廻る車輪には、嘘がつけない。
芳醇な香りが、グラスに注がれる音と共に部屋に広がる。
「赤ワインか」
デスクについて書類の最終チェックをしていた男が、こちらに視線を寄越す。その視線に微笑みで応えて、ボトルを傾けた。
「えぇ、お祝い事には赤なんでしょう?」
「よく覚えているな。出会った頃に一度話したくらいだろう」
曇りなく磨かれた二つのワイングラスを深い深紅で満たして、その一つを彼に渡す。
彼は受け取ったそれをゆるりと揺らして、満足げに口元を緩めた。
「良い香りだ。こんな上物どこで手に入れた」
「これは祝杯なのよ? そんなことは気にしないで。こんな日くらいは私にいい顔をさせて頂戴」
「今回のことは、君の働きが大きいのにか。私が感謝こそすれ君は労われる役だろう」
「あら。褒めたってもう何もでないわよ」
本心からそういえば、彼は困ったように目を細めてみせた。
今日は男が経営する会社で大きな商談がまとまった。私は秘書としてその商談相手の情報を事細かに調べ上げ、彼にいくつかの助言をしたに過ぎない。例え、今回のこの商談が会社を経営難から救ったという事実があったとしてもそれだけのことだ。商談がまとまったのは、あくまで彼自身の経営者としての腕が確かだということに過ぎない。
階下では、彼の部下たちがお祝いをしようと準備を進めている。その音を遠くに聞きながらも、私は一足早く乾杯をしないかとこうして男を誘っている。
数か月前のことを思うと、いまでも私がこうして彼といることが不思議に思えてくる。この男と初めて会った時は、警戒心も露わに、グラスを交わそうとしてもただ冷めた目を向けられるだけだった。そのスタートから、どれだけ邪険にされようと提言をし、彼のために身を粉にするように動いてきた。その自負はあるが、努力が実を結んだとわかることはこの上ない喜びだった。
こうしてグラスを交わそうとしても拒絶されないことこそが、信頼を勝ち取った証なのだと確かに実感する。
「皆でするお祝いもいいけれど、貴方とこうしてグラスを交わしてお祝いしたかったのよ」
「以前はすまなかったな。私は人を信用するのが不得手なんだ」
「あら、皮肉ではないのよ。純粋に貴方にこうして信頼されたことが嬉しいの。ほら、飲みましょう」
乾杯しようと手首を傾ければ、静かに彼がそれを留めた。
「その前に、私の話を少し聞いてもらってもいいか」
デスクの上に置かれたワイングラスに目を滑らせながら、私もそれに倣ってグラスを置いた。立ち上がった男がデスクを回って、私の前に立つ。
ヒールを履いていても男の方が幾分と背が高い。目を合わせようと見上げれば、彼は微かに眉を寄せた。
「キール?」
「私がこんなことを言えば、君は困るかもしれない。けれど、この商談がまとまったら言おうと考えていたんだ。返事は今でなくても構わない」
苦し気に見えた目元とは裏腹に、彼の瞳には優しい光があった。それを確認して、私は自分の中に暗い炎が灯るのを自覚する。破滅に向かう列車のように、ゆっくりと車輪が最終駅を目指して回り出す。
「私が貴方の言葉に困ることなんてないわ」
抑えられない期待と不安は、果たして男にはどう映るだろう。愛すべき美しい女が震えるようなか弱さを装えているだろうか。告げられる言葉に踊る胸の前で左手を握りしめる。
彼はおもむろに私の右手を取った。温かくしっとりと汗ばんだ手に包まれ、私は自分の手が震えていたことに気づく。彼は一度目を伏せてから、再び私をその目に映すと真摯に告げた。
「ジュリア、私は君と一緒にありたいと思っている。今日この日からずっと、君ひとりを愛してもいいだろうか」
車輪は加速する。湧き上がる暗い喜びに、ともすれば涙が零れそうになった。私は彼の手を握り返して、懸命に頷きを返す。
「あぁ、キール。私、ずっと貴方のその言葉を待っていたのよ」
「ずっと私の隣にいてくれるか」
「約束するわ。死が二人を別つまで、私は貴方の傍に」
悲願の成就に、じわりと目頭が熱くなる。私を見つめる彼の瞳が、安堵したように柔らかさを増す。どんな時でも表情に厳しさを滲ませる彼が、こんなにも柔らかに微笑むことを知っている人は、他にはいないのかもしれない。そう思うと、ほんの少しの優越感が首筋を撫でていくような気がした。
長い、時間だった。途方もない時間に思えた。冷たくあしらう男の背を追いかけ、彼のために学び、彼のために動いてきたこの数カ月が走馬灯のように駆けていく。誰もが無理だと眉をひそめ、そして最後には驚いたように関心の吐息を零した。まさか、この男が誰かを信頼して傍に置くなど誰も思わなかったのだろう。
