『ハザマ、コントン、ワタシ。』
その瞬間、世界は暗黒と化した。身体が何も判らない空間を漂った後、形のない渦が強力に沸き上がり、わたしのすべてをぐるぐるとかき回し始めた。
ぐるぐるぐるぐるぐる。意識が虚ろとなっていくわたしの中の何かが、流出していく。あるいは、わたしの中に何かが、流入してくる。
ノイズ。思考に無限のノイズが入ってくる。いや、やっぱり思考そのものが無限のノイズに飛び込んでいるのかもしれない。あやふやだ。すべてが。
無秩序なノイズは、やがて音源が分離し始めてその正体を晒し出す。それは、声だった。複数の人間の声。最初に復活したのは聴覚だった。
そして徐々に嗅覚、触覚、視覚と復活してゆく。何も口にしてないから、味覚はどうなのかわたしは知らない。
何もない世界でワタシは考える――。
※※※
ワタシはどうして世界が終わってほしいなんて考えるようになったんだろう。思い出せない。いや、思い出すほどの理由があったのかさえ定かではない。ただひとつ確実なのは、この「せかめつ願望」とでも呼ぶべきものは、決して破滅願望や自殺願望といった自分を傷つけたいという歪んだ欲望からきたものではないということだ。ワタシは消えたくないし、死にたくもない。脆く、意味のないかもしれない命が、それでもどんな国の宝石よりも大事で愛おしくて高価なのだ。ワタシにとっては。それでも、世界が滅亡してほしいという想いは鳴り止まない。矛盾している。どうしようもなく、果てしなく。
いや、矛盾してなんかいない。ワタシはそう強く思う。願う。矛盾していないからこそ、ワタシは世界の破滅を願うのだ。そしてそれを成就させるためには、きっとこの矛盾の矛盾を解かなければならない。根拠はない。けれど、ワタシの心が、身体が、そう伝えてくるのだ。矛盾を解く、謎を解く。ワタシは今、それをしなければならない。
そう決意した瞬間、目の前に現れたのは見知らぬ女性だった。すらりとした長身に、後ろに縛った脂っ気のない髪。全身にはくすんだ白衣を纏っている。ワタシは彼女を知らない。けれど、彼女が誰かは判った。天羽桐夜。『超仮想世界』を造ろうとした、異端の天才科学者。……どうして判ったのだろう?
「こうやって直接向かい合って話をするのは凄く久しぶりな気がするわね。そんなことないのに。結局、私の実験は失敗したということなのだろう……ただ、マナ。たとえ偽物の世界だったとしても、君は《せかめつ!》でこれからも生きていくべきだ。どんな理屈を考えてみても、それが一番間違いないことなんだ」
「ワタシも偽物なのに?」
「偽物かどうかは、些末なことよ。生まれた時から持っているものを本物とし、後から人為的に与えられたものを偽物と断ずるのは極めて非論理的な偏見よ。土着の神を信じテロリストとなるどこかの国民と変わらない。根拠ない信奉を一度捨てることで、真実への道は拓ける」
「でも、あなたが造ったこの世界を信じるとして、今それは壊れようとしているよね。いつ致命的な崩壊を迎えるとも知れない脆い世界にずっと居続けなきゃいけないのはやっぱり怖いよ」
「……その弱点は私も認めるわ。まさか、世界と夢が繋がっているとは思わなかった。言い訳ではないけれどどちらにおいても、まだまだ未知の部分が多すぎる。
でもね、私はこうも思う。夢とは人の心、精神によって産まれるもの。それが世界に影響を与え得るということは、つまり私があの世界を作り出したことを婉曲的に肯定しているのではないか、て。だってそうでしょう。私が一つの目的のために研究を重ね、〈地球〉を開発したのもすべて私の心によって突き動かされた動機によるものなのよ。八園が夢という無意識によって異世界への侵入を果たしたのなら、私は意識によって異世界を作った。どちらも、世界の本質を知ってから見れば当然の出来事、人類の進化の到達点なのよ」
「だから、ワタシにあの世界に居続けろというわけなのね?」
