せかめつ!3ー1 『星降燐の消失』
翌日。わたし達せかめつは昨日一昨日の本気モードをすっかり忘れ、前学期までの自堕落な放課後ライフを取り戻していた。
いよいよ『世界滅亡部』という部名から意味が剥奪されてきたのだけれど、まあそれはそれで仕方ないなという心地である。滅亡はいわば、到底叶うとは思えないけど常に心の片隅には存在していて叶えばいいなあと呑気に構えている――喩えて言えば宝くじを買うか買わないかみたいなものだ。昨日まで何番を買おうかと意味のない(かもしれない)相談をしていたけれど、結局一等が当たって大金持ちになっても不幸になる人が多いのに気づいて買うのをやめる――長々しい説明だが、まあ大まかに言えばそんな感じだ。それでもなお片隅で成就を願っている自分がいることも同じ。
新学期が始まって三日目の学校は、そろそろ平常運転に戻りつつあったけれど、一昨日行った春休みテストの結果がぽろぽろ返却されはじめていて、わたしはいたって非日常で日常的な憂苦を味わっていた。
痛手を被った身体を引きずり部室に入ると、既に終が手前側の区画に置かれた椅子にちょこんと腰を掛けていた。手には文庫本を持っていて、わたしの方を向くと同時に閉じるのが見える。ちらりと見えたタイトルは、『匣の中の失楽』。難しそうな名前だ。
それよりも、帰りの会が終わってから結構すぐに教室を出てまっすぐ部室に向かったつもりだったけど、いつの間に追い抜かれてしまったのだろうか。最短経路を通って、しかも、不気味な旧棟の廊下を一人で通るのが嫌だったからほとんどランに近い早歩きで向かったのに。
「お疲れ様ー」
不思議に思いながらもとりあえず声を掛けると、どういうわけだか終は目を丸くしてその場に勢いよく立ち上がった。反動でパイプ椅子が倒れて激しく音を立てる。
「ほ、ほんとうに……!」
終の声は若干裏返っていた。何にかは判らないが、激しく動揺しているように見える。
「空ノ宮さん?」
「そうなのね? あなたが、あなたが!」
と、何かを言おうとした口が彼女自身の両手によって素早く塞がれた。まるで別の意志を持ったかのような異質な動きだった。
わたしは唖然としたまま立ちすくむことしかできない。
何かを言うことを諦め、ゆっくりとこちらへ歩を進める終。わたしの両肩を強く握った。鈍い痛みさえ感じさせる強さだった。
「わたしが……なに?」
「やっぱり、覚えてないのね。でも、わたくしには判る。あなたは、わたくしの――」
その時だった。いつものギシギシ音。誰かがこちらにやってくる。由依か、あるいは燐か?
終は慌ててわたしから離れた。明らかに怯えた表情でドアを凝視する。まるで、やましいことでもしようとしていたかのように。……しつこいけれど、わたしにはそんな趣味はない。
ドアの半分より上の部分は、細いフレームを残し四角いガラス張りになっていて、前を通る人の上半身が見えるようになっている。
数秒後、そこに映ったのは燐の横顔だった。
横顔?
それがおかしいことだと気づいたときには、すでに燐はドアの前を通り過ぎたようで、ガラスにはいつもの空白しか映っていなかった。
遠ざかるギシギシ音。救急車のようなドップラー現象は起きずに、ただ音量が小さくなっていくだけだ。
「あちらの部屋には、何があるの?」
先ほどまでの狼狽がなかったかのように、終はわたしに無感情な声で尋ねる。
「いや……この部室以外はどこも使ってないはずだけど……」
口ごもってしまうわたし。
どうしたのだろうか。入学して間もなく《世界滅亡部》を設立したから、もうすぐこの旧校舎に出入りするようになって一年が経つはずだ。今まで燐が部室である図書室以外に足を運ぶところをわたしは見たことがなかった。
まだ肩に掛け続けていた通学鞄を床に降ろし、入ったばかりの部室から出る。燐がどこへ向かったのか無性に気になったのだ。
廊下には既に姿がない。
彼女が部室をスルーして向かった先には正面に音楽室、その直前で左に折れる廊下を行くと用具準備室がある。言うまでもないが、どちらもまったく使われていないはずの部屋だ。
階段はこちら側にはないので、まず間違いなく燐はどちらかの部屋に入ったはずだ。わたしはとりあえず音楽室に向かうことにした。二択を当てるアテがあったわけではないが、何か用事があるのだとすれば猫の額ほどしかない用具準備室よりは、普段使っている広い図書室と同じぐらいに広い音楽室の方が可能性があると思ったのだ。
が、やはりアテは外れた。
ドアを開けて最初に目に入ったのは、再利用されることなく放置された白いカーテンの山が、窓際の角に陣取っている姿だった。すぐに室内を見渡すが、燐の姿はない。
すぐ後ろには終がついてきていた。素早く目線を交わして頷き合うと、引き返して用具準備室に向かう。
あんな狭くて何もない部屋で一体何を?
