雨をなだめる
精霊の裁きで生き残る人は、ほぼいない。
そして、精霊の裁きは一生に一度。
もしも生き残ることができれば……二度と裁きを受けることはない。
二度目、があるような悪者は、そもそも一度目で亡くなるはず。
というのが、その理由らしい。
つまり、私はこの先、精霊の裁きとは無縁でいられる。
はず、なのだけど。
「ここで、この前の……日蝕が、問題になります」
少し心を落ち着けることに成功した私は、夕食のパンをちぎりながら、副の媛さまの言葉を聞く。
「闇を呼んだ三の方と、闇を払った一三の方。どちらに問題があるか……となると、三の方の立場が弱いわけです」
闇を呼んで人々を惑わせたように”見えた”三の方は、裁きを受けざるを得なくなり。
死の誘惑に負けてしまった。
「では、先代さまが言われた、『爪が青くなって、云々』は……嘘ですか?」
内緒話の声で尋ねた私に、副の媛さまが立てた人差し指を口元に当てる。
「皆の心の安定のため、です」
歌君たちの心は、恨みや妬みといった負の感情から縁遠くなければならないとされている。
負の感情は
声を損ね。
歌を乱すと。
そして。
「本来、爪の変化は一晩で起きます」
副の媛さまが言われることには、三人の媛さまの誰かが亡くなって、お葬式も済ませたあとで……らしい。
「ですが……」
ため息交じりの声が、言葉を繋ぐ
「精霊が三の方を望んでいた、というのは、あながち嘘でもなかったかもしれません。精霊が、ひどく荒れているようです」
「あ……今日の歌が……」
「歌が? 何か?」
「歌の最中、精霊が『足りない、居ない』と」
ずっと“誰か”を探していた。
それはきっと、
居なくなった
未来の花嫁。
「このままでは、次の水の日。いえ、明日の草の日の歌すらも、危ぶまれます」
「歌が捧げられない、と?」
「ええ。そこで、一三の方には、この前のように、踊りをお願いしたいのです」
精霊の怒りを解くため……ということらしい。
それならば、この前とは舞いが違う。
水の神さまに捧げる、鎮めの舞いがふさわしい。
「ですが、精霊に受け入れていただけるでしょうか?」
日蝕の場合は、私が何もしなくっても、時間さえ経てば終わったはず。
雨も、いずれ
止みはするだろうけど。
精霊が怒っているなら
私の力では、無理かもしれない。
それでも、と。
頼み込むように言葉を重ねる副の媛さまに、押し切られる。
「とりあえずは、明日の朝。空模様を見てからですが」
「はい」
「今夜は、大事をとってこのまま医務室で」
『話はおしまい』と、立ち上がった副の媛さまに、一つ、気がかりを思い出す。
「あの、衣装はどうしましょう?」
お昼にびしょ濡れになった正装は、朝までに乾くだろうか?
「今日は……麻でしたか?」
「はい、まだ暑さが残っていましたから」
水の月から風の季節にかけて衣替えがされるから、綿の衣装も準備をしてはいるけど。
蒸し暑さの残る今日の衣装には、私も含めて涼しい麻を選んだ人が多かった。
「では、朝はとりあえず綿で。お昼の衣装はこちらでどうにかしましょう」
「よろしくお願いします」
「では、きちんと休んで下さい」
そう言って、扉へと向かう副の媛さまを寝台の上から見送って。
すっかり冷めた夕食を、再び口へと運ぶ。
明日は、雨が止みますように。
翌朝は、相変わらずの雨だった。
控え目に鳴らされる起床の鐘に起きて、手燭の灯りを頼りに、居室へ戻る。
手早く正装へと着替えてから、館の玄関ホールへと向かう。
「おはようございます。一三の方さま」
そう言って傘を差しだす衛士の方は、昨夜の当直だったらしい。
「おはようございます。早くから、ご苦労さまです」
かけた労いの言葉に、『役目ですから』と軽く首を振ってみせて。
「水の媛さまより、精霊樹までお送りするようにと」
「ありがとうございます」
カンテラを手に重い扉を押し開ける二班の彼は、衛士さんにしては珍しい、優しげな風貌で。副班長さんであることを示す、袖口に二本の縁取りがされた制服をきちんと身につけていた。
