存在してはいけない何か
うつし世と常世は裏表の関係なりとは言い得て妙でありますが、裏と表は決して同時には存在しないのがこの世の道理でございましょう。だからこそ、あれは決して此の世に存在してはいけない何かでございました。怨霊や生き霊とは違います。あれはうつし世にも常世にも属さない狭間にて産み落とされたものでございました。あれを言い表す言葉はございません。言葉は人間の認知という鳥籠に閉じ込められた子鳥でございます。もし仮に言葉で説明できる日が来るとすれば、それはきっと、私の頭を蝕むように耳と目から咲き茂るこの藤の花が、私の意識というものを完全に乗っ取ってしまった時でございましょう。
「俺はとんでもねぇことをしちまった」
昔馴染みである弥太郎から部屋に招き入れられた時から、私は漠然とした不安を胸に抱えておりました。弥太郎は私よりも二つか三つほど年長で、同じ長屋で生まれ育ち、本物の兄弟のような関係でいました。そんな弥太郎が顔を真っ青にしながら部屋の奥へと進み、閉ざされた部屋の扉を開き、中に入れと言ったのです。
弥太郎の家に上がるのはこれが初めてではありません。だけれど、その日の弥太郎の家は、まるで別世界に迷い込んだかのような異様な空間でございました。空気は重たく、ありとあらゆる色と光はくすみ、音一つ一つがまるで球体の鉛に閉じ込められたかのように鈍く反響しておりました。そして、部屋の中に入った私は見たのです。奥の閉ざされた部屋の真ん中。申し訳程度に広げられた風呂敷の上。そこに、あれがいたのです。
蹴球の球と同じほどの大きさをした肉塊。パッと見た瞬間はそう思いました。あれは心臓のように一定の規則でうごめき、内側から手を押し当てているかのような隆起を繰り返しておりました。そして、あれには目と耳と口がありました。ただ、顔はありません。二つの目も、二つの耳も、鼻の下にある口も、それぞれがまるでばらまかれた賽子のように、規則性も秩序もなく散らばっていました。それでも目は時折瞬きを繰り返し、口は呼吸をするためか小さく開き、中に白い歯が覗いておりました。
私は部屋の入り口で固まらざるを得ませんでした。目の前にある異様な光景に私は自分は夢を見ているんだと信じようとしたことを覚えております。そして、あれは散らばった一つの目で、私を見つめ、私はあれと見つめあう形となりました。それから、あれはゆっくりと口を開き、言葉を発したのです。
「佐助さん……佐助さん……」
私は吐きました。今まで酒をたらふく飲んでも、長い船旅をしても、一度たりとも吐いたことのない私がです。その声は、静江の声でした。弥太郎の唯一の妹であり、私が永遠の愛を誓った想い人であり、若く美しいまま結核で命を落とした静江の声でした。そして、ずっと無言を貫いていた弥太郎がそこでようやく口を開き、事の顛末を語りだしました。
「信じてくれとは言わない。俺はつい先ほど、階段から転げおり、強く頭を打った。その時、俺は夢を見た。夢の中では俺は白くもやがかかった場所にいた。ここはどこだと歩き回ったが、もやが続くだけで何もない。俺は頭がおかしくなりそうになりながら叫んだ。すると、不意にもやの中から聞き覚えのある声がした。それは間違いなく静江の声だった。静江は俺に、兄者はまだ来てはなりませんとしゃべっていた。ただ、俺は静江の言葉の意味やこの場所の意味を深く考えることができなかった。俺はやみくもに声のする方へ走った。そして、手を伸ばした先にあった何かを俺は掴んだ。静江はなりませぬと言った。それは叫び声に近かった。それでも、俺は静江静江、どうして俺を置いて先に逝ってしまったんだと泣きながらすがった。静江は俺の手を振りほどこうとしたが、俺は離さなかった。そこで意識が戻り、現実に戻ってきた。そして、俺の傍らには、この静江がいた」
