第1668話 科学に出来ぬこと魔法に出来ぬこと
エーテル技術によって水流を操作する。実はそれ自体は、現在の日本でも日常的に行われている。
何を隠そう上下水道の整備や運用は全てそのエーテル操作により行われており、日常的に膨大な量の水がエーテルにより操られて各地を巡っているのだ。
それこそ、それら水道水の総量を全て合計すれば、今ハルたちの目の前で荒れ狂い渦を巻いているこの『海』に匹敵するかも知れなかった。
そんな途方もない量の水の循環を支えているのは、それを利用する日本人一人ひとりの脳の処理能力。
ご存じの通りエーテルネットワークはそれに接続された人脳の処理能力を束ねることで、莫大な計算力を担保している。
人々は無意識に税金代わりにその計算力を供出することで、それを束ねた結果としての公共設備を無料で活用出来るのだった。
とはいえ、それは一本一本の水道の大きさと水の勢いが限定されているからこそ。
こと水の規模が河川の氾濫レベルになってしまうと、もうエーテルエネルギーでは太刀打ちできなくなってしまうのだ。
そうした瞬間的な大エネルギーの発生は魔法の得意分野。逆に魔法は、エーテルネットのような広域を対象とした効果指定や恒久的な持続力の発揮を苦手としていた。
「とはいえ、両者ともまったくの不可能という訳ではない。訳ではないが、かなり特殊な事前準備が必須であるのはどちらも同じだ」
「一人で何をぶつくさ言っているんだ」
「いや、ね。エーテルじゃ川の鉄砲水を止めるのすら大変だよねって話。魔法なら楽なんだけどね」
「そいえばハル君、川の氾濫を止めたくて魔法使いになりたかったんよね?」
「いや違うが……」
まあ、ユキの言ったような例を以前に出した気もする。憶えていてくれたのは嬉しいが、ハルの魔法への憧れを変な理由にしないで欲しかった。救助隊志望か。
そのように、万能に見えるエーテルにも苦手な事は多い。故に、ただ単純にこの海に向けて大量のナノマシン、エーテルの粒子をばら撒けば解決とはいかないのだ。
「まあ、やるだけやってみるけどね」
さらさらと風に乗り、ハルの操るエーテルの大軍が海へと流れ込んでいく。
さすがに大きさが違いすぎるので、この『灰の海』のようにはっきりと目に見える訳ではない。
だがそのあまりの密度はまるで、この風そのものに色が付き、漫画表現やゲームのエフェクトのようにその流れが目視できるかのようだった。
「なんですか、この異常な量のエーテルは。ここまでの物は、初めて見ましたよ」
「初めてじゃないでしょソラ。『工場見学』の時に見てたから、今こうして一目で理解できるんじゃない」
「うるさいですよ。揚げ足を取らないでくださいミレ。こうして自然環境下で見るのは、初めてということです」
「ねー。どーなってんだろうねぇ。こわっ」
「二人は、エーテルの生産工場を実際に見たことあるんだ。流石だね」
「まぁねぇん。こう見えても? 匣船の一員ですんでー」
「ふっ。ならば俺は、当社はそれに欠かせぬ餌の卸しでもシェアを持っているぞ」
「張り合うな張り合うな……」
ソウシの言う『餌』とは、エーテルを増殖させる際に必要な原料のことである。正式名称はあるが、大抵の人は『エーテルの餌』だったり単に『餌』と呼んでいる。
エーテルはその餌でなければ増殖を行う事が出来ないある意味面倒なナノマシンだ。ほんの少しでも成分がズレていたら、もうそれは使用する事が出来ない。
これは、まさにこの灰の海のように周囲の物質を片っ端から材料にして際限なく増殖することを防ぐため。
専用の工場にて、専用の餌を使い生産し、そこから大気中へと放出されている。
その工場も必然的に研究所の流れを汲んだ施設であり、当時からの出資者である匣船家を含む三家が、今でも運用には深く携わっているのだろう。
なお、そこでソウシの属する食品メーカーが関わっているのは、その餌は体内のエーテル濃度を上げる為の食品添加物でもあるからであった。
ハルも非常にお世話になっている。学園に通っていた当時は、登校前に餌のたっぷり入った栄養スティックは欠かせなかった。ハルにとっても餌なのである。
「この感覚は……! 無尽増殖を感じる気配なのです!」
