09 1947
「例の患者さん、搬送終わりました」
若い看護婦にそう言われ、上級管理者――医長はカルテから顔を上げ、ごくろうさんとだけ言って再びカルテの文字を追い始めた。
「どうかなさいました?」
「うん?」
「いえ、そんなふうに熱心にご覧になっているので……」
医長は大口ではははと笑い、「私はいつでも熱心だよ。こんなご時世だが、患者第一がこの病院のモットーだからねえ」
扇風機が大きな音を立てて診察室を一巡した。窓の外からは蝉の声がやかましく、何か生命力のようなものが熱気に混じっているように聞こえる。
医長は緩い笑みを残したままカルテの文面を見返した。さきごろ開放病棟の食堂で暴力騒ぎを起こしたTの症状は芳しくない。言動は比較的安定しているものの、自傷行為による外傷がかなり大きく、また再発の恐れがあるため、現在はベッドに拘束することをやむなしとしている。
「でも、この仕事をしていてこんなことを言うのも何ですけど……とても興味深いお話でしたわね」
「そうだなあ」
「その、ぶいあーる……何だったかしら」
「VR……バーチュアルリアリティと言っていたね、彼は。たしかに興味深いねえ。五感の全てを、こう……夢の世界に没入させると。しかもその夢を、機械で接続している全ての人間と共有できるとは、いやはや……」
「未来の技術ですわね」
若い看護婦は品のいい笑いを漏らした。医長もそれにつられそうになったが、患者と医師という立場を考えて笑いものにすることは控えた。
「そうだなあ。私もこの仕事について長いのだがね、彼のように具体性に満ちて、矛盾もなく、ある種の未来予知めいた『妄想』を聞かされたのは初めてだよ。恥ずかしながら、活劇を聞くように耳を傾けてしまった」
自ら言うとおり、精神科の医師としては斯界に名の知れている医長は、精神疾患を抱える患者たちの共同住宅――否、大病院で多くのケースを診てきている大ベテランである。
支離滅裂な妄想妄言には慣れっこになっているものの、理路整然とした架空の出来事を語られるというのはそう多くはない。
Tのように、2047年という年暦まで指定した、あたかも自分の目で見てきたかのような語りというのは――精神科医という立場でなければ、あるいは予知能力者として仰ぎ見ていたかもしれない。
VR技術というのも興味深いが、AR……オーグメンテッドリアリティという言葉も引きつけられるものがあった。Tがいったいどんな風景を視ているのか、正直なところはっきりとはイメージできなかったが――いうなれば幻覚をコントロールして己の役に立つよう恣意的に使っているようなものだろう。
それは精神疾患の患者たちにとって、新しい福音をもたらすかもしれない。
だが……。
「……ところで君、誰か親類を亡くしたと言っていたな?」
「私ですか?」唐突な問いかけに看護婦は少しうろたえ、「ええ……と言っても顔を合わせたのは二度ほどで。いとこの結婚相手ですけれど」
「外地でかね」
「はい。南洋で……お骨も戻ってこなかったそうです」
そうか、と医長はため息をついた。同時に、Tや他の入院患者たちの顔を思い浮かべた。
「まあ、そういう時代を経て、見たくもないものを見せられれば、人間どこかおかしくなっても不思議じゃあないさ。彼も……」とカルテを見なおして、「何かが壊れてしまったのかもしれないなあ」
扇風機が何度か首を振って、看護婦は一礼して仕事に戻っていった。
医長は机の奥側においてあるセピア色の写真に映る妻と娘の生前の姿を見て、分厚い眼鏡を外して顔を手のひらで撫ぜた。
Tは……食堂で本人言うところの『悪鬼』と戦うため、自らの体に『補助電脳埋設器』を何本も打ち込んだ。
それは食卓に置かれた箸であったのだが、本人の弁によれば周りの皆を護るための行為だったという。
T曰く『電念波』なる念仏めいたものの力を高めるため、彼は箸を傷痕生々しい左の手の甲へ突き刺し、効果が薄いと見て二の腕に、腿に、終いには左の眼球に突っ込んだ。
『喧嘩』の相手であったS……Tの弁に従えば『悪鬼』に取り憑かれた別の患者は、因果関係はともかく気を失い、Tも同じくして失神し、手術やら後片付けやらで大わらわになり、ようやっと一息ついていたところだったのだ。
仮想現実。拡張現実。
どちらでも構わないが、もし死んだ妻と娘に会えるのならば、それは素晴らしい技術なのだろうと医長は思った。
「まあ、あと百年待つのなら、私の方から行ったほうが早いなあ」
自重するようにそう言って、壁にかかった日めくりを見た。
昭和22年7月某日。西暦1947年夏の出来事であった。