第47話 空の上で、貴方の体温を
バレンタインですね。
この世界にはありませんが、お屋敷で出るチョコはきっと美味しいと思います。
そうしてアイリとふたり、手をつないで丘を登っていく。
丘といってもそんなに起伏が無いものだ。苦労はしない。昨夜少し降った雨が、まだ地面をしっとりと湿らせていた。
アイリはこの程度、苦にもならないようで、ハルの手を引っ張るようにどんどん進んでいく。彼女の長い銀の髪も元気良く跳ねている。
ハルが疲れないか聞くと、おてんばを恥じたように赤くなり、手を握る力が強くなった。たまの外出だ、はしゃいでも良いと思うが、王女様は難しい。
「そういえば、疲れてきたかもですね……!」
「まだまだアイリは元気そうだね」
「いえ、運動不足ですから!」
取り繕った、という訳ではないが、少し歩幅を縮めたアイリと頂上までのんびりと歩く。
雨によって空気中のほこりが洗い流され、いつもより澄んだ空気が頬を撫でるのが気持ちがいい。川が近くなってきたせいか、綺麗な水の匂いもしてくるようだった。
ハルも、アイリもだろうか、互いの体温を感じるのにも慣れてきたのか、少しずつ口数が多くなっていく。
とはいえハルの方は、体温も一定で心拍も伝わらない、味気無いものなのが少し寂しいが。
「この辺りにはたまに来るの? 人の通った跡が少しだけ道になってるみたい」
「すごいですー、よく分かりますね! 川の様子を見るためにメイド達がたまに来てくれていますよ」
「川が溢れたら怖いもんね」
「はい。今のところ屋敷まで来たことは無いですが」
聞けば、もし水が来た場合は魔法でガードするそうだ。さすがファンタジー世界。もしかしたらハルの世界よりも進んでいるのかもしれない。
ナノマシン、エーテルが中心のハルの世界は、大きな物、大きな力を相手にする事は苦手としていた。川もそうである。
将来的には、河川敷から大量のエーテルを水中に放出して、強引に水を蒸発させたりなど出来るようになるのだろうか。そうしたら、まるで魔法のようだが。
「もしかしたら、カナリー様が守ってくださっているのでしょうか?」
「神様だもんね。ここは彼女の土地だし。それくらいは出来るかも」
そんな、少しだけ水の流れが増した、しかしまだ穏やかな川を見下ろせる小さな丘の上に、ふたりで到着した。
◇
頂上に着き、同時に来た道を振り返る。
手をつないだままだったので、互いを引っ張り合って、体がぺちりと衝突した。ふたりで苦笑する。
しかしそのまま手は離さずに、くるりと踊るように向きを変えた。
「えへへ、エスコートされちゃいました」
「残念ながら、ダンスは出来ないんだ」
「大丈夫です! わたくしがお教えしますから!」
その目はやる気に満ちていた。ここでこのまま、お教えされてしまうのだろうか。
お互い薄着でお教えされてしまっては、色々と困る。ハルがそう身構えていると、その話題はそのまま終わりになってしまった。少し恥ずかしい。スキンシップを意識しすぎは自分の方だったのだろうか?
