03 ノービス
さて、ARMMOについてである。
先にも述べたが、拡張現実は個人の社会情報を読み取ったり、己が見ている景色に様々な補助的情報が表示される。つまりは本来の肉眼、あるいは他の五感では観ずることのできぬモノが見えるようになる。
いま私は汚穢に満ちた下層民地区を歩いているのだが、煙っぽい小道の隅に転がる汚物を不適切なものとして視覚から覆い隠し、あるいは大通りの道端でしゃがみこむ哀れな乞食どもから離れて歩くよう警告を出したりしてくれる。
警告にかかわらず私は彼らに近づき、その頭上に浮かぶ情報を見た。下層民たちは社会情報の開示設定が緩く、出生地から本名、経歴から何から何まで丸見えだった。その所持金もだ。
私とて公金で生かされている身であるが、それでも彼らにくらべれば余程人間らしい生活をしている。
哀れみから、私は視界の中に現在の貯金額を表示させ、その中から幾ばくかの数字を彼らの仮想的財布にねじ込んでやった。
これで何か食事でもしなさい、と私が言うと、乞食は不思議そうな顔で私を見て、わけがわからぬといった風に首を傾げた。
このような善行を為すものは昨今奇特だ。私は乞食に別れを告げ、その場を立ち去った。
《ゲームを開始してよろしいでしょうか?》
例の心地いい囁きが聞こえてきた。
私は仮想的に開封されたゲーム盤をそのままにしていたことを思い出し、あわててお願いしますと道すがら声を上げた。
通りすがる下層民たちが、何事かと私の顔を盗み見て、すぐに目をそらすのがわかった。私は思わず赤面した――ARを表示させているもの特有の悪い癖を早速やらかしてしまったようだ。
つまり、自分にしか聞こえない強化音声に対して肉声で返事をし、周囲に気のおかしい人間として見られるという、例の失敗だ。
自戒の念を胸にしまいつつ、私はARMMO『インソムニア』を起動させた。
ぱちぱちと頭のなかに通電するような感覚があり、それが過ぎると景色は一変していた。
緑色の表示はくっきりとした橙色に変わり、記されている圧縮文字も字体や文体に変化が起こった。先鋭的な非日常感が溢れ、童心に帰る思いがした。
それ以上に変化したのは、本来の肉眼に映る光景である。
薄汚い下層民地区は、等高線と方眼線の組み合わせのような光格子が引かれ、奇妙な言い回しだが現実が仮想現実化したような見え方をし、様々な情報がこれまでのARとは違う、競技性の高いものとして浮かんでいた。
例えば、道行く人々の頭上には『通行人』『一般人』などの表示が光背のように現れ、この『ゲーム』には参加していない無関係の人物であることを示している。
彼らは本当にただの通りすがりなので、接触を図ろうとしたり無意味に暴力を振るうことは違反行為となる。
それは当たり前のことで、ゲーム中であろうがなかろうが彼らは生身の人間であり、暴力などふるえばゲームの規約以前に法の裁きを受けねばなるまい。
だから、まずはこの現実とゲームの情報の二重奏の中から『対戦相手』を見つけねばならない。
つまりゲームに参加している別のAR者のことである。
彼らと勝負をすることで、得点を稼ぐ。それが『インソムニア』の基本的な遊び方である。他にも、現実のどこかに隠されているAR金庫を見つけてゲームを有利に進める武器や道具を手に入れたり、敵の位置を捕捉することもできる。
そうしていく内に、一定の得点を貯めたものにだけ開示される秘密を教えられ、ゲームは次の段階に進むというのだが――始めたばかりの私にはまず得点を稼ぐこと、それ以前の対戦相手を見つけることからだ。
*
下層民地区は、管理者たちが忠告していたように空気が悪い。治安もだ。
半病人のごとき暮らしを続けてきた私にとって、そのような場所を歩きまわることは思ったよりも疲労につながった。
私はいつしか汗ばみ、空いた場所を探して小休止をしていた。
疲れてはいたが、しかし決して悪いものではない。そう思った。
ARMMOは外界との接触を前提にしており、VR接続のいわゆる暗い室内に無気力に横たわる不健康さとは逆転している。
歩きまわることを助勢するという意味で、ARMMOを健康器具に見立てる学者もいるくらいだ。
いつの時代もそうだが、富裕層は時代を謳歌しても下層民は苦役を強いられる。恥ずかしながら私もそのひとりであり、つまらぬ社会の有り様を見るくらいならいっそ閉じこもっていたほうがましだ――という感覚はよく分かる。
反面、人間は動かずじっとしていれば腐る一方で、そういう矛盾が苦しみの種でもあるのだ。
だから私は内にこもるか、外で苛々とするかのふたつに板挟みされ、ARと、ARMMOの力を借りて楽しみながら外出することができたというわけである。
こめかみをとんとんと小突き空を見上げた。
どこかの工場から立ち上る煤煙が薄衣のようにたなびく中、AR情報が挿入される。
面白い景色が見えた。空に大きな電子的標識が重なり、まるで鮮やかな花火がはじけたかのようだ。真っ昼間だというのに陽光に紛れることもないのは、その標識が実体を伴う光学現象ではなく、体内に埋め込まれた補助電脳が脳髄に直接明暗を伝えてくるからだ。
その空の標識には大小の矢印と、距離を示す高密度情報が記されていた。
距離というのは、一つには『インソムニア』に接続している参加者、つまり敵の存在を示すおおよその位置を把握するためのものである。
私はつい先程ゲームに参加したばかりで、かなり曖昧にしか敵位置を特定できない。強化装備や、敵から奪った得点での昇級によりそれはより正確になっていく。が、それはまだ先の話だ。
もう一つ、『将旗』とよばれる特別な地点がある。これは、敵陣の中の旗を奪うがごとく、己の支配地域を持つことができるようになる。
その際、自分以外の敵は勝敗判定に枷がはめられ、有利にことを運ぶことができるというわけだ。
当然敵もそれを狙ってくるわけで、いかにして相手の裏をかき将旗を奪取するかがこの電脳競技の醍醐味となる。
汗が引き、空き地の資材置き場から腰を上げ、私は一番近い将旗へと向かった。
左手の手術跡が痛痒いのが気に入らない。