第771話 天上にも昇る気分
そわそわと待ちわびるカゲツに向けて、ハルは小さな収納籠に入れて提出する。
ついでとばかりに紅茶も一杯注いでやり、そこに隠し味にと混沌溶液を数滴ほど注ぎ入れた。
すぐに、ふわり、とテーブルの上いっぱいに良い香りが漂いはじめて、カゲツも思わずうっとりと目を細める。
「う~ん、良い香り。この香りの前では、のんびりと雰囲気を楽しむべきなんでしょーけどぉ、ウチはもうはしたなくもお腹が鳴っちゃってますぅ」
「どうぞ、好きなだけ食べてよ。食べきれないほど、生地は練っちゃったしさ」
「そぅですかぁ? それではではでは、いただきます!」
待ちきれないとばかりに、カゲツはクッキーへと手を伸ばす。一枚ずつなどと上品にまどろっこしい事はせず、指の間にそれぞれ挟みこむと、三、四枚を一気に手元に引き込んだ。
そして、そのうち二枚いっぺんに口に放り込むと、数度噛みしめると、カッ、と目を見開いて席から立ち上がった。
「これは! この味はぁ!!」
「うわ、どうしたのさ……」
「鼻腔に襲い来るカカオの風味! 舌を蹂躙するチョコレートの甘さ! ザクザクとハーモニーを奏でる生地の歯ざわりはぁ! ま、さ、に、絶品!! これぞ天上のシンフォニー!」
「あ、はい……」
「ウチは今、至高の感動に酔いしれておりますぅ~」
「良かったよ、気に入ってくれて……」
少々、いやかなりオーバーなリアクションを決めるカゲツに若干引きつつも、ハルは己の料理の出来栄えに確かな手ごたえを感じる。
こんな反応を見せておきながら、ケイオスたちのように不合格ということはありえないだろう。
「気に入ったもなにも、ウチ、こんな美味しいもの食べたの生まれて初めてですぅ~」
「大げさな。そんなはずはないだろう? 確かに出来映えは自信をもって保証できるとはいえ、“ありがちなものだよ”?」
「……あ、いえ、こほん。ハルお嬢様の手作りクッキーなんて、全国のファンの方々が求めて止まない逸品。それを頂けるなんて、役得の極みですなぁ~」
「まあ、手料理なんて確かに滅多にしないよね」
《欲しい!!》
《食べたい!》
《嗅ぎたい!》
《ぺろぺろしたい!》
《あーもう黙れ!》
《商品化しよ?》
《『お嬢様の手作りクッキー』?》
《商品化したらもう手作りじゃないんよ》
《手作り(工場生産)》
《なんだっていい! 食べさせてくれ!》
思わず『生まれて初めて』と口にしてしまうカゲツを、彼女にだけ分かるように目線で制するハル。それだけで彼女も、はっとしてすぐに流れを誘導した。
そんな出来る女カゲツですら、つい本音を漏らしてしてしまうほどの感動だったのか。
それを与えられたことは素直に嬉しいハルだが、出来ることならばもっと、自然な美味しさで初体験を与えてやりたかった気持ちもある。
「でもこれは、本当にヤバいですなぁ~」
五枚、六枚と、次々と止まることなくクッキーを口に運び続ける。カゲツの語尾も、そしてその口角も、これまで以上に上ずって上がりっぱなしだ。
頬を押さえて幸せそうに目を細め、もしゃもしゃ、といつまでもクッキーを咀嚼し続けていた。
「おおっと、そうでしたなぁ~。お紅茶もせっかくなので、頂かなくてはなりません~」
「あっ」
この先の展開が、なんとなく読めたハルだ。ハルが心の準備を決める前に、カゲツはクッキーを片手に紅茶を引き寄せて、一気にカップをあおってしまった。
「この味わいはぁ! このハーモニーはぁ~!」
「やっぱり……」
そうしてしばらく、会場全体にカゲツの絶叫、もとい美味しさを解説する大げさな実況が響きわたったのだった。
◇
「……ふう、はてさて、実に実に堪能させて頂きましたぁ」
「良かったよ。すごい食べっぷりだったね」
「ウチったら、お恥ずかしいですぅ。はしたなくしちゃってぇ」
「いや、いいんだけどね。僕としても嬉しくはある。ただ、あんなにクッキーだけ食べて、おなか膨れちゃわない?」
「お腹ですぅ? あ、この先の審査ですかぁ。それなら全然、影響などあらしませんよぉ~」
「さいですか……」
影響などないようだ。あれだけ食べて。流石は神である、胃袋もまた神級だ。
とはいえ、勝負という観点でいえば、もはやハルの勝利は揺るがないだろう。手前味噌で申し訳ないが、あのクッキーの味は越えられまい。
この場の材料でケイオスとソロモンがどう知恵を凝らしても、ほとんどズルに等しいハルの検索力に敵う道理はなかった。
そんなハルがカゲツの元を離れ、自分のキッチンへと戻って行くと、その道中には悔しそうにギリギリと歯を噛みしめるケイオスと、なんだか思いつめた様子のソロモンが立ちふさがっているのだった。
「くっ、おのれおのれ! 卑怯だぞハル! 一人だけ、あんなにリアクションを貰ってからに! 我もリアクションが欲しいぞ!」
「悔しいポイントそこなのか……」