「その通り。私はこれから更に試行錯誤を重ね、現実世界――とりあえず今はそう呼称されている世界――に『超仮想世界』を近づけ、いつの日か超えてみせる。だから、ら――いや、マナ。私と一緒に世界へ留まって欲しい。私とマナ、《地球》原初の二人になりたいんだ」
そして、こちらに手を差し伸べる。決して答えを急かさない、鷹揚とした身振り。
と、そのときわたしの背後から声が響いた。
「泡沫の幻想を信じるのも結構。でも理解しているのかしら? あなたの造った世界は、本質的な意味で現実の世界とは成り得ないことを」
振り向くと、そこには黒と銀を一対一で縒ったポニーテールの少女、すなわち空ノ宮終が立っていた。右手を腰に当てて、気怠そうにこちらを見つめている。
「天羽桐夜。貴女も気づいているはず。織登マナとは違って、貴女は現実と虚構にそれぞれ片足ずつ突っ込んでいたのだから。わたくしと同じようにね」
「……なんのことだか私には解らない」
「それは、貴女がただ解ろうとしないだけ。目を反らしているだけなのよ。何も知らないまま夢から世界に飛び込んだわたくしでも理解できるのだから、貴女に解らないとは言わせないわ」
終がその大きな目でじっと見つめると、根負けしたかのように天羽は顔を背けた。堅く口を閉ざし目を伏せている。
しばらくそのままで待っていた終だったが、やがてふっと小さく息を吐いた。
「あくまでも認めないつもりね。いいわ。わたくしが言葉にして、あなたに聞かせてあげましょう。逃げても無駄よ。ここにはマナもいるのだから。
――『胡蝶の夢』というお話を知っているかしら。中国の故事で、ある日荘子という思想家は自分が蝶になったという夢を視る。花から花へと自在に移ろい、まさか本当は人間であるとは露にも思わない。だけど、夢は覚める物。ある瞬間にハッと目覚めてみると、さっきまで蝶であると信じ切っていた自分の身体は、紛れもなく人間の姿をしていた。
そこで荘子はふと考える。自分は今、蝶だったという夢を視たと信じているが本当にそうなのだろうか。もしかしたら自分の本当の姿はさっきまでそうだった蝶であって、今まさに人間であるという夢を視ている最中なのではないか、と。現実と夢の区別は本当につけることができるのだろうか、と」
「……まさに、私の考えを補強する話じゃない。現実と夢は同じ。だから、《地球》で造った世界がたとえ夢と同じようなものだったとしても問題ない。そこに区別はないのだから」
「違う! わたくしははっきりと『胡蝶の夢』を否定する! 夢と現実は違う。ある一つの点で、致命的に異なっている」
わたしははじめて終が声を荒げたのを見た。その鋭さは、まるで巨大なガラスに一筋のヒビを入れるような痛みを伴っているように思えた。
「言ってみて」
天羽の声は震えていた。間違いなく、これから終が告発しようとする内容を既に悟っている。悟りながら、それを認識したくないということなのだろう。
それでも、終は冷酷に続けて言葉を放つ。
「《わたしがわたしであるということ》。《僕が僕であるということ》。《わたくしがわたくしであるということ》。アイデンティティ-。マナ。あなたは、今までこの世界で生きてきた間に自分が自分であるということを疑ったことはあるかしら?」
ワタシは少し考え、そして首を横に振った。
「なかった、と思う。こうして世界が壊れるまで、ワタシはワタシ。他の何者でもないとずっと信じてた」
「信じさせられていたのよ。偽りの世界あるいは夢が発する圧力によって。
思い出してみて。あなたが囚われたこの世界では、現実ならば首を傾げるおかしな要素がたくさんあったはず。クラス替えのない学校。世界滅亡を望む女子中学生。おかしなタイミングでおかしな転校生――は、わたくしのことだけど。他にも友人が突然消滅、そして何事もなく復活。突然の本格ミステリのごとき奇妙な推理。どれもこれも、現実世界ならばあり得ない異常なことばかりよ。それをあなたは特に問題視せずに普通に受け入れてしまっていた。自分が自分であると信じるのと同じように」
