<魔導維新シリーズ>桶屋の市松 魔殺行
この作品は、結城からく様主催「殺戮企画」の為に執筆した作品です。
乾いた風が吹く季節だった。
砂塵舞う、長い一本道の先の先。
百姓風の男女数名が、その真ん中で蹲り、小刻みに動いている。
(天下の往来で、迷惑な野郎共だ)
と、三度笠の庇を上げ、市松は思った。
それでも、市松は歩みを止める事はない。この道の先にある、九郎原宿で、急ぎの仕事が一つ待っているのだ。
空っ風が吹き、道中合羽が風に靡く。腰に差した大刀の朱鞘が覗いた。
市松の身分は、町人である。町人が大刀を佩く事は禁じられているか、今やそれを咎める者はいない。それどころか、勝手に〔仙田〕という姓も名乗っている。それについても、咎める者はいない。そうした時世になっているのだ。
近付くにつれ、血が臭った。肉が腐ったような、酷い臭気もある。
蠢く百姓の中から、一人の男が顔を上げた。
(へぇ)
市松の右目尻が、微かに動く。
その男の口の周りには、夥しい血。口一杯に何かを詰め込み、品性の欠片もない咀嚼を見せている。
顔がこちらに向いた。その瞳は白濁し、黒目は殆ど白目と同化していた。
もう一人。女も市松に顔を向けた。この女も、血だらけだった。そして、手には何かの腸らしき物を握りしめている。
人が人を喰っている。
素人はそう思うだろう。しかし、それが人ではないという事は、その道の玄人である市松にはすぐに判った。
屍喰。幕府がそう呼んでいる、妖鬼の一種である。
屍喰の一団が、ふらふらと立ち上がった。そして、ゆっくりとした足取りで、こちらに向かって来る。
「新鮮な方が旨ぇよな、そりゃ」
市松はやれやれという感じに、腰の大刀を抜き払った。
榊国秀。直刀に近いほど反りが浅く、幅広な剛刀である。
この刀は、曾合流剣術を市松に授けた、小菅忠右衛門の愛刀である。
小菅は妖鬼との争いで命を落としたが、その仇を討った市松に、小菅家より遺刀が与えられたのだ。今から二年前。市松が二十五の時だった。
屍喰。既に数歩の距離にまで迫っていた。両手を伸ばす。
「お前さん、俺を喰いてぇか」
そう言ってみた。当然、返事はない。屍喰に、ものを考える頭は無いのだ。
屍喰の指先。爪が剥がれて無かった。それがはっきりと見える所で、市松は下段から両腕を跳ね飛ばした。
屍喰が、不思議そうに首を傾げる。その顔に、市松は返す刀で一撃を叩き込んだ。
感触は熟れた柿。刃にかかる抵抗は殆どない。屍喰は腐っているのだ。
頭部から胸の所まで二つに断たれ、屍喰はゆっくりと斃れた。
(一匹なら苦にはならねぇんだがな)
生憎、屍喰は六匹だった。野良屍喰か。屍喰というものは、妖鬼の足軽として使役されている事が多い。統率しているのは、魔人と呼ばれる〔人間もどき〕か、その手下でも知恵を持つ甲級妖鬼なのだが、その姿は無いようだ。
市松は、三度笠そして道中合羽と順に止め紐を解くと、榊国秀を手に勇躍。瞬く間に屍喰の首を六つ刎ね飛ばした。
一息だった。動きが鈍い屍喰相手には、容易い事である。彼らの怖さは数であり、一匹一匹だとそこまでの脅威ではないのだ。
だが、その首も生きている。屍喰は脳を潰さない限りは、その動きを止めないのだ。現に今も、肉を喰らおうと口を忙しなく動かしている。
故に、市松は首の眉間一つ一つに、刀を突き刺した。これが、大人の配慮というものだ。歩いている最中に、転がっている屍喰の首に足を噛まれるというのは、珍しい話ではない。
「面倒な世の中になっちまったぜ」
嘆息し、市松は榊国秀を収めた。
全ては、天明八年六月二十四日に始まった。
壇ノ浦に生じた、大きな渦から〔あのお方〕と呼ばれる妖鬼の親玉が現れ、この世を阿鼻叫喚の地獄に陥れたのだ。
〔魔導維新〕
人間も、魔人も、妖鬼も、その日の出来事をそう呼ぶ。
魔によって、維を新たに導く――。
そんな意味だという。それ以外の事は、よく判らない。市松が知るのは、魔導維新の震源地たる壇ノ浦が、今や〔無間〕と呼ばれる妖鬼の根城になっている事と、魔人が〔かつて生きていた人間〕だという事だ。
兎角、市松は生きる為に戦ってきた。戦いに戦いを重ね、気が付けば妖鬼退治を生業とする、〔狩り師〕となっていた。
