02 イニシエイション
左手が痛痒いのは、先日の埋め込み手術のせいだ。
薮医者め、と悪態をつき、道端につばを吐いた。
埋め込み手術に関しては、さほど時間も要さないと聞いていた。麻酔を掛ける必要もないと。
説明を受けた際にはそう言っていたはずだし、実際のところ標準的な埋め込みであれば太めの注射を射つ程度だと物の本にも書いてあった。
ところが左手の甲には今も鈍い疼痛が残り、大仰なガーゼと包帯まで巻かれている。こんな荒っぽい処置で金を取るのか、それでも医者か、と怒鳴りつけたものの、そういう……なんといったか、おそらくそういう契約だとか何とか言われたのだろう、私はなだめすかされ、釈然としないまま帰されたのである。
そういう出だしの悪さはあったものの、それでも私の胸は踊っていた。
埋込式電脳はごく小さな錠剤のような電脳素子を体内に埋没させるか、もしくは入れ墨のように皮膚表面に薄く刻み入れるかの大きくふたつに分けられる。
使用感については入れ墨方式の方が利便性が高い。たとえば、模様の中に映像を映し出す機能であるとか、接触式のボタンになるような外部の物理的操作を可能にする機能であるとか、そういうことである。
しかし私は完全埋没方式を選択した。
理由は簡単で、華美な装いの一部として入れ墨方式を選ぶには気が引ける年齢や外見であったし、余人に見せびらかすことの気恥ずかしさもあった。
それに、せっかく脳髄の思考一つで操作できる電脳なのに、物理的な操作をすることは野暮というものであろう。
*
いまの私の視界には、埋込式電脳の補助によるAR――拡張現実表示が緑色の文字、あるいは図像として差し挟まれている。
中々に素晴らしい風景だ。
ARを開始して30分ほどは、これまでの人生においてはありえぬほどの情報の折り重なりに強いめまいを覚えたものの、次第に慣れていった。度の強い眼鏡をかけたことと同じようなものだろう。
眼鏡で視力を矯正すれば胡乱な景色が鮮明になるように、ARによる情報の多層化によって私の世界はこれまでにない美しさと秘密に満ち溢れて見えた。
早速私は補助電脳の機能を試した。
他人の顔を認識すれば、その人物の社会的情報――もちろん公開の度合いは本人に委ねられているが――が開示され、年齢や出身地、病歴や職業などをその頭上に見ることができる。眩しくは感じないAR光背が差して、そのなかに文字や、文字よりも速く読める圧縮記号が記されている――といった風だ。
建築物や公共機関なども同様に視点を合わせると多層的な情報が開示される。少々大げさな物言いになってしまうが、私は補助電脳によってこの世に隠された真実を垣間見るような感覚になり、しばし酔いしれた。
これらの情報は私の体内にある補助電脳が私の視野に差し挟まれているものであり、他人にはこれは見えていない。奇妙な優越感さえあった。
空中を飛び交う電波が私と私以外のものを、生来備わった五感を超えた感覚でつなでいることを思うと実に不可思議である。
つまらぬ読書や体操に終始するだけの鬱屈した毎日から抜け出すきっかけになったのもARの助けあってのことだ。
私の暮らしている……なんというか、共同住宅……は、数年前の事故の後遺症を引きずる私のような社会復帰に難のある人間を援助する機関が運営しており、主に安全面の問題により管理者に一声掛けなければ自由に出歩くこともできないのだ。
理不尽な話である。
しかし昨今の不穏な社会情勢や、瘴気紛々たる外界の、とくに下層民の住まう地区に私のような体に不自由する人間が出向くことは確かに危険も多い。その点、管理者の仕事はむしろ私や私の共同生活者への配慮であると考えるべきなのであろう。
しかしながら、いつもいつも同じ眺めを見続けるというのは、やはり詰まらぬものだ。
管理者の配慮を無碍にするつもりはなかったが、くたびれた生活を送る私の倦んだ思考は外へ出ろ、そうすれば変わる、とささやいていた。
複雑な構造で、簡単に自由を与えられない共同住宅から外出する道は補助電脳とそれが生み出すARが教えてくれた。
普段はどうもぼんやりとしか記憶できない妙ちきりんな造りの廊下も、どう通ればいいのか視界の中に線が引かれて導いてくれたし、建物の構造も全て手に取るようにわかった。管理者たちの目を盗む――と言うと少々後ろめたいが――方法も、彼らの動きも事前に察知できた。視覚も聴覚も私の味方だ。
AR音声は小鳥の囁きのような心地の良い声だった。幼い子供のようでもあり、うら若き乙女のようにも聞こえた。
それは私のこれまでの生活にはない、瑞々しい活力を与えてくれるようだった。
そうして外に出た私は、こそこそとした情けない姿ではあったが住宅を離れ、ようやっとのびのびと外の空気を満喫していた。
外の空気と、それをさらに美しく彩る強化現実の紋様によって。




