08 レジェンダリー
少し記憶が曖昧になった。
昨晩、あれやこれやと話しすぎて興奮気味で、疲れているのに眠れない私に婦人管理者が睡眠剤を出してくれたのだが、おそらくそれが後に引いているのだろう。
どんよりとした生欠伸をして共同住宅内の食堂に行くと、Sの姿があった。
私は……彼に何か挨拶をしなければならないと思った。思ったのだが……妙な……頭のなかが妙な感じだった。
そうだ、補助電脳だ。
何かおかしいと思ったら、これまで当たり前のように見えていた緑色の光格子が視界に表示されず、単に肉眼の情報しか入ってこない。
不安になって私はこめかみを叩いた。
自力で消せなくなるのも厄介だが、自力で点けられないのもひどく心細い。アレが、AR情報がなければ私は覚束ないのだ。物事を上手く理解できず、AR光背の表示も、もう不可欠になっていて……。
これでは誰が無関係者で、誰がゲーム参加者かまったくわからないではないか。
どうしたンだTさん、とSは怪訝そうに言った。前歯の一本が欠けた笑顔。
私は落ち着かない気分になった。補助電脳が作動しない。『インソムニア』が起動しているのかどうかもわからない。彼が……彼が本当にSかもわからない。
赤黒い亡者の変装ではないのか?
馬鹿馬鹿しい、といつもの私なら切り捨てていただろう。
だが今の私は……少し……そう、少しどうかしているのだ。ゲームのやり過ぎで疲れている。あの発狂した男も、きっとそうだったに違いない。現実と仮想現実、現実と拡張現実。肉の体を超えた知覚という意味では、結局のところ同じなのかもしれない。
私は何とか落ち着きを取り戻し、Sにこれまでの出来事を簡単に話した。
面白かったが私にはシゲキが強すぎるようだ、と言い、私は『インソムニア』をやめることを宣言していた。そんなことを言うつもりはなかったのだが、話している内にそんな結論に達していた。
だから『インソムニア』の記録を補助電脳から削除して、退会するのはどうしたらいいのかをSに尋ねた。
しかしSは亡者の手先であった。
私の腕を掴み、生臭い息を吐きかけて、オマエは逃げられないのだ――と唸り声を上げた。
すごい力だった。押しのけようとしても離れない。赤黒い、膿のような怨念が私の腕にも這い上がってきた。
脳髄から逃げられるはずがないのだ。Sはそう言って私に強力な電念波を送り込んできた。
信じられない。まだゲームと繋がっているなどと?
いつしか私の視界には橙色と緑色の入り混じった奇怪な光格子が入り込み、物理現象を覆い、AR光背が周囲の人々の頭上に浮かんだ。
Sの頭……Sだったはずの男の頭にもだ。
私は全力で攻性の電念波を叩き込み、亡者に包まれたSの体を吹き飛ばした。
食堂の卓と椅子が倒れ、悲鳴と、食事がひっくり返って皿の割れる音がした。
『亡者の正体はAR技術開発史の裏面に埋もれた科学の暗部である』。
いきなり私の視界に強化文字列が走り、膨大な情報が脳髄に入ってきた。
……全感覚没入型仮想現実の危険性は人間を廃人化させ、労働力不足、生殖行動の抑制、人口減少、社会的生活との断絶に繋がると警鐘を鳴らされ、結局は医療機関などで限定的に使用されるにとどまったわけだが、実際には仮想現実内に『何か』を知覚してしまう人々が一定数存在することが明らかになったゆえにそれ以上の発展を許されなかったという事実がある。これは公開されなかった。おそらく公文書秘匿の期間が終わる半世紀後までは一般人には誰も触れられない情報であろう。『何か』とは神である。あるいは上位知性体と呼び名を変えても良い。我々は全感覚没入による全く新しい知覚を得ることで、人類の叡智を超えた超越者との接触に成功したのである。ただしそれは誰にも予想がつかなかったことであり、真実を知るごく一部の電脳医学会並びに国家主席によって徹底的に隠匿された。なぜなら神は仮想の海から現実へと権能を示す手段を手に入れてしまったからで、これはすなわち没入者の脳内に情報体として顕現し、それら断片を人類に共有させることによって人類という種そのものに乗っ取ってしまうという預言がなされたからである。皮肉にも神自身からの言葉で。ゆえに、VRMMOは一瞬爆発的に普及しかけ、すぐに全サービスに制限を掛けられ、あっというまに廃れた。なぜなら、仮想現実に脳を同時接続する人数が多ければ多いほど『神の断片』は増え、神の僕となり、加速度的に地球人類を支配してしまうからで、その同時接続を最大化する環境こそがVRMMOだったからである……。
だからそれに取って代わるようにAR技術が進歩し、ARMMOという外に開かれた遊びが取って代わったのだ。
しかし、これはどうだ。
私は網膜に焼付けを起こす情報から意識を戻し、目の前で唸り声を上げる赤黒い亡者から距離をとった。
仮想現実は知覚の果てに神を見る。
拡張現実は現実の裏の魔を見せる。
触れてはいけない技術だったのだ。
Sだった何かは、毒ガスを吐き出してむくむくと巨大化していく。邪悪極まりない電念波を無差別に放ち、食堂は悲鳴に満ち、あるいは失神する者も現れた。
私もできるならば悲鳴を上げて逃げ出したかったが――あいにく退路と呼べるものはなく、目の前には赤黒い悪鬼が立ちふさがっている。
悪態をつき私はこめかみを叩いた。
こちらも電念波で対抗しなければいけないのに、AR情報が安定しない。緑と橙が小刻みに入れ替わって、電思念が作れないのだ。
焦り。怒り。私は気が触れたように両のこめかみを拳で殴りつけ、何とか『インソムニア』を起動させようとした。
はっと気づいた。
昨日、管理者が私の手のひらを処置した時に、補助電脳のインプラントを抜き取るか、もしくは機能に制限をかけたのだ。
なぜかそれが間違いないことだと確信した。今の視界に残っているAR情報は、脳髄に定着した補助電脳の残滓が見せているに過ぎないのだと。
それでは悪鬼に対抗するに足る電念波は生み出せない。
私は胃がキリキリと痛むのを感じながら、足元に転がっている植物素材の筒を見つけた。
奇跡としか言いようがない。
筒の中には何本かの細長い簡易埋設器が入っていた。
埋込式補助電脳は体内に取り入れることで脳髄に作用するが、代謝され永続的には使えないものが多い。反面、ちょっとした注射投薬程度の手軽さで数日使用分の補助電脳を体に入れることもできる。
私はすぐに埋設器を拾い、ためらうことなく己の体に突き刺した。
私は愚図ではあるが――臆病者だと思われるのは嫌だ。
埋設器から、インプラントがすぐに体の中に駆け巡り、私の視界にはくっきりとした橙色の光格子が現実の風景を補助した。
そして、私の脳髄からかつて無いほど強力な攻性の電念波が放たれ……。