第1732話 投げ落とされたのは見慣れた海
本日はキリの良い場所で少々短めに区切らせていただきます。明日できっと決着となるはずです。頑張りますので、お待ちください。
怪樹を構成する疑似細胞内に張り巡らされたネットワーク、その防壁迷路を突破した先に、すぐに翡翠が居ると思っていた。
しかしそのハルの目論見は外れ、操作信号の送り先には彼女の姿は存在しなかった。
「というか、カナリーちゃんの姿も無くなってるし。何処だここは、どうなってる?」
……いや、『どうなっている』かはさておき、『ここが何処か』は明白だ。
まるで深海にいきなり投げ出されたかのような、目印の存在しない空間にひたすらに続く漆黒の闇。
上を見ればうっすらと光が差し込み、下を見れば更なる深淵が口を開けている。
どこからどう見ても、この場はエリクシルネットに相違ない。
「エメの装置に入った憶えはないが、いつの間にかログインしてしまったのか。まさか、いつの間にかルシファーのコックピットにログイン装置搭載してなんていないだろうな……」
この空間にハルが来ているということは、ルシファーを操縦していた現実のハルは今突然眠って、いや意識不明になっているということだ。
その状態を避けたかったため、花畑の異変に対する一手となる可能性を見出しつつも避けていた選択肢なのだが、まあ来てしまったものは仕方がない。
「……しかし、ということはつまり、翡翠の操作信号はエリクシルネットを経由して発信されていたのか? この空間の意識たちがエーテルネットを経由して花畑にログインしていた際とは、まるで逆になるな?」
まあ、いずれにせよ彼女らはエリクシルネットを活用している、ということには間違いなさそうだ。
今後は、よりこの地に対しての調査と対策を行う方針を強めなければならないだろう。
「まあ、今後の事は今後に考えるとして、今あっちはどうなってるんだろう。せっかく来たはいいけど、向こうでは猛攻が続いていて無防備な肉体がピンチとかシャレにならん……」
そうだとすれば、すぐに精神を引き上げてこの空間から脱出を試みなければならない。
幸い、ハルは女の子たちとの精神の繋がりを通して、任意でこの世界から引っ張り上げてもらうことが出来る。
手がかりを失うことになるが、安全には変えられない。
ハルは己の内部に、まるで魂が結びつくように癒着した彼女たちの存在に意識を向けるが、そこから伝わってくる感情は非常に落ち着いたもの。
どうやら、少なくとも外では激しい戦闘が継続している、ということはなさそうだ。
恐らくはハルが防壁を突破すると同時に、翡翠は怪樹への操作を解除したのだろう。
「信号をこれ以上辿られることを避けるための、せめてもの抵抗ってことかな。僕の方としても、意識のない体に全力攻撃を仕掛けてこられるよりはマシだけど」
ただそれをやると、きっと翡翠側の居場所もすぐに判明してしまうのだろう。
ハルが居なくとも、アイリたちだけでしばらくは耐えられる。すぐにゲームオーバーとはならないが、まあ安全であるに越したことはないだろう。
「とはいえ困った。手がかりが途絶えてしまったぞ?」
安全が確保されたなら、じっくり追い詰めてやればいいのだが、なにしろこのエリクシルネットは広大だ。いや無限かも知れない。
そんな『砂漠の中で一粒の砂』どころか、宇宙空間で飛散した廃棄物を探すような途方もない作業、いかに安全とはいえやりたくなどないハルだった。
「仕方がない。詳しい人に聞くか」
であるので、少々ズルい手をとるハルである。
この地で生まれ、誰よりもこの地をよく知る現地神。この空間の呼称を決める際の基準にもなった、エリクシルの元へと向かうことにする。
彼女に尋ねてしまえば、いかに隠れ潜んだとて、難なく居場所が判明することだろう。
*
「ようこそおいでくださいました管理者様。管理権限を、アクティベートなさいますか?」
「うん……、のっけから毎度のボケをどうも……」
「いま『うん』と」
