アリストテレスシステムとの出会い
こつこつと、いくつもの建物の中を進んでいく。どこまでが一つの棟かわからないくらいに通路は複雑に交差し入り組んでいた。
ほぼ初対面ともいえる知恵に、ぎゅっと手をひっぱられて、そんな道を二人で進む奈穂。
一時間前には、到底想像もつかない状況である。
それにしても——奈穂は不思議に思う。迷いのない知恵の歩み。入学前なのに、なぜこの少女は学校の構造に熟知しているのか。そして、どこに自分を導こうとしているのか。
十分も歩いたころだろうか。二人は『第三児戯球戯場』と表記された部屋の前に到着する。知恵は自分の情報携帯端末でその扉をアンロックした。
「あなたの分も特別認証したから、一緒に入ってくれる?」
その言葉には有無を言わさない勢いがあった。その勢いに促されて奈穂は素直に部屋に入る。
そこは部屋というには、あまりにも広い空間だった。真ん中の床張りの空間を、ぐるりと体育館にあるような、一段高いギャラリーが取り囲むフロアである。そして、そのフロアの床の上には、見たことのないようなコンソールが複数の椅子とともに設置されていた。
さらに別の空間には、フィジカル=プロジェクションマッピングの投射装置も見える。
何かをプレゼンテーションをするような場所らしいと、奈穂は想像をめぐらした。
そんな奈穂の様子にかまわず、知恵は慣れた手つきでコンソールの情報端末を起動する。当然、認証が求められる。
『権限を設定してください。』
キーボードを操作する知恵。
『パーミッション:非生徒 But 入学前特別パーミッション付与 許可 B001045』
それと同時に、機械音が鳴り響き、下のフロアの装置が起動しはじめた。
まるで霧がかかったかのように、下の景色が一変する。どうやら映像装置が、機能し始めたらしい。
何が始まるのか、奈穂は不安半分、好奇心半分といった複雑な気持ちで、知恵を見つめていた。
「ようこそ、『聖リュケイオン女学園』へ」
なぜかうやうやしく、礼をする知恵。先ほどまでの無関心さとは別物に、深く奈穂に頭を下げている。
「ええと……よくわかんないだけど。これは何かな?」
下の状況を指差しながら、奈穂は素朴な質問をぶつける。待っていたとばかりに、知恵は説明を始める。
「歴史には様々なIFが想定されます。本能寺の変で織田信長が生き残っていたかどうなっていたのか?逆にヒトラーが、総統大本営ヴォルフスシャンツェで暗殺されていたらどうなっていたか?そんなIFを、あらゆる視点から再現し、そして参加者の介入によって、架空の歴史を『改変』できるシミュレータ……それが『アリストテレス=システム』。この学園の授業の中核をなすシステムです」
当然そんな話を聞いたことがない奈穂は、あっけにとられる。
「宍戸さん……この学校のこと、何にも知らないで入学したでしょ?」
鋭い知恵の質問。その圧力からか、奈穂は素直にうなずいてしまう。
「そうだよね。さっきから、不思議な顔ばかりしてる。そんな人に、この学校に入学してほしくはないんだな」
むっとする奈穂。正直自分だって、入学したかったわけではない。しかも、こんな奇妙なことをさせる学校だとは知らなかった奈穂なのに。
「でも……なんか、引っかかるんだよね。宍戸さん、さっき外国語さらっと読んでたよね」
「ええ……あれはまあ……」
「そういうのが、大事」
「え?」
「歴史を変革する人間は、不思議な力を持っていることが多いの。なんか、あなたにもそんな力を感じて。だから試させて、このシステムで」
うるうると瞳を震わせながら知恵は奈穂の両手を握り懇願する。
(なにこの人……やばい人だ、きっと。っていうか、なんで試されるの?初対面の人に?)
