04 アプレンティス
輪郭を鮮明にする緑の描線は、すれ違う通行人が競技に無関係であることを示している。
それでも私は人混みに隠れるように歩き、彼らの怪訝そうな表情を浴びながら目的地へと向かっていた。
少し苛々している。
ARMMOに無関係な余人にしてみれば、私はある種の不審者に見られても仕方あるまい。だからといって、何か得体のしれないものを敬遠するかの如き目を向けるのは些か不躾ではあるまいか。
私が競技に参加していることは、『インソムニア』に接続していなくともわかるはずなのだ。埋込式補助電脳を使っていれば、私が彼らを見るように彼らも私の頭上に社会情報の表示が見えているのだから。
だが、それはどうでもいい――比較的どうでもいいことだ。
いまは敵からの先制攻撃が恐ろしい。
上級装備の中には、自分が参加者であることを秘匿できるAR的外套があると聞き及んでいるからだ。
どうも私は臆病であると同時に、酷く負けず嫌いなようだ。初参加の競技であっさり首を獲られてしまうのは、後に長く引きずる屈辱となる――そんな気分だった。
ああ、それにしてもこの左手だ。
脈打つたびに鈍痛が先程よりも強くなっている気がする。いっそガーゼも包帯も引き剥がして、思い切りかきむしりたい衝動に駆られる。
針を打ち込んで、その後……麻酔が掛けられていたから、少し……思い出せないが、縫合され、抗生物質を投与された覚えはある。
藪医者、藪医者め。
群衆をかき分けながら舌打ちをし、結局一般人に偽装した競技者は現れず、目の前の雑踏の向こう側に幻視のように将旗の輪郭が橙色に明滅している。
私は内心欣喜雀躍した。
周りには敵を指し示す警戒駒の動きはなく、誰かが待ち伏せしている様子はない。
将旗をいきなり支配すれば、敵の現在地は露見するし、自分自身も昇級の好機が訪れる。
逃がすものか、と私は少々下卑た笑みを浮かべ、将旗の元へ駆け出した。
いっとき、左手の痛みは忘れられた。
*
「君はいったいどこに行っていたのかね?」
初老の上級管理者の、含みのある声がした。冷めたようでもあり親身になっているようでもある。
ぐったりとソファに体を預けていた私は疲労が頂点に達しており、うまく答えることができなかった。この……共同住宅……に戻ってきてもまだ呼吸が落ち着かない。
いまは何かと物騒な世の中である。
彼のような管理者に生活の様々を面倒見てもらうことはありがたいことだ――そう思っていても、どこに行き何をしてもそれは私の自由のはずであろう。
小さく咳払いをし、危険を承知で下層民地区へと足を運びました――と正直なところを話した。
管理者はあからさまに渋い表情となった。AR光背にも、私に対する失望と施設内の保安強化の必要性が強く表示されている。
「そうしたことは慎み給え。今後もし同じことを繰り返すように慣れば、私としても――」
そこから先の台詞は耳に入らなかった。部屋を変えなければいけないとか、そういうことを言っていたように思う。
とにかく私は疲れていて――そう、あのゲーム。『インソムニア』。あのゲームはやはり面白い。迫り来る敵参加者の動きを察知し、電念波の攻防と支配区域の拡大。そして共闘――私はすっかり虜となり、私は、私は……ええと、埋込み式補助電脳の警告に従わず推奨参加時間を大幅に超過し、結果、下層民地区の路上に失神しているところを巡回警吏に見つかったらしい……。
どうも記憶が曖昧だ。
ともかく、気づいたら私は住まいに戻っており、管理者からのお叱りを受けたというザマである。
眼球の奥に泥が詰まったような疲労感にぐったりとし、脂にまみれた顔をなでると、無精髭のザラザラとした感触がした。
左手の傷は、まだ少し熱を持っていた。
*
