第370話 溶けて一つに
香ばしいスパイスの香りがあたりに立ち込める。カレー粉、と一口に言えど、その中身は多種多様なスパイスの調合品だ。
それは専門店の味はもちろん、市販のものまで変わることはない。日本は特に、そういう国だ。
市販品と侮るなかれ、それは前時代から続く研究の成果の結晶だ。
ハルの使用しているものは、そんな市販品のカレー粉をベースに、スパイスを抜いたり足したりと自己流にアレンジした自作品だった。
中には、アイリの世界の物も一部含まれている。
「研究の成果とは言っても、今の時代、内容物はそれこそ不純物まで含めて完全に解析が可能になっちゃってるからね。この商売の人は大変だ」
「権利関係は、非常に敏感よ? ハルはその粉を外に出さないようになさいね。……とはいえ、個人でそんな解析が出来るのもあなたくらいでしょうけれど」
「ナノさんを使って、分析ですね!」
その物品内に、何が、どの程度含まれているのか、簡単につまびらかにされてしまう。
いわゆる『秘伝』のものを扱った商売は、あがったりだろう。一応、保護のための法律も整備されてはいるが、基本的に商売は方針転換を余儀なくされている。
これも、時代というものだろう。
「……そういえば、調べるために中に入ったナノさんも、一緒に食べているのですよね」
「ん? まあね。そこはまあ、特に気にしても仕方ないことだけど」
「私たちはいつだって、エーテルを食べてるよアイリちゃん。呼吸するだけでもね」
「そうでした!」
「向こうの世界でも、魔力の方のエーテルを呼吸しても、食べているという意識はないでしょー? それと、似たようなものですよー」
「食品に、『空気が混入している』、と気にする人は居ないってこと。……ああ、一部のアンチエーテルの過激派以外は」
「呼吸もままならないわね? その人たち?」
このカレー粉の粉より細かい粒子が、世界中どこの空気にも混入している。
人体と共存し、無害だとはいえ、気になる者が居るのも仕方ない。ただ、その全てを排除など、物理的にも時代的にも、もう不可能だった。
人はエーテルなしには生きていけない。ちょうど、前時代では電気の無い生活など想像もできなかったように。
「……いや、その電気がなくなっても、こうして無事に生きてるんだ。案外、エーテルが無くなってもなんとかなるのかも? まあ、僕以外はだけど」
「ハルさんー、物思いにふけるより、仕上げちゃってくださいー。おなかへりましたー」
「ああ、ごめんねカナリーちゃん」
ハルはカレー粉を混ぜ込みながら、味を確認してゆく。大量の野菜が甘みを染み出させた、甘口だ。辛党には少し物足りないだろうか。
そんなカレーを盛り付けて、ハルは皆に配り終えた。新年にはちょっとだけ似合わない、カレーパーティーの始まりだ。
「いただきます! どろどろですね! これみんな、お野菜がとろけているのですよね? こうやってカレーは作られるのですね」
「確か、違ったと思うわよアイリちゃん?」
「違うね。基本的には、とろみは粉で出しているはずだよ。シチューと同じだね」
「普通はルー買って終わりでしょハル君。あ、私はルーも買わないけど」
「……ユキには、少しお料理を教えた方がいいかしらね?」
「お、お手伝いはするし……、お料理できなくても、お嫁さんにはなれたし……」
「あら?」
「あ、今の無し!」
ルナがめざとく反応し目が合うと、ユキはあわててカレーへと視線を逃がして回避した。
まあ、今は食事中なので、ルナもあまりえっちな事をいうつもりは無かったようだ。そのまま、何事もなく話は進む。
基本的に、ハルたちの家庭、あのお屋敷で暮らす以上、料理の技術は求められない。メイドさんが全部やってくれるのである。贅沢なのである。
なので、こうして自分たちで用意して食べる、というのはそれなりに新鮮な経験だ。
ルナも、技能として所持はしているが、普段からお嬢様なので、その腕を振るう機会などは皆無だった。カレールーさえ買いはしない。
「あ、アイリちゃんは? お姫様だから、やっぱり出来ない? それともルナちゃんみたいに教養として持ってる?」
「王女だからではないですが、教養として、でしょうか? 簡単なものしか出来ませんけれど」
「どんな? どんな?」
「はい、身一つで未知の土地へ行っても、食べ繋げる技能です!」
「まさかのサバイバル!」
「……料理とは、また別の技能ね?」
「だから、サンドイッチだったのかな?」
ハルが、アイリに手ずから作ってもらった最初の料理。あれも簡単なものといえば簡単なものだ。しかし、ハルの中では、非常に思い出深い一品となっていた。
今日のカレーも、アイリの思い出として残る一品になってくれるだろうか。
そう思いハルが彼女の方に目を向けると、何やらカレーのルーをスプーンで上品にすくって、しげしげとそれを観察しているようだった。
「アイリ、どうしたの?」
