第981話 彼女の体、彼の体
ハルはアイリの背中にたっぷりと、エーテル入りのオイルを塗り広げていく。
このオイルはさっと塗り伸ばせばそれで問題なく効果を発揮して、そう丹念に塗り込む必要などない。
しかし今は、だからといって一瞬で終了、などとういう場面ではないだろう。ハルもそのくらいは空気は読む。
ハルは小さなアイリの背中をゆっくりと何度も往復し、効率の面では無駄でしかないその作業を楽しんでいった。
「ふおおおおぉぉぉ。気持ちいいです~。ハルさんの手、こうして感じるとおっきいですねぇ~」
「そうでもないよ。アイリがちっちゃいんだ」
「えへへ。わたくし、成長しませんので」
「どう? アイリちゃん? どんな感じか実況してみて?」
「はい! 『ハルさんの手が、優しくわたくしの肌を這いまわります。最初はそっと撫でるようにしていたのですが、次第にその手つきは大胆になり、わたくしの柔らかいところを狙っていやらしく変わってきたのでした』」
「いやらしくない……」
「なるほど? 続けて?」
「はい! 『おなかのお肉を楽しんでいたハルさんの手は、獲物が抵抗しないと見るや行けると思ったのでしょう、おなかから脇腹を辿り、ついにはお胸を横から触ろうとしてくるのです』」
「単に側面にも塗ってるだけだけど……」
「『わたくしがお胸を必死にガードしようとしたのを見ると! その隙と体の硬直を狙ったハルさんは! 今度は無防備になったわたくしのお尻の方に! ……お尻の方に!』」
「はいはい。お尻も今やるから」
「きゃー!」
実に楽しそうである。ちなみに胸の方も、ハルの手が近づくと自ら『塗って』とでも言うように浮かせて隙間を空けてきた。
設定上は、強引なハルに無理矢理されている感じのようである。ノリノリだ。
ハルとしても、希望に応えてやってもいいのだが、いかんせん周囲の目が気になり過ぎる。
ルナだけならまだしも、メイドさんたちに加えマリンブルーも。そしていつの間に来ていたのか、セレステやエメまでも居る。
衆人環視だ。ずいぶんとやりにくい。そういう趣味はハルにはないのだが。
「しかし、わたくしのお尻がハルさん好みで良かったです! わたくし、これ以上成長しませんから」
「小ぶりだけど、ぷりっとしていて良いお尻ね? 小柄なアイリちゃんの体がそれをより引き立てて、良いアクセントにもなっているわ?」
「お尻お尻連呼するのやめない?」
「女子トークに混じった自分の不幸を恨むのねハル」
「そうです! 今は割と大人しいですが、ユキさんも普段はノリノリです!」
「ばーらーすなー」
まあ、それは何となく分かる。ハルの周囲では特に、えっちな話題は女性の方が食いつきがいい傾向がある。
男性の方が清楚、というのは変か。興味はあれど、個々の内に秘める傾向があるのではないかと感じていた。
もちろん、大っぴらに目立つ形においては男性の方がインパクトが強く、そのイメージから世間では男性の方がえっちだという印象が大きくなっているが。
今日もまたその方向に話が流れるのかとハルは予想していたが、その予想はどうやら外れたようだ。
アイリの体を横から眺めていたルナが、その体の大きさについて遠慮がちに触れてきたからだった。
「……そういえば、アイリちゃんがちっちゃいのって、なにか理由があったりするのかしら? 単に、体質の問題?」
「体質といえば、体質ですね。まあ、もちろん普通のことではありませんが! そういえばきちんとお話はしていませんでした!」
もちろん、ハルは既に知っていることだ。彼女と結婚するにあたり、夫として当然聞かされている。
今は何でもないことのように語るアイリだが、当時は結構気にしていたようだ、ハルが受け入れてくれたことをひどく喜んでいたのを憶えている。
それからルナたちとも固く絆を結んだアイリは、もうそんな事はなんでもないと心から思えるようになっていた。
今聞かれるまで本人の中でも忘れていたようで、特に隠しておきたかった訳でもないらしい。
単に話すタイミングが無かっただけのようである。確かに最近までずっと色々忙しかった。
「わたくし、子供のころ、あっ、見た目は今と変わっていないのですが。ともかくこんな見た目に相応しい年齢の頃から、魔法がとっても得意だったのです」
「百年に一度の天才と謳われたものですねー。まーつまり、歴史上最も王家で偉大な魔法使いですねー」
「カナリー様お墨付きなのです!」
そんなアイリを子供のころから知るカナリーも、当時を懐かしむように会話に加わって来る。
梔子の国をずっと見守ってきただけでなく、自分の言葉を地上に伝える巫女としてアイリを選んだカナリーだ。当時のことについても、誰よりも詳しいだろう。
「そういえば当時は特に気にしていなかったけれど、アイリちゃんのMPは、つまり体内に保有できる魔力量は人並外れて高かったわね?」
「そうだね。プレイヤーの初期値以上だった。これはかなり凄いことだね」
「えへ、えへへへへ……」
褒められて照れるアイリだが、実際に恐るべき実力だ。神の使徒としての設定を持つプレイヤー達。それを上回る魔力を扱えるということは、はっきり言って異常である。
最初期にハルはアベル王子と派手な決闘を繰り広げたが、アイリはあの時点でその二人をまとめて消し去る実力を有していた。
まあ一応、カナリーやハルのサポートなしではそのMPを最大値までチャージするのは苦のある作業だ、という制限はあるが。
懐かしい話だ。ハルたちは海を眺めながら、のんびりと当時の思い出に浸っていった。
