第81話 問いと覚悟
ルナはそうしてしばらく話した後に、ログアウトしていった。向こうの世界の対応をしてくれる。
ユキも今はその手伝いに行っており、こちらにはプレイヤーはハル一人だ。任されたアイリがとても張り切っていた。
アイリは“向こうのハル”という存在に対して、いまいち実態が掴みきれないようで、今の事態にどう対応していいか図りかねている様子だ。だが、帰れなくなったということは何となく察しているようで、しきりに励ましてくれている。
ここで、もしハルが落ち込んでしまったりすると、事の提案者であるアイリに責任を感じさせてしまう。なので、ハルは努めて気にしない風を装った。
実際、ハルは特に深刻になっているとは言えないだろう。
もちろん問題は大きい。今もルナに心配と迷惑をかけてしまっている。やり残してきた事や、果たすべき責任も向こうには残っている。
しかし、ハルとしては今は、こちら側に来られなくなってしまうよりもずっとマシだった。
ルナやユキともこちらで会う事は出来るのだ。現状、すぐに影響するような問題は無い。
なので今、ハルには特にやることは無かった。
「ルナにも釘をさされちゃったしね」
「うかつに動けないのですね!」
「そうだね。何もできないや」
「でしたらまた、わたくしとのんびり過ごしましょう」
「それがいいかもね」
しかし、やる事が無いからといってのんびり出来るかといえば、そうも行かなかった。案外、降って来る事柄は多かったのだ。
ハルは今、生身であり、この世界にはハルの体調を管理してくれる便利な医療用ポッドは無い。
つまり、今までと同じように過ごしていると、喉が渇き、おなかが空き、お手洗いに行きたくなる。眠くは、ならない。そこだけは普段と同じ。
それが周知されると、メイドさんの行動は早かった。
ハルの両脇を抱えるように手を引いて連行すると、入れ替わりたち替わり現れて、生活に関わる部分の案内をしてくれる。
『ご用命の際はなんなりとお申し付けを』、と皆に念を押される。お世話したい鬼気が体から漏れ出していた。
あまりの勢いに少し不安になり、アイリに助けを期待するが、アイリは後ろからてこてこと付いてくるだけで、目が合ってもにこにことするだけだった。
終いには関係ない所まで、屋敷中を案内されてようやく解放された時には、だいぶハルは憔悴してしまっていた。
何ということはない、運動不足なのだ。いや、筋肉の質は問題ない、ハルの筋肉は誰よりも万全に調整されている。ただ、それを自力で動かすのに慣れていないのだ。
どれだけエーテルに頼っていたかを実感する。
「すみません、ハルさん。メイド達、はりきってしまったようで」
「今までは、まるでお世話し甲斐のない体だったもんね」
「これからは、そのポッドの代わりに全てメイドに任せておけば問題ありませんよ」
「なんだろう……、想像したら余計に堕落感が増したから、それは止めておこう……」
生活の全てをメイドさんに任せる男。どう考えても駄目だった。筋肉も衰えそうである。
今までは、ハルの、ルナとユキもだが、世話をする部分が少なく、自らの存在価値に疑問を抱かせてしまっていた部分もあるのだろう。
それが爆発したのと、恐らくもう一つ。アイリの夫(メイドさんの中では確定している)であるハルが、彼女と同じ肉体を得た。その喜びを表現している部分もあるようだ。
ものすごく期待されてしまっている。びしびしと、それが伝わって来た。
◇
そんな歓迎の意を込めてか、食事はものすごく豪勢で、性の付きそうな物を用意して貰ったのだが、ハルとしては珍しく、全てを食べきれずに残してしまう事になった。
無限に入るプレイヤーの胃袋とは違い、ハルの肉体はそこまで大量には食べられない。分身の方に食べさせても良いのだが、肉体がある今、それも変な話だ。
メイドさん達にお任せする。
体はまだ汚れていないのだが、やや強引にお風呂もお勧めされ、メイドさんも当然のように付いて来そうになった。
アイリの、『主がまだ見ていないハルの裸を見ることは許さない』、という一声で事なきを得た。その理由はともかく、助かったので感謝しよう。
そんな風に、人の体を得た事による戸惑いの連続で、案外あわただしく時間は過ぎて行った。
こちらの時刻は夜となり、そんな忙しなかった一日が終わって行く。アイリはいつものように眠りにつき、隣のベッドでハルが見守る。
そんな中、ルナとユキが戻って来て、アイリを起こさないように声を遮断しての、静かな報告会が始まった。
「ハル君も大変だったね。ぷくく……」
「笑い事ではないわユキ。……笑ってしまうけれど」
「まあ、僕の為に奔走してくれた君たちには笑う権利があるよ……」
メイドさんにお世話されるご主人様のハル、というシチュエーションが可笑しかったようだ。自分の柄ではないと、ハルも思う。
向こうの世界の事は、滞りなくルナがやってくれているようだ。それを思えば、笑いを提供するのもやぶさかではない。
「にしてもハル君、分身消さないの? 今要らないでしょそれ。それ無ければ少しは体、楽になるんじゃない?」
