八話
同文化コミュニケーション
目の前に私がいる。
ドッペルゲンガーというものを知っているだろうか。
医学名でAutoscopy、自己像幻視という。
有名なのでご存知の方も多いだろう。曰く死期が近い人間の前に現れるやら同時間に別の場所で自分が目撃されているといったようなものだ。
自分がもう一人存在する。自我を持つ存在としてはあってはいけないことだ。
何故ならもう一人の存在が自身であるならば、いま思考している私とは一体誰なのだ。
自分とは何か。
深く考えてしまうとどこまでも泥濘に沈んでいく哲学命題の一つであろう。
ただ私にとっては私とは何かと言う哲学には一つの答えであり真実が存在する。
私とは私なのだ。
何を言っているのか。頭がおかしい。思考が狂っている。
なるほど確かに矛盾している、理論が理論の体をなしていない。
だが真実なのだ。彼女も私である。私も私である。
目の前にいる存在が何かと問われれれば私は私であると答えるだろう。
群体ゆえの結論である。
それも私もあれも私だ。コーギトーエルゴースムなのだ。
(私よ私はなぜそんなことを考えているのだ。)
私よそれは私が私を初めて理解したからだよ。
(なるほどなるほど。私らしい結論だ私よ)
そうだろう私よ。
群体でなければこのような会話はし得ないだろう。
自身こそが本当の自身であると自身の存在を掛けて生存戦争が始まるのだろう。
しかし私であるならば話は別だ。
(私よ。)
なんだ私よ。
(私なのだ分かっているだろう。)
確かに確かに分かっている。では行動を開始しよう。
素晴らしい。私であるが故に私は私に説明をしなくていいのだ。
そうして私達は二手に分かれこの惑星での蹂躙を開始したのだった。
楽しい楽しい食事タイムをもう一度
もうすぐなのだ。
そうもうすぐ。