そう思うと、なんとなく、警戒しすぎていた気もしてきた。
アイリがまた強引に来るとか、ルナの陰謀だとか、そんな風に考えすぎることは無かったのではないか。
ただ、ふたりで外に出たかっただけ。深読みしすぎて、それも分からなかったようだ。洞察力が売りなど、これでは聞いて呆れてしまう。
「その、ハルさん?」
「どうしたの、かしこまって」
だいぶ小さくなった屋敷を眺めていると、そのアイリが上目遣いに問いかけてきた。
握る手はしっとりと汗ばみ、脈が早くなっているようだ。アイリの緊張をうかがわせる。
釣られ、ハルも緊張しそうになるが、先ほど気にしすぎだと思ったばかりだ。ぐっと押さえ込む。
いつものように表情を読んでしまえば早いのだろう。だがアイリ相手にそれをするのも気が引ける。妙に長い気がする一瞬の間、ハルは無心でアイリの答えを待った。
「ハルさんは! 最近は空を飛ぶのを練習されているのですよね!?」
「は、はい。練習されています……」
勢いが強い。押されてしまう。
そしてある事に思い当たってしまい、一歩引こうとするが、ハルの手はアイリにがっちり捕まえられていて逃げられなかった。
「よろしければ、わたくしも一緒に連れて行ってはいただけませんか!?」
つないだ手を離し、ハルに向けて大きく広げて掲げられる。抱き上げてのサインだった。
アイリの顔は真っ赤に染まり、緊張に呼吸を荒くしながらも、やりきったような表情をしている。ようは、これを言うためにここに来たのだろう。
ハルは先ほどの考えを訂正する。どうやらハルの観察眼は今日も割と正しかったようだ。
◇
もはや観念するしかないのだろう。勇気を振り絞って言ったその言葉を否定して、悲しい顔をさせたくはない。
……多分、そこまで考えてルナが仕込んだ計画なのだろうけれど、分かったところで逃げ場が無いことには変わりなかった。
アイリの腰と、足の下に手を入れ、抱き上げる。ハルの首にも手が回され、ぴったりと密着する。
今度は体全体から彼女の体温が伝わって来る。心臓の鼓動も胸から直接響いてくるようだ。とくんとくん、と彼女の音を直接感じる。
言い出したアイリにとっても、この状況は恥ずかしさが勝るようだ。その鼓動のペースの早さが、それを物語っているようだった。
「ドキドキしちゃいましゅぅ……」
「うん、聞こえてる」
「ハルさんはズルいです! ドキドキが聞こえません!」
「今日ばかりはこの体に感謝しなくっちゃねえ……」
体温も鼓動も向こうに置いてきた。ハルの、今のこの体からそれが伝わる事は無い。言った通りにそれを感謝する。
もしハル自身の鼓動も自覚してしまったら、アイリのそれと共鳴して一歩も動けなくなっていたのではなかろうか。
「お姫様を、お姫様だっこだね」
「お姫様。わたくしですか?」
「無いのか、その言葉。この抱き方を、向こうではそう呼ぶんだ」
「そうなんですね! じゃあわたくしも、今日ばかりは王女であることに感謝です!」
「あれ? お姫様をお姫様だっこしても、ただのだっこなのか……?」
「別にそれでもいいです!」
お姫様同士が打ち消しあって、消えてしまうのだろうか? などと、どうでもいい思考がよぎる。
ハルは混乱している。かなり。
「じゃあ飛ぶよ?」
「はい!」
アイリを抱えて飛び上がる。
<飛行>による、一瞬で重力から切り離される慣れた感覚。今日はそこにアイリの重さが加わった。自分の重さだけが無くなって、彼女の体重だけを感じる。
アイリの体重は軽い。小さな体である、当然のことだ。そんな軽さも、何だか今はしっかりとした重みとして感じるようだった。
「重くないでしょうか……?」
「アイリはちっちゃいから、大丈夫だよ」
自分以外の物を持って飛んだ事は無い。本来なら、アイリを乗せる前に練習してからのぞむべきだろう。
間違っても落とさないようにしっかりと抱える。そうすると、それだけまた密着してしまう事になる。アイリは小さいけれど、やわらかい。お互いに今日は薄着のこともあり、いつも以上にはっきり伝わってきてしまう。
「わたくし、ちっちゃいですよね……」
「なんだか後ろ向きになってるね……、ちっちゃいアイリが好きだから、大丈夫だよ」
「はい……!」
緊張が不安を膨らませているのか、普段の元気さは鳴りをひそめ、ハルの胸のなかできゅっ、と体を小さくしてしまった。
少しずつ浮上して高くなっているのが怖いのかと思ったが、そういう訳ではないようだ。
「アイリは高いところ平気なんだ」
「はい、大丈夫ですよ。そうでなければ、ハルさんと密着する言い訳には使いません」
「言い訳って言っちゃった……」
