灰燼《ラクド》
かい‐じん 〔クワイ‐〕 【灰×燼】
《「かいしん」とも》灰や燃え殻。建物などが燃えて跡形もないこと。
※
濛々と立ち込める煙、煤、焼け焦げた屍肉の匂い、折り重なった消炭共の山。
死の気配だけが埋め尽くす廃墟の隅に、異形の影が一つ、微かに震えていた。
「ニソロ……」
黒い鳥の頭を模した防毒面の奥から、男の呻く様な掠れた声が一つ落ちる。 その声が落ちた先は、男がひしと大事そうに抱えた小さな肉塊の上。
呼ばれた自分の『名前』を覚えていたのか、肉塊は短く斬り揃えられた手足をゆるゆると緩慢に動かし始めた。
その悲しい姿は、羽根をバタつかせてもがく、蜘蛛の巣に捕らえられた蝶を連想させて、男の胸を強く締め付けるのだった。
蝶は、『彼女』が心から好いていた生き物だった。
「蝶の様になりたい」という願いを込め、自身の肩に彫った小さなアゲハの刺青。それだけが『以前の彼女』と、この『醜い肉塊』が同一のものであるという唯一の証拠であった。
「…ニソロ、ニソロ…」
変わり果てた『彼女』の名前を何度も呼びながら、男はゆらゆらと蠢く肉塊を強く、しかし壊さぬ様優しく抱き締めた。
「あ…ぁ……ぉああ゛…」
女の真一文字に裂かれた口から、腹の奥底よりやっと絞り出した音が溢れる。腫れ上がった両瞼の隙間から流れ出る涙には、黒い血が混じっていた。
「はふど……ぁああ、ひゃふほ……」
呂律の回らぬトロトロとした女の言葉を、鼓膜でしっかりと咀嚼し、理解しようと必死に脳で消化する。
そうして考え込んだ後、彼は気付き、はっと息を飲んだ。
彼女は今、『らくど』、と言ったのだ。
否、『ラクド』と『呼んだ』のだ。
俺の名前を呼んだのだ。
今まで抑えていた感情の波がどっと押し寄せ、泡立ち、彼の全身を飲み込んでいく。涙は出ない。遠き日に、両の目の涙腺は焼けて死んでしまった。
ただただ全身を震わせ、成人女性の身体とは思えない程に小さくなってしまった彼女に頬擦りをしながら、棒で酷く打ち据えられた犬の如く、無様に哭いた。
「一緒にいよう、ニソロ……これからずっと一緒に。もう独りにはしない、ずっと一緒だ」
男は涙を溢す代わりに、精一杯のたどたどしい言葉を溢した。
こんなにも変わり果ててしまった醜い自分へ向けられた、数年前と変わらぬ不器用で真っ直ぐな誠実さと愛情。
それに触れて、痣や瘤だらけの、大きな腫瘍の様な女の顔に、人間らしい笑みが微かに宿る。
が、すぐにそれは失せた。
肘より上しかない短い腕をふらふらと懸命に伸ばし、防毒面の嘴を優しく撫でながら、彼女は短くこう呟いた。
「こおひへ、はふほ」