第1716話 堕天使の王
美しい花畑を押し流すように、灰色をした泥の波が押し寄せる。
容赦なく降りかかる大自然の脅威、に思わせて、この泥は全て神工物である疑似細胞。ナノマシンの群れのようなものだった。
その特性上、花を押しつぶし押し流しているように見えても花に与える被害は皆無。細胞の一粒一粒が的確に花を避けて通り、ダメージを与える事はない。
むしろ包み込んだ疑似細胞が栄養俸給と表面の補修を行い、波が通り去った後は色艶を取り戻し、より元気になっているくらいであった。
「……もう大分なりふりを構わなくなってきたな!」
「それだけ、効いてる証拠ってやつだぜハル君。蝶を撃破されたら、あの子としては困るって訳だ!」
「見た目を悪くしてゴリ押ししてでも、この先の海へと進まなければいけないのね?」
そうでなくては目的は果たせない。海との接続は絶対条件だ。行動により明らかにそう語っている。
「あの泥の中には恐らく種が混ぜ込まれていて、境界線の外に到達したら即座に埋め込む気に違いない」
「つまりは、種入りのパン生地さん……! くるみパンさんなのでしょうか!?」
「そうだねアイリ。……いや、それは何か違うよアイリ?」
「ハルさんも混乱してますねー」
「ふっくら焼き上げてあげんとねー」
とはいえ火炎放射では範囲が広すぎて対処が出来ない。
翼を切り離し羽光弾を射出しても、どうしても点攻撃である以上は面制圧してくるあの波を取り逃がしそうだ。
泥の波が外部に出て来たならば、その種を植える速度は思った以上に高速であると考えていいだろう。
この大量に用意された『くるみパンの生地』を残さず焼き上げねば、お客の需要を満たせずに店舗経営ゲームはゲームオーバー。
そんな、意味不明なイメージがハルの脳内に押し寄せる。カナリーの言う通り混乱しているようだ。
仕方ないので、その良く分からない想像は分割された思考の一部に押し付け押し込めて、この波に対処する為の装備に切り替える。
確かに広範囲にわたる面攻撃、実に厄介だ。だがこのルシファーに対処出来ぬものではない。
ハルは本体から切り離し展開していた翼を戻すと、機体は再び天使としての姿と威光を取り戻した。
「反物質を使う」
「ですよねー」
「破滅の輝きが、全てを吹き飛ばすのです……!」
天使は自らの身を包み込むように大きく広げたその翼を丸め、その内部へと力を集中する。
紫電が次々と走るように膨大なエネルギーが収束していき、その行き先は胸の前で構えられた天使の手の中。
空中に巨大な球を持つように構えられたルシファーの両腕内に、実際にエネルギーの球が現れはじめる。
それはこの力強い天使の腕さえ押し返すように、バチバチと激しいプラズマを発生させながら急速に肥大化する。
「これがガンマレイを超えたガンマレイ……、『熾天使長の裁き』……!!」
「そーなん?」
「そうみたいだね。アイリが言うなら」
「今決めたんかーいっ」
「そんな適当で大丈夫なのかしら……」
「機能はしっかりしてますからー」
次々と内部に生成されていく反物質弾頭の集合体。それらは互いの反発圧により、荒れ狂う電撃を放つ巨大なボールへと成長する。
もはや抑えきれぬレベルに肥大化したその破滅の力の塊を、ルシファーはまさに境界を越えんとしている泥の波へと向けて解き放った。
「発射っ! なのです! いけぇー!」
「よっしゃ! やっちゃえやっちゃえ! 吹き飛ばせぇ!」
「滅びの力を、その目に焼き付けるのです!」
「……本当に大丈夫かしら? その、私たちの安全とか」
「まあー、その辺は抜かりないですよー。問題があるとすればこっちが悪役に見られそうなことくらいでー」
もう『滅びの力』とか言ってしまっているので、言い訳も通用しそうにない。
だが、その威力は全てを滅ぼせるとの額面に一切の偽りなし。内部で暴れる弾頭一つ一つが、ハルの必殺技である『陽電子砲』と同等である。
そんな破滅の力を詰め込んだ光球は、ルシファーの腕から解き放たれ更に巨大化を続け進む。
触れた地面を削り溶かしつつ、何物にも遮られる事なく徐々にその轍を深くして飛翔して行った。
そして、ついに花畑と荒野の境界線へと達したその瞬間、巨大な球は弾けて内部の力を一気に左右へと拡散させたのだった。
「よーし、成功しましたー。しっかり狙った方向に、こっちも種をばら撒けてますよー。計算通りですねー?」
