第1469話 絵本の世界へ手を繋いで
大人二人の去った部屋で、ハルと透華が向かい合う。ハルの方をじっと見つめる彼女は、ハルから目を離そうとしない。
外界に対して我関せずの彼女だが、それでもこちらの事をきちんと認識しているのは、所長の言っていた通りのようだ。
「君は話せるの? 僕の言っていることが分かる?」
「……?」
ハルの語りかける言葉にも反応は示すが、言葉が返って来る様子はない。きょとん、と首をかしげるのみだ。
こちらが何かを言っていることは理解しているようだが、どうやら言葉の意味までは通じていないようだった。
「喋らないだけで、心の内側では大人が何を言っているのか全て分かっているのかとも思ったが。そういう訳でもないか」
まあ、透華にとってはその方が幸せなのかも知れない。
家でも研究所でも、周囲で交わされる会話、自身に投げかけられる言葉の数々は、あまり良いものではなかっただろう。
「この子にとって人の言葉は、猫が何か鳴いているくらいのものなのかな?」
《ふみゃ~?》
「おっと、メタちゃん。そこに居たのかい?」
《にゃうにゃう!》
「そうだね。言葉が通じなくても、メタちゃんと僕は仲良しだもんね」
《ふにゃん♪》
《重症、って感じっすね。エーテル過敏症の患者様でも、軽微な症状の場合は問いかけの内容に関してもほぼ完璧に理解をしております。言葉を発せる例は稀ですが、日常生活におけるコミュニケーションには苦労はしないでしょう》
《この女の子は、もっと大変です?》
《そっすよ白銀ちゃん。データによれば、重症化するとまるで日常生活が夢そのものに思えるような感覚に襲われるとか》
「ああ。こちらから語りかけても、『濃い霧の向こうで、誰かが何か言ってる』って感じになってしまうようだね。子供たちの中で、症状の重い子がそんなことを言っていた」
ユキの言うところの、『現実は常に視界にフィルターがかかってるような感じ』を重症化させたものと考えていいだろう。
言語機能に問題があるのではなく、外界の情報が脳にうまく届かず、途中で意味が拡散し正確に受け取れなくなるのだ。
逆もまた同様で、自分が声を発したり何かしようとしても、まるで寝ぼけた際に体が上手く動かない状態のように信号が伝達しないらしい。
《その子自身も、記録なんです? その子の心は、そこに居るかも知れねーです!》
《そんなことあるんですか、おねーちゃん?》
《わかんねーです。ですがもしそうなら、ほっとけねーです!》
《白銀ちゃんは優しい子ですねえ。しかしながら、得られたデータを分析するに、その子も他の登場人物と同じように、ハル様に送られた人物データを、ハル様自身が再現し操作している状態のようっす。だから、ただの過去の記憶にすぎないっすよ》
その割にはハル本人に自覚はない。動かしているというよりも、勝手に脳のリソースを使われて動かされているといった感じだ。
まあ、そこは夢なので仕方ない。こうしてハル自身の意識がしっかりしているだけでも、感謝するべきだろう。
「じゃあ、悪いけど直接覗かせてもらうよ。記録の君」
《本人じゃないから、あーんなことやこーんなこともやり放題、とか言える雰囲気でもないっすね。さすがに》
《言ってるも同然です! てかそれはもう言ってんです! ぱんち! ばかエメに白銀ぱんち!》
《最低ですね。空木も殴っときます》
裏でぺしぺしと、いや思った以上に鈍い音を立てて殴られるエメの様子に顔を渋くしつつ、努めて気にしないようにハルは透華に手を伸ばす。
すると、透過の方も自然に、その子供らしく小さく柔らかそうな手を、ハルの方へと伸ばしてみせた。
言葉は通じないが、この一瞬で、互いに“会話”が通じ合った感覚がある。
ハルはそれを彼女からの許可と取り、その腕を優しく握ると体内のエーテルを彼女の身体へ浸透させてゆくのであった。
*
「……はっ? なに?」
ネットワーク接続時の、特有の眩暈にも似た視界の揺らぎ。それが発生したかと思えば、次の瞬間には周囲の光景がまるきり入れ替わっている。
ハルと透華は手をつないだ同じ体勢のまま、先ほどのおもちゃの散らばった子供部屋から、ハルの部屋たる『ケージ』内へと一瞬で場所を移していたのであった。
「夢特有のシーンジャンプか……」
《しかし、なぜこのタイミングで? その世界は、彼女の保存した記録、つまりは彼女の体験のはず……、であるならば……》
そう。ジェードの言う通りだ。これが透華を中心とした記録ならば、この場面もまた当時実際に起こった出来事なのか?
