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05 マスター

 電念波は『インソムニア』内で参加者間のやりとりを行う手段である。


 本来の日常空間にAR情報を重ね着させることで、現実そのものをゲーム世界に変貌させるのがARMMOの主幹部分なのだが、参加者以外にはその事実をうかがい知ることはできない。


 補助電脳を持つ人間であれば、AR光背にゲーム中であることを示す標識が見えるはずだ。しかしそうでない場合、つまり全くの肉眼で見た場合には、単に通行しているのか敵参加者を見つけるべく血眼になっているのかの区別がつかないということになる。


 そんなところで参加者の『戦闘』が行われればどうなるか?


 己の手足を使って掴み合いにでもなれば、それは単なる往来の喧嘩である。法を乱せば警察沙汰になるだけだ。


 そこで電念波である。


 会話、交渉、ゲーム内装備の譲渡などの穏当なやりとりも、警告や威嚇、そして戦闘判定そのものも、電念波を介して行われる。


 逆に言うと、電念波以外の方法で参加者と接することは規約上制限されているわけだが――そこで生じる種々の揉め事が自己責任において解決される場合はその限りではない。黙認状態というものであろう。


 私はというと、ゲーム外での出逢いや会話を特に求めていることでもなく、只々新しい刺激、新しい世界を求めてのことであるのでそういったことには頓着していない。


 電念波は一言で言うなら無線通信の拡張版である。


 AR表示と補助電脳によって、脳髄の中に発生した伝達項目やゲーム内の売買交渉、あるいは攻撃の電思念をぶつけるのがその役割であり、武器にも防具にもなる。


 その日も私は『インソムニア』に参加し、現実に重なる形で描写されるゲーム構造とに歩きながら同調していた。


 行き交う下層民たち、煙るように降る雨の臭い。その向こうに見え隠れする美しい街並みは遥か遠く、公共交通をつかうことにも難渋する私のような人間には手の届くものではない。


 汚水の流れる側溝の蓋を乗り越える私は第三者の目にはうらぶれた食い詰め者に見えるかもしれないが、私からはこの薄汚れた世界が精緻を極めた幾何学の要塞のように見える。彼らとは、私達ゲーム参加者以外とは、文字通り見ている世界が違うのだ。


 遠隔攻撃型電思念を長銃のごとく腰だめに構えた私は、そう、AR技術に鎧われた遠未来の宇宙歩兵のようである。


 と、補助電脳が肌を掻くような刺激を以って警告を発した。


 私ははっとなって振り返り、無関係者を示す光格子をまとった群衆の奥に橙色の光格子を煌々と輝かせる敵参加者の姿を確認した。


 するやいなや、敵は自らの電思念から稲妻のごとき電念波を放ってきた。


 強力である。


 補助電脳の計測では、今の私の装備では2発と耐えられないらしい。


 生憎と防御手段は少なく、私は肉の足で走って避けることを優先した。


 下層民たちの群れが邪魔だ。


 無関係者の、緑か青の、あの光格子に包まれた、彼らの……。


 私は頭の中が白むほどに興奮し、猥雑だが一応の平和が保たれている下層民地区の路上を駆け抜け、敵に電念波を撃ち返した。


 私はその時大声で笑っていたかもしれない。


     *


 畜生、Sめ。


 こんなことならもっと早く言ってくれればよかったのに。


 オバケか? オバケ? 馬鹿ばかしい!


 電脳が生み出す拡張情報にすぎない。ナンセンスだ。


 だが、何なんだ、あれは。


 あの……けだもの……兵器……地獄の亡者……? いや、姿形はどうでもいい。


 拡張情報、現実に付け足された自分だけにしか見えない世界。


 そんな生易しいものではない。


 あれでは――あんなものが現れるなら――このゲーム、人死が出るぞ。


     *


 その日、私は炎天下の往来に立ちすくみ、反吐が出るような暑さと、熱された地面から立ち昇る陽炎と、その向こうに見え隠れする赤黒い光格子の姿と、何処かから漂う汚臭と、そのほかの様々な複合的情報の波に足を釘付けにされ、動けなくなっていた。


 通りがかりの無関係者が気味の悪いものでも見るように私の顔を無遠慮にじろじろと眺めていくのも不快だった。


 脇の下から流れる汗がシャツにシミを広げ、ただでさえ冴えない私の風体は余計に情けないものになっていたし――脂に覆われた顔には無精髭が生え、眼窩も落ち窪み、とにかくひどいものになっていたのだから已むを得ないとこととは思うが、それでもいい気分ではない。


 その日――とは言うものの、実はその日がいつなのかはっきりと認識できていない。


 何しろ私は丸二日以上まともに眠っていないし、住処である施設にも帰れず、下層民地区をあてどもなくさまよっていたからだ。


 補助電脳で地図を呼び出し、網膜の裏側に現在地を表示させようとしても、うまく情報に直結できなくて、場所についても曖昧である。


 下層民地区は取り壊しと整地と新しい建物の建設が怒涛のように行われている。猥雑さを『清潔で文化的』な風景で押しつぶしているかのようだ。下層民はそのせいで追い散らされるように……いや、それはどうでもよい。


 ともかく、そうした建設ラッシュによってすぐに地図が書き換わってしまうという現実があるので、イタチごっこでまともな地図を引けないということはあるだろう。


 だが、視聴覚からの入力を分解して得られるはずの地形情報までもが緑色の砂嵐になっているのはただごとではない。


『インソムニア』のゲーム上で例の……化け物……に電念波を浴びせられ、補助電脳の機能障害を引き起こされたことは確かである。


 しかしそれはあくまでゲーム上のことだ。


 橙色の光格子が描き出す『遊び』の世界の機能が、何らかの敵対的抑圧的電思念によって妨害されることは競技規約に則った通常の処理の範囲である。相手は見たこともない電子の怪物ではあっても同じことだと認識していた。


 ところが、どうだ。


 今は『インソムニア』を起動していない。拡張情報で示される光格子は緑色――つまりゲームとは関係ない一般的な補助電脳の処理が重ねられているのみである。


 にも関わらず、拡張情報の一部は障害を起こしたままで、補助電脳の呼び出しや切り替えも度々躓いている始末だ。


 ありえない。


 そう思い、私はこめかみを指先で小突き、ゲームの運営者や補助電脳の製造元に問い合わせてみた。


 だめだった。無線通信も電話も、電信さえも言うことに従ってくれない。


 だから私は呆然として、何をどうすればいいのか分からず埃っぽい下層民地区の往来に立ちすくんでいたのだ。


 補助電脳の利便性に飛びついてしまった私は、あっという間にそれなしには行動がままならず、肉眼で近くの風景を見ても現実感が乏しいという逆転現象が起こっていた。


 これでは全感覚没入型仮想現実――VRにつきものの現実と非現実の境界線が曖昧になる、あの胡蝶の夢のごとき現象と変わらないではないか。


 そんなことを考えていると、胃腸が間抜けなほど音を立て、肉体のほうが私に限界であることを告げてきた。


 そうだった、まともに睡眠をとれていないだけでなく、水以外ほとんど口にしていないのだ。仮想的なエネルギーでは腹は膨れない。


 左の手の平が痒い。



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