きっと届いていないそれ
瞬くと、豪快に倒れこむ菊池が見えた。
あれは痛い。
絶対痛い。
逆エッジで豪快に後頭部を強打した姿を見て、かえって自分のほうが萎縮してしまっているのが分かる。
大学のサークル仲間に誘われてスノボーデビューをしたものの、周りは経験者ばかりで初心者は自分と菊池の二人だけだった。
教えてくれると申し出てくれた酒主先輩は、一度滑ってくると言ったきり戻ってこない。
「おおい! まだこんなところにいたの? 俺はもう上級者コースから降りてきたぜ?」
代わりに同級生の澤部が激しくエッジを利かせて大げさに止まり、わざと雪を菊池に被せ、ニヤニヤしながらそんな自慢をしてみせる。
「今のわざとでしょ!」
憤慨して思わずそう言うと、
「あら失礼。じゃあ、お邪魔しました!」
と自由の利かない私のすぐ横を通り過ぎながら彼はすいすいとゲレンデを降っていってしまった。
雪を被せられた菊池は、まだ動かない。
「ねえ、大丈夫?」
遠くで悶えている彼に声をかけるが、返答はない。
駆けつけてやりたいのもやまやまだが、こちらも上手く彼のところまでいける自信がない。
倒れては起き、起きた傍から倒れる彼の姿を見ていたら、一度尻餅をついただけで、滑る気力をなくしてしまった。
「大丈夫って聞いてるのよ!?」
張り上げた声に反応したかどうかは分からないが、菊池はもそもそと動き始め、再び起き上がった。
「やばいくらい頭打った!」
ゴーグルを外してそんなことを言う彼の顔には、満面の笑みが湛えられていた。
こちらを眩しそうに見上げる頬には雪が張り付いている。
「気をつけなさいよ!」
そう言うと、
「お前もな!」
と言って菊池はこちらに大きく手を挙げてきた。
そして滑り出し、程なくコケた。
そんな彼の姿を見て一通り笑ってから、私は慎重に立ち上がる。
まず第一に転びたくない。
絶対に転びたくないのだ。
上手くなるのはずっと先で良い。
だからあんなに痛そうなコケかたは絶対にしない。
自分がそんなに慎重だったかと少し可笑しくなりながら、私は広大なゲレンデを木の葉のように出来るだけゆっくりと滑り降りていく。
直下を見ると崖のように急な勾配に感じられるが、辺りを見渡すと、遠くに湖が見下ろせる。
空は晴れて雲ひとつない。
清々しい景色とはこういうものだと頷いてしまうくらいだ。
が、油断しているうちにボードは思いのほか加速して、怖くなった私はわざと体を傾け雪面に尻餅を着いた。
私の少し前で、やはり菊池は倒れている。
でも、少しだけ彼に近づいた。
ゆっくりでも長く滑って、すぐに転ぶ彼に思いのほか近づいていたらしい。
「全然うまくいかないな」
息を切らしてそう言う彼はやはり楽しそうに笑っている。
「すでに筋肉痛」
「そう」
「捻挫もしてるかも」
「かもね」
「きっと全身打撲してる」
「そりゃそんな無茶な滑り方してたらそうなるわよ」
「だって、早く滑れるようになりたいじゃん。思い通りに滑れるようになれたらもっと楽しそうだしさ」
そう言って彼は立ち上がろうとするが腕がもう限界らしく、見て分かるほどプルプル震えている。
「あんまり無理しないほうがいいよ」
私は再び滑り出しながらそう忠告する。
もう少しでリフトまでたどり着く。
無論、私はそこを通り越してレストランに逃げ込むつもりだ。
「もう少しでコツがつかめそうなんだよね」
「私は出来るだけ転ばないように行くわ」
へっぴり腰の二人が並んで滑るのは危険なので、私は彼の道を邪魔しないように不恰好に滑っていった。
「きっとみんなレストランにいるだろうから、私は下で待ってるからね!」
「分かった。俺はもう一回リフトに乗ってから行くよ!」
という間に彼は転んだ。
「顔が冷たい! でも体は汗だくだ!!」
滑らないうちに転ぶことも多かった。
だから止まらないでゆっくり滑る方がかえって彼より早く山を下りることが出来た。
私は雪面が平らになるとすぐさまボードを外し、レストランへ逃げ込んだのだった。
★☆★☆★
「ねえ、菊池君、今からもう一回リフト乗る気なの?」
すでにレストランで落ち着いていた沙織先輩が私を見つけるなりそう訊いてきた。
肯くと、隣に座る若菜が頬杖を突いたまま苦笑いを浮かべる。
「こういう時、男子ってバカになるわよね」
イスに掛けられたウェアは乾ききっていて、それが彼女達がしばらく前から寛いでいるのを物語っていた。
