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【注意!】シリーズ第二作『魔法と魔人と王女様』の致命的なネタばれを含みます。
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ここに、決して明かされぬ手記を記す。
これは、私が――我々が、この宇宙で最も完全な個人認証と信用保証の仕組みを作った物語だ。
これはいかなる形でも表に出てはならない物語だ。
その理由は、そのセキュリティの秘密を知られるからではない。
我々が――支配に甘んじる我々が、最後にして最強の切り札をこの手に隠し持ち、それを誰にも知られぬためだ。
我々が支配されているということを知らぬ者も多いだろう。だから、そのことも、あえてこの手記に記す。
もはやそれは、百年近く昔の話となる。
超光速飛行技術を手にした人々は、宇宙に拡大し、新たな国家を築きつつあった。有り余る資源に支えられながらも古い国家群のくびきに苦しめられていた彼らは、ひそかにそれを進めていたのだ。
そして、最初にして最後の宇宙戦争が勃発した。
ひそかに拡大し力をつけていた宇宙国家は、ある日突然、地球軌道上で独立を宣言し、はるか高空からの避け得ぬ爆撃を開始した。その爆撃は超光速飛行技術を使った、超光速ミサイルとでも言うものだった。こうして、地球の国々はひとまとめに降伏し、彼らに海抜三百キロメートルの球面の外側のすべての宇宙の支配権を譲ったのである。
この結果としてあらゆる資源を外宇宙に依存している我々は、だから、支配されているのだ。
その支配に対する、我々の最後の抵抗――それは、人の力だ。百億をゆうに超える人口、消費力。それこそを武器とするのだ。
人口と消費力を支えるものはいったい何だろう。それは、個人認証と通貨だ。この二つを結び付けるために、通貨を個人に対する信用付与のゲージとして再定義する。個人認証がすなわち通貨となる。
このシステムが地球の全人口に行き渡り、宇宙国家が否応なくそれを使うようになれば、我々の逆支配が完成する。
それこそが、このシステムの隠された真なる目的なのである。
***
完全なる個人認証。絶対に破れぬ暗号。
それこそが、我々に必要なものだ。
宇宙国家は、科学力でもはや我々をはるかに凌ぐ。
既存の暗号技術など、瞬く間に役に立たなくなるだろう。
決して破れぬ量子暗号は?
――完全ではない。
それは、最初の対話で明らかになった。私がまだ二十代の頃だ。
「――量子暗号は、途中で破ろうとすれば破たんする、決して破れぬ暗号ではないのですか」
私が師と仰ぐ教授に指摘すると、彼は首を横に振った。
「一般にはそう考えられている。だが、そうではない。量子暗号には、弱点があるのだ」
「なんですそれは」
「……弱測定。聞いたことがあるだろう」
「……弱測定、それは、量子状態を壊しにくい非常に弱い測定を繰り返すことで、量子の状態を特定しようとする測定方法のことですね」
当時の私は、言わば数学情報学物理学のエリートとして、あらゆる知識を広くやや深く、身につけることを運命づけられていた。だから、弱測定の知識は知識の湖のごく浅い場所から拾い上げることができた。
「その通りだ」
「では、やはり量子暗号は破れないでしょう。一過性の信号を繰り返し測定する方法が無いのですから」
私の指摘に、師は再びかぶりを振る。
「あるのだ。いいかね――量子暗号化された情報、これを、測定する。確かに強い測定を一度行えば、量子暗号は測定されたことを見抜くだろう。だから、弱く一度だけ測定する。ただし、検出器は、無数だ。何百億という弱い測定器で一度に測定する――それだけだ」
「そんなことは不可能です。何百億のセンサーで同時になんて、非現実的です」
「いいや、現実的だよ。なぜなら、私はそれをやっている。そして、君も――今まさにやっている。君の脳細胞すべてが、その伸びた軸索の先であらゆる刺激を待ち受けているではないか。全くの同時刻に。量子論的な『きわめて弱い』刺激も、その確率だけが軸索を通り脳細胞に届き、すべての脳細胞を量子論的に揺さぶっている――そう、何百億という脳細胞を。これと同じことが、なぜ機械的にできないと言えるかね。だから、可能なのだ――量子暗号を破ることは。いずれ、可能になる」
私はその考えを結局受け入れることはできなかった。それは机上論に過ぎなかったし、結局それを成すための機械は設計できなかったのだから。
