小望月夜の僕等
家にはまだ、戻りたくない。
正確に言えば、まだ、ではなく。戻らないでいられるのなら、許されるのならば。ずっとこのまま学校に留まっていたい。
夜の帳がおり、昼間の騒々しさがウソだったように、学校は沈黙に支配されている。
一歩進むごとに、踵を踏みつぶした上履きが、きゅっきゅっと小さく悲鳴をあげる。ワックスをかけたばかりの廊下。闇を照り返している。
窓からはライトに照らされた運動場が見える。もう野球部ですら練習をしていない。放り出されたバットやボールが見える。
向こうの曲がりから、ぼうっと光が漏れている。暗がりに浮かび上がる、仄暗いグラデーション。大きな円状の黄色。おれのクラスのある方だ。
こんな時間にまで校舎に残っているのは誰だ。
おれは足音を忍ばせてじりじりと壁伝いに歩く。
女だ。
光の元は、うちのクラスだった。背中を壁にぴったりと沿わせて、首だけを回し教室を覗き見ると、真っ暗な窓の外を眺める女の後ろ姿。椅子に腰掛け、頬杖をつく女の背中は小さく華奢で頼りない。
おれの喉がごくりと音をたてて唾を飲み込む。女心は妖怪よりわけがわからねえ。
なんだってこんな時間に学校にいるんだ。身動きひとつしない姿勢にひるむ。こんな夜中に窓の外なんぞ眺めて。星一つ出てやしねえってのに。
「おい」
女がゆっくりと振り返る。真っ直ぐな髪がさらさらと流れる。
「あら……」
「どーしたんだよ、こんなところで」
きゅっきゅっと床を踏む音。近付くおれを見上げる大きな目。ゆかの白い頬。
「もうとっくに最終下校時刻は過ぎたじゃねえか。真っ暗だぜ」
「そうね」
ゆかはふうわりと微笑むと、小首を傾げる。
「もうこんな時間なのね」
妙に苛々する。窓の外を眺めていたんだから、そんなことわかっていただろうに。
チッと舌打ちして、ゆかの横の席の机に重心を僅かに掛ける。
「女の一人歩きは危ないぜ。親御さんだって心配してるだろうしよ。送ってってやるから、家に帰ろうぜ」
おれがくいっと顎と親指で廊下を示すと、ゆかは「うん」と頷いた。
やれやれ。ほっと安堵の溜息を漏らして、ゆかに背を向け、教室の出口に向かう。
「おい」
「…………」
「ゆか」
「……あ。ごめんなさい。今用意するから」
そう言いながら、ゆかは立ち上がらない。困ったようにはにかんで、出口に手を掛けるおれを見上げた。
じいっと。真っ直ぐな視線。深部を覗き込むような、射るような。おれの値踏みをするような。
きらきらと大きな瞳が、蛍光灯を反射している。
沈黙に我慢がきかなくなるのは、いつだって男だ。
そんなことを、ゆかと一緒に見た映画で学んだ。ゆかは、おれにはよくわからねえ恋愛映画で、幸せそうに笑ったり、悲しそうに泣いたりした。画面と一緒にくるくる変わるゆかの表情。
今のゆかは、まるで能面のように無表情で、向けられた目だけが強い生命力を放っている。
おれは耐えかねて口を開く。
「な、なんだよっ」
どもってしまう。
「ねえ……」
ゆかが視線を窓の外へと逸らす。途端にぎこちなかった心臓の鼓動が元に戻る。
壁にかけられた時計がカチッカチッという正確なリズムを刻む。おれは壁に左半身をもたれ掛けながら、ゆかの次の台詞を待っている。
だけどゆかはそれきり、口を開く気配がない。
ちくしょう。なんだってんだ。
おれの口から溜息が漏れる。
「……詩織。雄介さんと、もう、キスした?」
「なっ……!」
突然口を開いたゆかの声に動揺して、それからその内容にまた動揺する。
なんだよ。わけがわからねえ。
「すっ、するかよっっっ!!」
「そっか」
おれの怒声が教室に響く。ひらりとかわした、ゆかの答えに力が抜ける。
ちくしょうちくしょう。わけがわからねえ。
チッと舌打ちすると、ゆかはガラス玉みてえな生気のない瞳と口調で続けた。
「詩織。あたしねえ。今日、キスしたの」
「へ、へえ。そりゃ、よかったな」
何がいいのか、よくわからねえ。でも、何を言えばいいんだ。何を言ってほしいんだ。ゆかは、おれに何を期待しているんだ。
ゆかの横顔が窓に映っている。
「そうね。よかったわ」
窓に映るゆかの表情は変わらない。
