第870話 物証と動機
反エーテル。この時代において、基本的に人間の生活圏ならばどんな場所でも存在するナノマシン、エーテル。それを一切通さない例外的な物質。
ナノマシンは、壁で覆って密室にしてしまったとしても、入りにくくはなるが完全に侵入を防ぐことはできない。
だが唯一の例外が、アンチエーテルの壁で密室化した場合だ。とはいえ、これにも課題は多くある。
「単純に、コストが馬鹿みたいに高い。そのコストをかけてまで、この時代にやろうとする人はほどんど居ないだろう」
「そーなん?」
「そうだよユキ。内部は当然、エーテルネットワークから遮断されてるからね。そのデメリットの方が大きい」
「なるほど。私は特に、絶対耐えられないや。えへへ」
電脳時代の申し子たるユキにとっては本当に死活問題だろう。まさに百害あって一利なし。
「では、現代ではハルさんの世界であのお部屋は存在しないのですか?」
「ほぼね。とはいえ、技術そのものが廃れた訳じゃない。『セキュリティ』としては、最高のメリットを有している」
その言葉に続いてハルがルナへ呼びかけると、阿吽の呼吸でルナが一枚のカードを取り出した。
「これね?」
「うん。『ブラックカード』。僕らにとって懐かしい響きのこれが、まさにアンチエーテル技術の実用例だ」
「アンチエーテルコーティングされたこのカードの内部には、専用の量子暗号の鍵が封入されているわ? これをエーテルネットからハッキングすることは、例えハルでも物理的に不可能よ?」
「すごいですー!」
「ほえー。だからブラックカードは黒いんだねぇ」
「いや、それはまた別の話なんだけど。余談だから割愛しよう」
カードのランク色の基準は、前時代における慣習を踏襲したものだ。それと、塗料の色が偶然に一致しただけである。
「あれ? しかし、ハルさんとルナさんの学校も、ナノさんを通さない学校ではありませんでしたか?」
「ああ、あそこはねアイリ、空調を徹底してコントロールすることで、入り込んだナノマシンを即座に排出しているだけさ」
「まぁ。そうなのですね」
「そうよアイリちゃん? だから、校内への入り口は全部、厳重なエアロック状になっているの」
「すごいですー! うちゅうせん、ですね!」
なのであの学園は入退校が面倒だ。毎回毎回、二重扉を通らなければ出入りできないその手間に、生徒からの不満も多い。
そんな、現代では珍しい『オフライン』の学園だが、今回の調査候補地からは除外する。月乃が学園には近づかない為だ。
ルナの、そしてハルの保護者である月乃だが、特にもう授業参観が必要な歳でもない。
親を呼び出されるような問題を起こすハルたちでもなく、月乃が学園の門をくぐることはほぼ無かった。
その移動記録はエーテルネット上で追うことが出来る。月乃がテレポートでもしていない限り、学園に入ったとは考えられない。
「……え? 無いよね? 奥様がテレポートしてる可能性」
「ないでしょう、いくらお母さまでもさすがに……」
とはいえ、実は超能力は実在することが分かった昨今、その可能性を頭から否定するべきでもないのかも知れない。
ハルはその疑問を視線に乗せて、カナリーやセレステ、そしてエメへと答えを求める。
「ないでしょー。<転移>は超能力じゃなくて、魔法の領分ですからー」
「うむっ。『超能力系』と呼ばれるレアスキルの中にも、<転移>は存在していなかっただろうハル?」
「そっすよー。以前のわたしの企みにあった超能力の覚醒計画でも、テレポートは影も形もありませんでした。<透視>や<念動>、<飛行>なんかがせいぜいっすね。詳しくはスキルシステムの設計者である、アメジストに聞くといいっすよ」
いや、<飛行>もそれはそれで大問題ではあるが、今はそこに言及しても仕方ない。
重要なのは、月乃がテレポートして自由に移動経路を欺けることはないという事実の確定だ。
リコリスもその名を出していたアメジストという神様も気にはなるが、これも今はいいだろう。
直接の面識はないが友好的な神様で、ウィスト同様の研究家気質だったはずだ。
……多少、『使用料』の要求が激しいが。
「まあ、この世に完全なゼロはあり得ないがね。だが毎回そんなことを気にしてはいられないさ。今は、見えている可能性を潰すことから進めるといい」
セレステの言う通りだ。テレポート奥様の可能性など気にし始めたら、魔法少女奥様だったり異世界転生奥様の可能性も視野に入れなければならない。
そんな妄想をしているよりも、現実的に可能そうな所から検証していかねば。
「すまないセレステ。僕がどうかしていたようだ」
「ははっ。なに、愉快な話を聞かせてもらったよ。しかしだハル。その地下室の話も私は、どうにも解せない部分がある」
「もちろんこれもまだ仮説だ。否定材料は歓迎する」
「うむっ。まあ、アンチエーテルの地下室の存在自体はあってもなくてもいい。もしかしたら、ハルのお義母さんは秘密の部屋で何かしてるのかもね?」
推理へ一応の同意を示しつつも、そこでセレステは、ぴしり、と指を一本立ててハルに問題点を提示した。
「しかし問題は、今回はその場所は事件とは関係ない可能性が高いということだ。スタンドアロンであるなら、彼女にプログラムを渡した神にとってもまた密室なのだから!」
「確かに……」
スタンドアロン。主に前時代において、ネットワークから独立して存在する機器のことだ。
独立しているが故に侵入は受けず、ある意味で最強のセキュリティを誇るシステムとなる。
しかし逆に言えば、自分からも外部に影響を与えることは不可能。既に守る物があって、初めて価値が生じる環境なのだ。