「あ、はい、このカレーを見ていたら、まるでわたくしたちのようだなって思えてきてしまって、えへへへ」
「カレーが? なんでさアイリちゃん?」
「流石ですねー、カレーですらロマンスを感じる女ですねー?」
「しゅ、しゅみません……」
「どの辺が、って、きっとあれよね? 溶けあって一つになってるところ」
「はい!」
複数の具材が溶けあい、融合し、一つの料理に変化している。そこに、ハルと自分の精神の融合を感じたのだろう。
ただ、突っ込むのは野暮なのかも知れないが、その感想は正確ではないだろう。
ハルとアイリの精神は、ここまで渾然一体とはなっていない。言うなれば、カレーの中にあるこの肉だろうか。
ハルはそんなことを考えながら、その肉を口に運ぶ。
巨大なブロックだった肉は、長時間の煮込みによって、ほろり、と口の中でほどけ、噛むとカレーによって浸み込んだ味が、じわり、と染み出てくる。
それは肉そのものの味わいと合わさって、まさに至高の味を演出していた。
「うん、やっぱり、肉として溶け切っていないからこそ、素敵だと感じられるんだよね」
「こっちはこっちで、何を言っているのかしら……」
「たぶん、あれだよルナちゃん。アイリちゃんへの、アンサー」
「ユキさんも、ハルさんの読心が身についてきましたねー」
アイリ同様に、ハルと融合を果たしてしまったユキとカナリーにも、何を思っているか読まれてしまったようだ。
そこで一人だけ、察しが付かなかったルナが、『むぅ』、と控えめに唇を尖らせて疎外感を示してしまう。
「ルナさんも、早く一緒になるのです!」
「アイリちゃーん? 人の理の外に出るのを、気安く勧めてはいけませんよー」
「……いえ、いいのよ。どのみち、何時かは心を決めないといけないのだし」
ただ、やはり決心が要る、とその瞳が語るルナに、内心申し訳なく思うハルだ。ハルには、この道しか提示できない。
ルナも、そこへと踏み込むのが嫌なわけではないが、彼女にはいろいろとしがらみが多い。
まるで世捨て人のように、あらゆる世俗との関りを考慮することの無かった、アイリやカナリー、そしてユキが、普通の観点から見れば特殊なのだ。
「でも、ルナちゃんは案外すぐに決めちゃうと思ってたけどな。なんだろ、決断力の鬼というか」
「鬼はよしてちょうだいなユキ……」
「あ、ごめ。でもさでもさ、そゆとこあるじゃない?」
「わたくし、分かる気がします! きっとルナさんは、何か劇的な展開が欲しいのです!」
そのアイリの発言に、一同は納得がいった、とばかりに各自うなずく。
劇的な展開、重要事項に心を決める、スイッチのようなものだ。ただ日常を同じように過ごしているだけでは、大きな変化は得られないのは、なにもハルたちでなくとも同じだろう。
特にルナは、共に過ごしてきた時間が長いので、普段のままではなあなあになるのも道理。
分かりやすいのはカナリーだ。人化の儀式の際、そのまま心はハルと結びついた。
ユキも、劇的なイベントはなかったが、きっかけとなったのはその精神的な変化、彼女の決心だった。
「となれば、何をすればいいのでしょうか? ルナさんは大人なので、大抵のことでは動じません!」
「アイリちゃん? 動じさせようとしないでね?」
「あ、私わかったよ。アイリちゃんもきっと気に入る」
「おー、それで私も分かりましたよー?」
「……同化組は、こうなるのかしら。それだとちょっと、二の足を踏んでしまうわ?」
「いや、これはこの子たちのノリが似通ってるだけだから……」
ルナに生暖かい視線を向けて、にやにやと笑むユキとカナリー。その意地の悪い同調に、何となくルナの身が引けてしまっていた。
これは、精神の繋がりとは関係ない。彼女らが勝手に分かりあっただけである。
人間には同化などせずとも、こうして相手の気持ちを推し量る力があるのだ。同化は関係ない、はずだ。
「それは、いったい何なのでしょうか!」
「それはねアイリちゃん。結婚式さ」
「ロマンチックですねー。永遠の愛を誓いあう儀式で、身も心も本当に一つになるんですねー?」
「ふおおおおお! 素敵ですー!」
「いえ、身は一つにならないわよね?」
「珍しい。ルナが押され気味だ」
だが、その言葉に何となく納得している様子でもある。まさに契機となるのだろう。
なんとなく、それを聞いてハルも安心した。異常だらけの自分たちの関係ではあるが、そんな部分は普通の人と変わらないのだという安心。
きっと、ハルのような特殊な事情を抱えていなくとも、皆そうして進む道に悩むのだろう。
きっと、一人では悩み続けるだけで、いや、悩みが存在することにすら気づけなかったに違いなかった。
そんな、ハルを人に近づけてくれた、大切な彼女たちと共に、お正月のカレーを食べながら、元日の夜はゆっくりとふけて行くのだった。
きっと今夜は、暖かくて長い夜になるのだろう。
※誤字修正を行いました。誤字報告、ありがとうございます。細かいミスが沢山あり、申し訳ありません。