「わたくし、畏れ多くも神童と呼ばれたものでした。王族だったこともあり、将来国を背負って立つものだと、誰もが期待を寄せていたのです」
「期待ねぇ。あの貴族さんたち憶えてるけどさ、それって真っ当な期待だったん?」
「期待と書いて欲望と読むものよユキ? 貴族なんて呼ばれる連中は、そんなもの」
「相変わらずだぜルナちー」
有力者の黒い部分をずっと目にしてきたルナだ。相変わらず上流階級に厳しい。
しかし、そのルナの嫌味もあながち的外れではなかったようで、アイリもまたその言葉を否定することはしなかった。
ただ、そこは本筋とは関係がない所のようで、特に掘り下げることもしないようだ。
「しかし、現在は皆さま知ってのとおり、わたくしは国政から離れ隠居の身。王女の身分を捨てて、素敵な旦那様と結ばれ引退したのです!」
「やろうと思えば今からでも国政を背負って立てるけどねー」
「むしろ、現在裏で最も梔子の国の権力を握っている王族なのではないかしら?」
「旦那様がさいきょーですからねー。あー、ついでに私も権威として使えますしー」
「クーデターを、起こしますか!」
「起こさないから……、興奮して起き上がらないように……」
ハルは、がばり、と上体を起こしたアイリを優しく落ち着かせ、再び無意味なオイル塗りを再開する。
すぐにとろんとした顔にふやけたアイリは、国家転覆は保留にして再び己の過去について語ってくれた。
「猛獣使いハル君……」
「黙ろうかユキ。猛獣ユキにもオイル塗って大人しくさせるよ?」
「いいと思います! まあ今は、わたくしの話ですね。そんな将来を約束されたわたくしですが、転機が訪れたのもまた早かったのでした」
◇
神童として、魔法の天才としてその将来を期待されたかつてのアイリ。しかし、その人生は順風満帆には進まなかった。
彼女がまだ幼い頃。その実年齢が、今の見た目に等しかった頃、その転機は訪れた。
「わたくしの体が、ある時を境に成長しなくなってしまったのです」
「そか、アイリちゃん、ちっちゃくて幼く見えるって訳じゃなくて」
「そですよー。実際に成長が、止まっていたのですー」
「いつまでも成長しない王女に、王宮は無駄に大混乱だったのです! 今思い返しても、頭がおかしいとしか思えません!」
「あはは。意外と根に持ってる……」
「以前からたまーに、自国には毒づいていたものねアイリちゃん」
自国、梔子の国やその国政に携わる者を語る時、アイリの態度は必ず辛辣な物が混じって、見え隠れしていた。
それは、自身を取り巻く境遇、受けた仕打ち、そして、『その程度の事』で混乱する体制の脆弱さを嘆いたものでもあったのだろう。
「どのように政治の道具に利用してやろうかと目論んでいた勢力の、その全ての陣営の目論見が崩れました。いい気味なのです」
「そしてアイリちゃんはその隙に、同じく不遇な立場だったメイドちゃんたちを引き連れて、私の信徒として独立して僻地に引きこもることに成功したんですよー」
「僻地ってカナリーちゃん。自分の神域だろうに」
「カナリー様には、感謝してもしきれません!」
「まあー、私が手を貸さなかったらアイリちゃん、王宮を半壊させて制圧してたかも知れないですからねー」
「あはは。世界観まる崩れだ。『さいしょのまち』が、魔王アイリの君臨するラスダンになってた」
「そ、そこまではしないですよユキさん~……」
まあなんにせよ、平和な序盤の国に仕立てる必要のあるカナリーと、ギスギスした城を抜け出したいアイリの、両者の利害が一致した結果があのお屋敷に至ったのだろう。
それはきっと両者にとって、そしてアイリと出会えたハルにとっての<幸運>だったのだろうけど、きっとアイリはその道がなくとも、この意思と力によって道を切り開いていたに違いない。
「えっ? あれれ? てゆーとアイリちゃんは、ハル君とおんなじ不老不死なん?」
「不死かどうかは分かりませんが、不老ではあったようです。経験上、あまり素敵なことには思えませんが、でもハルさんと一緒というだけで素敵なのです!」
「一緒なのハル? 理屈の上でも?」
「いや、残念ながら理屈は同じではないはずだ。アイリの体については正直まだまだ僕も分かってないが、僕の方については理解している。そしてそれは、アイリには確実に適用されないだろう」
「なんか、むつかしい話になりそ……」
まあ、このことは今はあまり関係のない話だ。さほど掘り下げて話すつもりはないのでユキにも安心。
「僕の身体データは、エーテルネットとあまりに深くリンクしすぎてね。主体はエーテルネットの方にあると言っても過言ではないのかも知れない」
「つまりその肉体は、正確には『本体』とは言えないと?」
「定義が難しいけどね。まあそれはともかく、そのエーテルネット上の僕のデータは常にこの体と同期してて、僕が傷つけば瞬時に補完をしてくれる。その『傷』の定義が、いつの間にか老化にまで至ってしまったって事だね」
「なるほどね? 確かにそれでは、アイリちゃんの例には適用されないわね?」
「むむむ! 常に、<回復魔法>をかけ続けているってことでしょうか!?」
当たらずも遠からずといったアイリの例えだ。ゲーム的に言うとそうなるのかも知れない。状態異常も含めて治す完全回復魔法、その前には、状態異常『老化』も敵ではない。
そんなハルと、同じような肉体を持つアイリの出会い。こうして語れば運命だったようにも思える。
そうしたアイリの過去語りを聞きながら、ハルはのんびりとオイルを彼女の体に延々と塗り広げていったのだった。
※誤字修正を行いました。誤字報告、ありがとうございました。




