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エーテルの夢 ~夢が空を満たす二つの世界で~  作者: 天球とわ
2部4章 カゲツ編

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第770話 現代人の必需品

 先ほどカゲツが言っていた通りに、ハルが生地をオーブンに入れるとまるで時間が加速したかのように高速にクッキーは焼き上がった。

 蓋を開けると、香ばしい香りがほんのりと漂ってくる。これは普通のチョコクッキー特有のものではなく投入した材料の影響だ。


 普通なら、ただクッキーを焼いたところでここまで香りが高くなることはない。

 あのドロドロに溶け合った混沌カオスのスープ、あれには自身の他に追加投入した素材の芳香ほうこうを増幅させる作用も備わっているのであった。


 チョコレートの美味しそうな匂いが、周囲にたちこめ食欲を刺激する。


「うん。良い香りだ。君たちにお届けできないのが残念だよ」


《残念だー!》

《だいじょうぶです! 見てるだけで美味しそう!》

《お腹減って来る》

《確かに、匂いが感じられないのはなー》

《でもそれが普通じゃね》

《俺もそう思っていたんだが》

《こんなの見せられちゃな》

《運営さん、匂いも届くように改造してー》

《プレイヤーの匂い嗅ごうとする人が出るからだめ》

《ローズ様、くんくん!》


「うん。やめようか。普通に嫌だ」


 今の体に体臭など無いはずだが、それでも行為自体が普通に気持ち悪いハルだった。

 普段、周囲の女の子たちにやられるだけでも恥ずかしいのだ。見ず知らずの視聴者が寄ってたかって、となるともう絵面えづらからして絶望的だ。


 ハルは匂いが彼らに届かないことに謎の安心感を覚えつつ、出来上がったクッキーを、まだ熱々で熱の冷めやらぬまま一枚つまんでみる。

 焼きたてで、ふにゃり、とまだ柔らかい。もう少し冷えて完成だが、この状態のまま頂くのが製作者の特権だ。


「うん、美味しい。そしていつもの味だ」

「おいおま……、『いつもの』って、いつも家でそんな恐ろしいモン作っているのかハル(ローズ)……!?」

「……現代版の魔女といったところか。何の為にそんな物を作っているかは、聞かないでおこう」

「失礼な。君らも食べれば分かるよきっと。『ああ、いつもの』だって」


 ハルのその言葉に誘われて、おっかなびっくりとしつつも、しかし怖いもの見たさもあってかケイオスとソロモンがハルの厨房に寄って来る。

 彼らも、自分たちの自信作がカゲツに一刀両断とばかりに切り捨てられてしまった為、次に何を作ったらいいかに迷いが生じていたのもあるだろう。


 遠巻きに最初は見ていたが、この香りに誘い込まれるようにして、ふらふらと半ば無意識にクッキーに手を伸ばしてしまう。


「はっ! ま、まさか毒ではあるまいな! この場で我らを始末して、労せず己が権利を得ようと!」

「……ありえるな。今のオレ達は、ステータスからなにから全て封じられている。状態異常の耐性も、またなくなっていると思った方が良い」

「……バカなこと言ってないではよ食べな」


 どれだけ警戒しているのだろうか。まあ、あの製造工程を、それによって出来上がったあの『魔女のスープ』が材料になっているのを見た後だと、その気持ちも分からないでもない。


 ただ、今の体がどうこうと言うのならば、それはハルとて条件は同じだ。

 もしもこれが毒であるならば、最初に死んで勝者の権利を失うのは先ほど自分で味見したハルになるだろう。


「ご、ごくり……」

「口で言うか、普通」

「それだけ恐るべき相手だということだ! ……見た目も匂いもまともなのが、なお怖ろしい!」

「……たしかに」

「漫才してないで『せーの』で食べな」


 いつまでもクッキーを指でつまんだまま動かないのではらちが明かない。そこまで警戒されると、ハルも少し自信がなくなってくる。

 まあ、未知なるものへの恐怖は、人類に備わった基本の機能。“これ”を初めて見た日本の人々も、当時は同じ気分だったろうか?