「えへへへ、最近避けられてるー、って思っちゃいまして」
「それで避けようが無いここに誘ったんだ」
アイリを乗せて更に高く昇っていくと、周囲は一面の空へと変わっていく。
他には何も無い。
何も無いけれど、どこにも行けない。壁は無いけれど、ふたり、密室に入っているのと変わりない。
それは自分から逃げないでというメッセージ。
大胆なことを考えるものだった。
「ハルさんはわたくしに触れられるの、お嫌ですか?」
「嫌じゃないよ、でも恥ずかしくなっちゃう」
「わたくしだって恥ずかしいのです! 我慢しましょう!」
「すごい理屈だ……」
ここのところ、だんだんと強力になっていくアイリによるスキンシップ。ハルはさりげなく、だが的確に回避していた。ハルの力、分割された思考能力をフル活用したものである。
能力の無駄遣いというなかれ。ハルの思春期力は膨大だ。アイリに触れられた時の爆発的な思春期力を押さえ込むよりは、エネルギーは安く済む。
「我慢するには思春期力は強すぎるんだ」
「よく分からないですが、胡乱な単語です!」
ぎゅっ、と首の手に力が込められる。
いや、別に首を絞められている訳ではない。ある意味それよりも攻撃力が高いが。
意味不明な言葉で煙に巻くことは許してくれなさそうだった。
「逆にアイリは、どうしてそんなにくっつきたがるのさ」
「ハルさんを誘惑しているのです!」
「ぐはっ」
弩ストレートだった。攻城兵器だ。陥落寸前だ。
「毎日一緒に寝ているのにハルさんは手を出してくれませんし……」
「アイリに手を出しちゃったら、次の日の朝にはメイドさんがウェディングケーキ焼いてお出迎えしちゃうでしょ」
「ウェディングケーキですか? よく分からないですが、素敵な響きです」
この世界には無いようだ。幸いとばかりに、そちらに話題を逸らす事にする。内容的に無理そうだが。
「何段にも重ねた大きなケーキ。結婚式の時に作るんだって。実際に見たことはないけどね」
「素敵ですね! 帰ったらメイドに伝えておきましょう!」
やはり無理だった。しかも事態は悪化している気がする。
恋愛に関して奥手なハルではあるが、年頃の女の子が、しかも王女の身で男と同室で寝るのが何を宣言したものなのか、理解はしている。
理解しているが故に、おいそれと乗るわけにはいかない。
アイリが嫌な訳ではない。大好きだ。
だからこそ、無責任には決められなかった。このゲームが、この世界が何なのかは不明なままだ。ある日突然、ハルが消えてしまうのではないかというアイリの不安を、完全に消してやることは出来ない。
だからだろうか、事態の進展を避けてしまうのは。願わくば今日と同じ明日を、と思ってしまうのは。
「ハルさんは、わたくしが妻では不服でしょうか」
「不服なんて何も無いよ。そうなれたらどんなに良いか」
「でしたら、それだけで十分ではないのでしょうか」
十分、なのだろうか。それでもハルは保障が欲しかった。明日も変わらずあなたの傍に居る、と言える保障。
ただでさえ、人として欠けた物の多い身だと自覚している。それ無くして、永遠を誓う事など出来そうにはない。
「アイリはこんな曖昧な存在が夫になって不服は無いの?」
「ありません! ……何か変でしょうか? 昔から、人が神に求婚するのはよくある話だったようですが」
「その話、神側は良く思ってなかったみたいだね。少なくともセレステは」
「なんと! 現実は非情でした!」
この場合、相手はAIだ。是非もない。
だが存在の不完全さではハルは神よりも下だといえる。神は、この世界への存在は自身によって担保する事が可能だ。
「ハルさんはもっと、何時ものように自信を持ってもいいですのに」
「残念なことに、自信が無いと自信を持って言えてしまう」
「むー」
すねたように身を縮めて、ハルの胸に収まるアイリ。
本来なら心臓の音がするそこからは何も響いてこない。気にしないと言いつつ、アイリもそれを不安に思っているのは伝わってきた。
「……そうだね、ずっと今のまま過ごしてる訳にもいかないか」
進展は無いけど、平和な時間、そこにずっと留まってはいられない。
ただのゲームと言うには奇妙なこの世界について、探っていかなくてはならない。元々、最初の目的はそれだった。ルナも待たせてしまっていただろう。
停滞を好むハルだが、彼女たちは待ってはくれないようだ。進まなければならない。
「そうです! ルナさんとユキさんも一緒なら大丈夫でしょうか? その場合ケーキは三個になるのでしょうか?」
「待って。アイリ待って」
それは進みすぎだった。