「それが夢と現実が違うこととどう繋がるの」
「夢では『世界』を、『自分』を疑えない。自己意識を意識することすらできないの。まかり間違ってそんなことを考えてしまえば、夢は致命的な破壊を迎えて現実世界に戻ることになる。『胡蝶の夢』にも同じことが書かれているでしょう。
でも、現実ならそれができる。世界の確実さと、自分が自分であること。それらを自由に疑える。疑ってみても、現実は現実のまま。壊れたりなんかしない。だって、真実は現実にあるのだから。これこそが現実が確かなこと、夢が不確かなこと、現実と夢が違うことの証左となるのよ」
「……」
「天羽。あなた自身も例外じゃないはず。あなたがこの世界をプログラミングした創造主であるにも関わらず、わたくしという存在し得ぬはずの存在を訝しく思いはしたものの、実験を中止するという決断には至らなかった。無意識のうちに『転校生が現れる設定』を受け入れていた。これもやはり夢の圧力によるものなのでしょうね。挙げ句の果てにあなたは、咄嗟にわたくしを幼稚園時代の同級生という設定まで付け加えた。織登さんに世界の異常性を気づかせないためにね。そしてわたくし自身もその設定を簡単に受け入れてしまった。やはり、夢だから」
「そんなこと……」
「なに?」
「そんなこと、どうでもいいことだ!」
桐夜は叫んだ。腹の底から本心を絞り出したような、苦しみが混じる叫びだった。そしてワタシを見る。
「どうでもいいことなんだよ、マナ。現実と夢が違うことなんて。現実と《地球》が違うことなんて。ねえ、わかるでしょう? ここは一方通行の時間から断絶した世界。あなたが求めたものは、ここにしかないの……でしょ?」
ワタシが求めていたもの――世界滅亡。
いや、違う。桐夜が言っているのはたぶん現実のワタシが欲したものだ。
「そうよ、私だって理解している。ここは、本当の意味で《現実》にはなり得ないということぐらい。けど、だからこそ、この世界はマナを救うことが出来る」
『救う』?
その言葉を聞いた瞬間、ぐらりと視界が揺れた。わたしは『救われ』るべき存在?
わたしは、何? 現実のわたしは、なんだったの? 誰がわたしを救おうとしてくれているの? 何からわたしを、だれがわたしを?
今まで意にも介していなかった背景が現れた。砂嵐。微細な黒と白と灰色の点が動き回り、なんの模様でもない模様を描く。それは波となり、幾何学模様となり、線となり、そして、何物でもなくなり。
ぐねぐねとねじ曲がっていく風景。天羽桐夜も空ノ宮終も姿を消してしまった。いや、わたしの姿がまだ残存しているのかも判らない。ここは現実?それとも、夢――超仮想世界――?
《――救って》
ほのかな声が耳に届いた。
《――わたしを、救って》
どこからともなく聞こえてくる声は、この崩れた世界を満たしている雑音を貫通し、わたしに直接投げかけられたものであるかのよう。
(あなたは誰?)
そう叫ぼうとしたが、音にならない。救ってもらうのはわたし、『織登マナ』じゃなかったの? 真に救われるのは、わたしじゃなくあなただというの?
内心に留まる問いかけに、当然応えはない。
しかし偶然のせいかテレパシーのようなもののせいか、ほのかな声はわたしの一番目の問いに答えた。
《あなたは――わたし》
思いがけぬ言葉に不定型と化したはずのわたしの身体は固まった。この声は、わたし?
が、その疑問が解かれることはなかった。
パチン、と何かのスイッチが入ったような音。それと同時に、ぐねぐねとした風景はどこか遙か遠くに存在する一点へと、急激に収縮していくのだ。
わたしの意識は何かに押しのけられるようにぐににと歪んでゆき、そして消滅した。