第五章:勝負!
「あっちゃ〜ん」
静寂な空間を破るように、大きな声が壁に反響する。
僕は読んでいた推理小説を閉じ、思わず辺りを見回した。
放課後の2ーCの教室。先程の声を発したのは凛だ。誰か、そこらの人でも呼んだのだろう。そう結論付けた僕は、あえて気にせずに、本を開く。
すると、
「ねえ、あっちゃんてば。聞いている?」
凛が目の前にいた。
「一つ聞く。それは俺に言ったのか?」
僕は本を再び閉じて、凛を半眼で睨む。彼女は、さも当然という様子で言った。
「そうだよ。淳だからあっちゃ……」
「却下」
僕は、凛がその言葉を言い終える前に遮った。
「そもそも、何で今更呼ぶわけ?」
僕の問いに、凛は笑いながら答えた。
「昨日ふと思ったの。そういえば私、あっちゃんの名前を呼んだ事無かったよね。何か呼びやすい愛称みたいなのは無いかなって。それであっち……」
「却下。絶対に却下」 僕は、取り付く島を与えずに反論する。高校生にもなってあっちゃんだなんて、末代までの恥だ。
「何でよ〜。呼びやすくていいじゃない。それに、"あつし"って名前の人は"あっちゃん"って呼ばれるって、昔から決まっているんだよ」
凛は頬を膨らませ、さも怒っているような表情を作った。僕も、芝居がかった口調で反論する。
「あれは、小学校一年の時だ。当時俺には好きな子がいたんだ。まゆみって名前の可愛い子」
「ふむふむ」
勿論これは嘘だ。しかし凛は信じるだろう。
僕は一息ついて、次の言葉を考える。
「で、ある時。俺とその子の席が、隣同士になったんだよ」
「ふむふむ」
「俺は、ラッキーと思って、その子に話し掛けた。で、すぐに仲良くなって俺は、あっちゃんって呼んでもらった」
「ふむふむ」
僕は、また一息入れる。即興で話を考えるのも、なかなか大変だ。
「それからしばらくして、その子は転校したんだな。最後に『あっちゃん、バイバイ』って言ってさ」
「ふむふむ。で、オチは?」
僕は凛を軽く睨み付け、少し考えてから言った。
「分かる? 俺は思い出を大切にしたいんだよ。あの子が最後に言ったあっちゃんっていうのは、特別なわけ」
我ながら、メチャクチャだけど感動する話だ。僕は勝ち誇って凛をみると、彼女は事も無げに言った。
「ははっ。残念だったね。でもそれ、嘘でしょ」
どうやら彼女には通じなかったようだ。僕渾身の作り話は、あっさりと看板されてしまった。
「……まあ、兎に角。絶対に呼ばせないからな。絶・対だ」
僕は、"絶対"の部分を強調して言った。
凛は先程から黙っている。何かを考えているようだ。ようやく諦めてくれたのかと思って、僕は読んでいた本の栞を開いた。
「分かった。こうなったら勝負をしよう!」
「は?」
三行程読んだところで、凛はいきなり言った。
「勝負? 何の?」
僕は凛の意図が掴めずに聞き返す。せっかく開いた本は、勿体無いけど閉じておいた。
「ゴミ漁り勝負。私が勝てば、あっちゃんって呼ぶね。負けたら言わない」
凛は僕に人差し指を向け、声高に言い放った。
「付き合ってらんねえよ。俺は忙しいんだ。この本を今日中に読み終わらないと、督促状が来る」
僕はそう言って、また本を開いた。だいたいその勝負は、僕が勝ったとしても一銭の得にもならない。
「……今日は木曜日なんですけど。明日は燃えるゴミの日なんですけど。ゴミ漁りの方はどうするの?」
凛が恨めしそうに言った。
「俺、今日はパス。行きたければ、桜庭が一人で行けよ」
僕は、本から目を離さずに言った。すると凛は、更に恨めしそうな声を出す。
「最近はとても物騒なんだよ。私に夜、一人で出歩けって言うの?」
僕が黙っているのを良いことに、凛は尚も続ける。
「もお、約束破らないでよ。良心は痛まないの?」
凛の五月蝿さに集中出来ず、僕はとうとう言った。
「あ〜もう、ウゼえ。分かったよ、行ってやるよ。勝負もしてやるから、取り敢えず黙れ」
僕が言うと、凛は一気にさっきまでの表情をかなぐり捨て、やったーと喜んだ。こういう時に妥協するのは僕なのだ。
「でね、勝負っていうのは……」
大分オレンジ付いた教室。凛が勝負の方法とやらを説明する。
その方法とは、事前にお題を書いた紙を各々で準備し、相手に渡すらしい。そして合図と共に、自分のお題と相手のお題をゴミの中から探し、両方を見つける。先にスタート地点へと戻った方が勝ち、というルールだった。
「但し、範囲は今日行く隅田町の四丁目で、自分のお題を予め持っておくのは無しね」
そう言って凛は締め括った。
「するかよ。お前みたいにセコい事はしないから」
僕はそう言うと、読みかけの推理小説をリュックにしまった。既に教室で読むのは諦めている。
「何それ〜。私がいつセコい事したの」
「ラブレター」
「あっ……。まあ、それはその……」
帰る準備をし終えた僕は、口ごもっている凛を残して帰る事にした。
「あれ、帰っちゃうの?」
「ああ。早く帰ってこの本を読まないといけないし――じゃあな。今夜は遅れるなよ」
僕はそれだけ言うと、教室を出た。