容易に信じることなどできない話ではありました。いつもであれば弥太郎の頭がおかしくなったと思ったでしょう。それでも、今はそれが事実なのかそうではないのかを話している場合ではありませんでした。私も、そしてきっと弥太郎もわかっておりました。それが事実であろうと、なかろうと、目の前にあるあれは、決してこの世には存在してはいけないものなのだということを。
私たちだけでは手に負えない。私はかろうじてそう口にしました。それから私は込み上げてくる恐怖と吐き気を抑えながら、同じ区画に住んでいる遼太郎と伊織を呼ぼうと提案しました。どちらも私たち二人にとっては気心のしれた中でありましたし、何より遼太郎は寺の息子で、伊織は役場に勤める官吏でしたからこれ以上に頼りになるものはございません。ただ、今になって私は、二人を巻き込んでしまったことを深く悔いております。だってそうでしょう? 私たちだけで処理してさえいえば、犠牲者は私たち二人で済んでいたのですから。
私は早速ひとっ走りして遼太郎と伊織を呼びにいきました。弥太郎の部屋であれを見た二人は、私と同じように言葉を失い、顔色は梅雨に咲く紫陽花のような青をしておりました。これは此の世には存在してはいけないものだ。遼太郎は私たちが直感的に感じ取ったことを言葉にいたしました。あれが此の世に存在することはうつし世と常世の隔たりを侵すことであり、一刻も早くこの存在をなかったものにしなくてはならない。遼太郎は青ざめた顔でそう告げたのでございます。
私は具体的にどうすればいいのかと問いました。遼太郎は少し考え込み、少なくともこのまま生かしておくわけにはいかないと呟きます。すると隣にいた伊織が同調するように頷き、殺して山の奥深くへ埋めるか、跡形も残らぬほどに焼いてしまうしかなかろうと言葉を引き取ります。
「お前の妹だが、本当にそれで良いな?」
伊織が弥太郎に問います。弥太郎はあれを一瞥し、今にも泣き出しそうな表情で頷きました。弥太郎の気持ちも私にはわかります。例え、此の世に存在してはならないものだとしても、例え、異形の姿をしていようとも、あれは弥太郎の妹、静江であることには違いないのですから。それでも弥太郎にはあれはこちらの世界へと連れ込んでしまった悔悟があったのでしょう。殺す時は俺にやらせてくれとだけ条件をつけ、あれを殺すことに同意したのでございます。
私たちは半刻ほどその場で話し合い、遼太郎の寺の裏にある誰も使っていない古井戸に閉じ込め、あれを焼き殺すことにいたしました。私たちは誰の目にも映らぬようにあれを何重にも風呂敷で包み、寺へと急ぎました。寺の裏に到着してしばらくすると、別行動をとっていた伊織が灯油を持ってやってきました。私たちはあれを風呂敷から取り出し、そのまま古井戸の中へと落とします。伊織が持ってきた灯油を上から流し、そして、遼太郎が弥太郎にマッチ箱を手渡します。弥太郎はマッチ箱を受け取り、しばらくの間それをじっと眺めていると、突然その場にしゃがみ込み、おいおいと嗚咽混じりに泣き始めました。それでも、弥太郎はすぐに泣き止み覚悟を決めたのかマッチ箱からマッチ棒を取り出し、火を灯しました。
そして弥太郎は火のついたマッチを古井戸に放り入れました。しばらくしてから古井戸の底から朱色の明かり漏れ出て、パチパチと肉が焼き弾ける音がしてきました。灯りのないくらい寺の裏。井戸の底から漏れ出る光は不謹慎にも幻想的で美しゅうございました。人の肉を焼くと強烈な苦い臭いがすると聞いたことがありましたが、あれを焼いている時は鼻をつんざくような異臭はせず、代わりにどこかまとわりつくような甘い臭いがそこはかとなく登ってきました。私はそのどこか嗅いだことのある匂いに感覚を研ぎ澄ませました。そして、一際大きな爆ぜる音が井戸の底から聞こえたその瞬間、その匂いが初秋の風に運ばれてきた金木犀の香りに似ていると気が付いたのでございます。