「ファーストキスだったのよ。ロマンティックだった」
「そうか」
「うん。さっきまでね……ああ、もうさっきじゃないわねえ」
くすりと笑ってゆかが振り返る。肩の上で揺れる黒髪。桃色の唇がいつもより紅く見える。
――あたしねえ。今日、キスしたの。
悪戯に笑うゆかがやけに、意地悪く見える。いつも優しくて可愛い、清楚な女の子らしいゆかの、桃色の唇。
「だ、誰と?」
「え?」
きょとん、と目を丸くするゆかに、いつものゆかを見つけてほっとしながら、しまった、と後悔する。
「い、いや。誰だっていいよな。な、なんでもねえや!は、はは、ははは…」
ゆかは丸くした目を細める。口元に手を当て、うふふ、と幸せそうに笑う。
今日のゆかには、妙に、苛立つ。
何を考えているのか、さっぱりわからねえ。
「……大津くん」
「え? 大津?」
ひとしきりクスクス笑うと、ゆかは軟弱もやし野郎の名前を口にした。
いつも本に埋もれている男。ゆかの幼馴染。
しゃべる声はこもっていてどもっていて、挙動不審な男。ゆかより弱そうな男。異常なほど要領が悪くていつもトラブルに巻き込まれて、移動教室ですら時間通りにたどり着けない男。
あんな男と?
「あら。大津くん、素敵な人よ」
ゆかの明るい声と笑顔は、あたしは今幸せなの、と言っているように見えた。
ゆかはモテる。
清楚で可愛くて、頭がよくて優しい。
だから色んな男が集ってくる。中には勘違いしたバカな男もいて、無節操で助平で女好きのどうしようもないアホどももいる。見た目がよくても、人気がある男でも、そんなのだったらゆかは苦労するかもしれない。それならば、軟弱そうな三軍男の方がまだマシなのかもしれない。
ゆかが幸せなら、いいさ。
ふんと鼻を鳴らす。
「……あたしがこんな時間まで、ここにいたワケ、わかる?」
急に消えた表情。さっとシャッターの降りる音が耳に聞こえてくるかと錯覚するほど、あからさまに。ギラギラとゆかの目が強い力でおれを捉えている。
宿直室からだろうか。調子っぱずれな歌声が、微かに聞こえてくる。
「教室から誰もいなくなったのを見計らって」
ゆかの唇がゆっくりと動いて言葉を紡ぐ。
「キス、したの」
「へ、へえ」
「放課後に待ちあわせしようって約束のときにね。今日は絶対に遅刻しないで行くからって。随分力を込めて言うもんだから、なにかあるんだろうとは思ってたけど」
なんでゆかは顔色一つ変えないのだろう。青白い頬は染まらない。
おれだけが恥ずかしい思いをしているのだろうか。それとも女の子って、そういうものなのだろうか。そういえば、女はよく寄り集まって、きゃあきゃあと恋の話をしている。おれにはそんなこと、話を聞くだけでも耐えられそうにない。
今だって逃げ出したくてたまらない。
「ロマンティックだと思わない?」
「そ、そお~だな~。お、おれにはよくわかんねえけど、よかったじゃねえか」
ははははは。乾いた笑い声が喉からカサカサと出てくる。早く帰りたい。
「うん。だから余韻に浸ろうと思って、大津くんには先に帰ってもらっちゃった」
「…………」
「よくわかんねえな、って思ったでしょう?詩織」
ゆかがクスリと笑う。表情が戻ってきた。
「隠したってムダよ。ヘンな顔してた。今」
「ちょ、ちょっとな」
ほっとして苦笑する。
心臓に悪い。いつも通りのゆかと、何を考えているのかわからないゆかと。
「そうよねー。だって、あたしもわかんないんだもの!」
「は?」
「わかんないわよ、あたしだって。なんで、キスされて殴っちゃったのか」
「殴った!?」
ゆかはおれから視線を逸らして、また窓の外を見る。相変わらず空は真っ暗だ。月すら見えない。いや、今日は新月だったか。よくわからない。
「……なんでなんだろう。だってあたし、憧れてたのよ。ずっと」
「…………」
「ちょうど日が落ちてきてね……そうそう、窓から差し込むオレンジ色の夕陽が凄く綺麗だったわ。誰もいない教室っていうのも、ロマンティックだった。いつもはここでみんなと勉強してるんだって思うと、なんていうか背徳感……って、あ。詩織、わかる?背徳って言葉の意味」
