アリストテレスシステムとは
確かに、奈穂の思惑通り教科書の流れからは、シミュレーションにおける歴史の方向性は離脱しつつあった。
しかし、それは必ずしも彼女の思惑に沿ったものとは限らないのだった。
人々が神殿へと殺到する。手には鋤や鍬、人によっては、いかつい武器を携えて。それをとどめようとする衛兵が、人の波に押しつぶされる。床に転がる死体。無数の人々に土足で踏みにじられ、肉と骨の塊に姿を変える。びしゃびしゃという血が滴る音を立てながら。
思わず目を背ける奈穂。それを、知恵がにやりとして見やる。
普段は、絶対に入ることの出来ない神殿の奥の間。まるで玉座のようにあつらえられた部屋の造りが印象的だった。
大きな机で色々作業をしていた書記官が、ようやくただならぬ状況に気づき、大事な記録の書を放り出して逃げようとするが、それもかなわない。数人の手にかかり、体中に刃を突き立てられ、悲鳴も上げずに絶命する。
力任せに壊される、神殿の宝物庫。きらびやかな光が人々を魅了する。金銀、まさに財宝の山。
『これはそもそも我々のものだ!泥棒ではない、取り返すだけだ!』
そんな怒号の中、人々がその財宝に群がる。取り合いになり、同士討ちもあちらこちらで始まる。
一方、他の一団は神官達の寝所を襲撃する。床の中で絶命する神官。大体は酒と女の匂いがしているものばかりだったが。
「どうかな?」
ここまで見て、ようやく知恵が口を開く。
「どう……って」
相変わらず、画面を直視しようとはしない奈穂。
「これが、あなたの望んだ歴史の結果だよ。結局、平等な世界とか言っても、その先に待つのは果てしない暴力を伴った革命。下手な知識を大衆が持つと、こういうことになる。大衆って言うのは……度しがたいよね」
「それは、違うと思う」
奈穂が今までとは違う強い口調で、反論する。
「奴隷は奴隷のままでいい、っていうのは違うと思う。いろんな試行錯誤をしながら……もちろん、血が流れることはあっても……みんな、幸せになれる方法を考えないと……」
「じゃあ、どうすればいいの?」
知恵が遮るように、そうなげかける。ぐっと詰まる奈穂。数分経っただろうか。奈穂は口を開く。
「歴史を……歴史を学ぶことだと思う。過去の事を知ることによって……」
「同じ過ちを、繰り返さないため?」
ううん、と奈穂は首を振る。
「今と、未来に目を向けることが出来ると思うから」
驚いた顔をする知恵。予想された答えとは異なった、奈穂の見解に。
うん、と知恵はうなずく。
「だったら、一緒に学んでみない?『アリストテレス=システム』で」
ぎゅっと奈穂の手を握る知恵。突然のことに呆けながらも、奈穂はこくんと首を縦に振る。
それは、二人が同じベクトルを歩み始めた、最初の瞬間であった——
豪華な内装の一室。
全体的にアールデコ様式に統一された部屋に鎮座する、これまた見事な執務机。イミテーションではあるが、フランス第三共和政末期のとある大統領の執務机を模したものであった。その机の上には『Directeur adjoint』の表示が小さく記されていた。すなわち『副校長』と。
聖リュケイオン女学園には教頭はいない。実際に教務や進路指導、生徒指導に対して最終的な決裁権を持つ役職であった。当然校長もいるのだが、実質的に彼がこの学園のトップである。しかしその肩書きに比して、見た目はとても若い。いや実際の年齢も二八歳と若いのであったが。
椅子に浅く座っている副校長は目の前のタブレットを見やる。そこには図示化された報告が載せられていた。そして『宍戸奈穂』『ベルナルディ知恵』の名前と顔写真も。
「入学前から、勉強熱心だね」
直立している目の前の女性に、副校長は声をかける。はい、とうなずくスーツ姿の女性。
「特に、この宍戸奈穂という生徒——」
すっと、人差し指でフリックする。副校長の指紋認証で、個人情報表示が承認される。そこには、数字の羅列と『S』という評価が乱れ飛んでいた。
「うちに来た生徒では、極めつけだね。歴史以外は。というかあまりに理系がずば抜けている」
「どうも」
区切りながら、女性が口頭で説明する。
「不確かな——予想なのでアレなのですが、多分出願ミスだったのではないかと。入学後、機会があれば、聞いてみたいと思いますが」
うん、と副校長はうなずく。
「いずれにせよ、期待の星だね。是非学習を積み重ねて、『アリストテレス=システム』をより完璧にして欲しい」
ぐるっと椅子を回し、壁の絵を見つめる副校長。そこには壁一面に『アテナイの学堂』の絵が掛けられていた。
真ん中には、システムの名称のモデルとなった古代ギリシャの哲学者アリストテレスが地上を指さしている。そして隣にいる同じく古代ギリシャのプラトンは空を指差す。真理に対するイデアとエイドスの見方の違いを比喩した有名な名画のレプリカであった。
『アリストテレス=システム』はこの地上で起きた歴史的事件をすべてシミュレートすることが出来るヴァーチャルなシステムである。古代の会戦から現代の核戦争まで、バタフライ効果をも包括しながら完璧に再現することの出来るシステムである。
生徒はその世界に介入し、歴史を変革することによってより深い歴史的背景とこれからの世界をどうすべきかを考察することのできるシステムでもある。
『ビザンツ帝国のコンスタンティノープルをオスマン帝国の侵略から救うためには』
『マリアナ沖海戦で日本海軍が起死回生の逆転勝利を得るためには』
様々な歴史のIFに参加し、その歴史を『動かす』事の出来るシステムである。そしてそれは聖リュケイオン女学園のカリキュラムの中核を占めるものであった。
入学式はあさってに迫っていた。新入生を待ち受けているのは——新しい歴史の創造への叙事詩でもあった——