フレデリックの先導で、夜明け前の暗い道を中庭に向かって歩く。
傘を叩く雨音に、気が滅入る。
哀しい、哀しいと、精霊が泣いている。
三の方さまを、恋いに恋うて。
辿り着いた精霊樹の元に、染の子さんたちはまだ並んではいなかった。
おそらく、玄関ホールで雨が止むのを待っている。
さしていた傘を閉じて、フレデリックへと渡す。
精霊樹へと、一礼して。
水の神さまの、お名前を宙に書く。
ゆっくりと歩を進めながら、降りしきる雨を両の手で受ける。
掌いっぱいに貯めた雨は零さないよう注意しつつ、額の前まで差し上げてから左の肩へとかける。
もう一度貯めたら、今度は右の肩。
右足を三回踏みならす。それに合わせて、手刀で躰の左、右、左と雨を切る。
お臍の高さで、再び雨を受けて。
今度は頭から、かぶる。
水の歌とどこか似ていて。
でも“何か”が決定的に異なるお神楽。
脳内で再生される音に合わせて、足を運び、手を躍らせ。
全身で雨を受ける。
前世での舞いは、奉納殿で捧げていた。
だから、どんな大雨でも私自身が濡れることはなかった。
でも、今の私は雨に濡れ
精霊の嘆きを、この身で慰める。
舞いがそろそろ終わりに差し掛かる頃、夜明けを告げる鐘が聞こえて。
最後の仕上げのお名前を書き上げたところで、雨が止んだ。
ここで終わりにするのは、なんだか不安で。
せめて歌が終わるまで、と舞いを再開する。
四回と少し舞ったところで、歌は終わった。
中途で終わらすのも失礼な気がして、最後まで舞い終えて。一つ息をついたところで、横から声を掛けられた。
「一三の方さま。これを」
「はい?」
「失礼かもしれませんが」
フレデリックが、脱いだ制服の上着を差し出す。
「いえ、制服が濡れますので。結構です」
「風邪を召されてはなりません。せめて、館に戻るまでは……」
『制服の代わりは、あります』と言葉を重ねながら、上着がふわりと掛けられた。
雨に濡れた肩が、乾いた上着に残る彼の体温を感じる。
火の消えたカンテラと二本の傘を手にしたフレデリックの後について、水の館へと戻る。
すでに染の子さんたちは、それぞれの館へと帰っていた。
「急いで、薬方を」
館の玄関を入ったところで、フレデリックが仲間に声を掛けながら、傘とカンテラを差し出す。
受け取ったのは、まだ少年の面立ちを残した若い衛士の方で。
「控え室に待機してます」
「お召し替えも?」
「全て手配済みです」
緊張気味な声で答えているのを聞きながら、両手に息を吐きかける。
朝の雨は、意外なほど体を冷やしている。
今更ながらに、掛けられた上着に感謝する。
「では、一三の方こちらへ」
慌ただしいやり取りを終えたフレデリックに連れられて、玄関ホール正面の小部屋へと向かう。
普段、私たち歌君が訪れることのない部屋は、衛士の方が使っている控室の一つらしい。
「薬方、一三の方が戻られた」
「承知しました。男の方は、外へ」
そう言った薬方さんに押し出されるようにして、部屋から出ていくフレデリックに少し慌てる。
「あの、上着……」
「はいはい、それは縫方に私から渡しておきます」
首だけで振り返った薬方さんがそう言って、扉を閉めようとする。
それもそうだ。洗って乾かしてから、返さないと。
彼からは見えないとわかってはいるけど。
改めて、扉の向こうへと頭を下げる。
準備してあった手拭いを何枚も使って躰を拭いて、館着へと着替える。
その間、こちらに背を向けるように作業をしていた薬方さんからお湯飲みを受け取って。熱いお湯に溶かれた花梨のシロップをゆっくりと啜る。
喉から胃袋から、躰全体へと薄めのシロップが染みわたる。
その間に彼女は、私の髪を丁寧に拭いてくれていた。
少しだけ遅めの朝食の後は、いつも通りに織殿へと向かう。
その頃にはまた、雨が降り始めていて。精霊の哀しみに、胸を痛める。
水の月に花嫁を亡くした水の精霊は
どれだけ涙を流すのだろう。