信じられない人
時は明治の終わり。
我が家は名のある商家で、母はもう亡くなってしまったものの優しい父と穏やかな姉、大勢の屋敷に使える人に囲まれ、私は何不自由なく育った。
身の回りの世話をしてくれる人はたくさんいたけれど、その中でも優弥は格別な存在だった。
「アキ様、お座りください。ほら、ハル様を見習って」
二つ年上の彼は小さい頃から私たち姉妹のそばに居た。
彼とハル姉様は同い年で、私はたまにその輪に入れないこともあったが、私が「優弥はアキのこと嫌いなの?」と恥じらいもなく泣きながら拗ねれば、彼は「好きですよ、アキ様のこと大切です」と笑ってくれた。
彼はうちに代々仕える家の跡取り息子で、父からの信頼も厚く、そのままずっと私たち姉妹の遊び相手兼世話係としてそばに居続けた。
彼がそばに居続けた長い間。
私は時間をかけて彼に恋をした。
優弥の黒い瞳で覗かれると胸が大きく動いた。
彼が私に触れる度、顔が熱くなった。
私は、彼が「アキ様」と私を呼ぶ度、彼を好きになった。
ーーけれど。
私は気づいてしまったのだ。
彼が、ハル姉様を好きなこと。
例えば、彼は私と姉が転べば姉に真っ先に駆け寄り、手を伸ばした。
姉様の穏やかな雰囲気とその美貌。
姉様に美しい彼が手を差し伸べてる図はさながらお姫様と騎士のようだった。
私はそれを見る度敗北を感じた。
そして、決定的だったのは、一昨年の冬のこと。
十五の私は姉様と共に誘拐された。
猿轡をされ、手足を縛られ、暗くて寒い中に放り出されたのは本当に恐怖だった。
気弱で体の弱い姉様はもちろん怯えていたが、私だって震えが止まらなかったのに。
なのに、彼は私には目もくれず姉へと真っ先に視線を向けた。
私が他の者に縄を解かれてる間、彼はずっと涙を流す姉を抱きしめていた。
「ハル様、もう大丈夫です。さぁ、落ち着いてください」
確かに、体の弱い姉を真っ先に心配するのは当たり前のことだ。
私がはっきり負けを感じたのは救出順位ではなかった。
ただ、彼の姉を呼ぶ声がひたすら優しくて。
私に向けられない視線が悲しくて。
私はきっと、彼の一番にはなれないと知る。
姉はあの一件で春に予定していた結婚を見送ることとなった。
姉が乱暴されたという噂が実しやかに流れたのだ。
それから二年が経ち、私は十七になった。
私は今だに、姉を想う彼を好きなままだ。
それを耳にしたのは本当に偶然だった。
体調を崩した姉様のお見舞いにと、果物を持って姉の部屋を訪ねた。
姉のすすり泣く声が漏れてきた。
「…仕方ないこととはわかるの。あんな噂の流れた私を娶ってくださるのは…感謝すべきだと…っで、でも…私は…」
扉を僅かに開いて中を伺えば、そこには。
涙を流す姉と、姉を強く抱きしめる彼の姿。
姉の髪を撫でる彼の表情は見えない。
……けれど。
彼のその手つきがいかに優しく、苦しげなものか、私には簡単に想像がつくのだ。
「…馬鹿ね、私」
私だって、あんな風に抱きしめて欲しかったのに。
彼に見てもらうために努力したのに。
けれど、やっぱり、彼が触れるのは姉だけなのだ。
「せめて、二人が幸せになりますように」
小さな声で呟く。
涙が少しだけ足元に落ちた。
「お父様、姉様の婚約、どうか私に変えてはくださいませんか」
父に直訴したのはその日の夜だった。
「しかし…あのような噂がある限り…ハルの結婚は難しいのだ。今回を逃せば…。
それに、昔から次女のお前には好きな結婚をしろと言っているのに…それを捨ててまで政略結婚に縛られるのか?」
幼い頃から、父は私にそう言った。
長女となれば家の跡取り問題が関係する。
けれどせめて自由の効く立場にある限り、自由に生きて欲しい、と。
だから結婚相手も強制しない、と。
だから幼い私は「じゃあ優弥と結婚したい」と無邪気にはしゃいでいたけれど。
でも、もう、あの頃とは違うのだ。
「…姉には優弥を宛がわれては?噂が嘘だと知っている上に、頭脳も家柄も見目のある、跡取りに相応しい相手かと」
微笑みながらそう進言できた自分にいささか驚いた。
でもこれできっと優弥は幸せになれる。
私は彼の幸せに加担できた。
もう、それだけで、幸せだ。
笑みが深くなる。
渋る父が頷いたのは、間も無くのことだった。
「アキ様っ‼︎‼︎」
優弥が怒鳴り込んで来たのは私とご子息の婚約が発表された翌日だった。
相手の方は穏やかな、優しい顔立ちの方であり、昨日初めてお会いしたが、この方とならうまく行くだろうと私は感じた。
「なに?」
彼はいつもと全く違う荒々しい動作で私の腕を掴んだ。
「どういうことですか‼︎なぜ貴方がご婚約なさる‼︎どうして私とハル様が婚約することになっているのですか‼︎」
私の腕を掴む手に徐々に力がこもる。
それと比例するように口調も強くなる。
こんな優弥は初めてだった。
「嬉しくないの?なぜ?姉様と結婚できるのよ?」
貴方の本望でしょう?
