6 逃亡者カイ: 緊迫の追跡と逃走
翌朝9時、拘置所では被疑者の身柄引き渡し手続きが行われていた。署の外で待機していたマイクとリンは、移送されてくるであろうカイの姿を、複雑な想いで待ちわびていた。
マイクは、どこか晴れ晴れとしない表情を浮かべていた。そんなマイクに、リンは声をかけた。
「…T市警が証拠を掴んでくれたおかげで、カイをこちらで裁くことはできなかったけど、T市で罪を償うことになるわね。それでいいじゃない」
「…ああ、T市警が証拠を掴んでくれてよかった。さもなければ、あの男は法の網をすり抜けていただろうな」
マイクは、ようやく笑みを浮かべた。しかし、その笑顔はどこか寂しげだった。リンは、沈黙しながらマイクの横顔を見つめた。
日々の捜査で、リンは証拠が不十分な状況で事件が迷宮に入る事例をたくさん見た。たとえ犯人を特定できたとしても、起訴できるだけの証拠がなければ、警察は何もできない。
有名なシンプソン事件のように、世間が犯人と確信している人物がいても、それを立証する決定的な証拠がなければ罪を問えない。
リンは、話題を変えた。
「…久しぶりだな、T市。せっかく行くんだから、美味しいものを食べて、遊んで、買い物でもしてくるか」
「…T市の寿司と牛タンは絶品だぞ。リンも気に入ると思う」
マイクは、少し機嫌を取り戻したように、T市の名産品を勧めた。
「…じゃあ、ゴールデン街にも行っちゃう? 昔友達と行ったんだけど、楽しかったんだよね」
リンは、目をキラキラさせて言った。
そんな風に、T市の風習について話していると、ようやく拘置所から出てきたカイの姿が映った。
マイクとリンは、カイを新幹線でT市へ護送することにした。飛行機よりも、O市からT市へは新幹線の方が便利だった。
連行されたカイは、終始不機嫌そうな表情を浮かべていた。マイクとリンの会話にも、一切反応を示さない。
新幹線の車内は静寂に包まれ、ただ時間が過ぎるのを待つばかりだった。
マイクは、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めながら、この護送が、果たして本当に「勝利」と言えるのか、ふと疑問が湧いてきた。
しかし、答えは見つからないまま、新幹線は、T市へと向かって一直線に走り続けていた。
快晴の空のもと、新幹線は軽快なスピードで進んでいった。車窓に広がる景色は、どこまでも瑞々しく、すがすがしい気分にさせてくれる。マイクとリンの表情も、朝から晴れやかだった。
カイさえT市警に引き渡せば、自分たちのT市での仕事は一段落する。そう考えると、自然と気持ちが軽くなった。
一時間ほど経った頃、車内アナウンスが流れた。
「…只今より重要なお知らせをお伝えします。T市内の新幹線線路でトラブルが発生したため、当列車はT駅への到着ができません。T市にお越しの皆様は、S駅にて下車いただき、他の交通機関をご利用くださいますようお願いいたします。大変ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。詳しい復旧状況につきましては、追ってアナウンスいたします。また、運賃等の補償につきましては、後日…」
アナウンスは、謝罪の言葉と今後の対応について説明を続けた。
マイクは、この事態を想定していなかった。眉間に皺を寄せながら、T市警に電話をかけた。
「…こちら、O市警のマイクです。護送中の容疑者を引き渡したいのですが、T市内の新幹線でトラブルが発生したようでして…」
マイクは、車内アナウンスの内容をT市警に説明した。
受話器から聞こえてきたのは、T市警の当惑したような声だった。
「…今すぐ迎えの車を出すのは難しいですね。予備のパトカーを手配するのに、2時間ほどかかります。タクシーでT市警まで来ていただけませんか?」
T市警の言葉に、マイクは思わず舌打ちをした。2時間もあれば、新幹線が復旧するかもしれないという期待もあった。しかし、いつ復旧するかもわからない状況で、カイを駅に待たせるのも問題だった。
「…わかりました。では、タクシーで向かうことにします」
マイクは、苛立ちを覚えながらも、T市警の言葉を受け入れた。
リンの方を見ると、彼女は眉ひとつ動かさずにマイクを見ていた。
「…仕方ありませんね。少し時間がかかってしまいますけど、T市警に無事引き渡せればそれでいいんです」
リンの冷静な言葉に、マイクは少しだけ救われた気がした。
車窓の景色は、相変わらず眩い光を放っていた。しかし、マイクの心の中は、晴れやかな気持ちとは程遠かった。