あるいは一度も転ばず滑り抜いたのかもしれないと思ったが、二人のまったり度合いがそれを否定していた。
「私、足痛くなっちゃったし、もう十分かも」
笑ってそう言うと、若菜も同意してゲレンデにむしろ嫌悪の眼差しを向けた。
彼女は緩慢な仕草で卓上のフライドポテトを一本とって口に入れた。
雪のように白い肌の頬が赤らんで、少しだけ丸みを帯びた柔らかい輪郭が咀嚼に歪む。
それはもうこれ以上疲れたくないと体中で表現しているように見て取れた。
「男子が来るまでここでのんびりして、午後にもう一本くらい滑ったら帰ろうよ」
沙織先輩は私達を気遣ってそんな提案をする。
無駄な贅肉のないスラッとした長身の彼女は、酒主先輩と付き合っている。
二人は客観的に見ても見栄えが良く、なおかつ周りに健全な印象を与えるカップルだった。
その二人がどうしてむしろ退廃的な傾向にある若菜や、特にこれといった特徴のない私なんかを可愛がってくれているのかは謎だ。
が、とにかく何かにつけて私達と菊池と、やはりサークル仲間の澤部の合わせて六人で行動を共にすることが最近多くなっていた。
「千穂ちゃんごめん。夢中になっちゃった」
私についでレストランに入ってきた酒主先輩は、本当にすまなそうにそう言った。
「本当よ。怪我でもしてたらどうしてたのよ。だから私が見るっていったのに」
「いえ、大丈夫です。そんなに危ない滑り方していないですから」
本気で怒っている沙織先輩をなだめるように私は努めて明るい声を出す。
「それより、私、お腹減っちゃいました。お昼、何食べます?」
そう言いながら遠くのメニューに目を凝らす。
「でも、まだ澤部と菊池が来てないしな」
酒主先輩の声にゲレンデへ目を向けると、やはり激しく雪を巻き上げて止まる澤部の姿が見て取れた。
「あ、澤部が来ましたよ。あいつ、あの止まり方が本気でカッコイイと思っているんでしょうね」
お茶の間のくだらないテレビ番組を見て言うように、若菜はそう呟いた。
「いやあ、コブがやばかったですよ。あれはさすがに上級者じゃないと捌けないな、たしかに。え、僕ですか? 僕はもちろん一度も転ばず滑り抜きましたけどね」
聞いてもいないことをペラペラと喋りながらやってきた彼に、皆が冷ややかな視線を送った。
「菊池は?」
私がそう訊くと、
「あいつ? あいつはまだ中腹くらいじゃないかな? あの感じだとここまで来るのにはまだ相当かかりそうだったな」
澤部はウェアを脱ぎながらそう答えた。
「あいつを待ってる間に、混み始めそうですね」
もっともなことを若菜がいい、皆が同意の意味を込めてうなずく。
「仕方ない。先に食べちゃいましょう」
沙織先輩の提案に反対するものは誰もいなかった。
★☆★☆★
「にしても男ってバカよねぇ」
食事を終えて間も無くゲレンデに出た二人を見送りながら若菜はそう溢した。
「いや、酒主先輩のことじゃなくって」
我に帰って付け足す彼女に、沙織先輩は笑って首を振る。
「あの人も、結局は同じよ」
「でも、酒主先輩って大人だし、気が利くっていうか」
「そんなの、あなた達の前だけ大人ぶっているだけよ」
「え、沙織さんの前だと違ったりするんですか?」
思わず訊いた私の質問に先輩は笑う。
「男って、どこまでいっても子供よね」
彼女はウェアを羽織ながら立ち上がり、そう言った。
ゲレンデに戻る際の捨て台詞に、若菜もわかったように肯いてみせる。
「ま、それが良く見えちゃうときもあるんだけどね。ね?」
彼女の振りが理解できず、
「ね?」
と私はオウム返ししか出来なかった。
「あなた今日、ずっと菊池のあとついていってるでしょ」
唐突にそんなことを言われて、私は反論の言葉すら思いつかず、
「そんなつもりないから」
というのが精一杯だった。
私は冷めてシナシナになったフライドポテトを口いっぱいに頬張って、いきなり茹った頭を冷やすように咀嚼を繰り返す。
「だって、二人とも初心者だから、一緒に滑ってるっていうか、どっちも進まないから結果的に一緒にいるように見えただけだよ」
コーラでポテトを飲み下すと、私はそんな釈明をして見せた。
「その割には、ずっと傍にいたように見えたけど」
「だって、あいつ危なっかしい滑り方してるから、なにかあったらいやだなと思って」
「何かあってもあんたに何が出来るって言うの」
とてもきついことを言われているようで、若菜が言うと冗談混じりに聞こえてその真意が読み取れない。
「何が言いたいの?」
だから私はそう訊いた。