そう首を傾げれば、今度は泣きそうに顔を歪めた。
「違う…っ、アキ様、あれは嘘ですか?
幼い頃約束したではないですか。
私と結婚しようと…貴方が、貴方が…っ」
ついに彼の眦から涙が一筋落ちた。
私はどこか落ち着いた気持ちだった。
「優弥、そんな幼い頃の約束に縛られないでいいのに。
いいの、姉様が好きなのでしょう?
だから幸せになって、ね?」
そう笑うのに、彼はますます顔を歪める。
なぜ、そんな傷ついた顔をするのか、私にはわからない。
「貴方は何か勘違いをしています。
私は貴方が、アキ様のことが…」
彼の言葉に思わず自嘲的な微笑みが口元に刻まれた。
このやりとりは昔、よくしていたものだ。
『優弥は姉様ばっかり…私のこと嫌い?』
『いいえ、好きですよ』
昔は、その言葉を聞くだけで、その笑顔をみるだけで幸せだったのに。
今はその『好き』の言葉が、私の求める意味と違うから、悲しくなる。
「優弥…それは妹のような存在としてでしょう?いいの、遠慮しなくて。幸せになっ「なぜ信じてくれないのですか?」
私の声を遮って悲痛に叫ぶ彼の涙は止まらない。
綺麗に泣くのね、なんてぼんやりと思った。
「どうして…どうしてかしら?
だって…優弥はいつも姉様優先で…それに、私ずっと貴方を見てたんだもの、わかるわ。
優弥はね、姉様にばかり触れるの。
優しく、とても優しく触れるのよ」
ねぇ、知らないでしょう。
私が姉様に触れる貴方を見る度どんな思いをしていたかーー。貴方は、きっと知らない。
「違います…っ‼︎ハル様は…妹のような気がして…触れるのに躊躇いも勇気も必要なかっただけで。…本当は、」
本当は貴方に触れたかった。そう言って彼が私を抱きしめた。
温かい。
これが優弥の体温。
この温かさを覚えておこう、死ぬまでずっと覚えておこう。
きっと私の宝物になるから。
「……ねぇ、優弥、もういいの。
そんな嘘つかなくていいの。
きっと自分で気づいてないだけよ。あんな風に優しい顔をする貴方を、私は見たことがないの」
まるで子供をあやすように背中を撫で、髪を梳いた。
「信じてください、どうか。私はアキ様と結婚するつもりでした…‼︎来月には旦那様に嘆願しようと…。本当です!貴方を私は……‼︎」
耳元から直接流れ込む彼の声が心地よい。
でも、それでも私は信じることなんて出来ないの。
ねぇ、もう、こちらが虚しくなるから。
そんな事を言うのは、やめて。
優弥の体を押しのけた。
腕一本分の距離が開く。
その距離を自ら埋めて、私は彼に口づけをした。
「優弥…私は、貴方をお慕いしておりました」
そう告げた瞬間、私の瞳から零れた涙には何の意味があったのだろう。
目の前の彼はただ私を睨むように涙を流していた。