計画外の出来事に見舞われながらも、マイクたちはT市警へと向かうべく、タクシーを手配した。
タクシーは、T市の中心部を快調に飛ばしていた。10分ほど経った頃、マイクはふと異変に気づいた。車窓の外、普段は人通りが絶えないはずのダウンタウンの道路が、不自然なほど閑散としていたのだ。
不審に思い、辺りを見回していると、隣に座るカイが突然、マイクの太ももを足の裏で蹴飛ばした。
「…あっ! 悪い、悪い。カーブでバランス崩しちゃった」
ニヤリと笑みを浮かべて言い訳をするカイ。
埃を払ったマイクは、何も言わずに前を見つめた。
そんな時、車は人通りの少ない地下通路に入った。
「…おい、大丈夫なのかこの道?」
運転手に不安げに声をかけるマイクに、運転手は、
「…近道だから、少し使わせてもらうよ」
と、気のない返事をする。
その直後、前方から黒い車が猛スピードで突っ込んできた。タクシーの運転手は避けようとしたが、間に合わず、正面衝突してしまった。
衝撃でタクシーは急停車し、運転手は呻き声をあげながら座席に倒れ込んだ。後方からも、数台のバイクがけたたましい音を立てて接近してきた。
ヘルメットで素顔を隠した男たちが、次々とタクシーを取り囲む。窓ガラスを割られ、車内には複数の火炎瓶が投げ込まれた。
「…くそっ!」
マイクは咄嗟に車外へ飛び出し、襲撃してきた男たちを拳で追い払った。一方のリンは、負傷した運転手を必死に車外へ引きずり出そうとしていた。
混乱に乗じ、後部座席のドアを開けたカイは、すかさず姿を消した。
「…カイ!」
マイクは、カイを追おうとしたが、またもや火のついた瓶が投げ込まれ、車内で爆発を起こした。
炎に包まれたタクシーは瞬く間に燃え上がり、脱出不可能な状態になった。
その隙に、カイは、仲間が待機させていた車に乗り込んだ。車は猛スピードで走り去り、現場には黒煙だけが立ち上っていた。
呆然と燃える車を見つめるマイクとリン。仲間と合流したカイは、不敵な笑みを浮かべていた。
計画外の襲撃に遭い、カイを取り逃がしてしまったマイクとリン。絶望の中に、怒りと悔しさが渦巻いていた。
呆然と燃える車を見つめるマイクとリン。現場には黒々と立ち上る煙だけが残り、カイの姿は消え失せていた。
「…くそっ… 逃げられたか…」
マイクは、悔しさを噛み殺しながら、T市警に通報を入れた。
電話口に出たT市警の当直官は、
「…容疑者が逃走したとのこと、ご苦労様でした。まずは、怪我の治療を優先してください。その後、T市警までお越しいただき、改めて事情聴取を行います」
と、落ち着いた口調で指示を出した。
さらに、マイクはS市警にもT市での異変を報告した。
救急車が到着し、負傷したタクシー運転手は病院へと搬送された。マイクとリンも、病院で手当てを受けた。幸いにも、二人は軽傷ですぐに処置を終えることができたが、タクシー運転手は頭を強く打っており、入院観察が必要な状態だった。
病院を後にしたマイクとリンは、T市警へと向かった。
T市警に到着すると、待ち構えていたのはベテラン刑事の貫禄を漂わせる署長だった。事情を説明するマイクに、署長は険しい表情を浮かべた。
署長はマイクとリンに謝った。
「…申し訳ないが、今回の事態は我々の不手際だ。君たちにも怪我をさせてしまった」
「…こちらこそ、申し訳ありませんでした。ですが、カイを逃してしまった責任は我々にあるはずです。T市警の手助けになるなら、我々もT市に残り、捜査に協力させてください」
マイクの申し出に、署長は少し驚いた様子だったが、すぐに賛成の意を示した。
「…それは心強い。君たちの協力をありがたく受け入れる。こちらは甲斐という者で、今回のカイの事件を担当している。今後、君たちと連携を取りながら捜査を進めていくことになる」
と、了承の意を示した。
署長は、横で待機していた中年の警官をマイクとリンに紹介した。
「…こちらが、今回の事件を担当している刑事の剣持です。今後の捜査については、彼と打ち合わせをしてください」
紹介された剣持は、40歳ぐらいの精悍な顔立ちをした男だった。にこやかではあるが、鋭い眼光を放っている。
「…初めまして、剣持です。T市警の仕事内容や、最近の事件の概要など、お伝えできればと思っています。どうぞ、よろしくおねがいします」
剣持は、そう言って握手を求めてきた。マイクとリンは、固い握手を返した。
T市での想定外の出来事に見舞われながらも、マイクとリンは、カイを逮捕するため、T市警と協力して捜査を行うことになった。事件の真相究明への道のりは、険しく長そうだったが、諦めることなく、突き進む決意を新たにした。