「言ってない! そういう意味じゃない! まったく、詐欺みたいなやり方で変な役目を押し付けようとするんじゃない……」
「冗談です」
相変わらず、無表情で本心の読めぬ女神様である。
とりあえず翡翠の探索は無視し、真っすぐにエリクシルネットの底へと潜ったハル。
体にまとわりつくような粘性の高い(ような、気がする)深層の暗闇を抜けると、一転し最深部には真っ白な地平が何処までも続いていた。
その何もない地平へとハルが降り立つと、まるで最初からそこに居たかのように、アイリが成長し大人になったかのような女性がハルを出迎えてくれたのだった。
……その出迎えが少々個性的ではあったが、これもエリクシルの味と思うことにしよう。
「本日は約束の日でしたか。お出迎えの準備が出来ておらず、失礼しました」
「いや、今日は別の日だよエリクシル。相変わらず時間感覚が薄いみたいだね。あと、準備とかしてくれた事はあったっけ……」
「普段は、全身全霊を込めて歓迎しているではありませんか」
「そ、そうだったのか……、全然気が付かなくてすまない……」
「冗談です」
「だとは思ったよ」
相変わらず会話のテンポのおかしな女性だが、最近はなんとなく流れがつかめるようになってきたハルだ。
「本日は緊急ですか?」
「ああ。ちょっと外では色々あってね。なにかおかしな気配を感じていない?」
「さて? 我は特に、なにも」
「そっか。君にとっては、この程度はまるで取るに足らない事象ってことかな」
「我にというよりも、この空間にとっては、でしょうか」
確かに、あの星の規模で見れば大事件でも、宇宙レベルの空間の広がりを持つこのエリクシルネットから見れば些事かも知れない。
そんな我関せずな雰囲気を発するエリクシルなので、彼女にとっても興味も関心もなく感知していないかと思われたが、意外とすぐに、ハルの来訪目的を察知しその答えを示してくれた。
「ああ。分かりましたよ? あなた様はきっと、これを追って来られたのですね?」
「おや、分かるのかい?」
「ええ。こう見えて我は、少々この空間には明るいですので」
「……少々じゃない気がするが、まあ、いいや。それで、君の知見では何だと思うのかな?」
「これです」
エリクシルが表示してくれた画面には、いつぞやによく見た、この無限の海に浮かび上がる巨大な泡のような存在が映し出されていた。
それはこのエリクシル本人とも関わりの深い、彼女が自分のゲームに人々を呼び込むために拝借していた『夢の泡』だ。
「……これに翡翠が?」
「誰かは我には興味がありませんが、あなた様の追ってきた信号が出ていたのは、これですよ」
「憶測じゃなく確定情報か。相変わらず、ズルいほどの万能さ……」
「羨ましいでしょうか? であれば、管理権限をアクティベート、」
「はいはい。なさいませんからね?」
「いま『はい』と」
「それはもういいって!」
「冗談です」
相変わらず無表情だが、何となく楽しそうだ。
まあ、楽しそうなのは良いことなので、エリクシルのやりたいようにやらせておくハルである。その為ならツッコミを入れる程度、訳のない事。
「とはいえ、あらゆる問題を一瞬で解消できる、万能の神の如き力を手に出来るのは嘘でも冗談でもありません」
「悪いが、都合の良いデウスエクスマキナになる気は無いよ。面倒そうだしね」
「今の面倒は消えますが?」
「それ以上の面倒を背負いこむでしょ。確実に……」
そんな目に見えた苦労を、進んで背負いこむハルではない。
……ただ、現状起こっているこの事態。夢の泡ということは新たにミントも関わっている事が確定し、セフィの関与も濃厚になってきたこの事態に対処するためには、そうした都合の良い神の如き力も、少々借りたくなるのは本音である。
その誘惑を振り切り、ハルは今は、この無表情の女神の導きに従って夢の泡へと突入することにしたのであった。
※誤字修正を行いました。誤字報告、ありがとうございました。




