気怠き純白3『崩壊と逃避』
「……バック…………した。《地球》内時間にしておよそ…………の記録を……デリートし…………ことになります……今回の異常の原因は………………未知のエネルギーによる…………目下調査中で………………はい、対策手段は見当もつかない……」
研究員が慌ただしく駆け巡る分析ルームに、私は完全なる放心状態を保ちながら立っていた。
いつの間にかずり落ちていた白衣が、背中からそっと掛けられる感触を得て私は我に返る。振り向くと、秤屋だった。
「大丈夫か」
心からのいたわりを含んだ声。しかし、私はそれに応じることが出来ない。
返答はないが、おそらく差し迫る危険性はないだろうと判断したのか、秤屋は彼の義務である報告を始めた。平時のような定型的な文言ではなく、会話口調――だからこそ際立つ緊急性ではあるが――でゆっくりと語ってくれた。
「とりあえず危機は脱した。一時は、かなりのレベルまで意識融合が進んでしまいこちらの世界に戻ってくるのも危ぶまれた。意識や自我の問題には、まだ外から干渉できるほどの技術も知識もない。我々は見守ることしかできなかったが、無事三つの意識はそれぞれの器へと戻された。正確に確認できたのは、もちろん二つだけだがな。君には悪いが、《彼女》の様子も見に行かせてもらったよ。君は君自身の維持で精一杯のようだったからな」
「……いいのよ」
決定的な脱力感が私を襲っていた。それはきっと、《生の彼女》に初めて触れてしまったせいなのだろう。何が正しいのか、自分がずっと持ち続けていた信念とは何だったのか。そんな根源的で青臭い問いがぐるぐると渦巻く。
秤屋が私の横に立って、こちらをじっと見つめてきた。どうしたのか、とそちらに体勢を向けると、彼は突然頭を下げた。
「すまない」
不意打ちの謝罪に、私はいささか面食らう気持ちだった。
「別に構わないの。あなたなら、《彼女》に悪いことはしないと信じてるから」
「そうじゃないんだ」
「え?」
「《地球》に外部からの侵入を許したのは、わしのせいかもしれないんだ――」
その瞬間、私は秤屋の胸ぐらを掴んでいた。
「どういうことだ! 私を裏切ったのか!」
「違う。断じてそうではない。わしがしたことはこの計画には関係なく――いや、少なくともわし自身は関係ないと思っていた。しかし、あの娘はおそらく辿り着いていたんだ。《地球》を使って我々が生み出した、《超仮想世界》の本質に」
「本質?」
「そうだ。君がメタフィクションという比較的身近な文学理論を用いて、五次元の移動を可能にしたのと同じように、あの娘――わしが出会ったあの女――は身近な現象によって《地球》への侵入を果たしたんだ」
まさか見落とし? それも、致命的な――? 私の手にこもっていた力が緩んだ。
「それっていったい」
「夢だ」
重々しく言い切った秤屋は、それでも痛恨の極みというよりはむしろ心なしか嬉しそうに見えた。
※※※
気がつくと、私は所用車に乗っていつもの喫茶店へと向かっていた。
限界に近い精神状態だった。自らを神と同等のものと過信して、世界もどきを創りだしてしまったことへの代償なのか。
ハンドルを握りながら、秤屋の言葉を思い出す。
彼が《超仮想世界》とは別に、趣味の領域だが昔から何かしらの研究をしていることは知っていた。そして、その趣味が高じて小規模なアトラクションのような施設を経営していることも。副業を禁止する事はないし、彼の趣味は本当に趣味程度でしかないと思い込んでいたから深入りする事はなかった。
だが、まさかあの女がそこに目を付けるとは――。
奴とは、あの事件以降顔を合わせていない。てっきり《彼女》のことは諦めてしまったものだと思い込んでいた。今になって私のもとに辿り着くなど、まさに奇跡が奴に味方したとしか思えない。
奇跡――。父の研究が、《彼女》を救うのに唯一無二のものだと気づいた時には、それこそ奇跡と感動を覚えたというのに、どこでおかしくなってしまったのだろう。
今日が何曜日なのかなどに気をとられる暇はなく、私は喫茶店への扉を開けた。
「あ」
入った瞬間、店主がそのような声を出して私を見たのに気づく。いつもは無表情を崩さない彼の眉が潜められている。そして、ちらりと横に目線を流す。
つられて私もそちらの方を見やると――。
「久しぶりね、赤森由依」
店の突き当たりにある窓に沿った四人掛けの席。その一つに腰掛けてこちらに笑みを向けている女。最後に会ってから十年以上は経っているし、その顔が造っている成熟した女性的な表情は、当時の記憶からすれば最も掛け離れたものだった。
それでも、見間違えない。初めて会った時と同じ、奴にしかない雰囲気はいまだ保たれているようだった。
「……八園未來」
そして私は、忘れたかった、乗り越えたかった『あの悲劇』にまで時を巻き戻されることになる――。