私が若菜と話すとき、そう訊ねることが間々あった。
「べつに」
とだけ言い、彼女は穏やかな笑みを湛えた顔をこちらに向けてきた。
「しかし、あいつ、いつになったら来るんだろうね」
時刻が一時を回っても菊池は姿を現さなかった。
「もしかして、どっかで転んで怪我してるのかも」
「え、それって大変じゃない」
私の心配顔を見ると、彼女は笑って、
「冗談よ。でも、もういい加減、滑り出しましょう。早く滑って早く帰ろうよ」
と言ってウェアを着だした。
★☆★☆★
午後の一本目は付き合うと言ったのに、若菜は怖気づく私に業を煮やし、やはり先に行ってしまった。
一向に上手くなっている気配を感じられない。
本当に滑れるようになれるのだろうかと転ぶたびに思ってしまう。
上手くなれなくてもいいや。
そう思いつつ、やはりはじめたからにはちょっとでも滑れるようになりたいと欲が出る。
誰も傍にいないとき、一人で滑るゲレンデはとても孤独で、自分の息遣いだけが聞こえてくる。
途中で酒主先輩が来てくれたが、一人で滑っていたほうが恥ずかしくないことに気づき、先に行ってもらった。
何を直せば滑れるようになるのか。
そんなことを考え始めた頃、気づけばリフトのところまで降りてきていた。
「どうするの、乗るの?」
乗ろうか乗るまいか迷っている私の背中に、肩で息をする菊池の質問が向けられた。
初心者の私達は、麓に降りた際には、いちいちボードを外し、腕に抱えてリフトに乗る。
「乗らないならいくぞ」
そう言ってズンズン先に行ってしまう彼の姿になぜか腹が立って、私はその後を追いかけた。
二人乗りのリフトに乗った。
露出している頬に風があたり冷たいが、ゆっくり上昇している感覚が、案外、嫌いではなかった。
遠くで流れている音楽に耳を傾けたり、雪上にある動物の足跡を見つけたり、遠くで滑っているスキーヤーを眺めたりして時間をつぶす。
「お昼は食べたの?」
「いや、食べてないな」
「なんで」
「夢中になっちゃって」
「バッカじゃないの」
「ほんとな、バカみたい」
隣で笑う菊池は、グローブを取って、なにやらポケットを弄っている。
「食べるか?」
「なにこれ?」
彼の手に載せられていたのは、一粒の金柑のど飴だった。
「なんで?」
受け取りながらそう訊くと、
「腹、減ってんだろ?」
と彼は本気で受け答える。
呆れて菊池の顔を眺めると、頬が雪焼けですでに赤く染まっていた。
眩しさに顔をしかめてはいるが、見るからに清々しげな顔をして行く先に目を向けている。
ウェア越しに伝わってくる彼の肩や足の感覚はやはり男性のもので、私はそれを意識すまいと顔を逸らした。
「で、滑れるようになったの?」
特に興味もなかったが、会話つなぎに私はそう訊ねる。
「もうちょっとでコツが掴めそうなんだよね」
「それって、午前中に全く同じ台詞を聞いたんだけど」
「あれ、そうだったっけ」
そんな軽口を叩きながら私達はカラカラと笑った。
リフトを降りる際、ボードを着用していない私達はその流れを止めないように終点を駆け下りなければならない。
履き慣れないブーツで走ったせいで私はその時、無様に転んでしまった。
ボードを履いていないのにコケるとは思っていなかったので、ちょっとショックだった。
「大丈夫か」
菊池は放り出されたボードを拾い上げ、腕を貸して立たせてくれた。
「あそこまで持ってってやるよ」
歩きにくそうにしている私を見兼ねて彼は二枚の板を抱えてズンズン先へ進んでいく。
朝から休みなしで滑って、どうしてまだあんなに元気なのだろう。
「あんた、疲れてないの」
素朴な疑問だった。
「もうヘトヘトだよ」
ボードをセットしながら言う彼は、ちっとも辛そうな顔をしていない。
「時間的にも、これが最後になりそうね」
眼下に広がる湖を見ながら私は言う。
「もういい加減、滑れるようになりたいな」
「意外と今がダメでも、次に来たとき滑れるようになってるパターンが多いらしいよ?」
「そうなの? じゃあ、次回に期待か。でもその前に、この一本を一番上手く滑るぞ」
そう言って菊池は立ち上がる。
彼の視界には広大なゲレンデしか映っていないようだった。
「また来たいね」
私はありったけの勇気を振り絞って、彼の背中にそんな言葉を投げかけた。
「おう」
彼は応じながら滑り出していく。
「また来ようね」
その後姿を見て、私は改めてそう口にした。
きっと届いていないそれを胸に、必死で彼の後を追いかけた。