天明八年六月二十四日のあの日。魔導維新が無ければ、自分は刀など手に取らず、江戸の片隅で、ひたすら鑿で桶を削っていた事であろう。
◆◇◆◇◆◇◆◇
九郎原宿が燃えていた。
黒煙が、もくもくと天に向かって上がっている。市松は何事かと宿場へ足を踏み入れたが、そこに住まう人々は、今や屍喰どもの餌となり果てていた。
人間はひと固まりにされ、大量の屍喰に喰われているのだ。肉を食む咀嚼音だけが静寂の中で響き、流石の市松も身の毛がよだつのを覚えた。
(遅かったか……)
市松は、九郎原宿の名主から呼ばれていた。宿場を魔人の手から解放する為、それらを倒す叛乱に加わって欲しいと。それが仕事だったのだ。
この惨状を見る限り、叛乱の計画が露見し制裁を受けたのだろう。魔人共にとって、人間は奴隷であり、家畜であり、財産であり、食料だ。このような殺戮は、余程の事がない限りする事は少ない。
(こうなりゃ、長いは無用だ)
魔人の支配地域は、危険が多い。仕事でもない限り、さっさとお暇願いたい場所である。
「おい」
踵を返した市松は、何者かに呼び止められた。
「もう帰るのか?」
男の声。振り向くと、直垂の上に艶やかな錦の陣羽織を羽織った男が立っていた。
「狩り師の仙田市松。〔桶屋の市松〕と呼ぶべきか」
男は若い。そして、美男子と読んでもいい顔立ちだ。市松には軟弱に見えるが、女はこうした顔立ちが好きなのかもしれない。
「俺も有名になったものだ」
そう言うと、男が嗤った。
瞳の色。赤。
「魔人か」
男が頷く。
「当地を統べる、魔人将軍・木村長門守重成である」
「親分さんがいきなり登場とはな」
「我が領地で叛乱の企てがあると聞い及んだ。〔あのお方〕にお預かりした大事な土地で、斯様な真似は看過できぬ」
「それで、この惨状か」
市松は、さりげなく三度笠と道中合羽を脱ぎ捨てた。
「他の領民への見せしめが必要でな」
「〔あのお方〕はこんな真似を望んじゃいねぇんじゃねぇのかい?」
「笑止。貴様に〔あのお方〕の何が判る?」
「聞く話によりゃ、魔導維新というのは、この国と民をよい方向に導く為と聞いたぜ。それともお前達のお題目は、嘘っ八か?」
重成の顔がどんどん赤くなる。どうやら、この重成は忠誠心は厚いが、単純で短気なようだ。いつの時代に何を為した男なのか、市松には判らないが、生前この男の家臣だった者は、さぞや苦労した事だろう。
「おのれ、人間の分際で」
「人間様だぜ、人間もどき。あそこで恐れ多くも人間様を喰っている屍喰を呼ぶかい? おお呼ぶだろうな。お前さんは、叛乱を恐れる臆病者。俺に一対一を挑む度胸はなかろうぜ」
「魔人将軍たる私に対し、数々の暴言を。もはや許せぬ。貴様を殺した後、毛一本残さず喰ろうてやろう」
重成が太刀を抜き払い、八相に構えた。市松も、榊国秀を抜く事でそれに応えた。
重成の闘気は、既に爆発している。潮合いを読む必要は無い。
市松は、細心の注意を払いながらも、大胆に踏み込んだ。
横凪ぎの一閃。しかし重成は、それを宙に舞う事で躱した。その動き。人間には為せぬ、魔導の動きであった。だが、市松は冷静だった。魔人はこれまでにも斃したし、伊達に〔桶屋の市松〕として名を馳せていない。
頭上から、刃の光。殺気が爆ぜる、一撃。迫る。しかし、市松も榊国秀を奔らせた。
倒れたのは、重成だった。
「おのれ……」
重成は、その身体を二つにされてもなお、這って市松に挑もうとしている。
「お前さんのその根性、凄ぇな」
市松は、右頬の傷を親指の腹で拭った。
「許せん。私が、魔人将軍の私が……人間風情に……」
「魔人じゃなきゃ、友達になれたのかもな」
重成はついに力尽き、動かなくなった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
重成が斃れると、ひと固まりになって人肉を貪っていた屍喰達が、おもむろに立ち上がった。
目が合う。屍喰は、主人の死に怒るように咆哮した。
「おっ、こいつはやべぇ」
市松は、三度笠と道中合羽を拾い上げると、一目散に駆け出した。
宿場の門。駆け抜ける。が、そこには大量の屍喰が待ち構えていた。
「へっ。本当に面倒な世の中になっちまったぜ」
そう苦笑した市松は、榊国秀の刃を首に当てるか、このまま切り抜けるか、少しだけ考えた。