秘書がついても数日を待たずに辞めていくという噂を何度も聞いた。彼の周囲には敵しかおらず、彼自身でさえ誰にも心を許してはいなかった。それでも私はそんな彼の信頼が欲しかった。喉から手が出るほどの渇望とはこのことを言うのかと、涙を零した日があった。けれど、必死で努力した日々が、今夜やっと報われる。
「ジュリア……」
壊れ物を扱うように、ひどく丁寧に抱きしめられた。固く強張った彼の背に手を回せば、その強張りが微かに緩んでいく。この男は自分を本当に愛しているのだと、改めて自覚する。確かに脈打つ少しだけ早い心音を服越しに感じて、彼に気づかれないように微笑みを零した。
「貴方がこんなに温かいなんて知らなかった」
どちらともなく抱擁を解いて、顔を合わせれば自然と目元がまた熱くなった。幸せで満たされたような男を見て、浮かんだのはかつて自分がこの世界で何より愛しいと思っていた人の顔。
そんな追憶を振り払って、男にワイングラスを差し出す。彼はワイングラスを受け取り、それを掲げる。
「二人の未来に」
彼の言葉で、破滅の列車は頂へと駆け上っていく。もう、後戻りはできなかった。私もワイングラスを掲げ、彼の言葉に倣う。
「二人の未来に」
ぶつかり合うガラスの音が、振動となって指先を走り抜ける。ワインを一息に煽った彼の喉を私はただ見つめていた。放っておけば一人で孤独になろうとするこの人にとって、この夜はどんな時間だったのだろう。これまで生きてきた中で最も幸せな時間だったらいいと願った。
そう、そうでなくてはいけない。なぜなら、上り詰めた先にこそ、至高の絶望が待っている。もう、破滅の列車は谷底へと叩きつけられるのを待つばかりなのだから。
口元に浮かぶ暗い笑みはもう隠さない。空になった自分のグラスと、私のグラスを見比べて、彼が問う。
「君は飲まないのか?」
「いえ、私も頂くわ」
揺れる深紅の祝杯を目の高さに掲げてから、彼を真似て一息に煽った。
そうして心の底から幸せそうに私を見つめる男の顔が、やがて強張り、驚愕に染まっていく姿を私はひどく胸のすく思いで見ていた。
かつて、愛する人がいた。
生まれた時から互いを知り、同じ景色を見て育ち、そうしていつしか互いを唯一の相手と知った。
この人が笑顔になる家庭を築き、この人と新しい命を育もうと思った。
けれど、その人は私を置いてこの世から消えてしまった。彼の墓の前で私は呆然と立ち尽くし、ただただ不思議に思った。なぜ、この人が死に、自分が生きているのだろうと。
いずれ知った。彼は騙され、貶められ、その先で失意の果てに事故で亡くなったこと。
そして、彼を死へと追い詰めた死神のような男がいたことを、私は知った。
彼の墓前で雨に濡れながら、私は彼に誓った。
その男に、復讐することを。
「なぜだ……!」
力の入らなくなった指先から毒の入ったワイングラスが滑り落ちた。床にぶつかったそれは耳障りな音で砕け、床に散らばる。
私は叫ぶ男に天使のように微笑みかけた。
孤独な男に近づいて、信頼を勝ち得て、彼にとって欠かせない人間になること。それが重要だった。
無から絶望は生まれない。それは愛の反対が無関心であることと同義だろう。
「どうして」
唇を戦慄かせ、こちらに手を伸ばす彼から一歩遠のく。可笑しくて堪らなかった。ずっと表情一つ動かさずに、幾人もの人間を騙し、裏切り、その上で地位を築いてきた人間とは思えなかった。見ているこちらが、苦しくなってしまいそうなほど、悲しみに染まった男の顔がひどく滑稽だった。
だから、私は笑う。
内臓を食い破って、喉から零れ出ようとする血を飲み込むこともできずに、ドレスを血で穢しながら、それでも笑いは止まらない。彼の手にしていたワイングラスが床に落ちて、先に壊れてしまった私のグラスにように粉々に砕け散る。
とうとう、足がもつれ、平衡感覚を失った体が傾ぐ。倒れこむ寸前で、男が伸ばした腕に捕まり、そのまま抱き留められた。
「毒入りだったのか……! でも、どうして君のものにだけ」
顔を歪め、悲痛に叫ぶその姿は、ずっと私が見たいと思ってきたものだった。
きっと、この人は立場が逆で、己が毒を飲んだ身であれば私に微笑むのだろうな、と霞む視界の中、歪む男の顔をぼんやりと思った。君が無事ならよかったと、そんな風に顔に似合わない気障なことを言うような気がした。
