第1316話 彼のやるべきこと無視すべきこと
「とりあえず、この件に関しては私が調べておくわ」
「いえ、そんな奥様の手を煩わせるようなことをせずとも、」
「いいの! ハルくんには、ハルくんにしか出来ないことがあるでしょう。今はそちらを優先なさい」
「しかし、これは僕が調べた方が。疾病管理局にまた侵入して……」
「だから、そうやってなんでもかんでも背負いこんでいたら身が持たないわよ? ハルくんは仕事を振ることを覚えるように!」
「まあ、確かにそれはお母さまの言う通りよね?」
「……いや、だからといって、この国の情報と金融を牛耳る奥様に仕事振ります? 普通?」
「いいのよ。お母さまって見た目より暇してるんだから」
「そうよ? それに、私なんかよりも、あなたの方が上位の人間なんだから。いくらでも、顎で使ってくれていいの」
そう言う月乃の表情は、いつの間にか一切の感情を排し瞳は吸い込まれそうな深い黒をたたえていた。
思わず息をのむハルだが、そんな彼女の変化も一瞬のこと。直後には、普段の月乃へと戻っている。
「だって私なんて、結局こちらの世界のことにしか手出し出来ないのよ。ハルくんがやるべきは、どう考えてもあっち!」
「まあ、そうなのかも知れませんね……」
まるで全てハルの勘違いであったかのように、月乃は生き生きとした快活な表情を取り戻す。
そんな少女のようなはしゃぎっぷりに安堵しそうになってしまうが、きっとさっきの事は勘違いでもなんでもないのだろう。
彼女もまた未だ、ハルにとって油断のならない相手であることに変わりはないのだ。
……とはいえ、尊敬すべき恩人であり、大切な家族であることもまた変わりはない。甘いと言われようが、その考えを捨てられないハルだった。
「まあ、分かりました。この件は奥様にお任せします」
「任せてね! 大丈夫、お母さん、こう見えても遺伝子研究の権威だから!」
「……娘の前でそれ言うかしら? あと、公的な権威なんて何も持ってないでしょうお母さま」
「残念。表で堂々と機材買い揃えられるように、ある程度は顔がきくようにしているわ」
「この人は……」
ルナを『製造』する際に、色々と必要になったらしい。なるほど納得といったところか。
それがあったからこそ、研究所の施設を引き継ぐ形の現在の病院経営もまたスムーズにいったのだろう。
だが、その娘の前で堂々と宣言するなど、この場で縁を切られてもおかしくない所業である。
まあこの辺も、ルナとの親子の信頼関係あってのことか。
「それじゃあ、お任せして僕らはそろそろ寝る準備に入ります」
「そうね? 色々と気がかりは増えてしまったけれど、一番なんとかしないといけないのはあの夢世界なのは違いないわ?」
「応援しているからね!」
やたらとハイテンションな月乃に送り出されるように、ハルたちはエリクシルのゲーム攻略に戻っていく。
きっと彼女は何か企んでいるのであろうが、今のところは静観するとしよう。
月乃の言ったように、この世のありとあらゆる人々の事情をハルが背負いこむことは出来ない。月乃しかり、謎の侵入者しかり。
彼女らもそれぞれの思惑があって、それぞれの人生をかけて行動しているのだ。全てを管理など出来はしない。
いずれエーテルネットの全てを今の時代の人々に託し任せるつもりのハルにとっては、ここで彼らの選択に委ねることも必要な決断なのだろう。
……まあ、とはいってもだ。ことがモノリスに関わる事情なので、これに関しては介入が必要になってしまうのだろうけれど。
*
「あまり考えすぎないことよ? 私としてもなんとなく、貴族のお家騒動の匂いがすることだし。きっと、お母さまの得意な案件だわ?」
「それって、家の中から“はねっかえり”が出たってこと?」
「ユキにしては鋭いわね? そうした事情には、興味がないと思っていたわ?」
「ゲームでそういうパターンのイベントがあった!」
「そう……」
正当な家の者として登録されていない、つまりは何か揉め事でもあって縁を切られたか何かした者が、今回の犯人ではないかということだ。
彼らは名家であるので御多分に漏れず本家分家と複雑化しており、ハルも全ての関係者を把握している自信はない。
そんな家系図から抹消された誰かが、その恨みで本家の秘密に手を出す。または下剋上を狙う傍流の者が、一発逆転に賭けた、なんて展開もありがちだ。
「あとは単純に、どれかの家がスパイに入られた、とかかしら? 案外、これってお母さまの差し金なのかも知れないわよ?」
「証拠隠滅のために、自ら調査を買って出たという訳ですか! 十分に、考えられるのです……!」
「心当たりがあって当然ってわけだねー」
ふむふむ、と静かに聞いていたアイリも、『得心がいった』というように力強く頷く。
月乃に懐いていたはずの彼女だが、それはそれ、これはこれ。宮廷出身の彼女にとって、このような謀りごとは日常茶飯事のようだった。
