番外編:理由
彼には祖父がいました。彼の祖父は、いつも帰りの遅い両親に代わって、彼を幼稚園まで迎えに来てくれました。
彼は、自分の祖父が大好きでした。大好きな祖父と手を繋ぎ、一緒に歩く時間を、いつも楽しみにしていました。
「ねえ、おじいちゃん」
彼は隣りを歩く祖父の手を見ながら言いました。まだ彼は小さいので、見上げなければいけません。
「どうした?」
彼の祖父が応えます。
「これからどこに行くの?」
彼は今度は、オレンジ色に染まり始めた空を見ながら言いました。そろそろ彼の母親が帰って来る時間です。帰りが遅くなっては叱られるので、彼は心配そうに言いました。
「今日は公園に行こうと思っているんだが、行きたいか?」
祖父が言いました。
「公園!行く行く」
途端に彼は、はしゃぎ始めます。いつも行く公園も、祖父と一緒だと未知の世界になるのです。
二人は手を繋いで、歩き始めました。冷たい秋の風が吹いていました。
「あのね、今日はね……」
古ぼけた白いベンチの上で、彼はその日幼稚園であった出来事を報告します。
彼の祖父は時折、そうかそうかと相槌を打ちながら、楽しそうに聞きました。
「で、ぼくはひろくんに言ったの」
その時少し冷たく、少し強い風が吹きました。公園の裸同然の木から、枯れ葉が飛んで行きます。そして、カランカランという音がしました。
「あっ、空き缶」
彼は、風によって転がって来た空き缶を指差しました。
「空き缶は、ゴミ箱にすてないといけないんだよ。ぼく、すてて来る」
「行っておいで」
彼は転がるように駆けて行くと、空き缶を持ってゴミ箱へ捨てました。
「偉かったな」
戻って来た彼を祖父は褒めました。彼は嬉しそうに笑います。
「最近は、ゴミをゴミ箱に捨てない人が多いんだ」
彼の祖父は言います。
「お前はこれからも、ゴミはきちんとゴミ箱に捨てられるよな?」
祖父の問いに、彼は
「うん。ぼく、ちゃんとすてるよ」
と、誇らしげに言いました。
祖父は立ち上がります。
「そろそろ帰るとしようか。お前の母さんも、帰って来るだろうて」
その言葉につられるように、彼も立ち上がりました。少し前を行く祖父の手を握ります。
「そういえばおじいちゃん。今日はせきをしないね。風邪、なおったの?」
「……ああ。すっかり元気になったぞ」
「良かったね」
彼は、嬉しそうに言いました。
二人は手を繋いで帰ります。日の暮れかけた公園は、誰もいなくなりました。
「おじいちゃん、今日はおそかったね。お仕事?」
次の日の夕方の事です。その日彼の祖父は、いつもより遅い時間に幼稚園に来ました。
「はは、スマンスマン。少し寝ておってな」
「もお〜」
そんな会話をしながら、二人は手を繋いで歩き始めました。
いつもなら寄り道をしながら歩く帰り道。今日の祖父は、真っ直ぐに帰ります。
「おじいちゃん。今日はどこにも行かないの?」
彼の問いに、祖父は答えました。
「本当にスマンなあ。今日はじいちゃんが遅れただろう。いつもより遅いからなあ」
内心は散歩をしたかったのですが、彼は祖父が大好きだったので、
「分かった」
と、従いました。
家に帰って、二人はこたつに入ってテレビを見ました。彼の好きな特撮番組です。
「なあ」
コマーシャルになった時に、彼の祖父が呼びかけました。
「何?おじいちゃん」
目線はテレビに向けたまま、彼が応えます。
「じいちゃんな、間違えてゴミ箱に懐中時計を捨ててしまったんだ。ちょっと取って来てくれんか?」
「あの時計?」
彼が祖父の方を見ると、確かに祖父がいつも持っている時計がありません。
「分かった。ぼく、とってくるよ」
彼は、リビングの方へ駆け出します。
「頼んだぞ」
彼の祖父はそう言うと、静かに笑いました。
「あれ、無いなあ。もえる方のゴミかな?」
彼は独り言を呟きながら、ゴミ箱を漁ります。既にかなりの時間が経っていました。
可燃ゴミの方も漁っている内に、火の気の無いリビングは、とても寒くなりました。彼は祖父に、見つからなかったと言おうと決め、リビングを後にしました。
「おじいちゃん、時計見つからなかった」
彼は、和室の障子を開けながら言いました。特撮番組は既に終わっていました。
「あれ、おじいちゃんねてるの?」
彼の言う通り、彼の祖父はこたつのテーブルにうつ伏せて寝ていました。
「ねえってば。時計、無かったよ」
彼は祖父を揺さぶってみましたが、反応はありません。
「ぼくもねよ」
仕方なく彼は、テレビを消してこたつに入りました。やがて、彼も寝ました。太陽が沈むにつれ、部屋は徐々に暗くなっていきました。
「……何やっているの?」
彼の母親が彼に言います。
「時計をさがしているんだ。おじいちゃん、すてちゃったんだって。見つけたらきっと帰って来るよ」
彼がゴミを漁りながら応えます。彼の母親は、少し逡巡した後、語り出しました。
「……あのね、おじいちゃんは死んだの。おばあちゃんみたいに、もう帰って来ないのよ」
そうです。あの時、彼の祖父は既に死んでいたのでした。病名は、幼い彼には分かりませんでした。
「おかあさん何言ってんの。おじいちゃんは帰って来るよ。だからこうしてさがしているんだ」
彼は再び、ゴミ箱に向き合いました。彼の母親は、しばらくその様子を見ていましたが、やがて静かに立ち去りました。
彼はゴミを漁り続けました。懐中時計を見つけたら、祖父は帰って来ると信じ、ずっとずっと漁り続けました――
「ねえ、どうかな?」
ここに来て、僕の怒りはピークに達した。
夏休み中盤。一年で最も暑い時期だ。
僕の今日の予定は、完璧だった筈だ。補習は無いし、七月仲に終わらせたので宿題も無い。正午近くに起きて、クーラーの効いた部屋でテレビとゲームとパソコン。そんな風にダラダラと過ごす予定だった。
しかし、その完璧なプランは一通のメールで、あえなく崩壊してしまった。
凛が僕を図書館へ呼び出したのだ。しかも一番暑い時間帯である午後二時に。
「ねえ、その小説の感想を言ってみて。モデルが誰とかは特に無いけど」
凛が生き生きとした表情で言う。僕は手元の『理由』と銘打たれた原稿用紙を見た。
「感想も何もその前に、こんな理由で俺を呼んだわけ?」
僕は、この上なく不機嫌な表情を作って凛を見つめる。
「そうだよ」
凛は、屈託なく笑った。僕は溜め息を吐く。
「モデルが誰とかは聞かないけど……。何だよこれ。もちっとマシなの書け」
僕のコメントに、凛は不服そうな表情をした。
「ええ〜結構自信作なのに」
僕の機嫌は最悪だったので、その表情すらも癇に障る。
「あと一つ言っておく。俺のじいちゃんは、二人共生きているから」
「……。じゃあ文中の"祖父"を"祖母"に変換して、もう一度最初から……」
「読まねえっつーの!」
クーラーの効いた図書館に、僕の声が響き渡った。
こんにちは。只今夜中ですが、作者の生クリームです。こんな所まで読んで下さって、ありがとうございます。
今回は初の番外編です。生クリームは張り切りました。楽しんで頂けると幸いです。
それではまた。(評価を下されば嬉しいです)