しかし、量子暗号が破れるか破れないかに関わらず、知られたあらゆる暗号方式よりももっと強く確実なものが必要だという点については、私は喜んで受け入れた。それこそが、私の役割だと知っていたから。
***
「必要なのは、同一性ではない、唯一性だ」
私が覚えている師の最後の言葉は、それだった。
結局彼は、その言葉を残したしばらく後のある朝、ベッドから起き上がることが無かった。
八十に近い高齢でありながらこのプロジェクトを指揮していた彼が抱えていた心労は大変なものだっただろう。せめて、苦しまずに逝ってくれていれば、と願うしかなかった。
同時に、私はすさまじい喪失感にしばらく悩まされることになった。
まさに彼は唯一の人だった。
彼の存在こそ唯一だった。
そして私はその感傷から、大きな閃きを得た。
もともと、人間は唯一ではないか、と。
個人を認証するのに、人間の唯一性を使うこと。
なんと当たり前のことだろう。
では、人間の唯一性とは何だろう。
我が師が失われてしまった、そこで失われたものは何だろう。
――魂。
言い換えよう。古来から魂と信じられてきた何か。
それこそが、人間の唯一性ではないだろうか。
人が人である――命が命であることを自己証明するのは、魂である。
私は、魂を見つけるための研究を始めることになった。
***
魂と意識は、似ているようで違う。
意識――たとえば、私自身の意識に関しては私自身にしか説明できない。私が意識を持っているのかどうか、私以外の人間はそれを知ることができない。
一方、魂は、それがあると確かに信じることができる。
人が生まれ生き死にゆく、その在り方こそが魂なのだ。
それは、客観的に観察できるものだ。
だから、意識を研究するかのように追究するやり方は誤りなのだと、私はすぐに気が付いた。魂とは、客観的にそれがあると信じることができるのだ。
そこで私は一つの思考実験をする。
魂というものが、実は主観性とは全く逆の概念であったならば、どうだろう、と。
つまり、究極の客観性。
全宇宙に対する存在の表現、あるいは、全宇宙から見た一人の人の在り方の表現。
全宇宙に対する相対的な存在として魂を定義したとしても、破たんは生じない。なぜなら、私も全宇宙の一部であり、師を失ったときそこからきわめて主観的な喪失感を感じたことこそが魂を感じさせた――つまり、魂が失われたかどうかは、周囲の者にしか分からないということなのだから、むしろ、魂の相対性という仮説を強く支持する反応なのだ。
宇宙が、人が命を得たときに魂を与え、人が去ったとき魂を回収している――そう考えてもおかしくは無い。
それは、宇宙に対する貸し借りだ。
すなわち、命を得たとき宇宙から何を借り、それを失う時に宇宙に何を還すのか、それを突き止めることこそが、魂を知ることになるに違いない。
***
あらゆる種類の場の導入を試みた。
それは、人の命に伴い貸し借りを行うための場だ。
それを従来の理論に導入し計算を行った。
人の命――一連の化学反応の連鎖による心拍と脳波の連続――に伴い増減するべき場を数百と仮定し、あらゆるやり方で既存の方程式を変形し、実験との整合性を確かめた。
だが、結果は思わしくなかった。
仮説の大半に失敗のマークを付けた頃には、私は十六人の部下(彼らは私を師と呼ぶから、弟子ということになろう)に囲まれ、彼らそれぞれが数人から十数人の弟子を従えていたから、さながら大教団――教祖と伝道者と信者たち――という様相を呈していただろう。
「大先生、人の存在を意味する新しい場を導入することは、いったい、可能だとお思いでしょうか」
そう私に問いかけてきたのは、孫弟子の一人だ。
「……不可能かもしれん。もともとそんなものは無いのかもしれん」
「では、私たちの研究は徒労に終わるということも――」
「あるいは、そうなるかもしれん。だが、私とは別の観点で、大事業を成すための研究をしているものもいる。だから、我々は、我々のなすべきことをすればよいのだ」
私は、彼の心配を理解できた。
あるいは早いうちに目指す方向を変えるべきではないか、ということなのだ。私が若ければ、同じように指摘しただろう。何しろ彼は、彼の人生の大半を、私の戯言のために棒に振るのかもしれないのだから。
「――いいえ、大先生、そうではないんです、僕は転向を示唆したのではありません――」
彼は正しく私の思慮を読み取り、そして続けた。
「――もしかすると、新しい場ではないのかもしれないと思ったのです」
「なんだと?」
私は思わず問い返す。新しい場『では』無い?