「当然よ! 料理ものにて、リアクションの派手さはそのまま勝敗に直結する! これでは、勝負はもう決まったようなものではないか!」
「……まあ、あれを食べてしまえば、文句の付けようもないがな。それにオレたちは、ローズの努力の様もこの目で見ている」
「しかし、しかしなぁ!」
「まあ、気持ちは分かるよ。材料さえリアルと同じなら、きっと評価されてたのは君たちの方だし」
「あまり余計な謙遜をするな」
ソロモンは褒めてくれるが、これはハルの素直な気持ちだ。
カゲツは(文字通りに)生まれて初めてあれを口にしたが故に、あれだけの高評価をハルが手にするに至ったが、あの調味料は何でもかんでも入れればいいという万能薬ではない。
あれは圧倒的な芳香の暴力で、ある意味一時的に脳の処理をバグらせることで過剰な美味しさを演出するものだ。
ゲーム内の食材たちが、味気ないことは何も変わっていない。
本来ならばあれを使わずとも、食材が元々その身に内包する味わいが複雑に絡み合い、自然と似た効果を発揮するものなのだ。
つまり、現実で同じことをしても、かえって『やり過ぎ』になってしまう可能性が高い。
あれはこの味気ないゲーム食と、同様にそのままでは食べにくい栄養スティック専用、と言って良いだろう。
「しかしだ、いくらこの魔王のようにわめいたところで、」
「我はわめいてなどおらぬのだが!?」
「……うるさい。わめいたところで、オレらにはこの場ではどうすることも出来ない」
「……そうだな。どれだけ我がわめいたとて、急にこの場の材料が美味くなったりはせぬからな」
「わめいている自覚あるじゃないか……!」
ケイオスのノリに付いていけていないソロモンだった。ソロが多い弊害である。
「まあ、わめく、わめかないは置いておくとして、それならばどうする? どうあっても勝てぬと知って白旗を挙げるかい?」
「断じてまさかよ! 例え料理とて、魔王に撤退の二文字はない! 逆境であればこそ燃えるというもの!」
「……そうだな。だが、いくら精神論を語ったとて、オレらに勝ち目が薄いのは事実。そこで、お前と取引がしたい、ローズ」
「構わないよ。あれを、君たちも使いたいんだろう?」
ハルが自らのキッチンを指さすと、そこには使い切らなかった混沌溶液の残りが鎮座している。
未だその場にあるだけで異様な存在感を放つそれを視界に入れて、二人が喉をごくりと鳴らす。それほどの異質さだ。
ハルのクッキーがあれほどの評価を引き出したのは、ひとえにあれのおかげ。あれが無ければ、ハルもまたカゲツに『微妙』と切って捨てられたことは想像に難くない。
逆に言えばあれさえあれば、それだけで二人もハルと同じステージに立てる。いや、料理の腕のある分、ハルを上回ることだって夢ではないだろう。
「えー! それこそ卑怯じゃん! その秘伝の魔女のスープだって、ハルちゃんが頑張って作ったのには違いないじゃん! それを横からかっさらおうなど、恥ずかしくないのかー! ケイオスー!」
「黙れいちびっ子! 我とて、そんな魔王の名に悖る真似をするものか! ええい、やはり我は自力で、」
「話がこじれる、黙っていろ魔王……」
ユキが、この話の流れは我慢ならぬとばかりに観客席から援護射撃を飛ばしてくれる。
ハルがせっかく作り上げた渾身の一手を、彼らが利用して簡単にハルに並ぶなど許せないようだ。
ハルとしては、あれはあくまで借りものであり、自分の料理の実力ではないと自覚があるので別に構わないのだが、それでもユキの言もまた正しい。
その存在をあらかじめ知っていた知識、そしてそれを再現できる実力、それもまたハルの『料理の腕』であると言えもしよう。
故に、その渾身の成果物を借り受ける為に、ソロモンは自ら条件を持ち出すのだった。
「『契約』だ、ローズ。この試合でそいつを使わせて貰う代わりに、オレたちは望みの対価を支払う。言い値で買おう、好きに指定しろ。<契約書>を書いても良い」
「なんだと!? 好きにする、ということは、貴様がハルの一日ペットになる、ということか……」
「いやしないけど……」
「誰がなるか!! 我関せずの顔をするな! お前も一緒に対価を払うんだよ魔王!」
「え~、といってもね~口約束じゃね~。貴様は今、<契約書>を使えなくなっていることを忘れておらぬか?」
「くっ、しまった……」
「別にいいさ、口約束で。まあ、『貸し一つ』、ってとこかな。後で僕のピンチの時にでも、助けてもらうさ」
必死に取引を持ち掛けてくるソロモンと、なんだか乗り気ではないケイオス。ケイオスの方は、何となくこの後の展開に気づいているようである。
そんな二人に、ハルは喜んで例のスープを提供する。これで、再び条件は五分、いや、若干ハルが不利か。
しかし、このままおいそれと負ける気などハルにもない。ハルもまた、次なる一皿の作成のため、キッチンへと戻るのだった。