現代においては、先述の通りスタンドアロン環境の構築は難しい。何処であろうと空気があればネットに接続してしまう為だ。
そして、現代ではスタンドアロンになったところで出来る事などたかが知れている。前時代の『コンピュータ』に相当する端末は、自分一人の脳の計算力に過ぎないのだから。
人間全ての脳を接続し多大な計算力を生み出す仕様上、スタンドアロン環境を作ったところで『落ち着いてお茶を飲める』程度の価値しかない。
「我々が接触したことが確定している以上、それはスタンドアロン環境ではない。これも確定なのだよハル」
「……確かに。君たちは日本に干渉する際、使っているのはエーテルネットだものね」
「その通り! しかも人間と比較すればごく弱い通信強度だ。そんな状態で接触するには、必ずオープンでなければならない!」
「なるほど」
「君がやりたい放題に出来ているからって、忘れていただろうハル」
「ハルさんは例外中の例外ですからねー。どちらの世界においてもー」
確かにその通りだ。ハルであれば、それこそテレポートも含めて自由過ぎる暗躍が可能となる。
しかし、月乃は普通の人間であり、神様も次元の壁は乗り越えられない。その両者がコンタクトを取るには、十分に恵まれた環境が必要なのだった。
「よってだ、ハル! 私としては、心理的な盲点を探るのであれば、まずそこからにすることをオススメするよ?」
「ふむ……」
「そっすねー。そうかも知れないっす。それに『物証』もいいすけど、『動機』も先に推理しておいた方がいいのかもですね。証拠を持って月乃様とご対面して問いただすことになった際に、またしらばっくれられちゃいますよ?」
「うっ……」
「ハルさんがエメに言いくるめられるとかー、珍しいですねー?」
仕方がないのだ、それだけハルにとっては、月乃の内心が読めないことがショックだったのだから。
確かに物証が揃ったところで、現状なにか『事件』が起きた訳でもない。『ただの出資者としてのサポート』であると言い切られてしまったら、もうハルには反論できないかも知れない。
そこで切り返す為には月乃の目的を、先んじて推理しておかねばならないのかも知れなかった。
「まあ、あまり落ち込む必要はないさハル。どうせまだ時間は掛かる」
「そうだね。その奥様に魔法のプログラムを渡した誰かの調査、そして花の名持つ運営の調査もある」
「大忙しだね。疲れたら、私の胸で甘えて休むがいいとも」
「またセレステはお姉ちゃんぶってないで働きなさいー。貴女なんにもしてないじゃないですかー最近ー」
「ははっ。私はこの家の警備員だからね。仕方ないのさ」
「うわニート! 神からニートが出たっす! この言葉を使う機会が来ようとはー!」
「また古い言葉だねエメ……」
そんな風にとことんマイペースのセレステだが、その助言は非常にハルの為になっただろう。
月乃が『何処で』ハルの目から逃れたのかを気にし過ぎて、『何を』目論んでいるのかを軽視していた。
ここからは忠告に従い、それについても注意深く探って行こうと思うハルである。
◇
「……目的と聞いてどうしても考えてしまうのが、お母さまが実にしょうもない事を考えていた時ね」
「こっそりハル君のストーキングとか?」
「そうね? 他には自分好みの理想の展開に誘導して楽しんでいたり……」
「あはは、そんなルナちゃんみたいなこと」
「するわよユキ? あの人は? だって私の親だもの」
「すごい、説得力なのです!」
まあ、確かに月乃は普段の厳格さから考えられぬお茶目な部分がある。そうしたサプライズを本気で、それこそ常人では考えられぬ時間とコストを使って計画しても不思議はない。
「それでは、あのゲームはお義母さまからハルさんへの壮大なプレゼントなのですね! すてきですー……」
「もちろん、自社の儲けもきちんと考えてはいると思うけれどね……?」
ルナもまた、自らの母が何か恐ろしいことを企んでいるとは思いたくないようだ。無意識に、そうしたくだらないことだったら良いと、そう考えてしまっている。
ハルだってそうだ。違和感ばかりが持ち上がる現状だが、ただの杞憂、取り越し苦労だったらいいと思う。
月乃に限らず神様たちも、その目的の蓋をあけてみたら大したことはなかった、そんな展開が理想ではある。
「じゃあ、ハル君をこっそり優勝させようとしてるとか? ほら、運動会で活躍する子供の姿がみたいー、てやつ」
「運動会て……」
ユキの例えもずいぶんとのほほんとしている。こんな莫大な賞金の出る運動会があってはたまらないのだが。
まあ、ハルもルナも、月乃だってそうした当たり前の経験とは無縁だ。そういう感情が無いとは言い切れない。
「そうね? あるかも知れないわ? たしか、ハルを<王>様にしようとしたのでしょう?」
「恐らくね」
「お母さまだって、ハルがそうしたトップに立つのを避けているのは良く知っているわ? 指輪を通じて介入してでも、そうさせたいのかも」
「まあ、もしそうならゲーム内でくらいやってあげても良いけどさ……」
理屈は一応通るが、さすがに納得するには至らない。やはりまずは、調査をしっかり進める必要があるだろう。
「……何にせよ、多方面から調べを進める必要はある。色々な人に声をかけてみよう」
「それって神様?」
「それもあるけどねユキ。今回は日本のことだから、日本に居る人にも協力を仰ごうかと」
「おお。めずらし」
中でも、せっかく秘密を共有したシルフィード。そしてソロモン。月乃ほどではないとはいえ、日本においても大きな能力を有するこの二人にも、力を借りようと考えているハルだった。