「おれだってそれくらい、わからい!」
ムキになって言い返すと、ゆかはくすりと笑った。
「……イケナイことをしてるみたいで、よけいにドキドキしたわ」
ゆかはゆっくりと腕を持ち上げ、机の上に右肘を付き、頬杖を突く。さらりと黒髪が襟を掠める。
「大津くんはきっとね、そーいうこと。全部考えてきてくれたんだと思うの。あたしのために、たくさんたくさん考えてきてくれたんだと思うの」
もしかしたらヌイグルミ相手に練習もしたかもしれない、とゆかは言った。柔らかい声。
「あの、奥手の大津くんが、トチらないでキス出来たんだもの。すごく大変だったと思うわ。本当にロマンティックにすんなりいったのよ」
ゆかは、どうして。
「嬉しかった。あたし、大津くんのこと、好きだったし。好きな男とロマンティックなファーストキス。ずっと憧れてた」
「…………じゃあ」
そこまでわかっていて、相手は好きな男で。それならどうして。大津の野郎が気の毒になってくる。
「なんで、でしょう?」
ゆかが頬杖を外す。
目が合う。
黒い。肩越しに見える闇よりもなお、黒いゆかの瞳。
「なんでなんだろう」
ぎょっとした。
「ゆっゆかっ……!」
「なんでなんだろう。詩織、なんでなんだろう」
狼狽えるおれに、ゆかは構わず続ける。もしかしたら自分で気づいてもいないのかもしれない。
「わかんない。わかんない。あたしにもわかんないのよ…」
青白いゆかの頬を照らす、蛍光灯。透き通る、陶器のような肌の上を滑る、真っ直ぐな黒髪。
窓の外が、微かに明るくなる。雲に隠れていた月がそろそろと、姿を現した。ちょうどゆかの頭の上。
小望月。
あとほんの少しで満ちる、ほとんどまん丸の、しかし一欠け、決定的に足りない。赤みがかった月。
「夢見てたファーストキスの相手は、男の人のはずだったのよ」
ゆかの頬を伝うのは、月の滴。
「……ゆか」
「なあにー?」
数メートルおきにある街灯は、ほとんどが点滅するか、消えているかで、まるで役に立っていない。こんな危険な夜道を一人で帰ろうとしていたのか、と思うと、腹が立つ。
ゆかは確かに腕っ節が強くて気丈で、変態野郎に襲われてもすぐに落ち着いて、相手の男を完膚無きまでに叩きのめすことができるだろう。
その光景を思い浮かべると、笑える。
絶対だ。絶対に、ゆかは相手の男にやり込められることはない。すがすがしいまでに、気持ちよく。全戦快勝するだろう。
手を出そうともくろんだ馬鹿野郎は、電柱に背をもたれて崩れ落ちる。捨てられたチラシが風に吹かれて、最後には電柱にへばりつくみてえに。
「おれはさあ、女なんだよ。おめえと一緒でさ」
女なのに。ゆかは、そうやってなんでもかんでも、自分で決着をつけていかなくてはならなかった。
誰か。男に頼ってやり過ごすことが出来ずに、誰より女の子らしいのに、一人で我慢して、なんでもないことのように笑って。そんなのはまるで男みてえだ。
ゆかがおかしそうに笑う。
「そんなこと知ってるわよ」
「そうか」
「そうよ」
「そんならいいんだ」
おれとゆかは手を繋いで、月夜の下を歩く。
ゆかのスカートが翻って繋いだ手にあたる。湿気を含んだ生ぬるい風が、短いおれの髪と、肩までのゆかの髪を揺らす。明日は雨だ。雨の前日にする、生ぐさい懐かしい匂いがする。
ゆかの手はやわらかい。砂糖菓子のように甘い。
男みてえだな。
男みてえな気性のゆかと、男みてえに女の子を家まで送り届けるおれ。
どっちかが男だったらよかったんだ。おれが、男だったらよかった。
空に浮かぶパズルの、足りない一欠けがはまったら、満月になるだろうか。
今夜は小望月が空に浮かんでいる。野犬の遠吠えが聞こえる。
ゆかを無事、家まで送り届けたら、おれは月夜の下で一人、もと来た道を辿るだろう。街灯は頼りないから、出来れば雲には月を隠さないでおいてほしい。
おれ達二人は、誰より女々しく、幻の男の背中を追い続けていた。
門扉の向こうへと、宵闇に溶けていく、ゆかの小さく細い背中。一度だけ振り返って、おれは明かりの灯らない街灯の下を歩いていく。
ゆかは詩織が男であってほしかったなんて、思っていない。