「……計算が間違っていた時を思うと、ぞっとするわね?」
「私に限ってそんなミスしませーん」
「むしろカナリーちゃんは、適当に回答埋めても何故か合ってそうだよね……」
「なんといっても、幸運の女神様ですもの!」
「クリ出し放題だなカナちゃん。クリティカル特化の編成にしようぜい」
「今はその力無いですってー。実力ですからー。当てずっぽうじゃないんですよー?」
「本当、不安にさせるのはやめてくれる……?」
カナリーによる緻密な計算で、完璧に狙った方向に飛び散った破滅の種子。それらが敵の生命の種子を根絶やしにすべく泥の波へと飛び込む。
この場にはティティーの海のように、その発動を阻む物は存在しない。
いやあの海でさえ、範囲外からこの究極の力を撃ち込めば、強引に干上がらせる事だって可能に思えた。
その力の全てが、一斉に起動する。もはや面制圧どころではない。
効果範囲は前方全て。上空から地中へと至るまでの空間全てがその手の中。
そんな粒子一粒すら逃れられぬやりすぎな空間制圧の前に、押し寄せる波もその中の種も、種が根付くはずだった地面すらも、光が晴れた後には綺麗に仲良くこの世から消失していたのであった。
「みっしょんこんぷりーと、ですよー? 高笑い上げますかー?」
「……いやあ、だからさすがにこれで高笑いしたら、本当に悪の親玉だってば」
「まさに魔王の力……、なのです……!」
「天使の長ではなかったのかしら……?」
「気軽に堕天して魔王になっていけ」
まあユキの言うように『ルシファー』なので、元々の時点で悪よりでないとは言い切れないか。
そんな堕天使の王による無慈悲なる破壊。それは土地ごと全てを吹き飛ばし一面のクレーターを作った訳だが、そんな中でも花畑の内部は健在だ。
それでも境界線付近の一部はさすがに耐えきれず蒸発したようだが、その奥はといえば、急激な階調変化により一気に被害を軽減させている。
黒焦げになり炭化した花の後ろでは、既に色が多少くすんだ程度。その奥ではもう健全な花とほぼ大差なく、そこから先はかつて爆風であった爽やかな風に今は吹かれて踊るのみ。
花たちが発するフィールドの中では、ティティーの力を使わずとも、対消滅反応にさえ耐えきるようである。
「でも無効化されている訳ではないのよね? ティティーの海と違って。それなら、もう直接内部に撃ち込んでしまえばいいのでなくて?」
「いいね。ルナちーも悪役思考が板についてきた」
「茶化さないでユキ。それが可能ならば、更に前線を押し返せそうでしょう?」
「確かに! ほんの少しではありますが、この成果は大きな一歩です!」
「残念ですがー、無理でしょうねー。今までの対応を見るに、内部に直接撃ち込むとまず爆発させてもらえませんー」
恐らくはティティーのフィールドスキルのように、反物質の対消滅反応そのものを無効化する事は出来ない。
しかし、その前段階である起爆の工程を邪魔することで、弾頭を不発弾にされてしまうだろうとカナリーは読んでいる。
反物質弾頭は鍵となる反物質その物と、そのペアである通常の物質のセットで構成されている。
それらは起爆までは互いに絶対触れ合わぬように、厳重なシールドに封入されているのだ。そうでなければ生み出した瞬間に自爆してしまう。
そのシールドが、反物質砲を撃ち出す際の激しい輝きの正体なのである。
それがもし正しく解除されなければ、弾頭は爆発に至らない。そして、敵はそれを可能にするだけの力と知識を備えていると思われるのだった。
「それにー、もう対応して次の手を打ってきたようですよー。ほらー」
「うわ……、なによ、あれは……」
「うーん。これはさすがにキモいね? もー何でもアリだ」
「お花が、いえ、『お花さん』が、走って来るのです!」
「ついに植える前から芽を出させてきたね。合理的だ」
「感心してる場合かハル君!」
見れば花畑の奥からは、花がその根を足のようにして地を駆けるように、二足歩行してこちらへ走って来る悪夢のような光景が広がっていた。
……まあ、今はその身のほとんどが疑似細胞なので、普通にあれくらいは出来るだろう。
既に咲いた状態ならば、即座にフィールドが拡張出来るという訳だ。合理的である。
やはり、チマチマと外から攻撃していては埒が明かない。ここは意を決して、花畑の内部に飛び込み直接攻撃する方法を探るしかないようであった。




