第1299話 心海の深海の底の底
「さて、これは呼ばれてるってことで良いんだと思うんだけど」
ハルだけを残し、位置は夢の泡が生まれ出でる暗黒空間の下層部。これは、『更に下へと潜ってこい』と言外に語りかけられていると思って良いだろう。
ここまでノコノコと潜ってきてしまったのが運の尽きというか、敵のフィールドで少々大胆に動きすぎたのかも知れない。
ただ、全てが謎だった敵の手がかりが、ようやく掴めるチャンスであるのもまた確かだ。
干渉というのは、必ず双方向で行われる。ハルに干渉してきたこの瞬間が、ハルからも逆に接触を行い正体を探る最大のチャンスである。
「『汝、深淵を覗くとき』、ってやつだね。まあ今回は、深淵に覗かれる時、僕も深淵に手を突っ込むチャンスなのだ、になるんだけどね」
ツッコミの居ないボケが、寂しく虚空に響き渡る。
今は、いつも必ず誰かしら居る仲間の姿は一切なく、完全にハル一人での探索となっていた。
「……そういえば、完全にオフラインでソロってのも久々か。黒曜すら居ない。まあ黒曜がこっちに居たら、僕の体は誰が制御しとくんだって話だけど」
気持ちを紛らわすために独り言を繰り返すハルだが、やはり応える者は居ない。
寂しいので敵でもなんでも出て来てほしいところだが、ハルをこの場に留めたその存在は沈黙を保ったままだった。
よもや、敵など最初から存在せず、これはただの自然現象で事故ではないのか? そう不安も湧いてくる。
……いや、そんなはずはない。自然現象で、ゲームがひとつ丸々出来上がってたまるものか。
必ず、裏には意思を持った存在が運営として控えているはずだ。
ハルは不安を紛らわすように、それらの事実を順番に確認していった。
「意識はしてなかったけど、僕はずいぶんと孤独に弱くなっていたんだね。当時からはまるで考えられないよ」
誰とも関わらず、何もせずに、何も考えることなく、ただひたすら無機質な病室にひとり潜み続けた過去。
当時は、孤独など感じることは皆無であった。
今のハルが、あの環境に戻ることなど出来ないだろう。思えば、あの時のハルはただ無知なだけであったのだろう。
「……よし。ビビッてても仕方ない。行こうか」
ハルは覚悟を決めると、電脳体を深層に向けて下降させてゆく。
胸の奥に感じる、アイリたちと繋がった魂のリンクとでも言うべき絆に勇気づけられながら。
己の身に反応してわき上がって来る泡を避けながら、ハルはついにその発生位置のボーダーを越えた。
「明らかに、雰囲気が変わったね」
それまでは、暗いながらも周囲の確認には事欠かなかったこの世界だが、深層に踏み込んだ途端にその環境は一変した。
一切の視界がきかなくなり、自分の体すら見通せない。それこそ一寸先は闇である。
その身を絡め取るような濃密な闇の気配を周囲に感じながら、ハルは慎重に下へ下へと降りて行く。
どうやら、この世界の『底』はまだまだ遠く、最深部かと感じていた夢の泡の発生ラインは、その入り口にしか過ぎなかったらしかった。
「……しかし、こう何も見えなくては、何の観光にもならないねえ。さっきはまだ、泡があったというのに」
己の未熟を棚に上げて、ハルは誰にともなくそう愚痴る。
仮にも万能の管理ユニットとしてのその身を誇るのであれば、ヨイヤミのように視界に頼らず世界をサーチでもして見せろというものだ。
きっと、周囲の暗く濃い闇は、恐ろしいまでの情報の宝庫であろう。
そんなハルの愚痴に応えた訳ではないだろうが、あるラインを通過したあたりから、急に視界が開けるのをハルは感じた。
何らかの情報の塊であろう闇は急速にその密度を薄れさせ、ハルの身から離れ散っていく。
ハルの身と共に更なる深部へと連れ込まれた闇の一部は、まるで逃げるようにして仲間の待つ上層へと戻っていった。
「この先の水圧に耐えきれなかったか……、いや、水圧とかないけど……」
そんな冗談にも、相変わらず答えを返す者はなし。さきほどの闇も、そんな小動物めいた存在だったと思うと別れたのがまた寂しく思えてくる。
そうしてまた独りとなったハルだが、今度は孤独を感じる暇はあまりなかった。
取り戻した視界はやがて何故か以前よりも明るくなり、下に向かうほどその光量を増していく。
更には横方向を見渡せば、所々に、宇宙を照らす星のような輝きが存在していた。
「下の方が明るいのか。妙な感覚だ。あの濃密な闇は、この光源を嫌ってこの深さまでは降りて来れないのかな? 陰気な奴らめ」
大変失礼な発言だった。恐らく人類の意識由来のデータであろう。後で謝っておいた方がいいかも知れない。
「……しかし、何かあるとしたらさっきの闇の中だと思ってたけど、予想を外したね。あれは、ただの蓋だった?」
決意を固めて飛び込んだというのに、なんとなく肩透かしを食った気分だ。
それとも、ヨイヤミのような力があれば、この深度にも何かを感じたりするのだろうか? 生憎、今のハルには何も見えてはこない。
ならば、恒星のように輝く左右の光源を調べてみるかと考えたところで、それよりも気になる物を視界に捉え、ハルはそれを目指し下降を続ける。
どうやら、この空間の『底』が、見えてきたようなのだった。
*
真っ白に磨かれた、平坦な床が延々と広がる。ここが、この謎の空間の『海底』を占めるエリアなのだろうか?
