第25話 雨
今日は朝から天気は雨。“どちらの方も”だ。
こちらはリアル。ハルは五日ぶりにポッドから起き上がると、登校の準備を進める。
頭の芯にはまだ鈍い痛みを感じる気がするが、体調は万全だ。五日間ゲームに入ったきりでも、ポッドは常人以上の健康を維持してくれている。
寝不足とも無縁のハルだ。連休明けの登校でも憂鬱を感じる要素は少ない。
とはいえゼロという訳ではない。校内は禁エーだ。禁煙ではない、禁エーテルの揶揄だ。それだけが不安要素。
もう片方の意識で、隣に眠るアイリの姿を眺める。
しかし、行かない訳にもいかない。ルナも待っている。
大して準備する事も無い身だ。ハルは傘を持つと家を出た。
*
「傘は変わらないなー」
ハルは通学路を歩きながら、傘を広げてそれを眺める。
単純な構造だ。昔のものから変化が見られない。
いや、もちろん進化はしているのだろう。構造は最適化され、素材はより軽く、丈夫に、環境に優しくなった。
だが基本的な設計が変わる事はない。
アイリの屋敷にも傘はあった。もちろん、今ハルがさしている傘とは比べられないが、形に変わりは無い。傘はやはり傘だった。
「いや、あの世界のことだ。正当な技術の推移とは言えないかも知れない……」
プレイヤーに合わせて調整された世界だ。ファンタジーな時代背景にそぐわぬ技術進歩を遂げている事も考えられる。
だが別に、そこを責める事はしない。昨日のローストビーフのサンドイッチはとてもおいしかった。感謝こそすれ非難は筋違いだ。
「逆にこれは比べられないな」
ハルは朝食代わりの大きな栄養スティックをもくもくしながら思う。
食べ歩きだ。非常にお行儀が悪い。この姿はアイリに、いやルナにも見せられないだろう(ユキなら大丈夫である)。
アイリとの食事と比べてしまっては、これはもはや食事とは呼べまい。ただの栄養補給だ。
「でもまあ、これはこれで」
だが、ハルにとって慣れ親しんだ食事には違いない。愛着はあった。
劇的な美味しさは無いが、飽きないようにとしっかりと考えて味付けされている。職人芸の域といえよう。
何よりこの不便な体を十時間も空腹から守ってくれる優れものだ。感謝こそすれ非難は筋違いだ。
昼食はルナと取るので、満腹になりすぎてしまうのが困り物だが。……やはり非難すべきか。
そんなどうでもいい事を考えつつ、ハルはスポーツドリンクでそれを流し込んだ。
*
校内へと続く道。雨音が強化ガラスの屋根を叩く音に耳を傾ける。
エーテルは雨に弱い。正確には、雨によって空気がかき乱される事に弱い。そのため多くの自治体では、こうした屋根付きの歩道が整備されていた。
とはいえ全ての道ではない。傘は必要だ。
風の音のそれと同じように、雨が地面を、屋根を叩く音も時代によって微妙に変化している。ハルはゲームの中で聞こえる雨音と聞き比べてそう感じる。
街中に、全面的に整備された屋根付き歩道だ。雨が降るたびにバラバラとう煩かったら問題になる。防音性には非常に気が遣われていた。
ナノマシン、エーテルによる極小単位での素材工学。それを十全に活用したガラス屋根は、強度と共に高い静穏性も獲得している。
割と強く降っている今でも、さあさあといった優しい音。地面に当たる音の方が大きかった。
「僕は雨の音好きだから、抑えなくてもいいと思うんだけどね」
雨の好き嫌いは分かれるだろう。ハルは好きな方だ。
雨の日は、それ以外の音が静かに感じられるからだろうか。
アイリはどうだろう。聞いてみたいが、今はまだ夢の中だ。
そろそろ昇降玄関へ着いてしまう。五つ横並びに用意された二重扉。
扉を入ると気流が体を洗い、終わるまでもう一枚の扉は開かない。
そう長い時間ではないが、人の多い登校時間や、クラスごとの移動の際は待ち時間が発生するので非常に不評だ。
ハルはアメ玉を取り出すと舐めずに飲み込み、エーテルの無い校内へと踏み込んだ。
◇
*
◇