「……どうもね、この体が、こっちの世界の体って意識があって。消してしまう事で、肉体の方が本当にこの世界の物になっちゃう気がしてね。……まあ、感傷だね」
傍でじっとしていた分身の口で、ハルはそう語る。
肉体がこちらに来た今、そちらが基本のハルのようになっているが、それが来る前はこの分身が、この世界に元々居たハルだ。
それを消し去ってしまう事で、肉体の方が本当にこの世界に定着してしまうような、そんな錯覚があった。これは何かの直感等ではなく、明らかに錯覚だと理解しているが、どうしても踏み切れない一歩であった。
「まあ気持ちは分かるけどね。疲労度と空腹度がいきなり実装されたんだもん、バージョン1の頃のキャラを使って安心したくなるよね」
「ハルは空腹度が好きじゃなかったわね」
「空腹度がメイン要素になってるゲーム以外は、ただのストレス要素にしかならない事ばかりだからね」
「食べ物持ち歩くよりも、常に飢餓状態の方が効率良いゲームあるもんね。あれなら無い方がいい」
空腹度、または満腹度。人間はおなかが空くという当たり前の事を、ゲームへ取り入れた要素だ。これの扱いは案外難しい。
おなかが空く事によってデメリットが生じ、それを避けるために食べ物アイテムを作り、持ち歩く。それによってゲーム性をひとつ生じさせる事が出来るが、きちんとゲーム内容に合っていないと、単にわずらわしい作業が一つ増えるだけになりがちだった。
ユキの言ったように、無視した方が効率が良かったりすると本末転倒である。ぐぅぐぅおなかの鳴る音を常時響かせて、飢餓によりHPが減っていく。しかしそれは自動回復で問題なくまかなう事が出来る。
なんとも脱力する見た目になるのだ。余談であった。
「ハルは、その体がわずらわしいかしら……?」
「いいや。今までとの差異に戸惑ってるだけ。わずらわしかったら、この体を再現しようとは思わないさ」
「ポッドの中に居ると怠けちゃうもんね。私もそうだ」
「ユキも気をつけなさいね? 人ごとではないのだから」
「はーい」
怠けている。その通りだろう。全ての調整をナノマシンに任せて、データ上は完璧な体を保つ。だがナノマシンが無くなるとこれだ。
現代社会はエーテルに依存しすぎている、という警鐘を体言した悪例と言えよう。前時代派にでも見つかったら大変だ。
「ハル君、ナノマシンは持って来れないの?」
「持って来れるよ。というより、作り出せる。簡単にね。エーテルの組成は誰よりも熟知してるもの」
「でも影響が読めないわよね?」
「うん、うかつな事はしないでおくよ。最終手段として、考えてはおくけど」
「ハル君がこの世界にあっちのエーテルを蔓延させて、それであっちと通信するんだね」
「……それは、侵略になっちゃうのかな」
文化の根幹、そのものの持ち込み。強制的に文明を一段階上げる事になりかねない。
ナノマシンには安全装置がかけられており、人類が、この場合はハルが望めば安全に削除出来る仕様にはなっているが、それでもこの世界での影響は読めなかった。
具体的には、自壊の寿命が非常に早く、人類が能動的に更新してやらねば全滅する。という仕組みを持ってセーフティとしている。
簡単に言えば非常に好き嫌いが激しく、特定の組成の食べ物でしか増殖しない。それを与えなければいけないのだ。
「最終手段とは言うけど、それ以外に案はあるの?」
「そうだね、まずは。カナリーちゃん」
「はーい」
「ゲームから出られなくなっちゃったんだ、助けてくれるかな?」
「……そう言われましてもー。“通常どおり、ログアウトは可能なようですが?”リアルと通信が出来ないのは、このゲームの仕様ですのでご理解くださいー」
「ありがとね、カナリーちゃん。これが一つ目」
カナリーを呼び出し、二人で茶番を演じる。先に確認しておいた事だ。
ログアウトのコマンドは、この状態でも動作するようだった。結果が読めないので試してはいないが。
この、謎技術の集大成であるようなゲームだ。ログアウトすれば、何の問題もなく肉体ごと元に戻る、などという事態も起こり得そうだった。
明言しないが、カナリーの言葉を聞くに、そうなる可能性は高いとハルは感じる。
「……もし本当なら、それが最終手段で良いのではなくて? 少し気が楽になるわね」
「気は楽になるけど、最終手段には出来ないね。何も起こらなかったらお終いだ」
「そうね。その通りだわ」
「二つ目は?」
「通信手段を持ってる人に、それを使わせて貰う事をお願いする」
この世界は、扱いの上ではゲームの中だ。……非常に疑わしいが。
地球と完全に隔絶された異世界ではない。常にプレイヤーが通信して接続している。その機能を維持するために、こちら側からの通信手段を持っている者は存在する。
「運営、神様って事だね」
「うん。特に、リアルと深い繋がりを持ってる人を僕らは知ってる。その人に話してみよう」
日本の地に物理的にオフィスを構え、そこで人としての姿を持っている神。小林さんことアルベルト。