深海の底の底というには、今までのどの深度よりも明るいのが奇妙なところ。
空には色とりどりの星が輝き、その上を、暗黒の雲が蓋をしている、というよく分からない構成をしていた。
このそれぞれの構成要素は、いったい何を暗示している物なのだろう?
ハルの直感では、通り抜けて来てしまった真っ黒な情報の渦巻くエリア、そここそが事件の鍵を握っていると告げているのだが。
「……戻るか? とはいえ、もう一度あれに突っ込んだところで、何かが分かる訳でもないしなあ」
それならば、明らかに曰く付きのこの『海底』を調べた方が有意義だ。
ハルをこの空間に留めた存在も、居るとすればきっとこの地平の何処かだろう。
「ありがちなログインルーム、もしくはチュートリアル空間。あるいは、セフィの部屋なんかとも似ているか。うん。渦巻く黒いデータといい、近いのはセフィの部屋だな」
真っ白で無機質な部屋にぽつんと独り座る、ハルと雰囲気の似た少年のことを思い出す。
彼の過ごしている空間も、ちょうどこんな白い床で構成された世界であった。
「あれを真似たとするならセフィの縁者……、というのは短絡すぎ……」
口に出して考えを巡らせつつも、視界も左右に振って周囲に巡らすハル。
しかし、地平線の彼方まで見通せそうな程なにもないこの『海底』には、残念ながら人影は何処にも存在していないのだった。
「人を招いておいて、何処にも姿はなし。ん-、参ったね、どうも。一旦帰るか?」
別に、二度と来れない訳でなし。エメのシステムを使えば、また何時だって戻って来れる。
道中、あの闇のエリアも特に障害にならないと分かったのだ。再びの来訪に大した手間もかかるまい。
ハルがそう結論づけ、最後になんとなく、再び周囲をぐるりと見渡してみた瞬間、それは前触れなく眼前に存在していた。
……先ほどまで、そこには確実に誰も居なかった。この遮る物の無い空間だ、見落とすはずもない。
だというのに、一切の音も、気配もなく、彼女は一瞬でそこに居た。
その存在はこの空間によく合った、白い服、白い肌、そして青白く輝く銀の髪。
ちょうどアイリを大人にでもしたような女性の姿で、ハルと目線を合わせてその無機質な青い瞳で、じっ、と無言でハルを見つめてきている。
……ホラーである。明らかにホラーである。美しい彼女の髪だが、この白い床に引きずるように無駄に長すぎるのもホラー要素を加速していた。
「……ようこそ、おいでくださいました、管理者様。管理者権限を、アクティベートなさいますか?」
「い、いや……、しないけど……」
ハルが管理者であることを知っている、のは、まあ当然か。
ただ、管理者権限とは何のことだろうか。ハルは彼女にとやかく言われるまでもなく、今でもエーテルネットにおいては、やろうと思えば万能の権限を振るえるのだが。
そんな謎すぎる存在である彼女は、不思議そうに、きょとん、と首をかしげると、改めてもう一度ハルに問うてきた。
「管理者権限を、アクティベートなさいますか?」
「いや、なさいませんが。なんだい君は? 僕が『はい』と答えるまでそれを繰り返すNPCか?」
「いま確かに『はい』と……」
「言ってない! 言葉尻を捕らえるな! また愉快なタイプか! というか誰だよ君は!」
「ああ、申し遅れましたね。我は、我は……、ええと、誰なのでしょう……?」
「知らんがな……」
ハルが聞きたい。本当に愉快な相手のようだ。
まあ、出会った瞬間に戦闘にならずに済んで良かった、ということにしよう。この空間で戦えば、ハルに勝機はほぼないだろう。
「ああ、そうですね。我の名を表すならば、管理者様の発言ログの中に、ぴったりの言葉がありました。そう、我は、『エーテル様』にございます」
……どうやら、ハルたちの知らぬ間に、この世に三代目の『エーテル』が誕生してしまっていたようだった。