「それよかひとまずさ、ジスちゃんとの交渉は上手くいったんでしょ?」
「ああ。アメジストも何か考えがあるみたいだけど、とりあえず希望通りの協力はとりつけた」
「なんだか、みんなが皆一気に動き始めた感じがするねぇ」
仲間たちも、ユキと同じ感想を抱いているようだ。ハルも同様である。
しかし、きっとそれは単にハルたちの視点で一気に明らかになっただけのこと。皆、それぞれの思惑があって、誰もが裏で密かに動いていたのだろう。
それが今回、一点に交わって姿を見せた。それによりここから、更に大きく動くことになるかも知れない。油断はできなかった。
「とはいえー。私たちのやることは変わりませんー。今日はもう寝てー、夢の中で大暴れですよー?」
「まあ、そうだね。まずはあっちを、なんとかしないと」
予定通りに進むのであれば、これであのゲームにも『クリア条件』が設定される。
あとはそれに向かって、ハルたちはひたすら進んでいくまでだ。プレイ中はこちらの世界には干渉できないことにより、いっそ諦めもつくというもの。
そうしてハルたちは意識と共に俗世のしがらみを捨て去って、夢の世界へと落ちていった。
現実で色々とあって考える暇がなかったが、あちらもあちらで大変な状況。
モンスターの挙動が正常に処理されなかったことによるバグで、周囲の地形を全て巻き込んで大地が消失し大穴が空いた。
それが現在、時間が経ってどのようになったのか。ログインしたハルたちは、まずそれを確かめるべく現地に向かうことを決めていた。
「あっ! ハルさんだ! たいへん大変、たいへんなんだぞっ♪」
「あまり緊迫感のなさそうな歓迎をどうも。どうしたのマリンちゃん」
そんなログインしたハルたちが拠点の城から足を踏み出す前に、待ち構えていたマリンブルーによって、一行は呼び止められることとなった。
「大穴が、拡大中なんだよ♪」
「……それは大変だ。マジで大変」
「そうのんきに構えている場合なのかしら?」
「んー、ん~? だいじょぶ! 拡大といっても、ほんの数センチ程度だからね。じわじわ、じわりだぞ♪」
「それなら、当面の危険はありませんか」
「油断するなよーアイリちゃん。こういうのは、徐々にスピードを増して行くと相場が決まっているかんなー」
「はい! 油断して放置していると、後半で大惨事なのです!」
まあ、ゲームイベントの相場で語れるものではないが、油断できないのはその通り。
消えて行くならまだしも、拡大傾向にあるというだけで大問題なのだ。
……いや、今回に限っては、ハルたちにとって有利な状況なのだろうか?
拡大しているということは、エリクシルはあのバグエリアに少なくとも現状は対処できていないということ。
あれを利用し一矢報いたいハルとしては、あっさりと塞がれてしまうことの方が問題だった。
「それで、今はそっちはどうしてるの?」
「総出で周囲を壁で囲んでる最中だぞ♪ 一般プレイヤーが入っちゃったら、危ないからね♪ 私は、ハルさんのお迎えだー!」
「ご苦労様マリンちゃん。拡大スピードのデータは?」
「壁作るついでに取ってるぞー。今のところ、スピードは一定ってことみたい。速くもならず、遅くもならず」
「なるほど。なら安心か」
「一応、壁は少し離れた所に建ててるよ♪」
「壁が飲み込まれてしまったら、大変ですものね!」
「ねー♪」
これが徐々にであれ、加速をつけて進行しているのならば問題だが、一定の速度でそれも数センチ程度ならばまだマシだ。
この広い世界、浸食し切るよりもどう考えてもゲーム寿命の方が早く来る。
エリクシルも、だからこそ修正せずに放置しているのかも知れない。
……まあ、実際は修正したくても出来ない致命的なエラーなのかも知れないけれど。
「それじゃあ、私たちも早速向かおう♪」
マリンブルーの駆る巨大な動物に乗って、ハルたちもその壁の建設現場へと向かう。
いつぞやのアライグマが、今も元気に活躍中のようだ。凶悪な見た目を卒業して、ふわふわな毛皮で、愛らしい姿を皆に楽しませている。
ユキの小型艇には及ばないが、彼が川の上を走る速度はなかなかのもの。
そんな巨獣の背中の上で、ふとハルは思いついたことがあって<龍脈接続>により一足先に意識だけを現地へ飛ばす。
大地を虚無に溶かすバグにより浸食が進んでも、どうやらその地点の龍脈は無事であるようだ。接続が切れることなく、変わらずそこにある。
やはり、見えないだけで龍脈だけはバグの中にあっても健在。物質と龍脈は、完全に別物として存在しているのだろう。
そして、気付いたことがもう一つ。ハルがバグに向けて逆に浸食するイメージを試みてみると、ほんの少しだけではあるがバグの進行が遅くなった感触があった。
これは、ひょっとして何かに使えるのではないだろうか? 浸食の脅威を抑えるのは勿論のこと、あるいは逆に、任意に世界を消し去る、そんな反応を引き出すことも、また可能なのではなかろうか?