あれが焼けるまでの間、私たちは何も言わず、井戸を見つめ続けました。ですが、火の灯りと音が少しずつ弱まり始めた頃、再び弥太郎がその場で泣き崩れ、顔を両手で覆いながら「すまねぇ静江、すまねぇ静江」と懺悔を始めました。愛する妹との別れを二度も経験することになった弥太郎を哀れに思い、私たちはただ弥太郎の気持ちが済むまで泣かせてあげようとお互いに目配せしたのでございます。
ですが、弥太郎の嗚咽が少しずつ激しくなり、次第に苦しそうな呼吸へと変わっていくにつれ、私たちは何かおかしいぞと思い始めました。遼太郎がその場で蹲っていた弥太郎の両脇に手を入れ、そのまま弥太郎を仰向けにします。そして、弥太郎の姿を見て私たちは恐怖でハッと息を呑みました。弥太郎の口。そこからは、人の手が生え、弥太郎の喉と口を塞いでいたからでした。
弥太郎の口から生えている腕。おかしな話ではありますが、その腕がたとえば静江の腕であれば、私たちはまだ納得できたのかもしれません。ですが、弥太郎の口から生えていたのは、見覚えのない、ふしくれだった男の腕でございました。
弥太郎が声にならない呻き声をあげます。腕は弥太郎の喉を完全に塞いでおりました。弥太郎は息を吸うことも吐くこともできず、顔がみるみるうちに茹で上がっていくかのように赤くなっていきます。
目の前の怪異について考える時間などありませんでした。私たちは口から生えた腕を思い切り引っ張りましたが、腕の根本は弥太郎の喉に根を張っているのか、男三人がかりでもびくともしません。弥太郎の顔は呼吸ができないせいでさらに赤くなり、助けを求めるように喉を両手でガリガリと掻きむしり、痛々しい赤くて縦に伸びた傷が首にびっしりとできていました。私たちは弥太郎に声をかけながら、腕を引っ張り続けました。
しかし、どうしたって腕は抜けません。抜けないとなると切るしかないと遼太郎が急いで鋸を取りに寺へ駆けました。ですが、遼太郎が息を切らせながら戻ってきた時にはもう、あれだけ苦しみでのたうち回っていた弥太郎はピクリとも動かなくなっておりました。私たちは口から男の腕が生えた弥太郎の死体を無言のまま見下ろしました。腕が生えるというその超常現象は、自分たちがしでかした事と無関係だとは到底思えるはずもないでしょう。そして、このような怪奇がこれで終いなはずがない。私たちは何も言わずともそんな不吉な予感を抱えていたのでございます。
そして、あれを焼き殺し、弥太郎が窒息死した数日後に遼太郎が、半月後に伊織が死にました。
遼太郎の死因は脱水でした。これは遼太郎の家内から聞いた話で、あの場にいた人間以外が聞いても決して信じたりしないような最期でございました。あの日の夜遅く、全ての後始末を終えた遼太郎が家に帰り、水を飲もうといたしました。ですが、コップに注いだ水を流し込むと、口内に入った水は瞬く間に熱を帯び、まるでひどく熱した鉄鍋に落とした一滴の水滴のように蒸発して消えてしまったのでございます。遼太郎は口の中の熱さで舌を火傷しました。それから何度同じように水を飲もうとしても同じように水は水蒸気となって口や鼻から出ていき、火傷をするばかりで全く水を飲むことができません。
