきたのだろうことを表していた。


 私の涙は特別でない。特別でないからこそ、私はその安らぎにただ黙って、涙を流す事ができたのであった。

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