「おや? ハルさん、通信が乱れてますよー? ネットワークの確認をしてください」
「確認するネットワークが無い場所なんだ。諦めて。それより脳内に声かけてよ、アイリが起きちゃう」
「そうしたいのはやまやまですがー、黒曜ちゃんと連絡が取れないんですよねー」
「げ、確かにそうなるか。仕方ない、出来るだけ防音魔法で防ごう」
ハルは足りない頭で出来るだけ緻密に防音壁を張る。
今はアイリが隣に居るため張り方が難しい。
昨日は結局(といっても当然だが)アイリが先に寝てしまった。寝かしつけて離れようとすると手を握って離さないので、仕方なくここにいる。凄い執念だ。
「どこなんですかー? そんな邪悪な場所には近づかない事をオススメしますけど」
「邪悪って……、確かに君たちにはそうなるか。僕の通ってる学園だよ、校内は完全クリーンルーム。だから近づかないのは無理かな」
「うわぁ、いまどき時代錯誤ですねー。意味があるとは思えませんけどー」
「『ネットに頼らない知性の確立を目指して』、だってさ」
「本音は無菌培養でしょうかー」
「正解」
ただしそれだけではない。完全エーテル化社会、当然だがそれに適応できない人間も一定数居る。そうした子供の逃げ場所になっているという側面もあった。
ハルのように適応力の高い人間を集める一方で、彼らの受け入れも行っている。
まあ、善意というよりは社会実験サンプルを取る為だとは思うのだが、救われている人間もいる以上とやかくは言わない。
「ハルさんのような方には合わない学校ですねー。辞めてしまいましょうー」
「辞めてずっとこのゲームやってようって?」
「はいー」
「正直すぎるこの神……」
ゲーム倫理委員会の方々にはお聞かせ出来ない発言だ。
有害判定待ったなしである。
「しかしハルさん、そんな邪悪な場所に入ったら強制的にログアウトされるのではないですか? どうせ電波も通っていないのでしょう?」
「そうだよ。……そこはまあ、やり様はあってね。体内のエーテルまで抜かれる訳じゃない。それを絶やさなければいい」
「へぇ、ハルさんそれだけで使えるんですね」
「……驚かないんだね」
「AIですからー」
確かにそうだが、そういう事ではない。カナリーだって必要なら、驚いた表情をすることもあるだろう。
今のハルの発言は、聞きようによっては適当にはぐらかした発言だ。普通のAIなら『それだけでは通信する事は不可能です』、という反応が返ってくるだろう。
「そうじゃなくて、知ってたんだねカナリー。僕以外に知ってる人間には会った事なかったからさ、逆に僕が驚いたよ」
「AIですからねー。というのは冗談で、このゲームの運営は知っていますよー。その仕様、活用しなければ不可能な処理もありますのでー」
「そうなんだ……、やっぱりこのゲーム時代の先を行ってるよ」
「お褒めに預かり恐悦至極ですよー」
納得を得られたからだろうか、そこでカナリーは黙ってしまった。
ハルとしても本調子ではない上に、これから授業がある。あまり頭は使えないので同じく会話を切り上げる。
そうしてこちらではのんびりと、窓の外から響く雨の音に耳を傾けて過ごした。
◇
*
◇
校内でゲームに入るのは初めての経験だったが、授業を受けるのは問題なかった。
授業中にそう動きがある訳でもないし、ハルはそれなりに成績も高い。
別にこの力を使ってカンニングに手を染めている訳ではない。授業を受けるのは割と真面目だ。
全くのサポート無しかというと、そう言い切る事は出来ないかもしれないが。
《ハル様。肉体制御が乱れています。補助しましょうか》
──今は頭が足りないからね。頼んだよ。
《御意に。お任せください》
黒曜に頼る所も多い。勿論テストの答えを聞くという事ではない。
黒曜との関係も少し変わった。以前は問題があるとオートで補助を実行したが、今はハルの許可を取るようになっている。