火傷の痛みと恐怖で遼太郎が叫び、起きた家内がすぐさま病院へと連れて行きました。病院中の医者が遼太郎を診察しましたが、誰一人として原因も治療方法も見つけることができません。このままでは脱水で死んでしまうと考えた医者の一人が点滴で水を補給しようとしましたが、管が遼太郎の腕につながった瞬間、袋に密閉された補水液がブクブクと泡立ち、その熱さで袋が溶け、床に熱湯が落ちてしまったそうです。水を飲めなくなった遼太郎は喉の渇きにもだえ苦しみながら、木枯らしのような声で何度も助けてくれと叫んだそうです。ですが、家内も医者も誰も遼太郎を怪異から救うことはできませんでした。そして、数日後、重度の脱水症状で意識が失い、そのまま遼太郎は息絶えました。
伊織の死因は低体温症でした。ただ、本当にそれが死因なのかは医者も確信はなかったようです。伊織はあの日から少しずつ体調を崩し始め、寝込むようになりました。遼太郎のこともあり、何か異変が起きているのではないかと恐れ、病院を訪れましたが特に外から見える異常は見つかりませんでした。そこで、医者の提案でレントゲン写真を撮ったのですが、医者は信じられないような目でその写真を見つめ、今すぐにでも開腹手術をさせてもらえないかと打診してきたのです。
医者の深刻そうな表情から何かを察した伊織は承諾し、すぐさま手術室へ運ばれました。全身麻酔を打ち、医者が伊織の身体にメスを入れ、伊織の腹を開きます。そして、伊織の身体の中を見て、医者は絶句いたしました。なぜなら、そこにはあるはずのものが、何一つとして存在していなかったからです。心臓も、膵臓も、小腸も、大腸も、十二指腸も、肝臓も。身体の中は骨と肉だけで、あるべき臓器が姿を消し、まるで精肉を切り刻んでいるかのようだったと後に医者が語ったそうです。そして、手術室にいた皆が目の前の怪異に言葉を失っていたその時、全身麻酔で眠っていた伊織がなぜか突然意識を取り戻しました。目覚めた伊織は金切り声を上げ、「寒い、寒い」と叫びながら、暴れだしました。手術室にいた看護師が総出で伊織を取り押さえますが、伊織はただ同じ言葉を繰り返すだけでございます。原因不明のまま伊織の体温は下がっていき、それに合わせて心肺もゆっくりと機能しなくなっていきました。そして、伊織が意識を取り戻して一時間もしないうちに、伊織は腹を裂かれた状態のまま息絶えたのでございます。
さて、残りは私一人でございますが、当然無事であるはずがありません。私はあの日から目がかすれ、耳が遠くなり、鼻で呼吸するのが少しずつ苦しくなっていきました。何だろうと思いながら日が経ち、そしていつしか、自分の目、耳、鼻からきれいな紫色の藤が生えてきているのに気が付きました。偶然なのか必然なのか、藤は静江が好きな花でございました。静江は庭に咲く藤の花に顔を寄せ、花の甘い香りを嗅ぐのが好きでございました。そして、静江を見ている私の方を振り向くと、「佐助さんもお嗅ぎになって」とどこか照れながら微笑むのです。
私の頭に根付いた藤の花は意識を持っているようで、時折私の意識へと直接語り掛けてきます。「佐助さん……佐助さん……」と静江の声で語り掛けてきます。藤の花が喋っているのか、それともただの幻聴を聞いているだけなのか、もう区別もつきません。私も近いうち、他の三人と同じように凄惨な最期を迎えることでしょう。それだけは私にもわかっております。
それでも、私たちがあれを焼き殺したことは仕方ないことでございました。いや、そうせねばならなかったのです。もしこの文章を誰かが読み、同じようにあれと遭遇してしまったのであれば、お願いです、どうか私たちと同じようにあれを此の世から消し去っていただけないでしょうか?例え凄惨な最期を迎えることを知っていたとしても、私たちのしたことは間違っていなかったと今でも強く信じております。
どうか、どうかお願いいたします。あれは決して此の世に存在してはいけない何かなのでございます。それだけはゆめゆめお忘れにならないように、お願いいたします。