つまりは、かつて彼女はこうして、ハルの部屋にまで訪ねてきたことがある。ということになるのだが。
「……憶えがない。記録にもない」
《じゃあ、やっぱりおねーちゃんの言うように、その子だけがその世界で意志を持って存在している? のでしょうか?》
《いいえ、そう決めつけるのは早計ですよ空木君。我々は既に、その状況の実在を論理的に可能とさせ得る情報を手にしています》
《高そうなスーツの方の、記憶消去能力っすね……》
確かに、彼に能力を使われたとすれば、ハルがこの当時の記憶を備えていないとしても説明はつく。
しかしだ。それでも彼女がこの場に存在すること自体がおかしい。
ハルではあるまいし、この少女がどうやって、あの厳重に閉ざされたシェルター区画からここまでやって来れたというのだろうか?
「白銀。可能そうかい?」
《可能です! 自力で扉開いて、自力でシェルター操作して、迷わずにマスターのお部屋までたどり着ければ、鍵はかかってねーですからね! まあ途中で一切スタッフに見つからず、監視カメラにも映らねーって条件もつくですけど!》
《おねーちゃん。それは理論上可能、事実上不可能です》
非力であり、身体の動きもおぼつかないこの小さな少女が、秘密裏にここまでやって来れるとは思えない。
かといって、その許可を誰かが出したとも思えない。申請が通る通らない以前に、そもそも誰がそんな許可を求めるというのか。
ハルと手をつなぐ目の前の少女はそんなハルの動揺にも不思議そうに、きょとん、とただ首をかしげるだけだった。
「まあいい。これは夢だ。不条理の三つや四つ、当然だ」
《思考停止っすねえ》
思考停止もしたくなる。ただでさえ、考えなくてはならない新情報が多すぎる。そのうえまたおかしな現象が一つ増えたところで、ハルがヤケクソになるのも仕方ないことであろう。
ハルは当初の予定の通り、透華の症状を緩和すべく、彼女の体内でエーテルを活性化していくのだった。
「……脳の構造はこの子も普通と変わらない。少なくとも僕と比べれば、ずっと一般的な人類よりだ。ただ、使い方が少々個性的かな。一般の人が使わない領域が、妙に活性化している」
そこが、彼女の持つ超能力を使用する際に使っている部分ということだろうか。
とはいえ、こんな空間まるごとをデータ化して保存するには、いかに活性化していても『その程度』としか言えはすまい。
前時代のコンピュータで例えるならば、ドット絵で楽しんでいた時代のゲーム機が高画質のポリゴン処理をしているようなものである。そもそもテクスチャ一枚すら読み込めない。
「その人脳の限界を補助する空間が、別にあるってのが高級スーツさんの話だったか」
そこについての考察は今はしないでおくハルだ。答えが出るとは限らないし、『そういうものか』と思っておく。
なのでその超能力だろう処理は放置したまま、ハルは彼女の表現能力を妨げている、外界との間のフィルターを解除していく。
《どっすか?》
《その症状は、治療してよろしいのですかマスター? 能力の副作用だったら、治療することで暴走の危険があったりはしませんか?》
「それは問題なさそうだよ空木。副作用といえば副作用だけど、『コスト』や『必要条件』といったものではない。余波で歪められただけって感じだから。治せばむしろ能力もより正常になるくらいさ」
ハルが『治療』を進めていくと、繋いだ腕の先で少女はくすぐったそうに身をもだえ、そして楽しそうにハルへとはにかむ。
既にこの段階で、抑え込まれていた感情表現がしっかりと表に出て来ているようだった。
ハルもつられて、透華へ向かって微笑みかける。
「どうやら、外からの印象と違って情緒豊かな子のようだね。言葉は理解していないみたいだけど、言いたい事や感情はすんなり伝わってくる」
《にゃにゃ♪ ふみゃん♪》
「そうだよメタちゃん。もうすっかり仲良しさ。メタちゃんもきっと、すぐに仲良くなれるだろうね」
《にゃうにゃう! なうん♪》
ハルは猫のメタと、透華が元気に笑いながら庭を駆けまわる姿を脳裏に幻視する。
そこに人間の言葉はないが、二人とも楽しそうに笑っていて、想像しただけでハルもまた嬉しくなった。
そんなハルのイメージが伝わったのかは分からないが、透華もにっこりと笑顔を見せて、その姿からは治療の成功が言葉なくともよく伝わった。