特別な事かといえば、そうでもない。AIに慣れない多くの者はそうしている。任せきりにしていると思わぬ危険が起こる事もある。特に自分の体に関する事なら尚更。
◇
そうして授業を受け、ルナと昼食を食べ、友人と会話して過ごした。
話題は自然、連休中に何をしていたのか。
今は二人の友人と話している。友人たちは連休に合わせて開始された、大手作品の新作をやっているようだ。
「そうだったんだ。面白い?」
「まあね、さすがに老舗だし。でも普通かな。問題は無いけど特別感も無し」
「そうだなー。俺らで組んでやってんだけど、他に良いメンバー見つからないんだよな」
「可愛い女の子見つけた、ってこいつが声かけたら小学生でさ。全然連携取れないの」
「そこは子供に合わせてあげなよ」
「合わせるけど、ハルみたいに上手くはやれないよ。システム的に出来る事は決まってるし」
大手となると、システムは洗練され、また大衆向けになる。
誰がやっても同じ、という方向に調整されていくのだ。勿論その中でも上手い下手は出るが、だいたいは慣れでなんとかなる。
多くの者にとっては心地いい。だがハルやユキにとっては退屈になる。
「ハルは何やってんの?」
男子はゲーム好きだ。御曹司が多いこの学園でもその傾向は消しきれないようで、ゲームが趣味の者も多い。
ハルの事もそれなりに知られており、プレイヤーネームで呼ばれる。
「同日開始の人気ない奴だよ。PVに出ちゃった」
「マジかよ! 相変わらすだな!」
「全然人が居ないからね。倍率低いんだよ」
「それでも凄いよハルは。あとで教えてね、僕もやってみる」
「俺もー」
他のプレイヤーと一緒にやる事は出来ない気持ちは変わっていないので、一緒に遊ぶ事は出来ないが、人が増えるのは歓迎だ。
PVを見られてしまい少し恥ずかしいが、いずれゲームが有名になれば、どうせ目にとまってしまう。
どうやら運営も、宣伝する気はあるらしい。ならばあのゲームの出来だ。今後は少しずつ評価されていくだろう。
学生の中にも既にPVを目にした者も居るようだ。廊下ですれ違った女子が、『あれっ?』、っといった感じでハルの顔をまじまじと見ていた。彼女はきっとPVを見たのだろう。普段は全く関わりの無い人だ。
ただ、ルナが居るためか声をかけて来ることはなかった。
ハルとルナは自然にいつも二人でいるので、付き合っているという認識になっている。
そのためハルに声をかけてくる女子はあまり居ない。
そんなルナに挨拶し、友人達と別れ、ハルは学園を後にした。
◇
*
◇
「ん……、戻ったね。やっぱり全然違う」
「安定しましたねー。後でこちらでも対応しておきましょうかねー」
「ハルさん、体調がよくなられたのですか?」
「うん。アイリの看病のおかげだね」
「やりました!」
特にアイリが何をしていたという訳ではないが、反応が悪いハルを気遣って、おとなしく過ごさせてくれた。
しばらくふたりでトランプを(トランプが存在した)して遊んで過ごした。
アイリはそれなりに強く、思考が一つのハルとはけっこう良い勝負が出来る。
とても楽しそうに遊ぶので、またやってもいいだろう。流石に全領域を使って表情を読むのは大人気無いとしても。
なお、カナリーとはやらない。本人もやらない方が良いと言っている。
「ハル。もう居るのね」
「おかえりルナ」
「ルナさん! お帰りなさい!」
「ただいまアイリちゃん、ハルも」
授業が終わり、ルナもログインしてくる。おかえりの言葉にまんざらでもない表情をするので、ハルとアイリは毎回言うようになった。
「ハル、あなた早いわね。まだ家に着いていないのではなくて?」
「ログアウトしてないからね」
「……? ハルさんはずっと居ますよ?」
「…………はい?」
ルナの表情が固まる。ハルは内心でガッツポーズした。いたずらが成功した気分だ。
幽霊を見たような顔、というのだろうか。学園でずっと一緒に居たハルがここにもずっと居ると言う。それを飲み込めないでいるのだろう。