「そうだねアイリ。頑張って大量生産して、海に投げ捨ててるよ」
「言い方は何とかならないのかしら……」
「わたくしも、お手伝いしましょうか!」
「ありがとう。いよいよになったら、頼もうかな」
「はい!」
「ねーハル君それって、ルシファー持ち出すってことー?」
「場合によっては、それもあるのかねえ」
「そら本当に、いよいよだねぇ」
陣営の外の者の目に、なるべくルシファーは晒したくない。
とはいえまあ、ルシファーを使ってしまえば解決できるだろうとは間違いない。あれこそは、完全に可視化できるレベルのエーテルの雲を体内に詰め込んだ増殖の権化だ。
本来苦手なはずの物理的干渉を、数の力で強引に実現する輝ける天使。
ただ出来るならば、やはり出さないままで済ませたい。そのためにもハルは、海中に溶け込んだエーテルの操作に意識を没入させていくのであった。それこそ、この海よりも深く。
◇
性質的に似た部分の多いエーテルの粒子とこの疑似細胞だが、根本的には全く異なる存在だ。
その違いの最たるものが、互いの大きさ、一粒のサイズ感だろう。
便宜上ナノマシンとは言っているものの、ほとんど分子レベルのスケールしかないエーテル。
一方で疑似細胞は『細胞』とハルたちが呼んでいるように、多少倍率を上げて拡大すればすぐにはっきりと、複数集まれば、肉眼でも確認可能なほどに“巨大な”物である。
そんな細胞にとってエーテルは簡単に取り込まれてしまうそれこそ『餌』にしかならない矮小な存在。
しかしその小ささゆえに、逆に簡単に内部に潜り込み潜伏する事も可能だ。
「勿論、自然に浮遊しているだけじゃなくこちらできっちり操作してやる必要はある。しかし逆に言えば操作さえしているならば、内部に浸透し、入り込んだその細胞を乗っ取ってしまう事も可能なんだ」
「一粒一粒、ですか……?」
「あたまおかしくなりそぉ……」
「まあ、ハル君じゃなきゃ、おかしくなってるな!」
「あたま、こんがらがらがら……、です……!」
「とにかく、入り込んでしまえばこいつらはセキュリティなど皆無のようなもの。ハッキングして、ソウシ君を攻撃させる事だって出来るよ。あの木のようにね?」
「黙っていろ!」
突然ただの木だと思っていたその枝にビンタされそうになったあの事件は、ソウシの中ではずいぶんと忌むべき記憶のようだ。
顔を赤くする勢いで、ハルへと食って掛かるソウシだった。ソラたちに弱みを見せたくないのかも知れない。
「……特に、このモササウルスは自動操縦っぽいしね。領主、プレイヤー不在の今、こいつを乗っ取る事は割とわけがない、んだけど」
「あっ、本当ですね。怪獣が暴れるのを止めてる気がします。でもなーんか、まだジタバタしてる感じですけどぉ」
「それは、僕の支配に必死に抗おうとしてるんだねイシスさん」
「なるほどぉ」
次第にその抵抗も、深部までエーテルが深く深く浸透し、それこそ全身の細胞を一つ一つ拘束されてしまうことで、暴れるもなにもない状態へとなっていく。
しばらくすると全身麻酔をかけられたかのようにぐったりするモササウルスが、ぷかりと海に浮く。無力化処置は完了だ。きっとこれから、船に積まれて水族館に直行するのだろう。
だが、もちろんそれで終わりではない。これで済むなら、最初から渋る理由など何もないのだから。
「でも当然、それで許してくれる海じゃないよね」
「わわっ! 周囲の波が、モサさんを奪い返しに来たのです!」
「そうなんだよねえ。これ全部を、止めなきゃいけない」
「……無理ではなくて?」
「そう言わないでルナ。その無理を、どうにか通さないといけないんだ。そこでソウシ君?」
「はっ? なんだ? 俺か?」
「うん。ソウシ君のその空間隔離の能力で、少し手伝って欲しい。あの波の手の届かぬように、細胞群を小分けにして隔離し処理したい」
「しかし、空間を完全に切り離せば操作も届かないぞ?」
「そこはまあ、見ていてよ」
そう。例え隔たれた空間内であっても、エーテルネットはその通信をジャンプさせるという隠された性質があった。
ハルは初めて、限定的ではあるものの、この力についてを公開することを決めたのだった。