……まあ、直接聞けばいいか。
気軽にそんなことを考えながら、用具準備室のドアを開いた。その奥に驚いた表情を浮かべる燐を幻視しながら。
が。
そこにも燐は居なかった。探すまでもない。わずか六畳ほどのガラクタが散乱した小部屋には人が隠れられるほどのスペースはない。
押し入れの類がいくつかあったので手当たり次第に開いてみたが、ただ有象無象がぎっしりと詰まっているだけだった。
「こっちの部屋は? ――鍵が掛かっているようだけれど」
振り返ると、終がわたしから向かって右側の壁についたノブを引っ張っていた。
ああ、そうか。わたしは思い出す。そこにも部屋はあるんだった。
「そこはわたし達が旧校舎を使い始めてから、ずっと鍵がかかったまんまなの。噂では学校に伝わる宝物が隠されてるってことだけど……」
「つまり、開かずの間ってことね。ここに星降さんが入れるはずもないと」
「そゆこと」
わたしが説明すると、終は素直に諦めてノブから手を離した。
いったい燐はどこに行ってしまったんだろうか。彼女が部室の前を通過してからわたし達が廊下に出るまで大体十五秒ぐらい。その間に、どこへ姿を消してしまったというのか?
小走りでとりあえず廊下に戻ってみたが、どうすればよいのか途方に暮れてしまう。
と、その時目の前に図書室の向かい側にある部屋のドアが映った。わたし達が普段過ごしている教室と同じタイプで、現役時代もあまり使われなかった部屋らしい。
「もしかしたらこっちかも――」
と足を踏み出しかけたとき、終とは違う声が耳に届いた。
「やあ、諸君。遅れてすまないな」
由依である。
彼女は図書室のすぐ隣にある階段を上がってきたために、例のギシギシ音を立てる前にわたし達の近くに来ることができていたのだ。急いできたのか、少々息が荒れている。
頼れる変人の登場に、わたしは思わず飛びつくような勢いで言った。
「由依! 大変だよ。燐ちゃんが!」
「わわ、そんな勢いで来られたら照れちゃうじゃないか。星降がどうしたって?」
いかにも嬉しそうに言う。やめてくれ。
「燐ちゃんが消えちゃったの!」
「……なに?」
由依の顔が一気に引き締まっていくのが判る。プライベートモードからビジネスモードへ。働いた経験はないけれど、まさにそんな感じのようだと思えた。
わたしは簡単にさっきまでの出来事を話した。最後に終が、たった今向かいかけた図書館の向かいの教室を指差しながら付け加える。
「位置的に考えて、こっちへ入ることはできなかったと思うわ。まだ校舎内に居るとしたら、音楽室のどこかに隠れている可能性が濃厚ね。さっきは織登さんもわたくしも焦ってて、詳しく調べなかったから」
「わかった。行ってみよう」
由依を加えてふたたび音楽室へ。
一目見て、やはり燐の姿はないようだ。
「由依、やっぱり――」
「ん、これはなんだろう」
そう呟いた由依は、わたしの横を擦り抜けて、正面に落ちているカーテンを拾い上げた。そしてすぐに、それが付いていたのだろう窓の方を見る。
「おや、開いているな。ここから外へ出たんじゃないか」
窓は、出入り口から向かって右側の一面端から端を占めていた。縦は大体一メートルぐらいで、少し高い位置にあるが、なんとかよじ登ることもできなくはなさそうだ。
だけど――。
「ここ三階だよ。こんなとこから落ちたら絶対怪我しちゃうよ」
わたしと由依は並んで窓の前に立ち、見下ろした。
詳しい高さはわからないけれど、下はアスファルトになっていて、飛び降りたら死ぬまではいかないかもしれないが、ただじゃすむまい。もちろん燐の姿はそこにないし、怪我したっぽい痕跡もない。付け加えるなら、近くに飛び移れるような手頃な高さの足場も見あたらない。
おそらく同じことを確認したのだろう由依は、次に手がかりとなっている白いカーテンを調べ始めた。そしてすぐに声を上げる。
「なんだこれ……ゴム?」
カーテンフックがついている部分の端から由依はなにかを強引に引っ張り出した。茶色で強い弾力性がありありと見て取れるそれは、間違いなくゴムだ。輪ゴムの大きい版って感じ。
「なるほどね。わざわざ前もって仕込んであったわけだ。……しかし……」
しばらく考え込む由依。頭をフル回転させているのだろう。指を唇に当てっぱなしである。
そして意を決したように立ち上がり、わたしに言った。
「間違いない。やっぱり星降はここから逃げたんだ」