あの人に、話を聞いてみようとハルは思っていた。
◇
「……方針は分かったわ。向こうの方は一週間は問題は出ないから、焦らず進めなさい」
「私も手伝うよ!」
「ありがとう、二人とも」
「さて、それはそれとして、ハル?」
「なにかな?」
ルナが居住まいを正す。元々伸びていた背筋が更にピンとし、元々真剣だった瞳は更に鋭さを増した。
真面目な、話だ。ハルに緊張が走る。制御の甘くなった体が、ごくりと喉を鳴らすのが分かった。
しかし、今までも真面目な話をしていたはずだ。それもある種、生命に関わる類の。それ以上の内容が何かあっただろうか。
もしや向こうの世界で何か問題が、とハルが身構える。
「アイリちゃんが、いつも通りに寝ているのは何故なのかしら?」
「……はい?」
そんなルナの口から出たのは、予想外の言葉だった。
「あー、ルナちゃんさん、やっぱり分かってませんよこの男。ダメダメですよ」
「そうね。おしおきね?」
「なんでなのさ!」
寝耳に水だった。いきなり、おしおきされてしまうようだ。
おしおきと言うよりお説教か。ハルも背筋を伸ばして聞くことを求められる。
「いいこと、ハル? あなたは言ったわね、『この世界が確たる物だと分かったら、その時はアイリちゃんと結婚する』、と」
「はい」
「あなたの体はこの世界に囚われ、戻れなくなった。しかし結果的に、この世界は確かなものだと証明されたような物ね?」
「はい」
「確かに現状は大変だわ? でもそこだけは朗報だわ。なのに何故、あなたはアイリちゃんを抱かないの?」
「わざわざ時間もログイン場所もズラして来たんだよー私達」
「……待って?」
「待ちません。メイドさんの対応もそういう事でしょうに。ついに二人が真に結ばれるから喜んでいるのよ?」
それはハルも理解している。だが話が飛びすぎではないだろうか。
いやこの世界の結婚は、式を挙げたり等ではなく、夜を共にする事なのも理解している。だが話が飛びすぎではないだろうか。
「でも今は非常時であって」
「ならば非常時はいつ終わるのかしら? その保障は無いでしょうに。ならまずは、先の誓いを果たしなさいな」
「『確定したら』、『非常時が終わったら』、次の言い訳は何かな、ハル君」
「待って! 君らは勢いだけで話を有耶無耶にしようとしている!」
「ちっ……」
「聡いハルね。駄目よ? 非常時ならもっとアタフタなさい。そして流されなさい」
散々であった。
だが非常に良いタイミングだったのは事実だ。今のハルは表情を読むだけの余裕が無い。つい流されてしまいそうになったのは確かだ。
「そこまで非常時感は無いからね。……ああ、墓穴掘ったな」
「やっぱ非常時じゃないんじゃん」
そして彼女たちの言いたい事も分かる。なんやかやと、理屈を捏ねて先延ばしにしているのは確かだ。
アイリからはもう、曲がりなりにもプロポーズを受けている。それをダラダラと引き延ばしているのはその通りだ。
結局の所、ハルに覚悟が足りないのだ。世界の違い、常識の違いと言っていても根底にあるのはそれだった。
「急であったのは、分かるわ。ハルの時間感覚は、普通と違うものね?」
「ハル君の時間は長そうだもんねぇ」
「それを押し付けて、甘えてる自覚はあるよ」
「アイリちゃんも、私も、それは同じよ。こちらの感覚を、自分の世界観を、ハルに押し付けている」
「って、ルナちーもそうなの?」
「それはそうよ。世界と自分が一致している人間なんて存在しないわ」
ハルが常日頃から感じている感覚のずれ、自分と世界の認識の乖離。
人はかくあるべし、と定義する世間の常識。それと自分はずれているのではないか、という感覚だ。ハルはそれが大きい。
いや、疑問を呈するまでも無く、確実にずれていると自覚している。
だがハルに限らず、誰もが多かれ少なかれそういった気持ちは胸に秘めているだろう。考えてみれば、当たり前の事である。
「……ともかく、このまま放置していたら、ハルは今後も何かと理由を付けて先延ばしにしそうだったから」
「そうだね。そうかもしれない」
その世間と切り離された今、アイリと正面から向き合う良い機会なのかもしれない。
この現状も、そう前向きに考えよう。
そう答えると、彼女らの追及もそこまでになった。再び追求されないよう、努力しようとハルは誓う。
「ところでルナちーはどうするの? 向こうで、向こうのハル君と結婚する?」
「もうハルは向こうの世界に戻らないかも知れないのよね」
「いや、戻るつもりだけど?」
「分からないわ? 私も、こちらへ来ようかしら。ハル、出来る?」
「……なんとも言えない」
随分と思い切りの良い話だ。ハルよりも現世にしがらみの多そうなルナだが、その目はあながち冗談で言っているようではなかった。
「そうしたらルナちー、こっちで第二妃になるんだ?」
「いいえ、内縁の妻になるわ」
「……なんて?」
「この子、いつもこれ言ってるんだ」
家庭環境が少々特殊な彼女だ。ルナもルナで、少々世間とずれているのだった。