Tさんも始めたのか、と突然大声で話しかけられ、私は廊下の只中で足を滑らせそうになった。
振り返ると、同じ施設入居者のひとりであり、私に『インソムニア』の存在を教えてくれた男性――Sとしておこう――が立っていた。
どうだいあれ面白いだろう、と早口に尋ねるSの姿は、いつものごとく酷くだらしがない。服装に頓着しないという点においては私も他人のことをどうこう言える立場ではないが、彼はよれたしわくちゃの服でも気にせず何日も着続けるという、単純に不潔な外見なのだ。
私は正直なところSのことが好きではないのだが、彼は妙に電脳関連の知識に明るい。ARMMOの基本的な概念や、埋込式補助電脳の安価な手術法については彼を通して知った。そういった経緯で、無碍にはできない。
それに、『インソムニア』の面白さの前では私の個人的な好悪などさしたる意味は無いように感じた。
自分がどのようにゲームに参加し、一日でどれだけの成果を上げあるいは失敗をしたか――私は興奮気味にSに話した。とにかくあれは、AR技術による現実のゲーム化は、他のどんな遊びよりも知的で先進的で、鼻先で現在が未来へつながっているかの如き刺激を与えてくれると。
ひとしきり話し終え、私は少々熱弁を振るいすぎたと焦りを覚えた。まるで分別のない子供のような振る舞いだったのではないだろうか。
気恥ずかしさとともにSの意見を乞う私だったが、しかし彼の顔は妙に生気がなく、湿り気を含んだ綿埃のように鈍った表情となっていた。
長話がSの気を損ねたかと思い、私は彼に軽く謝意を示した。
それはどうでもいい――とSは悪臭のするため息を抜けた前歯の間から吹き出し、どろりと体から力を抜いた。
私は困惑した。
Sは私の知る限り『インソムニア』に最も知悉した人物であり、もっと詳しい話を聞けるかと期待していた。Sの方からも、そういう意図で私に話しかけてきたものとばかり思っていたのだが……。
気をつけた方がいい、とSは鰯の死魚の如き半眼で私に言った。
それはどういう意味かと尋ねると、Sは私の目を見ながら、私の目ではないものを見ていた。彼に埋設された補助電脳が、私のAR光背の情報を読み取っているのだろうか。
――Tさん、あンたいい成績だな。始めたばっかりにしちゃあ上出来よ。でも、本当に気をつけておくンなよ? あのゲエム、どうもウラがあるらしいンだ。
裏?
裏とはどういう意味だろうか。
Sの表情は筋肉の支えをすべて失ったように胡乱なものであり、言わんとすることが読み取れない。
私はますます困惑した。
――出るンだよ。
Sは問い詰めた私に気だるく答えた。
――あのゲエム、敵は同じ参加者だけじゃないらしいんだ。
それだけを言い残し、Sはやにわに立ち上がって何の挨拶もせず自室へと去っていった。その足取りは夢遊病者のように覚束ないもので、出会い頭の気勢はまるで感じられなかった。
出る?
わけのわからぬまま、Sの言葉を口の中で繰り返した。あれではまるでオバケでも出るとでも言いたげではないか。
バカバカしいと思いつつ、私はこめかみを指で小突き、視界に様々な注釈を加える補助電脳を切った。
が、光の格子が去って行かない。焼付けでも起こしたかのようだ。
最新の補助電脳である。そのような不具合を起こすというのは考えられない。私は何かの間違いと思い角度や強さを変えて幾度かこめかみを触り直し、ややあってようやく本来の肉眼の視界が戻ってきた。
いったいどうしたというのか。私は何やら釈然としない物を感じた。今までにない刺激に喜びを感じていたはずなのに、妙なケチが付いたような気分だった。
だが、ARMMO『インソムニア』は私の今の倦んだ生活を一変させるものであることに確証を持つには十分な時間を過ごせた。
それだけは真実だ――私は無意識に左手を抑えながら、自室へと戻った。