第四十六章 闇の男
「誰だ………貴様」
その雰囲気に耐えきれず、セルバ卿が開口した。
赤い髪の異形な男は、フッと笑い、
「なんと名乗ったら納得する?」
イニシアチブが自分にあることを見せる。
希望をしたなら、希望通りに名乗るつもりだったが、まあ、そんな展開になることもなく、男は仕方なくオラトリオに近付き、
「世界のリセットか………そうすれば、今ある世界への不満や不条理が無くなると思っているのか?」
傷口の出血を止めるように押さえているオラトリオに問う。
「くっ………何も………しないよりはマシだ」
思ったほどの痛みはないが、男の動きで揺れる空気が触れると、気を失いそうなほどしみる。
「変わらないさ」
男は、もう目と鼻の先に居る。 その場所で、じっと見つめられてる。
怒りでもなければ、憐れみでもない。その瞳が何を語りたいのか、受け身でいるしかない。 変わらないと言った、男の言葉を待って。
「何百、何千、何万と、気の遠くなる回数をリセットしても、お前が望む世界にはならない」
「……そんなこと………なぜ……言い切れる?」
一度や二度、十回でも変わらないかもしれない。しかし、億、兆という単位でリセットしていけば、あるいは理想的な世界も夢ではない。そう考えるのが正しい。オラトリオは、持論に欠陥はないと信じている。
が、男はあっさり否定する。
「運命だからな」
「う……運命?」
「人間が争いもせず、平和に暮らすことなど、宇宙は望んでいない」
「宇宙だって?………ハハ………宇宙規模で運……命を語るのか?笑わせる」
「仮にだ。そんな世界があったなら、人間に自我は生まれない。魂という概念が無くなり、人々はただ生を消化する人生を送るだろう。そんな世界を、お前は望むのか」
飛躍した話だと思う。それでも、男が俄か妄想で話してるとは思えないのも事実だ。 シズク、セルバ卿ですら、想像し難い話に固唾を呑む。
「極端な例えで………煙に巻こうったって、そうは………いかない」
「極端な例えなんかではない。いいか、自我がある故、人間は欲深い。しかし、その欲深さが火を起こす知恵を生み、様々な道具を作り、やがて国を築いて来た。分かるはずだ、欲が無ければ、人間は何をすることも出来ない。………もっとも、自我のない人間の世界など、どんなに神が努力をしても、存在し得ないのだがな」
目と鼻の先の男は、腰の剣に手を掛け、微笑していた表情を曇らせて、
「………世界を憂いた者よ、せめて名を聞こう」
殺すつもりなのだと、オラトリオは悟った。生かされる理由など、どこにも無いのだ。健全な流れだ。
敢えて、抵抗しようとは思わない。腕を落とされ、僅かな空気の揺らぎだけで傷口に激痛が走るのに、動きようもない。
「オラトリオだ。………まさか、ゴッドインメモリーズを目前にしてこんな最期を迎える羽目になるとは………」
悪者はセルバ卿。なのに、先にデューダするのは自分。これもまた世界の不条理、男の言う変えられない運命なのか。
「オラトリオか………覚えておこう。私利私欲と呼ぶには、あまりに清々粛々としたお前の野望。俺にさえ出会わなければ、死ぬこともなかっただろう」
鞘から抜き、振り上げた刃は、闇のように黒い。そこに自分の血が付いたとしても、自己主張のないまま終わるだろう。
「祈りはいいか?」
「神に安らぎ………を求めるくらいなら、最初から世界をどうこうしようなどとは……思わないさ」
神を信じなかったからこそ、セルバ卿への復讐心だけでここまで来たのだ。
「………賢明だ。神は祈るものではない。祈りは人を弱くする」
「フッ、同感だ。………なあ、私もお前が何者かくらいは知りたい」
オラトリオの願いを受け入れ、また軽く微笑む。
男の正体を知りたいと思うのは、シズクとセルバ卿も同じこと。
男は、振り上げた剣に力を入れる。一太刀でオラトリオの命を奪う為だけに。
「俺の名は魔帝ヴァルゼ・アーク。重力と空間を司る悪魔の神だ」
黒い刃が、命を断つ。
床に広がる血を避けるように、男は踵を返して、シズクとセルバ卿に近寄った。
「死を願いながら、死に恐怖したか」
小刻みに震える細い身体が、セルバ卿の心中を語っていた。
「来い。お前達はジーナスに会わなければならない」
そう言って、男は最後の扉へ歩き出す。
どうしようか迷っていたシズクは、意を決して後に続く。
「ま、待て!」
そのシズクに、セルバ卿が声を掛けた。
「情けない女」
が、皮肉を返されて済まされた。
歯を食いしばり、セルバ卿は震える身体に力を入れ、二人を追う。
もう、自分がどうしたいのか分からなかった。