せかめつ!3ー3 『空ノ宮終の推理 ~スパイダーガール~』
音楽室を出た終は、すぐに右側の通路へと入る。突き当たりのドアの前で立ち止まり、独り言のように言った。
「ここの部屋の鍵は、いつも開いているのかしら」
ちらりと由依の方を見ると、首を少し曲げて、わたしと目が合っていた。答えたまえ、というようなアイコンタクト。
「そうだよ。というか旧棟は、部室以外どこも開けっ放しだったはず。特に盗まれて困るような物もないしね」
「部室と開かずの間以外――ってことね」
と終は自然に訂正を加え、ドアを開けて中に入った。わたしと由依も続く。
「くしゅん!」
さっきは焦っていて気づかなかったけれど、部屋の中はかなり埃っぽい。よくわからない小さく灰色なものは空気中をふわり浮いているのが目に見えて判る。
「あなた達が音楽室に居る間、わたくしはこの部屋を見ていたの。そして見つけた。ほら、あの窓」
指差すのは正面にある窓。音楽室のとは違って、ぴっちりと閉まっている。
「わたくしがまず気になったのは、ここのクレセント錠が開いていたこと。部屋の鍵と違って、それ単体で施錠できるものだから理由もなしに開けられているのはおかしいと思ったの。この部屋の状態からして、換気するために開けたわけでもないようだし」
「そこから脱出したと?」
由依は憮然とした表情で言う。当然だ。もしそうだとしたら、終と由依の意見は真っ向から対立することとなる。
軽い微笑を湛える終。
「そういうこと。星降さんは部室を横切った後、突き当たりの音楽室ではなくてこちらの用具準備室に身を隠した。そして窓を開けて身を乗り出す。詳しい間取りは知らないけれど、この教室と部室は隣同士になっているでしょう」
と、終は上半身を外に出した。天秤のように、下半身が浮き上がる。
「空ノ宮さん! 危ないよ」
思わず声を出すわたしを軽くスルー。
「こうして腕を伸ばすだけで、図書室の窓に手が届く。前もって鍵を開けておけば中に入ることだってできる。少し危ないけれど」
由依は終の脇に立って図書室の方を見やる。
「……確かに不可能ではなさそうだ。だが、ただ物理的に可能だというだけだろう。証拠がなければ意味が無い。しっかり痕跡が残っている僕の推理の方が正しい蓋然性は高いはずだ」
「証拠ならあるわ、ここに」
即答し、終は身体を戻して窓を閉じる。そして窓のある一点を指差した。
わたしも寄ってみて凝視する。一見するとただの汚れたガラスだ。旧棟としてならどこもおかしいところはない……はず。
「あ」
由依が小さく声を上げた。
シンクロしたかのように、わたしも気づく。
指紋。うっすらとだが、雨風に晒されてかさかさとなった外側のガラスに紛れもなく人間の指紋が五かける二で十つ。
妙なのは、その指だけの手形が真横を向いていることだった。図書室と逆方向に指がある形となる。
わたし達が発見したタイミングを見計らったかのように、終は推理を続けた。
「言うまでも無く、この窓の外にベランダはない。なのに両手の指紋が付いているのはこういう状況しか有り得ない」
と、両手を前に差し出して、手の平をわたし達に見せる。十本の指を少し曲げてべろべろばあをするような形にする。真顔で。
「図書室の窓枠に片方の足を掛け、同時に両手の平をここの窓につける。滑らないように、蜘蛛のごとく指の先端だけをね。すると、体勢からして手は横向きにならざるを得ない。もう片方の足を宙に浮かせると同時に手をスライドさせて窓を閉じ」
真顔で両手を縦にすうっと動かす終。
「その勢いで図書室へ入るというわけ。あとは簡単な話。わたくしと織登さんは音楽室、次に用具準備室に行くわけだから図書室はもぬけの殻。廊下に出るわたくし達とかち合わないように気をつければ容易に脱出は成る。――大がかりな準備が必要な由依の推理よりは、よっぽど蓋然性があると思うけど」
真顔で静かな勝利宣言。
ぐ、と圧されたように由依は唇を噛む。いつの間に二人の推理勝負となっていたのか。というか、これが勝負になっているのかも判然としない。
「それでも」と、由依。「確かにこっちの方法が簡単なのは間違いない。それでも、音楽室にあのレールから外れたゴム入りカーテンがあったのは事実だろう。あれはどう説明するつもりだい? 外への脱出以外にあれが役立つ場面があるとは思えないが」
終は即答した。
「あなたも言ったでしょう? 誰も足を踏み入れていなかった音楽室はブラックボックスだったって。どうしてあんなカーテンがあったのかはわたくしも分からない。けれど、確実に言えることはある。『わたくし達の想像も及ばぬ理由であのカーテンがそこに存在した可能性は充分にあり、用具準備室に手形が残されていた以上、星降さんがカーテンを使って脱出した可能性はゼロに等しい』」
「だが、あの手形の指紋が星降のものとは限らない」
「限らない。けれど、蓋然性は高い」
キッパリと言い切る終。
けれど、わたしは混乱してしまう。
終の推理が披露されるまでは、あんなに正しいと思っていた由依の推理と証拠。その中身自体は今もさっきもまったく変わらない。だというのに、終がもうひとつの脱出法を示すと同時に説得力を失ってしまったのだ。
真実はどちらか一つ。それは間違いない。
でも、示された真実が、否定されることなしに他のより真実らしい証拠によって真実でなくなってしまうことなんてあるのだろうか?
はっきり言おう。わたしは、由依と終のどちらの推理も真実であるように思えてしまっていたのだ。
「わかった!」
突然、由依は威勢良く言った。
「わかった。終の推理の優位性を認めよう。手軽さでも実行難易度でも証拠の確実さでも君の仮説の方が真実味がある。僕の負け――」
「待って」
それはわたしの口から飛び出した言葉だった。自分でも意外としか言えない。
由依は目を丸くしてこちらを向いた。今までワトソン一辺倒だったわたしが結びの台詞を妨げるとは思わなかったのだろう。
「どうしたんだい、マナ」
「二人とも、来て」
と、言い捨ててわたしは用具準備室を後にした。