「――ええ、僕の考えは、もしかすると既存の場のいずれかが、人の存在を意味しているかもしれないと――ただ、それを表す数式だけが足りないだけなのではないかと」
私は、彼の言う意味を考える。
そう、既存の知られた場――重力場、電磁場、ヒッグス場、エトセトラ――それらの中から魂を探すという努力をなぜしなかったのか、と。
なんという手落ちだっただろう。
私は最初から、それは新しい場でなければならないと決めつけていた。
私は高峰の頂や大海の底を総ざらいしながら、我が家の戸棚の引き出しさえ開けていなかったのだ――。
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それは、座標そのものだった。
つまり、運動量と角運動量だった。
全宇宙が『それ』に対する貸し借りを、していた。
人の命は、ただそこにあるという、それだけのことだった。
全宇宙が、宇宙開闢の時から貸しつけたままだったのだ。
だから実のところ、人の命が失われるときには、宇宙の終焉に向けて魂の借りを還す大行進が始まっていたのだ。
それが魂の形をとる時間がせいぜい八十年くらいに限られているだけで、もう一次元上から俯瞰すれば、すでに全宇宙に借り、全宇宙に還し終えていたのだ。
その数式は、まるで仏教の経典のように複雑で抽象的なのに、あらゆる命に対してたった一つのシンプルな回答を導くのだった。
これが魂だ。
いや、魂らしきもの。
いまさらながら再確認しておかねばならない。
魂など存在しない。
ただ、魂が存在すると信じられてきたその形の一つだ。
失われれば決して取り戻せない宇宙に対する貸し借り――それは、全宇宙に対する座標、あるいは運動量と角運動量の貸し借りだったのだ。
だが、そこで大きな問題が生じる。
つまり、全宇宙に対する貸し借りであること、それ自身が問題なのだ。
我々の数式は、何億光年というはるかかなたの宇宙に対しても潜在的に貸し借りをしていることこそが存在の証明なのだという。
数式上はこれを明確に表すことが出来る。
だが、最後にはこれを『認証システム』として工学的に実証しなければならない。
何億光年先のある値を観測すればそれは可能なのだが、『どうすれば何億光年先の宇宙の状態を知ることが出来るだろう』?
考えて見れば当然のことだった。我々はずっと身のまわりに見える部分だけを切り取ってずっと論じてきたのだから、それ――つまり魂のようなもの――が見えなかっただけなのだ。その神髄を解き明かしたとはいえ、見えぬことには変わりがないのだった。
それを知ることは、やはり不可能なのだろうか。
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それを見つけることに成功したのは、私の研究グループにさらに多くの弟子たちが増えてからだった。
様々なタイプの弟子たちの中に、宇宙弦の研究者がいた。
宇宙弦とは、世界線をさらに一歩進めた考え方だ。ありとあらゆる場と粒子をひとつの弦として考え――それは昔超弦理論として知られたアイデアの延長だ――、その弦の始点と終点を、閉じられた短い次元や交差するブレーンではなく、宇宙開闢と終焉の瞬間に置く、という実在論的なアプローチだ。
あらゆる粒子と場はその宇宙弦の振動として表され、振動の『節』に観測可能な粒子などが生じる。節と節の間隔はプランクエネルギーの整数倍の――いや、宇宙弦理論の詳細を記す必要はなかろう。その理論からの類推が重要だった。
つまり、振動状態は、『未来からも干渉を受けている』ということだ。境界条件が設定されているのは、宇宙開闢つまりT=0と、宇宙終焉、T=Teのたった二点だけであり、この二つの境界条件を設定すればその間の宇宙弦状態は一意に決定されるのだ。
我々の数式は、それを現実にする。
あるひとつの存在、それが持つ二つの境界条件。
はるか過去。
そして、はるか未来。
それは、その存在が過去から未来に向けて同一であることと同時に唯一であることを証明する。
それは仮に路傍の石ころであっても同じように唯一性を示すことが出来るであろう。
これこそが、決して複製できない――すなわち決して破られない――完全な認証の鍵なのである。
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我々は、この新しいシステムに、ただ『ID』と名づけた。
識別子(Identifier)の略字としてしばしば用いられる、IDの二文字。それ以上の意味を一切含ませなかった。
それは、これこそが宇宙人たちに対する最後の武器であり、それを知られてはならぬからだ。
対宇宙人で結束した新しい連合国家は、このシステムを国策としてあらゆる個人と法人に強制導入させ、あらゆる資産をそこに帰属させた。
古い電子通貨を使う宇宙人たちもまだ数多いが、いずれ、IDが席巻するだろう。なぜなら、古い電子通貨の『唯一性』を破る方法もとっくに見つけてあるからだ。そもそも我々の数式によればそれらは唯一でさえないのだから、非唯一性を数式的に顕現させることはたやすい。いずれそれは派手に舞台に踊りだし、一旦は宇宙国際貿易網を混乱させる。そのとき、混乱を免れるのは、IDを導入した地球といくつかの宇宙人たちの国だけだ。そのときは、もうまもなくに迫っている。
このIDによる圧倒的な支配構造がその本当の力を解放するのは、数年後かも知れないし千年後かもしれない。
だが、我々は、たとえ千年後であっても決して揺るがぬ帝国の礎をここに打ち立てたのである。
――千年後、このIDの力で戦う私の子らへ。
名もなき科学者より。