だから、それではだめだと思った。
男を知れば知るほどに、なんと不器用で敵を作りやすく、馬鹿が付くほど真面目な男かと呆れた。信用させようと売った恩に、恐ろしいほどわかりにくい礼をされた時は、怒鳴りつけてやりたくなった。
私と同じ目に合わせてやろうと思っていた。
愛する人を殺して奪ってやろうと、それだけを夢見て彼に近づいた。
けれど、彼は愛する者などおらず、大切なものでさえないようだった。すべてが敵で、すべて無価値と諦め、憐れで、心の貧しい、それでいてどこかこの世に夢を見ている、そんな男。
なにかを奪うことなど容易く、そして、それでは何の復讐にもならないと思った。
私が殺したいのは、彼の心だけで、他の何かを傷つけることはいくら復讐とはいえ恐ろしく、だから、あぁそうかと思った。それは、気づいてしまえば簡単なことだった。
私が彼に愛され、そして死ねば復讐はそれで完成だった。
「ジュリア、いま人を呼んでくるから待っていてくれ」
私を床に横たえようとした彼の腕を力なく掴む。縋るように力を込めた指先は思ったようには動かなかった。自分の体が、もう自分の意思では動かないことが、こんなにも怖いとは思わなかった。震えは恐怖と寒さを連れてくる。唇でさえももう、満足には動かせない。
「ジュリア!」
振り払うことなんて簡単だろうに、彼は泣きそうに私の名を呼ぶ。少しでも希望があるのなら、離してほしいと彼の瞳が叫んでいる。その瞳を覗き返して、私はぎこちなく首を振る。
「キール……もう助からないわ」
彼が小さく息を呑む。その噛みしめられた唇に、触れたいという欲がふっと私の中に生まれる。それは痛みと寒さの中で、あってはいけないはずの優しいものに思えた。
初めからいくらでも引き返せた復讐劇の決めていた幕引き。けれど、そういうものこそが、自分との約束こそが一番破るときに勇気がいる。結果、私は何度もあった分岐点を切り捨て、自ら谷底に落ちることを選んだ。
だから、これは自分と、そしてこの男への罰なのだと、そう思う。
彼の手が私の頬と髪の間にそっと差し込まれる。壊れ物を扱うような指先に、目を閉じた。熱くてたまらなかった身体が、今度は氷を詰められたように冷たくなっていき、やがて感覚が薄れていく。
「キール、貴方の代わりに死ねたのなら本望よ…………」
「……っ」
これで彼は絶望してくれるだろうか。心が食い潰され、昇る朝日を恨み、空の掌を嘆いてくれるだろうか。私がかつてそうだったように、埋まらない喪失に胸を掻き毟り、喉が枯れるほどに泣いてくれるだろうか。
彼は悪人で、私の最愛の人を殺したけれど、非情な男だと噂されていたけれど、彼の一番傍で見ていた私はもう知っている。この男は、人としての狡さと臆病さを抱えた、ただの人らしい人だということ。
喜びを持ち、痛みを知り、笑いもすれば、泣きもして、一人の女を愛しもする、ただの一人の男だということ。死神などどこにもおらず、そんなものは虚像でしかなかったこと。
だから、これは我儘だ。
重い瞼を押し上げて、最期の力で彼の頬へと手を伸ばす。触れた拍子に彼の瞳から涙が落ちてくる。
「貴方になんか、出会わなければよかった……貴方自身のことなんて知らなければ」
そうすれば、貴方の涙でこんなにも苦しくなることもなかったのに。
最後の言葉は零れ落ちることなく、私の意識は深い闇へと落ちていった。
たゆたう意識が描き出すのは、なんてことのない些細な午後。
「ジュリア」
「なにかしら、キール?」
振り返ってから、そういえば男にいま初めて名前を呼ばれたと気づいた。
「どうした?」
「え?」
「何かいいことでもあったのか?」
訝しげにそう問われ、私は自分の頬がいつの間に緩んでいたことを自覚する。頬に手を当てて、自分でも驚く。
「ジュリア?」
彼はどうやら自分が初めて名を呼んだことには気づいていないらしかった。そのことを理解すれば、胸の奥底からふっと湧き上がるものがあって、私は意識的に顔を引き締める。
「なんでもないわ。それで、どうしたの?」
「あぁ、ここの書類を……」
隣に立って書類をのぞき込みながら、私は一瞬だけ目を閉じる。
復讐の炎が揺らめく姿を、瞼の裏に確認して、そうして私はまた、ひとつ自分に嘘を吐いた。
破滅の列車は、止まらない。
谷底に叩きつけられて初めて、もう嘘を吐かなくていいのだと、自分に許せるその日まで。