 ハルは二人の背中を強引に押すと、掛け声をかけて無理矢理食べさせた。


「はい、せーのっ」

「むぐっぅ!?」「ええい、仕方ない……」


 二人は覚悟を決め、そのクッキーを口の中に放り込んだ。





「これは、この味はぁ! 覚えがある、覚えがあるぞぉ!!」

「……た、確かにこの味はどこかで。しかし何処だったか。そして、美味うまい。噛むと中から、凝縮された芳香が立ち上る」

「美味い、美味いぞぉ! そして貴様! そんな詳細な言語化などするでないわ! 風情ふぜいが壊れるわ!」

「黙れ! 叫ぶな! 貴様こそ、そんな状態で風情を語るな!」

「気に入ってくれたようで、何よりだよ」


 クッキーを一口かじった彼らは、その瞬間に目を見開いてその味わいに驚愕きょうがくした。

 ソロモンの語った通り、この料理のキモはまさにその部分だ。噛んでクッキー生地が粉末状に砕けると、そこから口内に一斉に芳香フレーバーが立ちのぼる。


 そんな香りの暴力によって、脳は強制的に旨味うまみを感じてしまう。

 味覚、嗅覚と五感のうちでは区別があるが、こと『食事』という行為となり、『美味しさ』という定義の中ならば、両者は切っても切り離せぬもの。


 嗅覚無しでも味そのものを感じることは出来るが、どうしても味気ないものに思えてしまうのは周知の事実だ。

 その逆を突き、爆発的に嗅覚に作用させることにより、本来味気ないものであってもその実力以上に美味しく感じさせるのがこの戦略である。


「……しかし、これは何だったか」

「鈍いな。現代人なら、三度の食事よりもお馴染なじみだろう。いやむしろ、三度の飯を抜いて四度これを食べているまである」

「それは多分君だけだねケイオス。でも、一度も食べたことがない人も少なそうだ」

「思い出せん……」

「フン! 我にとってはその時点で贅沢な話よ! 貴様、実は良いトコの出だな?」

「か、関係ないだろう、貴様にはそんなこと……!」


 お金持ちではないケイオスに馴染みがあって、お金に余裕がありそうなソロモンには馴染みがない。

 このヒントから、視聴者たちは必死に推理しているようだ。


 ケイオスもあえて答えを言わずに、ソロモンと視聴者たちがクイズを解くのを待っている。

 こうした放送の流れを重視する気配りも、彼女かれの人気の秘訣の一端なのだろう。ハルも見習って、口をつぐむとする。


《うーん、わからん!》

《むつかしい!》

《無課金魔王さまは、よく食べてる》

《つまりそんなに高いものじゃない》

《いや、値段よりも、廃人御用達ってとこか?》

《良いトコの御曹司は、あまり食べない?》

《やはり安物では》

《でも安物ならそんな美味いか?》

《今は安くても何でも美味しいよ》

《そこじゃなくて、香りだと思うんだよね》

《美味しくない物に、香りづけしてる?》

《そして現代人には必須……》

《栄養食?》

《分かった! エーテルスティックだ!》


「正解だよ。良く分かったね」


 その通り。このクッキーの中身となったあのスープ、そのレシピの出所は、ハルにも非常に馴染みの深いあの食べ物だ。

 とはいえ、最近ではほぼ食べなくなったので、何だか一抹いちまつの懐かしさすら感じてより美味しく思える。

 ユキがゲーム内の食事に特別な感慨を持っているのも、これた似たような気分だろうか。


 その正体はナノマシン(エーテル)増殖用の栄養スティック。ハルがよく、登校中に頬張っていたものである。

 現代の電脳通信、エーテルネットワーク。その根幹を成すのは空気中に常に存在するナノマシンであるエーテル。

 そして、忘れてはならないのが、それと自身の脳を接続するために体内に常在するエーテルだ。


 体内のエーテル密度と、通信強度の高低は密接に影響する。

 ハルは体内のエーテルを爆発的に増殖させることで、原則エーテルネットから隔絶かくぜつされたあの学園において、裏技的に通信を維持する為の一助としていた。


 ケイオスの発言もそれと同様だ。彼女かれが栄養スティックをよく食べているのは、通信環境を高く保つため。

 そして金持ちなら必要ないという言葉の意味は、金持ちであればあるほど自宅のエーテル環境が整っているからに他ならない。


「……しかし、確かに覚えがある。覚えがある味だが、ここまで美味くはないぞ? 我もこんなに美味いものなら、毎食だろうと喜んで食しているだろうに」

「そうだな。オレも当然食ったことはある。だが、これほどの美味ではなかったな」

「だから気付かなかったと? 今更見苦しいぞ貴様ぁ!」

「そこまで言われるようなことでもないだろ!?」


 ケイオスにとって、例え味が大きくかけ離れていたとしても、一瞬で気付いて当然なほど慣れ親しんだ栄養スティック。

 これを頻繁に食べずとも済む時点で、それはもう羨ましいことなのだろう。


「フン! それでハル(ローズ)よ、お前は、あれを改良したとでもいうのか? ならば、さっさと商品化するのだ!」

「いや、僕あの会社とは無関係だからね一応? それと、改良じゃあないよ。これはあくまでクッキーであって、あの栄養スティックじゃないからね」

「??」

「つまり、本来食べられたものじゃない物体をマトモな食べ物に変えるエッセンスなんだ、あれは。エーテル増殖剤を入れなくていいなら、それ以上に美味しくなるのは当然さ」


《なるほど!》

《そんな秘密が……》

《凄かったんだな、あのスティック》

《もっと適当に作られてるのかと思ってた》

《ね、不味くはないけど、言うてね》

《うん。そこそこ味気ない》

《絶品ではない》

《アレが無ければ激マズだってのか》

《凄い努力だったんだなぁ》

《ところで、お姉さまは何でそんなことを?》


「それはまあ、企業秘密だね」


 何の説明にもなっていないが、それでも『お金持ちのコネクションか』、と勝手に納得してくれた。お嬢様設定というのは、こういう時に便利である。


 そこを起点に、ハル(ローズ)の正体を探ろうとする者も出てきたが、実のところまるで関係がない。

 くだんのレシピは、ハルがエーテルネットの権家ごんげのような存在であるから手に入れられたものである。その点からは線が決して繋がらない。


 そんな、クッキーの内容物について説明を続けていると、ずっと放置された約一名がしびれを切らしてしまったようだ。


「あのあのあのあの! その凄いクッキー、ウチにも食べさせて欲しいんですけどぉ~!」


 確かに、そろそろこれを作った本来の目的を果たした方が良いだろう。

 ハルは料理の審査に向かうべく、お腹を空かせたカゲツの待つテーブルへと進んで行くのだった。

 味覚の話や、栄養スティックの話が出てきたのは一部の序盤の頃でしたね。

 その時から、いつか味覚に関わる話はやりたいと思っていたのですが、ずいぶんと間が空いてしまいました。

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