今までに、こんなタイプの同級生にあったことはない。ましてやそれが少なくとも一年間は、同室のルームメイトになることが確定しているのである。
はあ、と奈穂はため息をもらす。
しょうがない。よく、わからないけど、とりあえず話に乗ってみようか、と奈穂は決心する。特殊な学校の特殊な生徒、特殊なシステム。何事も経験、まあ、怪我したりとかはないだろうと自分を必死に納得させながら。
システムが、本格的に稼働する。奈穂にとってそれは、初めての経験であった。そして奈穂の『アリストテレス=システム』の才能の一端が、初めて開花した瞬間でも——
知恵による手慣れたコンソール操作により、眼下に広がる空虚な空間はだんだんとその姿を現していった。
現れる大地。その茶色い大地を、まるで鳥のように俯瞰することができた。乾燥したそれは、日本のものとは思えない風景だった。
「宍戸さん、どこの地域か、わかる?」
「ええ……と。乾燥帯?いやそれにしては、森林の規模が大きいから……温帯?で全く海が見えないから……」
知恵はニコッと笑って、ギュッと奈穂に抱きつく。
「ひいっ!」
突然のスキンシップに、驚く奈穂。
「いいですね。そういう発想……それこそ、歴史好きですよ!」
奈穂の反応をものともせず、知恵はうれしそうに、そうもらす。
やばい人だ、この人。
奈穂は心の中で、そうつぶやいた。明らかに、中学までの知り合いにはいないタイプの人間である。
「ちょっと、時間を経過させます。ちょっと、と言っても数万年単位ですが」
平地を縦断する大河。時間の経過とともに、その地形は変わっていった。しかしある時を境に、その変化があまり見られなくなる。
奈穂はその川のそばに自然物ではない、建物の集団を見つけた。それは時間の経過とともにどんどん大きく、そして数を増やしていくのが観察された。
「文明の誕生です。川沿いに、緑の地域が見えますよね。農地。人類が初めて、生産経済に移行した証です。生産経済は余剰食糧も生む。その余剰食糧に支えれられて文明が成立するわけですよ」
難しいことを、すらすらと説明する知恵。そう言いながら、コンソールを操作する。突然画面空間に巻き起こる変化。大きな水の塊が、建物や農地を飲み込んでいく。いわゆる『大洪水』という現象であろう。
「その文明も、こういう自然災害で、一瞬に消滅してしまうものです。かなしいものですねぇ」
くすくすと、知恵は笑みをもらした。
「……悪趣味だね。あっ、でも水が引いたら、また建物が復活しはじめたよ」
奈穂は、フィジカル=プロジェクションマッピングの一部を指さす。そこにはにょきにょきと天まで伸びそうな建築物が、復興しつつある文明の象徴のように伸び始めているのが見えた。知恵はその声を受けて、コンソールをたたき始める。
建築物が、別ウィンドウで表示される。実際の画面が立ち上がる。神々しく垂直にそびえる建物。まるで、高層ビルのようにも見える。
「ジッグラト……ですね。メソポタミア文明に見られる、神殿です」
「ほー、よくまあ、こんなものこの時代につくるね」
「感心してばかりも、いられませんよ」
知恵は奈穂のほうを向き直り、言い放つ。
「『アリストテレス=システム』で、あなたの歴史改変能力を見せてもらうんですから」
「え?」
奈穂は、間の抜けた声で返事をする。知恵は恐ろしく、まじめだ。
「これから、この文明はいろいろな試練を受けます。この文明を、どのように育てるか。そう、鉄器の登場までを一区切りとしましょうか。それで、あなたがこの学園にふさわしいかどうかを、確認したいです。同室になった者の義務としてね」
にやっ、と知恵は嫌な笑みを浮かべた。
(それって、あなたが決めることなの?)
奈穂は心の中でそう叫ぶが、声には出ない。
『アリストテレス=システム タイトル『文明の興亡』コード〇〇一七八四 シミュレーション開始 非生徒:宍戸奈穂』
知恵は端末型のコンソールを、そっと奈穂に渡す。
それを、黙って受け取る奈穂。眼下に広がる空間が、一瞬歪んで見えた。それがシミュレーション——開始の合図であった。