以前もあったが、ルナが驚いてくれるのは何だか嬉しいハルであった。
「ハル、流石のあなたでも学園内からネットに接続は出来ないのではなくて?」
「普通ならね。でも血中のエーテルまで抜かれる訳じゃない。それ用のエサを用意して、呼吸から漏れないように設定してやれば問題ない」
登校前に食べていた栄養スティックとアメ玉だ。エーテルの増殖に必要な要素が固まって詰まっている。
「それは分かるわ。ハルがたまに食べているものね。でも外と繋がってないのは変わらないでしょう?」
「エーテル通信が空間を超えているように見えるって話は前にしたよね」
「ええ。エーテルの語源の話ね」
「それ、事実なんですよねー。ように見えるんじゃなくて実際に超えてるんですよー」
カナリーから応援が入る。彼女に証言して貰った方が信憑性が増すだろう。
「カナリー様、何のお話なのですか?」
「ハルさんは神界との親和性が高いって話ですよー」
「すごいですー!」
こちらはかわいらしい反応。これはこれで嬉しい。
一方のルナは正に絶句といった表情か。当然だ、世間ではそんな話は全くされていない。
「その顔が見たかった」
「意地悪だわ、ハル」
「ごめん」
落ち着いてくると、今度はむくれる。
その表情もまたハルが求めたものだと彼女は気づいているだろうか。
「でも、パーソナルエリアは? あれだけ人が居れば、判定される事なんて無いでしょう?」
「パーソナル判定されるのって、ログインの時だけなんだよね。ログアウトしなければ後は素通りなんだ」
「……それはそうよね、あなた以外に影響は無いわよね。ログアウトしないまま外出する人間の事なんて想定しないわ」
ルナは呆れた。
ジト目が来る。これも待っていた。
「誰かに言っちゃダメだよ?」
「言わないわよ。信じて貰えないでしょう。……てっきり、私はあなたがゲームしたさに校内にエーテルを散布したのかと思ったわ」
「あったねぇ、克己のバイオテロ事件。あれで停学にならないんだからアイツも要領良いって言うか」
かつてハルの学園で、ゲームのイベントが忙しく、それに着いて行くために校内でもネットを繋げようとした男が居た。
彼は、通信の薄い場所用にと市販されている『エーテル散布セット』をひそかに持ち込み、校内でそれを開放した。
当然、すぐに感知され、警報がなるハメになった。通称、克己のバイオテロ事件。
彼の要領の良さから真相を知る者は少なく、言葉の響きから、牛乳やミカンを机の中に長期間にわたって放置したのだろう、と多くの生徒からは思われている。
……そちらの方がダメージが大きいのでは?
「発表はしないの? 大発見でしょう?」
「どうだろうね。影響が読めないから。特殊なんだ、条件が」
「そうなのね。任せるけれど」
「それに研究機関か何かが、きちんと発表してくれるだろうさ」
必要なのはまずナノマシンの数。これはハル一人で賄える。
もう一つは人数。特にエーテルに高い親和性を示す者の数が、多く必要だった。
学園の環境は、特待生でそれを満たしている。
人間が、必要だった。それを発表した時の影響が読めない。何かの引き金を引いてしまうのが嫌だった。
「ハルさんは補習に残る事は出来ませんねー」
「いやそれが無くても補習受けるような事はしないよ……」
人数といえば、このゲームも徐々に人数が増えていくだろう。
それがどのような結果をもたらす事になるのか。それもまた、ハルにはまだ読む事は出来なかった。
※表現の修正を行いました。誤字報告、ありがとうございました。
「食べていたものとアメ玉」→「食べていた栄養スティックとアメ玉」
また、追加の修正を行いました。「やならい」→「やらない」。報告ありがとうございます。
こういったタイプミスも、やならい、いえ、やらないように気を付けてはいるのですが、最近になっても無くなりません。(2022/1/30)
追加で修正を行いました。誤字報告、ありがとうございます。(2023/3/10)