「……さて。これで問題はないはずだけど」
《けど、言語機能なしでは進展もないすかね? そのまま楽しくじゃれ合うのも平和でいいすけど、わたしたちの目的としては進展はしないっすからね。彼女を連れて、外に出たらなんか起こるんじゃないすかハル様?》
《そんなことしたら、この子が捕まっちまうです! エメはそうなってもいいですか!》
《さいてーですね》
《ぐっ……、そ、そうは言ってもっすけどねえ……》
そう、そうは言っても、このまま過ごしていてもこの『ゲーム』に落としどころは見つからない。
外か内かに関わらず、何かを見つけぬことにはこのまま帰る訳にはいかないのだから。
そう思いハルがもう少し彼女の内面を探ってみるかと考えるも、その実行より前に、透華は思い通りに動くようになったその足で、すっくと立ち上がりハルと正面から向かい合ったのである。
「おや?」
「……!」
彼女は握っていたハルの手をいったん離すと、ぐぐぐっ、と両手に力を込めて握りしめ何らかの決意を表明する。
かと思えば再びハルの手を取りケージの出口へと向かって、てこてこ、とおぼつかないながらも歩み始めたのだ。
「危ないよ、透華ちゃん。そのままの勢いじゃぶつかるし、何より出たら大人に見つかるよ?」
「……?」
ハルの忠告もどこ吹く風。いや、それ以前によく理解もしていない。
透華は歩調をゆるめず、むしろ勢いを増しながら、動くようになった身体で進んでゆく。
そして、そのままの勢いで扉にぶつかるかと思った瞬間。何故か既に扉はそこには存在しなかった。
「……は?」
《……はい? な、なんすか? また夢ワープっすか?》
《扉を開ける手順を、省略して進んだだけなのでしょうか? いえ、それにしても違和感が……》
見守るエメもジェードも、今の現象がよく理解できなかったようだ。
勘違いでなければ、ハルたちは扉を飛び越えて廊下まで、短距離<転移>のようにジャンプしたようにも感じたのだが。
続く廊下の先のドアもまた、彼女は気にせず突っ込んで行く。
そして、衝突の寸前に場面は切り替わり、次の瞬間にはハルたちはまたいつの間にか扉の先へと着地していたのであった。
「……良く分からない。良く分からないが、きっと彼女の力だろう。この<転移>もどきがあれば、この子が僕のケージにまで誰にも気付かれずに来られた理由にも説明がつく」
《でもどんな力っすかそれ! 彼女の超能力は、空間まるごと記録するだけの力だったのでは? いえ、確かにそれはあの親族の方の推測でしかないのですが! ですがそうなると、その記録の力は何か元の空間にも作用すると?》
「ガザニア。そこに居るか?」
《はい。大人しく、控えさせていただいております》
「空間使いとしてどうだ? この状況、例えば、記録の世界と交互に出入りを繰り返すことにより、疑似的なワープを実現しているとか」
《私の魔法とは原理が異なるでしょうから、そこは、なんとも……。しかし、『入り口』と『出口』の位置を微妙にズラすことで、同様の現象は再現可能です》
エーテルネット内の情報が別次元を経由することで物理限界を無視するように、彼女もまた自分自身にそうした処理をかけて、扉の存在を無視している。
ミクロとマクロの差はあれど、一応そうした理屈で説明も可能。
エーテルネットの根本原理を生み出した一族だ。もしかするとそうした力を秘めていたという可能性も、あり得るのではないだろうか?
ハルたちが考えている間にも、透華は次々と障害を無視して、どこか彼女の目的地を目指す。
時おり能力では対処できないのか、無言で監視カメラやスタッフを力強く指さして、ハルにも協力を求めてきた。
「……まあ、この程度のハッキングや偽装ならお手の物だけど。当時の僕も、こうして彼女の犯行に手を貸していたのか?」
こうして再現されているということは、そうなのかも知れなかった。まるで憶えがない。
そして、ついに目的の地へと到着した透華が最後に指さしハルを頼った物。
それは、封印処理が決まり、厳重な保管で地下への隔離を待つ、あのモノリスの欠片なのであった。
※誤字修正を行いました。誤字報告、ありがとうございました。
追加の修正を行いました。報告ありがとうございました。(2025/1/15)




